A-1 <ノウアスフィアの開墾>ハードモード
絶望した。
あんなに居心地のいい世界だったのに。
俺、コーランドは、秋葉原……いや、「アキバの街」で目を覚ますとすぐに路地裏に潜り込んだ。
自分がしている妙な格好にも、全力で走っているのにも関わらず息が切れない体にも気づかず、ただ、人のいない方へ。
ゲームである<エルダーテイル>が現実になっただとか、逆に俺たちが
ゲームの中に入ってしまっただとか、そういうのはどうでもよかった。
扉もない廃ビルに潜り込んで、隅っこで縮こまる。
人が来ないかと警戒しながら、ネズミの立てる物音にすら怯えて。
……俺は人が、いや、人と話すことが、怖かった。
チャットくらいなら、問題はない。
自分の顔や声にコンプレックスがあるわけでもない。
ただ人の気持ちがわからなくて、実際に何度もちょっとしたすれ違いから喧嘩に発展した。
幼少期から本はよく読むほうだったので相手の気持ちを想像することは出来た。 できたが、それが合っているのかわからなかった。
その時点で合っているとしても、その法則がいつ当てはまらなくなるかもわからない。
そのくせ他人と違うことを極端に恐れ、周りから浮いちゃいないかと気を遣い、気を張り、その結果として浮いてしまう、悪循環である。
学校でも表だったいじめなんかはなかったものの、特に仲のいい友達もおらず、学校がつまらなくなり、やがて家から出ることをやめた。
そして幸か不幸か、数年程度では遊び尽くせないゲーム<エルダーテイル>と出会い、ネットを通じた上っ面だけの関係に埋もれていったのだ。
顔を合わせて話すことに比べれば、テキストでのチャットは楽だった。
みんな同じゲームをしているのだから、話題にも事欠かない。
万が一喧嘩になっても、<フレンドリスト>から削除して意図的に避ければそれで済む。
引きこもりの引け目もあり厄介事に発展しそうなリアルの話題は極力避けていたが、それ以外は文句のつけようが無いほど快適な世界だった。
しかし俺がプレイし始めて二年ほどのころ、全面的なボイスチャットが導入された。
その速度こそ緩やかだったが、確実にゲームはボイスチャット主体に傾いてゆく。
あんなに居心地の良かった世界が、今また俺を排斥しようとしている。
それでも、俺はテキストチャットを貫き通した。
それまでに鍛えられたタイピング速度がそれを可能にしていたということもあるし、声での会話というものから離れすぎて、怖かった。
やがて、俺はテキストチャッターという『イロモノ』だが、実力はあるという立場が定着し、居場所を作っていったのだ。
なのに。
俺が今いる廃ビルは裏通りに面しているとはいえ、人通りがまったくないわけではない。
ビルの前を通りゆく人の会話、または独り言を聞いて、ここがエルダーテイルに酷似した世界であることはわかった。
ゲームでの知識が通用するし、育て上げてきたキャラクターのデータもそのまま。
異世界召還モノにしては随分とぬるい条件だ。
けれど、俺にとってこの世界はどうしようもなくハードモードだった。
突然、脳内でベルの音が鳴り響く。
飛び上がりそうなほど驚いた。
飛び出そうな心臓を押さえ、必死に息を整えて音の元を探して集中すると、ふと脳内にゲーム時代のようなメニューが浮かび上がった。
このベルの音はどうやら、俺がゲーム時代一度も使わなかった機能、<念話>によるもののようだ。
念話の送り主は<プーカ>、俺と同じくテキストチャットを利用していた、ソロプレイヤーだ。
じりりり、じりりり……。
静かな部屋で、頭の中だけに鳴り響く。
俺は、その音に応えられなかった。
何十回目かのベルが鳴り終わると、痺れを切らしたのか、ベルは鳴り止んだ。
そして数分後に、同じ相手からメッセージが届いた。
『もしかして、取り込んでたかな? ごめんね! でも、こんな状況だし、折り返し連絡くれると嬉しいな!』
メールを読み終わると、膝に顔を埋め、涙で膝を濡らした。
俺と同じく、人と話すことを避けていたプレイヤーでも、状況に適応しているのに。
サーバーでもトップクラスの強靱な肉体<キャラクター>を、無力感が苛んだ。
夜になってから、街を出た。
夜にはモンスターの動きが活性化するのは知っている。
だが、だからこそ夜に他プレイヤーと出会うことはないだろう、と考えたのだ。
多少活性化した所で街の近くにそう強いモンスターは出ないし、万が一仕様が変更されて強いモンスターが出没したとしても、別に惜しむような命ではないのだ。
むしろ、ほっとする。
……これがゲームの世界ならば『死ねない』可能性も高いのだが。
<盗剣士>である俺は自力で明かりを用意できない。 マジックアイテムで明かりを確保しながら疎らに木の生えた野道を進む。
まだ街に近いからか、活性化するというわりにはモンスターと遭遇しない。 もう少し先まで行ってみるか、と思った瞬間低いうなり声が聞こえた。
光源は浮いているので手をふさぐ心配はない。 俺は右手にサーベル、左手に逆手持ちしたダガーを握りしめ、慎重にうなり声へ近づく。
<大牙猪>である。
レベルにして20に届かない程度の、今の俺からすればもちろん、同レベル帯でも特に単純な行動パターンを持つ、いわば雑魚だ。
俺は目を光らせて威嚇してくる<大牙猪>へ向かって走り込み、相手が攻撃モーションに入る前にスキルを発動させその横っ腹にサーベルを突き出す。
レベルに基づくひっくり返しようのない戦力差もあり、サーベルは大した抵抗もなく肉に入り込み、<大牙猪>は一撃で絶命した。
反撃を食らわないように距離をとりつつ、血と一緒に手に残る感触を振り払うようにひゅん、とサーベルを振った。
振り払ったのは、皮を破る感触。 肉を突き刺す感触。 ……命を奪う感触。
自分なりに覚悟はしていたもののあまりにリアルな感覚に、動悸が激しくなる。
血に塗れたサーベルを握ったままの右手を胸に当て、鼓動を正常に戻そうと深呼吸する。
そうしているうちに傷口から血をどくどくと滴らせていた猪は消え、後に数枚の金貨とドロップ品である牙を残して、消えた。
戦利品に近づきもせず呼吸を整えると、俺は声を出さずに口だけ動かして呟いた。
……大丈夫。
これくらいなら、耐えられる。
この程度なら、頑張れる。
……他人を気にして空気を読んで、何よりも和を尊重し神経をすり減らす。
そんな生活に比べれば、ただ剣を獲物に突き刺すことのなんと簡単なことか!
