六 闇の鷹 [ 和暦・優雅45年3月28日 土曜 ]
「笛谷はここにいるのか」
夕霞のなかに忽然と現れたのは黒いスポーツシャツとジーンズで身を包んだ二十代後半に見える男だった。
「誰だ、おまえは?」問う西郷に、
「闇の鷹」と男は名乗った。
「なに、闇の鷹だと!」
「新撰隊の西郷勇だな」
「そうか、おまえが闇の鷹か。一度会いたいと思っていた。札幌校新撰隊の敵を討たせてもらうぞ」
三人の隊員が闇の鷹を素早く取り囲んだ。。
「ほう、さすがは最強メンバーで構成したことだけのことはある。昇格したばかりだった札幌校の新撰隊とはレベルが違うな」闇の鷹は不敵に笑った。
四月に開校する帝憲学園高校高知校の新撰隊は全国に7校ある帝憲学園高校の新撰隊から選ばれた11人の精鋭と本間マキとで編成された、帝憲学園高校グループ最強の武闘部隊だ。
西郷勇は高知校新撰隊の副隊長になる前は東京校新撰隊の隊長だった。昨年、一昨年と開催された帝憲学園高校7校の新撰隊よる徒手競技大会で、彼は団体個人両部門で二連覇の偉業を成し遂げていた。西郷勇は新撰隊最強の男なのだ。その彼を差し置いて高知校新撰隊の隊長の座に就いたのは、琥珀学園から交友生としてやってきた本間マキだった。
本間マキを隊長とする新撰隊が高知県に到着した日、高知城で格闘道部の先乗り部隊が岩口八夫、信田裕一郎、笛谷紀代彦に倒されたところに行き当たった。三人の並々ならぬ腕前について本校に報告したところ、「三人を味方にせよ。断るならば潰せ」の指令が返ってきた。
最初に笛谷紀代彦から当たってみることにした。相撲をやっている笛谷なら自分たちと思想が近いかもしれないと推測したからだった。隊長の本間マキはいま東京校に行っている。笛谷の説得は本間マキが東京校から帰ってきて、彼女が直接することになっていた。
今日、西郷たちが笛谷を見つけたのは偶然だった。高知市の東に隣接する、笛谷と信田の自宅がある南国市にFK高校がある。この学校に笛谷と信田の小学校からの同級生で、FK高校に入学した時から事実上の番長といわれている宇津井英樹という男がいる。この男を一度見ておきたいと、西郷は3人の隊員とともにオートバイに分乗して南国市にやってきた。そこでランニングをしている笛谷を見たのだ。
西郷たちは予定を変更して笛谷の様子を探ることにした。行き先の見当はついていた。南国市の中心市街地から4キロメートルほど北に行くと、二期作で知られる香長平野の田園地帯が広がっている。この田園地帯を東西に横切る形で「二級河川・国分川」が流れている。中学生のころから笛谷が国分川の川原までランニングしていることを、高知城の一件の後で調べてあった。
西郷たちは先回りすることにした。
紀代彦は国分川にかかっている「国分橋」を渡る手前で左に曲がった。川の南側に沿って続く土手道を1キロメートルばかり西方向に走った。左手、川が流れている側とは土手道をはさんだ反対側の田園地帯のなかに小さな森があった。土手道から駆け下りた紀代彦はそのまま森の中に入って行った。
川原に身を隠していた西郷たちも土手道を越えて、森まで行った。
笛谷が入って行ったと思われるところに、樹々の枝葉に覆われたトンネル状の忍び道があった。忍び道は幅も高さも3メートルぐらいで、20メートルほど奧には通せん坊をするように樹木が立ち並んでいる。
笛谷の後を追って西郷たちも忍び道を通り、樹木の中に入った。
不思議だった。小さな森なのにどこにも笛谷の姿を見つけることができなかった。気配さえ感じられない。信じられないことだが、森のなかで笛谷は煙のように消えてしまったとしか思えなかった。
ひとまず忍び道の入り口のところまで戻った西郷たちが次にどのような行動をとろうかと思案しているところへ、闇の鷹が現れたのだ。
西郷は闇の鷹に向かって一歩踏み出した。西郷の動きに合わせて3人の隊員たちも動く。闇の鷹は自然体だ。初めて見る闇の鷹は西郷の想像とは違っていた。身長は西郷より低い。175センチメートルぐらいだろう。痩せぎすの体型をしている。うわさに聞く、鬼人に擬せられる力を秘めているようには見えなかった。
闇の鷹は全学友(全国学生友情連盟)の味方をして機動隊や全学友と敵対する組織を相手に闘っている。闇の鷹は全学友の学生たちにとっては信望厚き雄傑であり、敵対する勢力には恐怖の代名詞となっていた。闇の鷹が高校生を相手に闘ったのは札幌校の新撰隊が初めてだった。
西郷はじりじりと間合いを詰めた。闇の鷹は動かない。攻撃の間合いに入るまであと半歩というところまで西郷は近づいた。その半歩を踏み出そうとして西郷の足は止まった。半歩先には闇の鷹を中心にして鋭利な殺気が渦巻いていた。西郷の背に冷や汗が流れた。気づかずに仕掛けていたら確実にやられていた。噂に聞く、鬼人に擬せられる闇の鷹の強さを西郷は知った。だが、どれだけ強くても倒さなければならない相手だ。退却する道など西郷にも新撰隊にも、もとより無い。西郷は特攻拳に構えた。
「それが噂に聞く新撰隊最強の男、西郷勇の特攻拳か」闇の鷹に動ずる様子はない。
「お~~!」西郷が吠えた。
「お~~!」3人の隊員も続いた。
(倒す!)西郷は一気に勝負に出ようとした。だが、先に仕掛けたのは闇の鷹だった。西郷の右腕に痛みが走った。
(しまった! 折られた!)
