善意無想(六)
闇が辺りを覆う子の刻(午後十一時から午前一時)。立木藤兵衛と滝田と本庄は、提灯を片手に夜道を歩いていた。三人の顔には、不快そうな表情が浮かんでいる。
つい先日、お前たちのやったことは全てまるっとお見通しだ……と書かれた文が、立木の店に投げ込まれた。
面倒くさいので放っておいたところ、昨日は「剣呑横町の子供が五人いなくなった。お前らの仕業だろう。黙っていて欲しければ、千両持って冗林寺まで来い」と書かれた文が投げ込まれたのだ。
ここまで具体的なことが書かれているとなると、無視するわけにもいかない。相手が何者かだけでも、知っておく必要がある。
立木は、滝田と用心棒の本庄を連れ、ひとまず会ってみることにした。こんな用事ににこにこしながら参加できるような者は、まずいないだろう。
最初に、異変に気づいたのは本庄だった。
「なんだあれは?」
前方に何者かが立ち、こちらを真っすぐ見つめているのだ。体は小さく、袖なしの胴巻きを着ている。腕は細いが、しなやかな筋肉に覆われていた。暗くて顔は良く見えないが、髪の短さから察するに少年であろう。何かいいたげな目で、じっとこちらを見ている。
どうやら、立木ら三人に何か用があるらしい。立木は、思わず首を捻る。この少年が、あの文を投げ入れたのだろうか。
「立木さんは、下がっていてください。私が追っ払って来ますよ」
言うと同時に、滝田が前に出る。相手は、どこかの少年であろうか。体も小さく、武器を持っているわけでもなさそうだ。滝田もまた、本庄ほどではないにしろ武術の心得がある。こんな小柄な少年に、負ける気はしない。
「おい、お前。何か用か? 用がないなら、そこをどけ」
滝田の言葉に、少年は……いや、お鞠は首を横に振る。
次の瞬間、彼女は動いた。
お鞠は、懐に呑んでいた細身の短刀を抜く。ぱっとしゃがみ込み、滝田の足の甲に突き刺す──
悲鳴をあげ、滝田も反射的にしゃがみこむ。その途端、お鞠は立ち上がった。急所である延髄に、短刀を突き刺す。
滝田は、無言で即死した。
「た、滝田!」
叫ぶ立木。本庄はといえば、瞬時に動いた。一気に間合いを詰め、お鞠に襲いかかる──
お鞠は、地面を転がり本庄の攻撃を避けた。さっと立ち上がると、異様な速さで逃げていく。本庄は、後を追おうとした。が、すぐに立ち止まる。
数間先に、異様な男がいた。身の丈は六尺(約百八十センチ)、肩幅は広くがっちりした体格で、胸板は鎧でも着ているかのように分厚い。
だが、それより恐ろしいのは、男の全身から発している闘気だ──
本庄の背筋に冷たいものが走る。この男、いったい何者だ?
その時、後方より騒々しい声が聞こえてきた。
「お前たち! 何をしている!」
叫びながら飛び込んで来た者がいる。誰かと思えば、若い同心だ。十手を振り回しながら、立木の横に立った。
「お、お役人さま! お助けを! この男たちが、いきなり襲いかかって来たのです!」
「おお、誰かと思えば立木藤兵衛さんではありませんか! 私は、南町奉行の西村右京です。ひとまず逃げましょう!」
「えっ? 何を言っているのですか! さっさと、あの男を捕らえてください!」
怒鳴る立木に、右京は首を横に振る。
「まずは、あなたの安全確保が第一です。さあ、早く逃げましょう!」
言った直後、右京は立木の腕を掴み強引に引っ張っていく。立木はぎゃあぎゃあ叫んでいるが、右京はお構いなしだ。
その場には、二人の男が残された。
本庄は、異様な感覚に襲われていた──
彼はこれまで、幾多の闘いを経験していた。武術の基本は、静から動である。どんな武術の達人であれ、構えた姿勢から技を放つ際には「起こり」がある。その起こりを捉え、受即攻の技で倒す……それこそが、本庄の闘い方であった。
ところが、泰造の闘い方は違う。構えている段階で、拳を小刻みに揺らし頭を左右に振っている。つまり、常に動いている状態なのだ。これでは、技の起こりが見えない。さらに、泰造の目線を捉えることも出来ない。
