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命思力・転移  作者: 大谷雅彦
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七 紀貫之の森 [ 和暦・優雅45年3月29日 日曜]

 

 昨日に況してよく晴れた日曜日の昼下がり。

 まだ冷たさが残る風を受けて、紀代彦は国分川の土手道を今日もいつものペースで走っていた。

 (闇の鷹も新撰隊も、もう来んじゃろうねや)

 あれから闇の鷹はまた会おうと言って立ち去った。

 新撰隊も無言で消えた。

 それにしても、と紀代彦は思う。

 (闇の鷹は強かった。俺もあの男と同じ特別な力を持っていると言いよったけんど、仮にそうじゃとしても、向こうの方がはるかに上じゃねや)

 森に着くといつものように忍び道から中に入った。あとは樹木の中を歩いていれば2分ほどで《泉の広場》に出る。

 紀代彦がこの森を知ったのは中学1年の時だった。


         *


 紀代彦の家は「国鉄土讃線・後免駅」の近くにある。

 後免駅から北に向かって車一台通れるだけの道幅の「県道・領石後免線」が延びている。

 和暦・優雅40年の大晦日の午後、家を出た紀代彦は県道・領石後免線を北に向かって走り出した。いつもなら南に向かうコースを行くのに、今日に限ってどうしてこの道を走るのか、自分の思いが分からなかった。何かに導かれるように、気がついたらこの道を走っていた。

 一年の締めくくりの日の清令な空気を胸に深く味わいながら紀代彦は順調に走り続けた。

 国分川橋の手前を左に曲がり、右下に国分川の流れを見ながら土手道を川下の方角、西に向かってペースを上げた。

 1キロメートルほど走ると、左手下方向に小さな森が見えた。その森に心がひかれた。土手道から駆け下りて、森の近くに行った。枝葉に覆われた忍び道があった。忍び道の入り口付近から中を覗いた。突き当りに立ち並ぶ樹木の奥から自分を誘う気配を感じた。逆らえなかった。忍び道を進み、樹木が立ち並ぶその奥に足を踏み入れた。誘う気配は一段と強くなった。右に左に樹木を避けて進んだ。高く伸びた下草を踏み分けて前進を続けた。

 どれぐらい歩いただろうか。いつか森の中は薄暗くなり、自分がどの辺りに入るのか見当がつかなくなった。引き返そうとしても道が分からない。少しばかり心細くなった。出口を求めてなお長い時間さ迷い歩いた。

 そのうちに不思議なことが起きた。彼の思いとは別に、行くべき道を知っているように足が勝手に進んで行くのだ。周囲の感じも明らかに違ってきた。

 やがて樹木の間から出口らしきものが見えた。期待して行ってみるとそこは円形の、直径が20メートルほどの広場だった。広場の中心付近に小さな泉があった。疲れた体を横たえたなら気持ちよく休めそうな芝が一面に広がっている。頭上の、樹木の枝葉に囲まれた丸い空は夕焼に染まっている。

 何よりも喉が渇いていた。泉の水は清潔そうに見えた。透明度はあるのに、底が見えない。ずいぶんと深い泉のようだ。落ちないように気をつけて、両手で水をすくった。涼感が気持ちよかった。唇をふれてみた。飲んでも大丈夫そうだ。一気に喉に流し込んだ。美味かった。もう一杯すくって飲んだ。

 喉の渇きが癒えると疲労感が襲ってきた。芝生の上に大の字に寝ころんだ。予想した通り芝は気持ち良かった。大晦日の夕暮れ時だというのに広場は温かい。円形の夕焼け空を見上げていると、森の中で迷っていることなどたいしたことでないように思えてきた。

 目を閉じた。驚いた! さっき飲んだ水が身体の隅々に浸透して、疲れが排出されていくのが分かった。心身ともに爽快さが蘇ってきた。跳ねるように体を起こし、もう一度泉の水を飲んだ。

