とある登山家の死について思うこと 〜サンクコストの観点から〜
亡くなられた栗城史多さんのご冥福をお祈りします。
ニュースで一人の登山家の死を知りました。栗城史多さんがエベレストで亡くなったというものです。
私は違和感を感じました。彼の名前には覚えがあります。数年前エベレストの登頂に失敗し、スマホ操作のために指先がない手袋を使っていたことが災いして、指9本を凍傷で失った人。メディア対応は良かったかも知れないが、登山家としては2流で、無謀な挑戦で痛い教訓を得た人。そういう認識でしたから、勝手に彼は引退したものだと思い込んでいたのです。
でも、彼は引退していなかった。それどころか、より苛酷な挑戦をして亡くなってしまった。
何故なのか?
いろいろと調べました。その上で私が考えた理由を2つ述べたいと思います。
1つ目はメディアが 持ち上げたから
2つ目は彼自身がサンクコストに囚われたから
私がまず思いついたのは、1つ目のメディアが持ち上げたから、です。これは多く人にすんなり納得していただけると思うのですが、どうでしょうか?
彼は今回で8度目のエベレスト登頂挑戦です。個人のお金ではとても挑戦できません。スポンサーを集め、メディアに登山を中継して流します。自分個人の意思では、辞められなくなっていたのではないでしょうか?
無酸素、単独、難関ルートと挑戦の難易度を上げていったのはメディアアピールを考えてのことでしょう。結果的に複数の専門家が無謀と指摘する挑戦になっていた。明らかに自分の実力と乖離した挑戦しなければならない状況となった。
メディアの罪は重いと考えます。
その上でですが、彼は本当に自分の判断で引きかえせなくなっていたのでしょうか?
私は少なくとも1回は無謀な挑戦をやめる機会はあったと考えます。それは凍傷になり指を9本失った時です。指を9本失った人に挑戦を続けるべきと助言した人はいなかったのではないか?
では何で彼は挑戦を続けたか?
指を失い、より困難になった挑戦に挑み続けた理由……
考えていくうちに、気づいたことがあります。
彼は指を9本失ったからこそ、挑戦を辞められなくなったのではないか、ということ。
つまり、指を失ったことがサンクコストになり、判断ミスをよんだのではないか?
これが2つ目の理由、彼自身がサンクコストに囚われたから、思いついた経緯です。
サンクコストとは管理会計や意思決定会計などで使われる言葉で、埋没費用のことを言います。
埋没費用とは、事業などに投下した資本や労力で、事業などを中止しても戻ってこないもののことです。
この埋没費用、事業の存続の是非を判断するのに考慮してはいけない費用なのです。
例をあげます。300億円の経費を既に掛けた事業の存続の是非が問われたとします。
この場合、あと100億円完成で75%までいっている。完成させないと今まで支払った300億円がムダになる。というのがサンクコストに囚われた判断ミスです。
この場合、埋没費用一切無視して、このあと掛かる100億円と事業完成時の収益見込みとを比較しなければなりません。収益見込みが200億円なら続行、50億円なら中止です。
存続であれ、中止であれ、どちらにせよ戻ってこないものは判断基準にしてはならないのです。
話を戻します。
エベレスト登頂を諦めても、指は戻ってこない。これはサンクコストといえるのではないか?
エベレスト登頂諦めたら失った指がムダになると考えてたとしたら、それはサンクコストに囚われた、ありがちな判断ミスなのではないでしょうか?
私は彼の死を美談にするのは明らかに違うと思います。
一方で、勇気と無謀取り違えた愚かな人と評価するのも違うと思うのです。
彼がしたのはありがちな判断ミスの積み重ねではなかったのか?
結論はありません。あくまで私一人の考えです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。