俺は金貨と牙をつかんでマジックバッグに無造作に放り込むと、次の獲物を探してより深い闇へ歩み出した。
俺が疲れと眠気で帰ろうと思ったとき、空は白み始めていた。
あれから遭遇し、倒したモンスターは二十数体ほど。
そのどれもほぼ一撃で終わったとはいえ、それだけの戦闘をこなしてこの程度の疲労とは。
どうやらこの身体はそんな所まで高性能らしい。
中身を増やしつつも重さの変わらない<マジック・バッグ>を担ぎながら、俺は<帰還呪文>を唱えた。
攻撃魔法に比べればいささか地味なエフェクトが光り、数分の詠唱時間ー奇襲されないかと気が気でない時間であるーののち、その身体は一瞬にしてアキバの街へと戻っていた。
ここはもう<戦闘行為禁止区域>の中。
俺は無意識に深く息を吐いた。
今日は初期装備でも勝てるような相手としか戦わなかったが、それでも思ったより緊張してしまっていたらしい。
……冒険者なんて、レベル九十なんて言っても「俺」は遙か格下に緊張する程度の存在なんだ。
そう自嘲しながら廃ビルへと向かう。
緊張が切れたら、腹も減った。
確か、短時間自然回復力を上げる食料アイテムがひとつ、鞄の中にあったはずだ。
特殊効果のある食料アイテムはそれなりに高価なので、少し勿体ないとも思ったが、まあいいか、と思い直した。
今日の稼ぎよりは高いが、ゲーム時代の稼ぎであれば一日に百個買っても釣りが来る程度の値段だ。
廃ビルの正面扉があった場所をくぐり、適当な場所に腰を下ろすと、鞄から焼いた何かの肉を挟んだサンドイッチを取り出した。
……ここはゲームだが、現実だ。
実際、「ゲームにしては綺麗」程度だったグラフィックも元の世界と同じ、いや青青と茂る草花を加味すればそれ以上に美しくなっている。
なれば、食べ物もさぞうまかろう。
ジャンクフードに慣れた舌を喜ばせてやろう。
そう意気込んで口を大きく開いてかぶりつく!
突き立てた歯がパンの湿気た感触を突き破り……そのままかちん、と噛み合った。
……肉は?
俺は少なからず動揺する。
触感はおろか味もしない。
この物体を強いて表現するとしたら味のない煎餅のような……。
サンドイッチの断面を見るが、確かに噛み痕は肉も野菜も通り抜けている。
つまり、この「食物アイテム」には、見た目だけで味や触感が設定されていない……ということだろうか。
「ゲームの世界に入ってしまった」ならいかにもありそうなことだ。
ゲームの中では味に意味なんて無いのだから。
不可解な現象に説明が付くともうそれが正解としか思えなくなる。
……ならば、他の食物アイテムにも味はないのか?
この世界から脱出するまでこの食べ物で生きながらえなければならないのか?
それならいっそ……いや、仮に餓死することが可能でも大神殿で蘇ってしまう可能性が高い。
思考の袋小路に陥って、諦めるようにサンドイッチをもう一口かじる。
……もともと、そう美味いものばかり食べていたわけではなかった。 味を楽しむのでなく、ただ栄養補給としての食事ならば、今までと変わらないではないか。
そう自分に言い聞かせてまた一口と味気ない食事を進める。
嫌いな給食を牛乳で流し込むかのように無理矢理飲み込むと、空腹が紛れた成果、睡魔が襲ってきた。
荷物からそこそこのレアアイテムであるローブを毛布代わりに身体にかけて、汚れた床に直接横になる。
気候のせいか<冒険者>の身体のせいかは知らないが、寒さは感じない。
が、硬く冷たい床の寝心地は決してよくはない。
贅沢は言わないまでも、どこか宿に泊まれれば……。
また、<料理人>のサブ職を取っていない以上、食べ物もどこかで買わなければならない。
そのためには店員と会話しなければ……。
NPCにさえ話しかけられれば、当面必要なものは調達できる。
……モンスターの相手はできたのだ、同じ人形であるNPC相手にもできるはず。
日が昇りつつある街の中、そう自分に言い聞かせているうちに俺は本格的に眠りに落ちた。
いきなり続きもの、しかも次回はだいぶあとです、すみません。
今回は「本編キャラクターたちにも有り得た可能性」のひとつ。
主にシロエと出会えなかったアカツキとかの。