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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

御贄(みにえ)

作者: 星水晶

かなり昔に書いたもの。文体は故意に現代文とは変えてあります。

初めて自分の書いたものを公開するので、読んで頂けるかどうか、心配です。

 山が重なり、その上にまた重なり、幾重にも、白嶺、青嶺、たたなづく。その山の気につつまれて、静かに眠る空木うつぎの里。

 空がほのかにしらみそめ、朝鳥の目をさまして鳴きかわす声が、おちこちに聞こえだす。たちこめた白靄の中より、姿をあらわしはじめる里の家々。茅葺の屋根が、森閑とした深山の寂寞の底より、うっすらと浮かびあがってくる。

 里人は板戸を引き開け、日々の仕事にとりかかる前のひと時、夜の追われゆくさまに目をとめる。山の端よりさし来るあまたの金色の光の矢は、紺青の空をあかめ、今日の日和をうべなうごとく輝きわたる。里人は眉をひらき腰をのばして、ふと首をめぐらす。

「白羽の

 見よや、里長の屋形に深々と立つ白羽の箭。里人は戸口にへたりこんで、即座には声も出せず。様子をいぶかしんだ家の者が外に出てくる。わずかの間にも、里中がわきかえる騒ぎとなる。

「白羽の箭!白羽の箭!」

刑部おさかべおびとの屋形に白羽の箭の立ったるぞ!」

 老いたるも、幼きも、男も女も、里人のことごとくが外に走り出て、里長の屋形の屋根に立つ、雪より白い矢羽根を見上げる。

 白羽の箭は、遠の白嶺にいます神のみしるしにて、矢の立つ家の娘が神の御妻みめに選ばれたことを告げる。遠の白嶺は伽久耶かくやの山とも唱え、いにしえより禁忌の山として人の立ち入るを許さぬ掟なれど、神の御妻に選ばれた乙女のみは、人にして人にあらざるものとして、この神の山に入るを許される。いつの時も、白羽の箭は前ぶれもなく立つ。夜が明けて初めて矢の立つことが知れるならい。矢と矢の間は七年、十年、まれに三十年を超えたこともあるよし、里の古老の申し伝えに残っている。

 刑部の首の一人娘はこの春十九になる。ひなの山里とはいえ、里一番の長者の愛児なれば、風にもあてぬ慈しみよう。ようやく年頃となり、里長夫婦の掌中の珠として、そろそろ婿がねを、とも思った矢先。

 娘の名は真名女まなめという。

 母なる人は白羽の箭を見て泣きまろぶ。家中に満ちる悲嘆の声。とは申せ、白羽の箭が立つ家の娘は神の所望なれば、日野媛ひのひめとして奉るよりほかにせんかたなし。これは空木の一族が遠い遠い昔、流されて、国を越え山を分け、流浪の果てにこの山峡にたどりつき、里を築かんとした折に、この地を統べる遠の白嶺の山神とかわした誓約なれば、里人は何人たりともそむくことはあたわず。ましてや、里をたばねる長の家の者なれば、誰よりもその身に刻んでいることのはず。遠の白嶺のいます神は恐ろしき畏き神。その神との誓約を破れば、身の毛もよだつ禍事の見舞うは必定。里のため、人々のため、七年十年に一人の乙女の身であがなえるものならいとやすきこと。

「先の日野媛は、もたなんだものよ」

 里人の一人が指を折る。

「二年に欠ける」

「神のみこころに沿わなんだものか」

 吐息、溜息。里人は痛ましげに、刑部の首の屋形を見上げる。娘はたれこめて姿を見せぬ。

 選ばれた娘は禊して、七日七夜で五色の領巾ひれを織る。白衣にその領巾をまとうて、山の神の宮に上がるのである。真名女の母は、離れ屋から聞こえる機の音に泣いた。里の娘らも、毎日野に出て花をつみ、池におりて蓮糸を結んだ。その細い糸一筋ひとすじを花の汁で染めて、領巾織る機にかけるのである。

 六日目の夜半、機の音はとだえた。母親がそっとすき見にゆくと、娘の姿は消えていた。



 暗い山道を素足の娘が走っていく。駒返峠こまがえしとうげを越えて唐輪からわの滝まで。娘の足では一夜にとうてい越せぬ道ながら、命がけの一心で、真名女は唐輪の滝につく。そのころようやく東雲がたなびきかける。

 唐輪の滝のほとりには真名女の伯母が暮らしている。今は年老いて盲いてはいるが、若い頃は都に出て、貴人の館にも仕えたことのある媼である。真名女は板戸をほとほとと叩く。中からようやく応える人の声。

「伯母さま、伯母さま、ここあけて」

 盲目の媼は驚いて戸を開ける。

 真名女には恋人がいた。里の若者で名は夏葉。夏葉は白羽の箭が立ってこのかた、昼も夜も思い悩んだ。遠の白嶺にいます神の力の恐ろしさ。誓約を破らんその時には、山どよもし谷は裂け、火柱の天をも焦がし、逆巻く激流が岩走り、空木の里はくつがえり、里人一人たりとも生けてはおかれるはずもなし。恋しい娘と里人のすべてのいのちを秤にかけて、悩みに悩んだその果てに、若者はとうとう娘のために命を捨てる覚悟をする。

