五 新撰隊 [ 和暦・優雅45年3月21日土曜日 ]
三学期が終わり、高知県の公立高校は春休みに入った。
3月21日の土曜日の昼過ぎ、高知県高校相撲連盟が行う合同強化合宿に参加するため、県内の高校の相撲部員約100名の中から選ばれた20名が高知県総合運動公園にある合宿所に集合した。1月の新人大会で個人優勝した紀代彦も選ばれていた。
指導教員から簡単な説明と注意事項があり、キャプテンに紀代彦が指名されて練習が始まった。
「地獄の合宿」といわれるだけあって練習はきつかった。特に申し合い稽古は一番たりとも気を抜くことができない。ここに集まったのは「相撲王国」とよばれる高知県の、高校相撲部の実力者ばかりである。互いに簡単に勝てる相手ではない。そのうえ合宿初日ということで、国体レベルで活躍する教員や強豪社会人も数人参加していたから、そのきつさは半端ではなかった。練習後は全員が口をきくこともできないほど疲れ果てていた。今日は練習時間も午後だけの3時間と短かったが、明日からは午前と午後それぞれ3時間、合わせて6時間の練習が始まるのだ。最後までもつだろうか? さすがの猛者たちの心にも弱気の芽が頭を出したのは無理からぬことだった。だが一人としてそのことを口にする者はいない。彼らは母校の名誉を背負ってこの合宿に参加している。そしてこの合宿に参加している選手全員が新年度から新たに始まる、県内で開催されるものだけに限っても六つ予定されている大会で倒さなければならない強力な対戦相手となるのだ。弱音など間違っても吐くわけにはいかない。
その集団が現れたのは二日目の午後の練習が始まって1時間ほど過ぎた頃だった。土俵下でテッポウをしていたZO高校の北山と、四股を踏んでいた同じ高校の浅井が練習を中断して会話を始めた。
「おい浅井、見たことのない色の学生服やねや」
「おお、真ん中に立っているがは、ありゃ女じゃないか」
「セーラー服を着た男はおらんじゃろうき、女じゃおねや。髪も長いし」
「なかなかの美人に見えるぞ」
「北山、鉄砲プラス50! 浅井は四股プラス50!」紀代彦の声が飛んだ。
「え~~、笛谷、そりゃないぞ」北山と浅井が声を合わせて抗議した。いつもながら息のあった名コンビだ。
「笛谷の言う通りじゃ。全員、練習に集中せえ!」この強化合宿の責任者である南岡先生の叱咤の声が練習場に響いた。南岡先生は土佐工業高校相撲部の監督、紀代彦の恩師である。
本間マキが集団からはなれて南岡先生のそばにやってきた。南岡先生が合宿の責任者であることを確認して、自分たちは4月1日に高知市内に開校する私立帝憲学園高校高知校の生徒であること、ここにいる者たちは格闘技術を学ぶ同校の新撰隊という運動部の部員であることなどを話し、帝憲学園高校には相撲部がないので後学のために練習を見学させてほしいと願った。
「ああ、かまいませんよ」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えまして」
本間マキは隊員たちに合図した。練習の邪魔にならない程度の距離のところで新撰隊は横一列に並んだ。
初めのうちは異例の見学者を気にしていた相撲部員だったが、そこは選りすぐられた実力者たちだ。すぐに練習に集中し、激しくぶつかり合った。
「ありがとうございました」練習が終わった後、本間マキが南岡先生に礼を言った。
「少しは役にたったかね」
「はい、とても。さすがに相撲王国と称賛されるだけのことはあると、感服いたしました」
「それはよかった。金曜日までやっているから、またいつでも見学においでなさい」
「ありがとうございます。それではこれで失礼いたします」
その夜、食事を終えた合宿所の二階の大広間は今日の新撰隊の話題で盛り上がっていた。帝憲学園高校という名を知っている者は一人もいなかった。高知市の北部に新しく高校が開校するらしいという噂を耳にした者は何人かいたが、それもごく最近のことだという。不思議な話だ。高知県は小さな地方都市である。高知市内に新しく高校が開校するなら、その話はもっと早くから知れわたっているのが普通だ。本間マキは帝憲学園高校高知校の生徒は全員が転校生だと言っていた。これも不思議な話だ。(やはり、何かある)紀代彦は確信した。
