善意無想(四)
「西村、こんなところで何をしている」
不意に、声が聞こえた。
西村右京は顔を上げ、声の主と目を合わせる。軽く会釈し、口を開いた。
「ああ、村野さま。ちょっと調べ物をしていましてね。この立木藤兵衛という男、あちこちから訴えられているようなんですが……」
そこで言葉を止め、帖面を指差す。
「この帖面によれば、訴えが全て不問にされている。これは、どういうことでしょうね。実に面白い話です」
その途端、村野の表情が歪む。
「お前には、知る必要のないことだ。さっさと町を見回れ。今は、まだ昼時だぞ。定町回りは、日の高いうちは町に出て庶民の安全を守るのが勤めだ。こんな書庫で、かびの生えた帖面を見ているとは、御気楽なものだな」
きつい口調だが、言われた右京の方は平然としていた。怯む気配もない。
この村野竹蔵、与力同心である。堅物として知られており、お世辞も聞かず賄賂も受け取らない。もっとも、空気を読む能力には長けている。状況に合わせて、見て見ぬ振りや忖度も完璧に出来る男なのだ。でなければ、与力同心にはなれない。
そんな上役に向かい、挑むように右京は語り出した。
「そうですね。確かに、私には関係ないことです。ところで、これまた私には関係ない話ですが……立木を訴えていた者のうち三人が、立て続けに事故で命を落としているのですよ。これまた、実に面白い話ですね──」
「いい加減にしろ!」
右京の言葉を遮り、村野は険しい表情で言い放つ。さすがの右京も口を閉じた。
「いいか西村、この際だからはっきり言っておく。お前には出世の望みはない。かといって、牢屋見回りにはなりたくないだろう」
牢屋見回りは、奉行所でも最低の地位だ。一度ここまで落ちると、上がるのは余程の幸運に恵まれない限り不可能である。事実、牢屋見回り同心は、へまをしでかした同心がほとんどである。役所での扱いも、露骨に悪くなる。
「牢屋見回りになりたくなければ、余計なことに首を突っ込まないことだ。わかるな」
「わかりました」
素直に返答する右京の態度を見て、村野の表情も和らいだ。
「西村、お前はまだ三十前だ。後添えをもらうのも悪くない。どうだ、新しい嫁をもらう気はないのか?」
その途端、右京の目に奇妙な光が宿る。
「ありません。私は一年前、千代に誓いました……生涯、お前だけを愛し続けると。その誓いは、今も死んでいません。では、失礼します。今から、町を回ってまいります」
そう言うと、村野の方を見もせず去って行った。
残された村野は、ため息を吐く。
「奴は、どこまで不器用なのか……」
・・・
江戸の大通りから、完全に外れている場所に一軒の武術道場があった。表には「極限流柔術」なる看板がかかっている。
道場の中では、異様な空気が漂っていた──
畳の敷き詰められた道場にて、二人の男が向き合っている。
片方は、稽古着を着た本庄武四郎だ。彼と向かい合っているのは、弟子の風間洋之介である。風間は二十歳になったばかりの青年であり、背が高く精悍な顔立ちをしている。手足はすらりと長く、鍛え上げられた拳にはたこがある。彼も稽古着を身につけ、真剣な表情で本庄と向き合っていた。
さらに、もうひとりの弟子・結城正太郎が正座して見守っていた。こちらも、二十歳前後の若者像だ。風間とは違い、学者のような雰囲気を漂わせている。落ち着いた態度や物腰などから、教養のある人物であることは容易に見て取れた。
向かいあっている本庄と風間は、どちらも似たような構えだ。左手を前に出し、右手は鳩尾のあたりに添えられている。腰は低くどっしりと落とし、両足は広めに開かれている。
両者の距離は、二間(約三・六メートル)ほどだ。緊迫した空気が、辺りに漂っている。修業の足りない者なら、この場にいるだけで呼吸すら出来なくなるかもしれない。
睨み合う両者。先に動いたのは本庄だった。音もなく、自然な動きですっと間合いを詰めていく。
両者の距離が縮み、両者の前に出した手が触れるか触れないかの距離まで接近した時だった。
いきなり、風間が技を放つ。左の足刀横蹴りだ。本庄の腹めがけ、鋭い足刀が伸びていく。
常人ならば、その蹴りにより肋骨をへし折られていただろう。だが、同時に本庄の左手も動いていた。鋭く伸びてくる足刀を、ぱしんと払いのける。その勢いは強く、風間は思いきり体勢を崩された。結果、本庄に背中を向ける形になる。
その瞬間、本庄の右上段回し蹴りが放たれた。右足が、風間の後頭部を襲う──