 元気を回復した紀代彦は樹木の中に再び入り、出口を探した。なぜか今度はすぐに出口が見つかるような気がした。予感は当たり、同じように樹木の間で迷いはしたが、それでも数分で忍び道に戻ることができた。

 土手道に上がって、紀世彦はあらためて森を見つめた。

とくべつ変わったところなどない、どこにでもあるような小さな森だ。自分は夢を見ていたのだろうか。その疑いを紀代彦はすぐに捨てた。さっきの体験が夢でないことは確かだ。

 (不思議な森だ)

 そう心でつぶやくことで区切りをつけて、紀世彦は家に向かって走り出した。

 ヒュー、と甲高い音を立てて一陣の風が背中を押した。振り返ると、森に人の顔が浮かんでいた。朧げで、逆光のせいもあり、いくら目を凝らしても女の顔ということがかろうじて見て取れるだけだった。さっきの風はこの女の悪戯だろうか? 

 また強い風が吹いて、女の顔は消えた。

 「確かに不思議な森だ」紀代彦は今度は口に出して呟いた

 その日以来、紀世彦は泉の広場ーー彼が勝手に名付けたーーでトレーニングするようになった。もう森の中で迷うことはなかった。樹木の間を進んで行くと泉の広場に出ることができた。道を覚えたわけではなかった。いくら覚えようとしても、覚えられなかったのだ。道を覚えることを森が許さないのだと紀代彦は理解した。無理に覚える必要もないので、彼は覚えることをやめた。


 この森の言い伝えを知ったのは、半年ばかり経った和暦・優雅41年6月26日の日曜日だった。

 国分橋を北に渡ると、左手方向に「四国霊場第29番札所・国分寺」がある。

 いつものように泉の広場でのトレーニングを終えた紀代彦は、気紛れに国分橋を渡って国分寺の境内に入った。老齢の女性が竹箒を使って境内の掃除をしていた。女性は境内を見学する紀代彦をちらちらと見ていたが、やがて彼に近づいて、

 「あんたはよく貫之さんの森に入りゆう人じゃお」と聞いてきた。

 「貫之さんの森というと、川の南側にある森のことですか」

 「そうよね。本当の名前は紀貫之の森というがやけんど」

 「はい、あの森のなかで運動してますけんど、それが何か?」

 「あの森にはねえ、昔から人を産むという言い伝えがあるがよね」

 「人を産む、ですか」

 「そうよね。ほんじゃあき、あたしらぁ地元のもんは子どものときから、あの森は妙な森じゃき近づいたらいかんといわれて育ったがよね。あんた、この近くの人とちがうろう」

 紀代彦が国鉄後免駅の近くだと答えると、そうじゃろうと女性は頷いた。

女性の話によると、人が生まれるという噂は戦後ーー二十年ぐらい前まであったらしい。紀貫之の森から見かけない人間が現れて、ここはどこか? いまは何年何月か? というようなことを聞いてきたという。男もいたし、女もいた。そのなかの何人かが、自分は別の世界からここに産まれてきた、と言ったという。

 「それからねえ、森の奥にはしょう嫉妬深い鬼女百合という魔女がおって、森にきれいな花が咲くがを許さんがじゃと。まあそんな言い伝えがあの森にはあるがよね」

 (鬼女百合か)半年前に見た女の顔を紀代彦は思い出した。

 泉の広場のことはだれにも話さなかった。根拠はなかったが、あのときの女ーー鬼女百合? が強い意志で以て沈黙を要求しているように紀代彦には思えたのだ。

 彼のその思いは正しかった。紀貫之の森も、泉の広場も、《或る命》の意志の一部として存在していた。これらは、この物質的宇宙の存在と密接に関係していたのだ。やがて紀代彦はそのことを知るようになる。そして、これらをめぐる想像を絶する闘いに彼は巻き込まれていくことになるのだった。


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