「それにしてもあいつら、新撰隊とか言いよったが、ずいぶんと鍛え込んじゅうぞ。気がついたか、俺らの練習を見学しゆう間、一度も隊列を崩さんかった」「おう、二時間も表情を変えんつかにじっと立っちょった。ただ者じゃない」「けんど、女が隊長とはびっくりしたねや」「そんなに強いようには見えんかったが」「緋牡丹博徒のお竜さんみたいに、めちゃくちゃ強いがかもしれんぞ」「そう言うたら、藤純子に負けんばぁ、きれいやったやないか」「いろいろの格闘技をやりゆうように言いよったけんど、相撲部はないがやねや」「もし4月に開校する高知校で相撲部をつくって、あいつらみたいな連中が出てくるとしたら手強い相手になるねや」「確かにねや。けんど、あの女隊長はできんぞ」「そうよ、それが残念よ。あんな美人なら俺は喜んで相手をしちゃるに」笑い声が上がった。
「笛谷、南岡先生が呼びゆうぞ」その日の当番として一階で食器洗いをしていた浅井と上木が上がってきて紀代彦に伝えた。
「おう、そうか。サンキュー」
答えて階段に向かう紀代彦の後ろで、「おい、見たか。あの女隊長、きれいやったねや」の浅井の声が部屋いっぱいに響いた。
一階の大広間で南岡先生は一人でお茶を飲んでいた。昼間は各高校の相撲部の監督や関係者が顔を見せるが、なにぶんにも年度替わりの忙しい時期である。夜は各高校の監督が一人ずつ交代で寝泊まりしている。今夜は南岡先生が当番だった。
紀代彦は卓袱台をはさんで南岡先生の正面に正座した。
「二階でも盛り上がっちゅうようやが、話というのは今日の帝憲学園高校のことじゃ」
紀代彦に茶を勧めて、南岡先生は話し始めた。
「はい」
「この合宿に参加しちゅう者は全員が高知県高校相撲部の実力者ばかりじゃき、その点では勉強したいと言ったあの女生徒の言葉は理屈は通っちゅう。事実、彼らは練習している一人ひとりの実力を見極めるように真剣に見学しよったし、あの目は間違いなく格闘家の目じゃった。しかしな」南岡先生の目が光った。
「あの生徒たちが一番注目して見よったがは笛谷、おまえやった。たしかにおまえはこの前の新人大会で個人優勝しちゅうし、いま実力は県内の高校生では一番じゃろう。ほんじゃあき、そんなおまえに注目するのは当たり前といえば当たり前じゃ。じゃがな、あの生徒たちのおまえを見る目には激しい敵意があるようにわしは感じたが、何か心当たりはないか?」
さすがに南岡先生は見逃していなかった。紀代彦は高知城での一件を話した。
「そうか、そんなことがあったか。高知県の高校をすべて傘下にすると言いよったか」
南岡先生は腕を組み目を閉じて何事かしばらく考えているようだったが、やがて目を開くと、「飛んでくる火の粉は払わにゃいかんけんど、できるだけ関わらんようにしちょけ。あまりいい噂は聞かん学校やき、帝憲学園高校という学校は」
帝憲学園高校について南岡先生はもっと何か知っているようだったが、口にしたのはそれだけだった。
その後新撰隊が現れることなく、地獄の強化合宿は3月27日の金曜日に終了した。
「ああ、やっと終わった。さあ、万博を見にゆくぞ!」広間を掃除しながら北山が大声で言った。
3月14日土曜日に大阪千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに掲げたアジア初の万国博覧会「日本万国博覧会(EXPO・70)」が開幕していた。史上最多の77ヵ国が参加して、117のパビリオンが展示を競い合う万博は連日大盛況だった。前年7月に人類初の月面着陸に成功したアポロ11号が持ち帰った「月の石」を展示するアメリカ館や、宇宙船のドッキング場面を展示するソ連館などがひときわ高い人気を集めていた。開催国日本も民間企業グループによる28のパビリオンを展示して、外国のパビリオンに勝るとも劣らない好評を博していた。
一方で万国博覧会開催に異議を唱える人たちもいた。その中心は「ベ平連:『ベトナムに平和を!』市民連合」だった。ベ平連は前年の和暦・優雅44年8月7日から11日までの5日間、大阪城公園で「反万博(反戦のための万国博)」を開催するなど、万国博覧会の開催に強く反対していた。「日米安保条約の改定の年に万博を開くのは安保問題から国民の目を逸らせることを目的としたものだ」というのが反対の理由だった。
しかしながらこの「反安保・反万博」の声は、連日長蛇の列が続く当の万博の大成功によって、国民の大きな賛同を得るまでには至らなかった。