第1章
果たして本屋を嫌いな人が、世の中にはどのぐらいいるのだろうか。
本屋に行くと便意が治まらなくなるとか、前世がヤギで紙を見ると無性に食 べたくなるとか、そういう病的な症状がない限り、みんなにとって本屋は好 きな場所の1つではないのだろうかと思っている。
コミックやティーンズ文庫の棚の前では、みんなニヤニヤと実に楽しそうに笑いを浮かべながら立ち読みしているし、
女子高生達はギャル系雑誌を見ながら
「ちょっと~これ超可愛くない~?マジヤバイって~」
と、一体何がマジヤバイのか聞いてみたくなる会話をしている。
老人男性達は元気に官能小説を吟味、おば様達は嬉しそうに韓流コーナーで雑誌を広げながら、
『このドラマは面白かった』『この俳優がお気に入りなの』
と女子高生顔負けにキャッキャしながら立ち話したりと、みんな個々に本屋を満喫してるように見える。
最近では、パソコンやケータイで本が読めるようになって、本屋で本が売れないと言われているがそんな事はない。
みんな本屋が好きなのだ。だから本屋はなくならない。私はそう思っている。
そんな私の揺ぎ無い定義が、まさか根底からひっくり返ろうとしてるなんてこの時はまだ知るよしも無かった。
上仲沙和19歳。高校を卒業してすぐにこの『ブックス未来屋酒田店』に就職した。
丁度良く従業員を募集していたので応募したらなんと受かってしまった。
他多数の応募者を蹴落として、私が採用されるだなんて奇跡というべきか、18歳にして運を使い果たしたというべきか、いやいやそうじゃない。
店長の人を見極める目が超一流だったに違いない。
10キロ先のチーターの交尾ですら多分見えるであろう、その目で
『この子は何かを持っている』
そう思ったに違いないのだ。上に立つ者、人を見極める目がなければ店長など勤まる訳がないではないか。
ま、私を採用してからの店長の口癖は、私がミスする度に
『人選を間違った、人選をミスった、俺には人を見る目が全く無かった』
を連呼するようになったが、私はあえてそこには一切反応せず確実に聞き流すテクニックを身に付けた。
それもまた1つの成長の証。私はそう自分を自分で評価している。
店の開店時間は10時。私達は9時までに出勤する。今日発売の雑誌を開店時間までに店出ししなければならないのだ。
本を並べながら、『この本面白そうだな~よし、買って帰ろっと』といち早く品定めできるのが本屋で働く者の唯一の特権だったりする。ま、特権などそれぐらいしかないのだが。
「おはようございます~。あれ?咲真さん今日出勤でしたっけ?」
私が裏口から店に入ると、咲真さんがパソコンを見ながらコーヒーを飲んでいた。
土門咲真20歳。かなりのイケメンで高身長。手足の長い八頭身だ。
いつも爽やかで、咲真さんの笑顔にキュンとこない人はいないと思う。
手芸・料理等の担当をしていて手先はとても器用らしい。
「沙和っち、おはよう。なんか稀一さんからメールが来ててさぁ、今日朝礼で重大発表があるから全員出勤するようにって。
そんなの電話でいいじゃんかなぁ、電話でさぁ。
あーあ、せっかくの休みなんだから、もっとゆっくり寝てたかったのにな~」
咲真さんはパソコンをいじりながらブツブツと文句を言っている。
稀一さんというのは店長の事だ。
ふうん。重大発表かぁ…なんだろう。店の改装とかかなぁ。稀一さんの電撃結婚とかではない事は確かだろう。
私はタイムカードを押す。
「咲真さん、今日デートの予定とかないんですか?」
私はニンマリしながらちょっと聞いてみた。
「そうそう!姉貴と出かけるんだ。姉貴がどうしても中町のジェラードを食べに行きたいって言うからさ~。一人で行かせるのって可哀想じゃん?
女一人でアイス食べるだなんて、そんな姉貴の姿想像しただけで涙出てくるじゃん。だから一緒に食べに行ってあげるんだ~」
咲真さんは嬉しそうに答えた。
女一人でアイスが可哀想?私なんて、いつも独りで牛丼食ってますけど?