ほんの瞬きするくらいの、僅かな時間……だが、本庄は一瞬でそれらを理解した。自身の磨いてきた技が、まるで通じないかもしれぬ強者と向き合っている……その事実に、彼は久しぶりの恐怖を感じていた。
同時に、ぞくぞくするような恍惚感も味わっていた。これまで生きてきた中で、最強にして最高の武術家と立ち合えるのだ。本庄の全身を、不思議な想いが駆け巡っていた──
先に動いたのは、泰造の方だった。体を小刻みに揺らしながら、滑るような動きで間合いを詰める。
同時に、左拳が放たれた──
常人ならば、何が起きたのかすら把握できなかっただろう。数々の修羅場をくぐってきた本庄ですら、僅かに反応が遅れた。だが、相手が間合いを詰めて来たのは見える。考える前に、体が動いていた。一撃必倒の右上段回し蹴りを繰り出す。
木刀をもへし折る本庄の回し蹴りが、泰造の側頭部を捉える。これで勝負は決する、はずだった。
しかし、倒れていたのは本庄の方だった──
泰造の左拳と本庄の右足とは、ほぼ同時に当たっていた。だが泰造の踏み込みが予想以上に速く、上段回し蹴りの威力を殺していたのだ。
しかも、泰造の左拳は想定外の威力であった。鉄の塊を、高速で投げつけられたかのような衝撃だ。顔面にまともに喰らっていたら、その時点で終わっていただろう。
だが、本庄は上段回し蹴りを放つ体勢になっていた。それゆえ、顔面への直撃を避けられたのだ。
本庄は倒れるが、すぐさま後転し立ち上がる。同時に後方へと飛びのき、すぐさま構える。
こんな恐ろしい男が、この世にいたのか──
ほんの一瞬の攻防で、本庄は相手の強さを理解した。力、技、共に極限まで鍛え抜かれている。もはや、人ではない。これこそ、極限流の目指す理想形だ。
だが、勝てないことはない──
今の攻防で、相手の動きの起こりが微かに見えた。起こりが見えれば、受即攻の技術は通用するはず。
問題は、どう攻撃するかだ。回し蹴りでは、奴の早すぎる踏み込みに対応できない。ならば、こちらも正拳だ。人体の急所が集中している正中線に的を絞り、まずは正拳で動きを止める。それも、一発では駄目だ。正中線に連撃を叩き込み、動きを止める。
動きを止めたら、回し蹴りでとどめを刺す──
この思考は、一瞬の間に頭の中を流れていった。武術の達人である本庄だからこそ、出来たことだ。彼は構えた姿勢のまま、泰造の攻撃を待ち受ける。
不意に、泰造が動いた。間合いが詰まり、左拳が飛んで来る──
本庄は、その拳を己の左手で払いのける。同時に、右の正拳中段突きを放つ。これまで何万回も巻き藁を突き、磨き上げてきた正拳だ。相手がどんな化け物であろうと、当たれば効かぬはずがない。
が、本庄の計算は崩れる。泰造の左拳は、伸び切ることなくすぐに引かれた。ほぼ同時に、右拳が放たれる──
泰造の右拳は、がら空きになった本庄の顔面を襲う。一撃で顔の骨を砕き、脳震盪をもたらす。
さらに次は、左拳が放たれる。横殴りの鉤突きが、本庄の右頬に放たれた。
強烈な鉤突きは、本庄の顎を砕く。その衝撃は脳にまで達し、本庄はもはや立っていられない。
本庄は、ばたりと倒れた。
倒れた本庄に一瞥をくれると、泰造は向きを変えた。すぐさま立ち去ろうとする。
が、背後より声が聞こえてきた──
「ま、待て……私は、まだ……」
泰造は眉間に皺を寄せ、ぱっと振り返る。すると、本庄がよろよろした動きて立ち上がっているのが目に入る。常人ならば、とっくに死んでいるはず。なんという執念だろう。
いや、この本庄とてもう長くはない。あと一時もせぬうちに死ぬはずだ。相手にせず、さっさと逃げても問題ないだろう。
しかし泰造は、この場を去ることが出来なかった。拳を構え、すぐさま飛び込む。
顔めがけ、強烈な右の鉤突きを放つ──
その一撃がとどめとなった。本庄の意識を刈り取ると同時に、彼の命をも刈り取った。