見えなかった。闇の鷹の動きが西郷には見えなかった。それは他の隊員も同じだった。腕を折られた痛みで初めて闇の鷹が攻撃してきたことを知ったのだった。3人の隊員は土の上に膝を落とし、呻き声を漏らした。西郷は膝を落とすことも呻き声を漏らすこともしなかった。歯を食いしばって痛みに耐えた。
「さすがは西郷勇。俺に腕を折られて呻き声を漏らさなかったものはこれまで一人もいなかった」闇の鷹が薄く笑った。
(こいつは想像を越えた化け物だ。とても勝てる相手ではない。だが、我々に退却は無い)
痛みをこらえ、両足を踏ん張って西郷は戦闘態勢をとった。
「まだ闘おうというのか。もうよせ。勝負はついた」
「まだ、俺は闘える」
「いまなら手当をすれば腕は元通りになる。そのように折ってある。だが、これ以上闘いを続けるとその保証はできない」
「よけいな心配は迷惑だ。行くぞ!」
「聞き分けの悪い男だ」
その時不思議なことが起こった。五人がいる空間部分が切り取られたようにふわりと浮き上がった。浮き上がった空間は忍び道を横滑りするように動いて、森の外に出た。五人の身体は地面の上に投げ出された
「これは、いったい!」闇の鷹が驚きの声をあげた。
驚きは西郷たちも同じだった。いったい何が起きたのか?
立ち上がった男たちは、さっきまで自分たちがいた忍び道の奥を唖然として見つめた。そこには何も変わったところはなかった。あれは何だったのか?
「うん? おまえたち、腕はどうした。痛くないのか?」闇の鷹の声に新たな驚きが加わった。
言われて、右腕が痛みもなく動かせることに西郷は気がついた。3人の隊員たちも驚いた顔で腕を動かしている。
「いったい、これはどうしたことだ?」闇の鷹が自問するようにつぶやいた。
もう闘いどころではなかった。さっきのは現実に起きたことなのか? もちろん現実に起きたことなのだ。5人がいた空間部分が周辺から切り取られたように浮き上がり、横滑りするようにして森の外に出て…、だから彼らはいま森の外で不思議な思いに駆られているのだ。あれは断じて夢などではない。
「この森は、生きている」
西郷の言葉に闇の鷹はゆっくりと顔をあげた。
「おまえもそう思うか」
「ああ、何というか…、この森は意思を持っていると、そんな気がする。笛谷を追って中に入ったときから、ずっと不思議な気配を感じていた。あれはこの森の意思だったのだろうと、いまは思う」
「俺もそうだ。おまえが意思と感じたものを、俺はこの森の呼吸と受け取ったが」
西郷も闇の鷹も森の奥に視線を戻した。
「笛谷は、いまこの中にいるのだな」
「そのはずだ。だが、いくら探しても姿が見えない」闇の鷹の問いに西郷が答える。
(この森は生きている。そしてこの森の中にいま笛谷はいる)
西郷の胸中に居心地の悪い疑影が広がっていく。
「笛谷は何年も前からここでトレーニングをしているのだろう」さすがに闇の鷹は落ち着きを取り戻している。
「我々の調査によれば、中学生の時から継続してこの森のなかでトレーニングをしているはずだ」西郷の語調ももう乱れてはいない。
この時西郷に新たな疑問が湧いた。
(どうして闇の鷹はこの場所に現れたのだろう?)