喉まで出かかったがグッと呑み込んでみた。
あぁ、そうだった。咲真さんは姉貴大好きなシスコン男だった。聞かなきゃ良かった、あーあ、失敗。
私は自分で話題を振っておきながら最高に不愉快になったので、咲真さんの話を聞かなかったかのようにスルーしてみた。
颯爽とロッカーを開けて荷物を放りこむと、中からエプロンを取り出して装着した。
そして足早に事務所から出ようとしたその時、突然トイレから青登さんが勢いよく飛び出してきた。
三浦青登21歳。耳にピアスを開けてデニムをこよなく愛する、咲真さんとはまた違ったタイプのイケメンだ。
手首には常に皮のブレスレットをはめていて、外すとなぜか力が出ないんだそうだ。
お前はアンパンマンか?といつも突っ込みを入れたくなる。
青登さんの担当は幼児・育児・ペット等。
外見からは想像がつかないが、実は物凄く子供や動物が好きらしい。家で飼っている犬を溺愛していて、病気になった時には1週間仕事を休んだ。
人は見かけで判断してはいけないという歩く見本のような男である。
「わっ…ビックリしたっ!青登さんも来てたんですね、おはようございま…」
全部を言い終わらないうちに青登さんは私の手を握りしめて叫んだ。
「下痢が止まんねぇんだよ、沙和ちゃん!!」
「…そうなんですか。で、手は洗ったんですよね?」
「あーもう、昨日サクランボ食いすぎちゃってさぁ~。だってさぁ、山形県民たるもの、そこにサクランボがあったら食うだろ普通!!そこに山があったら登るのと同じように!!なぁ、沙和ちゃんそう思うだろ?それが男!!それが日本男児!!山形男子!!男がチャレンジ精神をなくしたらそこで終わりだし!!」
一体何のチャレンジ精神だ。ってか、山形男子、ってどんなんだ?
「昨日サクランボ狩りに行ったんだってさ。
お土産のサクランボ冷蔵庫に入ってるって」
咲真さんがコーヒーを飲みながら言う。
「そうなんですか。で、今、この手は洗ったんですよね?」
私にとって一番の重要ポイントは、下痢の原因がサクランボという事ではない。そんなのどうだっていい。むしろ知りたくもない。私が知りたいのは今現在、私の手を握ってるこの青登さんの手が清潔かどうかだ。
「あ、手洗うの忘れてた。」
青登さんは私の手を離すと、洗面所に手を洗いに行った。
ああ、やはりそうか。恐れていた事が現実になってしまった。
私は手を硬直させたまま青登さんの背中を鬼のような形相で睨んだ。
「あ、沙和ちゃんも洗った方がいいよ。俺の下痢菌がついてる可能性100%超え」
「言われなくても分かってますよ!」
私は青登さんを押しのけると勢いよく手を洗った。
「でもさ~、この歩くビフィズス菌と呼ばれてる俺がさぁ?下痢になるだなんて、なんか不吉な予感がするんだよねぇ」
青登さんが不安そうな顔をして言う。
歩くビフィズス菌の意味が分からない。っていうか、単にサクランボの食いすぎでしょうが。
「ねぇそう思わない?沙和ちゃん」
「思いません」
私は一言ハッキリ言い放つとスタスタと事務所を出て行った。
まったく青登さんは。
私は深いため息を1つ付いた。
私が店内を歩いて行くと、レジの所に苑子さんが立っていた。
渡瀬苑子20歳。生粋のお嬢様で近年までは外国で暮らしてたという帰国子女だ。
働かなくても生きて行けるらしいのに自分で働いてお金を得てみたいという強い希望により、ここに就職したようだ。親の強い圧力で。
見た目は少しウェーブのかかった品のいい茶髪でスタイル抜群。とてもおっとりしてて優しくて、目がクリッと大きくて凄く可愛らしい人だ。
出勤時はいつも大きな黒い車で優雅に送迎されてくる。勿論退社時も同じだ。
ドラマでしか見た事のないような立派な車なので、そこにいる誰もが驚いて振り返るほどだ。
でも苑子さんは自分の裕福さをまるでひけらかさない素敵な人。ま、かなり天然入ってるのが玉にキズだが、それもまた許せるぐらい可愛らしい人なのだ。
資格・参考書等の担当をしている。とても知的で頭がいい。
「苑子さん、おはようございまーす。何やってるんですか?」
私は苑子さんの所に歩いて行く。
「あ、おはよう沙和ちゃん。私ね、早く来ちゃったものだから、NHKのドイツ語講座とフランス語講座の復習をしてたの。で、それが終わったから今から中国語に取り掛かろうと思ってた所なの」
苑子さんの手元には、私物と思われるテキストが山のように積まれていた。
どんだけこの時間を利用して勉強する気でいたんだろう。
ってか、一体何時で店に着いたんだ…?