まともに当たっていれば、風間は致命傷を負っていただろう。だが、右足はぴたりと止まっていた。風間の頭部に当たる寸前で、ぴたりと止められていたのだ。これは、高度な技術なくして出来ない芸当である。
風間は、その場で両膝を着く。本庄に向かい、深々と頭を垂れた。
「参りました」
口から出たのは、敗北宣言であった。
本庄は険しい表情で、若い弟子を見下ろす。ややあって、口を開いた。
「お前は、俺の接近に怯えた挙げ句、不用意に技を出した。あれは完全な間違いだ」
「は、はい」
「よいか、相手の目と上半身を同時に見るのだ。そうすれば、必ず技の起こりが見える。技の起こりが見えれば、放たれた技を必ず受けられる。技を受けることが出来れば、どんな相手も恐れるに足らん。接近して来る相手に怯えるな」
静かな表情で、本庄は語る。風間は神妙な面持ちで、話に聴き入っていた。
「極限流に先手無し。受即攻、これこそが我らの理念であり理想だ。理想の実現のため、我々は修業を欠かしてはならぬ。忘れるな」
「ありがとうございました」
風間は、また頭を垂れる。
「今日の稽古は、ここまでだ。私はこれから、人と会わねばならん──」
「そのお相手は、立木藤兵衛さんですか?」
本庄の言葉を途中で遮り、結城が問うてきた。途端に、風間の目が吊り上がる。
「結城! 先生に失礼だぞ!」
立ち上がって怒鳴りつけた風間を、本庄が手を挙げて制する。
「いや、構わんよ。結城、お前は何が言いたい?」
「はい……あの、立木さんには、良からぬ噂も多いようです。そんな人と付き合っていて、大丈夫なのですか?」
結城の声は震えている。緊張しているのだろう。本庄は、ゆっくり語り出した。
「私が他の武術家から何と言われているか、お前たちも知っているな。邪道だの、あんな田舎者は武術家ではないだのと、散々な言われようだ──」
「ち、違います! 先生こそが、真の武術家です!」
慌てた様子で、結城は叫んだ。
「結城の言う通りです! 他の武術家の言うことは、全て嘘です! 奴らは、先生の強さを妬んでいるのです!」
風間も、険しい表情で叫ぶ。すると、本庄の顔に笑みが浮かぶ。
「立木さんも、また同じだ。人は、いい加減な噂を流すものと相場が決まっている。世間の噂など、気にするな」
やがて弟子たちが帰った後、本庄は自らの道場を見渡した。
今の自分にとって、この道場こそが守るべき場所だ。
かつて本庄は、様々な武術家と立ち合ってきた。その全てに勝ち抜いてきた。にもかかわらず、極限流は今も無名のままだ。
理由はわかっている。今の武術界は、権力と癒着している者でなければ認められないのだ。
「人を拳で打つとは、なんと野蛮な技なのか。あんなものは武術ではない。ただの下郎の喧嘩術だ」
「相手の顔面を足で蹴るなど、言語道断。極限流は、礼節というものを知らぬと見える」
「本庄のしていることは武術ではない。軍鶏の喧嘩と同じだ」
「武術の何たるかを、全くわかっていない。あんな田舎者が創始者など、片腹痛い」
当て身、特に足による蹴り技を多用する極限流は、他の武術家たちから異端視されていた。さらに、本庄の強さに脅威を感じた者たちの言葉により、「極限流は邪道の武術」という評判が立ってしまったのだ。結果、本庄は表舞台から追いやられる。
ふざけた話だ。武術家ならば、口で討論せず拳で語り合うべきではないのか。闘えば弱いのに口だけは達者な武術家など、何の意味があるというのか。
本庄は、陰口を叩く武術家に何度も立ち合いを申し込んだ。だが、応じてくれた者はひとりもいなかった。「武術は喧嘩の道具ではない」「我々は、他流試合を禁止されている」などといった言葉を並べ立てるばかりだ。さらには、奉行所に訴えた者までいた始末だ。
陰で誹謗中傷を並べ立てておきながら、いざ立ち合いを申し込めば逃げる……これは、何なのだろうか。江戸の武術界が、ここまで腐っていようとは思わなかった。
己ひとりだけならば、極限流の看板など、とうの昔に畳んでいただろう。だが、今の自分には弟子がいる。極限流こそ真の武術……そう信じて、付いて来てくれる若者がいるのだ。ひとりでも弟子がいる間は、極限流の火を消すわけにはいかない。
立木藤兵衛の実像を、本庄は間近で見て知っている。知った上で協力しているのだ。闇で子供を売り払い、その親を何人も殺してきた悪党……しかし、極限流の道場を続けていくには、そんな極悪人の援助が必要なのだ。
毒を食らわば、皿まで。
こうなった以上、悪党の道を歩き続けるしかない。