あの高知城での一件の後、東京校から送られてきた情報によれば、笛谷紀代彦はこれまで学生闘争に関わりを持ったことはない。そもそも笛谷紀代彦という高校生の存在は高知城の一件で西郷たちも初めて知ったぐらいだ。仮に闇の鷹がたまたま高知県に来ていて、西郷たちの動きから笛谷のことを知ったとしても、彼ほどの大物が興味を持つ何かが笛谷にあったのだろうか? もちろん今ではこの不思議な森に自由に出入りしているらしい笛谷がただものでないことは明らかだったが。
「トレーニングが終わったらしい」闇の鷹が前方に軽く顎を振った。
忍び道の奥に紀代彦が現れた。
紀代彦は森の外に立っている5人をまっすぐ見つめて歩いてくる。
西郷の横に立っていた闇の鷹の姿が消えた。後方にいる隊員たちは「あっ!」と驚くだけだったが、西郷は闇の鷹の姿が消えると同時に視線を紀代彦に向けていた。紀代彦の右横に現れた闇の鷹は、紀代彦の頸動脈を狙って右の手刀を振り下ろした。紀代彦の崩れ落ちる姿が西郷の脳裏に浮かんだ。
だが、闇の鷹の手刀は紀代彦の右の手刀によって受け止められていた。
西郷は唖然とした。
(見えなかった! 闇の鷹の動きは今度はとらえることができたのに、笛谷の動きが俺は見えなかった!」
実はこの時西郷の網膜は二人の姿が消えて、また現れる光景を映していた。しかしながら、それは瞬きするよりもはるかに短い間に生じたことで、そしてあまりにも荒唐無稽なことゆえ、西郷の意識に残らなかった。
闇の鷹と紀代彦は互いの右の手刀をぶつけた状態で押しあっている。
(あの闇の鷹に一歩も引けを取らない。笛谷、あいつはいったい何者なのだ!)西郷はいま自分がこれ以上ない矮小な存在に思えた。彼は歯軋りをした。
そのままの状態で30秒も経過しただろうか。闇の鷹が後方に飛んで、西郷の左横に並んだ。
「なるほど、力の波動が違う。笛谷、おまえは確かに特別な力を持っている。だが、まだ完全には使えないでいるようだ。その力を思い通り使えるようになったとき、おまえは恐ろしい男になるだろう」
紀代彦は厳しい目で闇の鷹を睨んでいる。闇の鷹の言葉に反応したのは西郷だった。
(特別な力だと? それはいったいどんな力なのだ?)
「闇の鷹、特別な力とはいったい」
西郷に最後まで言わさず、視線は紀代彦に置いたまま、闇の鷹は逆に西郷に質問した。
「西郷、高知県に帝憲学園高校がつくられるのはなぜだか知っているか」
「おまえが高知県を新たな闘いの拠点にしようとしているからだろう」
「全くと言っていいほど学生闘争に関係のないこの高知県に俺が拠点を置くという話に、おまえほどの男が疑いを持たなかったのか」
闇の鷹の言うとおりだった。近年の学生闘争に関して高知県は無風地帯といってよい状況にあった。警察庁の発表によれば、今年354の高校の卒業式で紛争があったという。1年前の同時期に警察庁が発表した紛争中の高校は56校だったから、学園紛争のある高校は1年で約300校も増えている。そんな中で、こと学園紛争・学生闘争に関しては模範的態度を貫いている高知県に闇の鷹が新しく拠点を築いても効果があるとは考え難い。そうであるならわざわざ高知県に帝憲学園高校を開校する必要はないはずだ。
「高知県に帝憲学園高校が開校される目的が俺に関してでないことは、俺自身が知っている。俺をだしにしてまで高知県に帝憲学園高校を開校しなければならない本当の理由は何か? それを調べるために俺は高知県に来たのだ。残念ながらまだ皆目見当がつかない、というのが正直なところだが」
闇の鷹が言っている意味が西郷には分からなかった。自分たちを混乱させるためにこんな話をでっちあげているのだろうか。そうだとしたらたいした役者だ。だが西郷には闇の鷹が虚言を弄しているようには見えなかった。
「何かごちゃごちゃ話しゆうみたいやが、帰るにじゃまやき、のいてくれんか」
紀代彦が睨んでいた。
「おい、ちょっと出てきたみい。さっき鬼女百合の里が歪んじょったぞ」
「何言ゆうがぜよ、お父さん。いま忙しいところじゃに。鬼女百合の里がなんで歪まんといかんがぜよ。あんた、もう歳じゃき、目がおかしゅうなったがじゃないかね。さあさあ、そんなおかしなことを言うひまがあったら、早う家の中に入ってこれを片付けとうぜ」
「そうじゃろうか? けんど確かに歪んじょったぜよ。あんな鬼女百合の里を見るがはわしゃ初めてやが、何か悪いことが起こらにゃえいが」
鬼女百合の里の歪みによって生じてずれを矯正するため、物質的宇宙全体が従来とは異なる動きをした。これによりこの物質的宇宙の進みゆく道に変化が起きたが、その痕跡は残らず、人間の歴史に刻まれることはなかった。