「沙和ちゃんもやってみる?中国語。ホラ、いつ急に本場の餃子が食べたくなるか分からないでしょう?ねっ?」
いえ、急にそんな気持ちにはならないと思うので結構です。っていうか、もし例えなったとしても、近くのコンビニに行くかのような軽い感覚で中国へ餃子を食べにはいけません。ごくごく普通の庶民なんで、私。
ジョーダンとかではなく、本気で言ってるから恐ろしい。それが苑子さんだ。
「おはようございまーす」
向こうから、祭が小走りに走ってくる。
「おはよう、祭ちゃん」
「おはよう、祭」
私と苑子さんは手を振った。
中川祭18歳。長い黒髪のストレートでキレイな顔立ちの子だ。一見、気が強くて物怖じしないタイプに見えるが、実際は物凄く恥ずかしがり屋で特に男性が苦手で目を見て話す事もできない。
しかし怖がりのくせに空手初段の腕前で、口よりも先に手が出てしまう。
文芸書・文庫担当で、文学にはとても詳しい文武両道な女の子だ。
祭は、私達の隣まで来ると
「事務所に青登さん達が居てビックリしちゃいました。」
恥ずかしそうに少し赤くなった頬っぺたを手で押さえながら言った。
「朝、大事な話があるから全員集合するようにって店長から言われたみたいなの」
苑子さんが答えた。
「なんか青登さんが、下痢だ不吉だ不吉な下痢だ、とかって何回もしつこく言うもんだから、思わず顔面殴っちゃったんですけど、良かったでしょうか」
祭がすまなそうな顔をして言う。
「うん、いいと思うわ」
「全然問題なし」
私達は笑顔で答えた。
急に、店の表の窓をドンドン叩く音が聞こえてくる。私達は一斉に振り返ると、そこには太郎が変質者並みの恐ろしい形相で立っていた。
「も、物凄くキモイんですけど」
祭もまた物凄い形相で太郎を見つめて言った。
小谷太郎19歳。自称ラストサムライと言っているが、単に頭の悪い…イヤ、頭の固い硬派な男だ。女所帯で育ったせいか、女にはめっぽう弱いというか、いつもビクビクと怯えている。お姉さん達にどんな扱いを受けてきたのかが想像できて同情したくなる。
コミックを担当してるので、ティーンズ文庫担当の私とは何かと関わることが多いせいか、私とは普通に話せるようになった。硬派ぶってるくせにかなりツンデレ度は高いと見ている。
外見は男らしい体育会系なのだが、運動能力はかなり低い。毎回遅刻ギリギリで駐車場から一生懸命走っては来るが、一向に前には進まないタイプだ。要はドンクサイ。
全く…また今日も遅刻ギリギリか。
私は不機嫌な顔をしながら玄関のカギを開けてやった。
太郎はハァハァと肩で息をしている。
「悪い。そこの道路をだな、カルガモの親子が横断しててだな、それがまた10羽以上連なってて、しかも最後の一羽がイキナリこけて、しかもそいつが…」
「はいはい、分かったから早くタイムカード押してこないと遅刻だよ」
「あ、うん、すまん」
太郎はダッシュで事務所に駆け込んで行った。
「相変わらず足遅いわよね」
「っていうか、本当にキモイです、あの顔」
苑子さんと祭が、太郎の走っていく後ろ姿を見つめながら呟いていた。
「稀一さん、来ないねぇ」
苑子さんは、中国語テキストをしながら言う。
「ま、あの人は時間通りに来た試しがないですもんね」
祭が外を見ながら言った。
と、その時バイクの音がけたたましく聞こえてきた。
「来たみたいだね」
「じゃ、私、咲真さん達呼んできます」
私は事務所に走って行った。
稀一さんはハーレーで出社するので、来たら音ですぐに分かる。店長らしからぬチャラチャラした外見と態度なのだが、そんな自由奔放な上司だからこそ私達も自由に仕事ができるのかもしれない。
三神稀一26歳。この若さで店長に抜擢されたのだから、きっと凄い人なんだろう。|(と、思いたい)
アメリカ人になりてぇ~、が口癖で、同じくアメリカかぶれの青登さんと、いつもアメリカンドリームについて熱く語っているが、二人共一度もアメリカには行った事はない。
店長とはいえ経理事務も完璧にこなし、本という本の全ての分野に詳しいので凄く頼りになる存在だ。
「おーい、朝礼すんぞー」
稀一さんは、玄関から入ってくるなり大きな声で叫んだ。
今日も派手なアロハシャツを着ている。それで仕事する気なのか。
私達は稀一さんの前にゆっくりと一列に並んだ。