 その朝、杖つく媼が夏葉の家の門口に立つ。



 はたた神が鳴る。神のみつるぎが空を斬る。里人は総出で深山を狩る。

 逃がしてなるまじ。逃がしてなるまじ、日野媛。逃がせば、遠の白嶺にいます神の怒りのほども恐ろしや。また誰が娘、誰が姉妹を身代わりに差し出すことになるも知れず。里の掟。神との誓約。守らせずばおかじ。これまでの数多あまた人もの日野媛の命にかけて。

 曼荼羅まんだら坂は国境。ここより先は葛城かつらぎの神の知ろしめす国。

「見つけたり。日野媛見たり」

 声は山々にこだまして、里人は曼荼羅坂に押し寄せる。坂の上に橘の老木ひともと。その木の根にすがって、血まみれの足の娘一人。その前に両手を広げて塞なす若者。真名女と夏葉。

 里人の先頭に立つは真名女の父、里長なる刑部の首。気息も絶えだえの娘は、殺気をこめて向き合う父と恋人を見る。日は早や西の山に落ち、青白き月が冴えざえと渡る。

「死にとうない。死にとうない。神の御妻にはなりとうない。ははさま助けて。ととさま堪忍。真名女は生まれなんだものと思うて、みなさま許して」

 許されようか。逃がされようか、この娘一人。生かしてはおかじ。夜の訪れる曼荼羅坂に殺気が満ちる。山刀が、鎌が、村雲もれる月影に無情に光る。

「遠の白嶺には死んでもゆかぬ。それくらいならここで殺して」

 真名女は破れた袖をあわせて目をつむる。夏葉はその肩を抱く。死なばもろとも。静かに抜かれる太刀の音。

「あわれや娘。望みどおり、殺してくれよう」

 夜風が旋く。一閃、里長の太刀は夜より暗い黒髪を切った。

古都君ことき!」

 ほの白く浮かぶ娘の額に一文字、赤い太刀すじ。古都君と呼ばれた山の娘は二人の若者の前に立つのである。

「真名女は死んだ」

 ざわめく里人の目。娘は歌うようにくりかえす。垂れた右袖はしたしたと血潮にぬれ、左手は背にかばう二人に坂を下るよううながす。だが二人とも石と化したごとくに動かない。刑部の首の足が一歩踏み出す。その右手の太刀に細い血しずく。娘はきっと里長を見る。

「息絶えた日野媛をお山の神に奉るか。泣きあらがう娘を、くつばみかけ葛でいましめて、輿にかいてお山の宮に奉るか、叔父御」

「二人は許せぬ。生かしてはおけぬ。里の掟はいのちより重い。まして里長の娘の身であってみれば」

「真名女は死んだ。今のひと太刀で、刑部の首は愛児を切った。妾が身代わりに遠の白嶺にゆくほどに」

 古都君は決してみかえらず、ただ左手のみで背の二人をうながす。二人の恋人は娘の肩ごしに里人を見る。里人の目はみな足元に落ちている。刑部の首の両手が胸の前であわさって、ひそかに姪をふしおがむ。真名女の目からは涙がふきこぼれ、夏葉は唇をかみしめて深々と一礼する。若者二人は足音をころして曼荼羅坂をくだりゆく。ふりかえり、ふりかえり、真名女は古都君をかえりみる。



 七日七夜の夜が明けて、身代わりの日野媛は禊して浄衣をまとう。額の傷には白き鉢巻をまき、髪は下げ髪。肩には織りあがらなんだ蓮糸の五色の領巾かけ、無言のままに輿に乗る。里長の屋形の奥では、真名女の母が唐輪の媼を抱きとめる。媼は盲目の目より涙をしぼり、身もがいて泣き狂う。

「古都君は里のものではない。古都君は妾が都の貴人の情をうけて産んだ児。刑部の家の娘ではないものを。何とて神の贄にするぞ。首、首。恨むぞ、憎むぞ。末代までもたたろうぞ。古都君や、古都君」

 白布で面を包んだもの四人、日野媛の輿をかきあげる。里長は輿に添うて山の宮までゆかねばならぬ。

 恋の形見は額と手に。父無き児よとうしろ指さす里の子らの前に、袖たててかばってくれたのは真名女ひとり。着るもの食べ物てあそびもみな、妹のごとくわけ与えたその美しい従姉の恋を、古都君は初めより見つめていた。そのまなざしは淡き恋とは言えまいか。白羽の箭立つを見てより心静まる時とてなく、古都君もまた迷ったのである。その迷いも晴れた。

 あけそめる清浄の深山の道を、白珠の露払い、身代わりの日野媛は心満ちてゆく。かすかに気にかかるのは盲目の母の身。だがそれもまた、里長が身に引き受けてくれよう。遠の白嶺にいます神のみこころにかなえば、七年十年。否、百年がとても空木の里に白羽の箭は立つまい。古都君の一心にて白羽の箭立たすまじ。

 輿は静かに宮居の前でおろされる。ここから先は神域。人界との境。人の足のふめぬ世界なれば、ここより先神の御妻はひとりでゆくのである。この道をもどってきた娘はいない。古来帰らずの道である。

「むかし、姉さまを都にやったかわり、儂は許嫁の由津を、日野媛に奉った」

 刑部の首はうなだれてつぶやく。二度と、二度と、常永久に白羽の箭をば立たすまじ。この道をゆきて帰らぬ数多人の日野媛の想いにかけて。

 古都君は静かに足を踏み出す。刑部の首の目にその姿がおぼろにかすむ。にぶい真珠色の靄の中に、娘の姿は沈んでゆく。里長は肩をおとし、見えなくなるまで日野媛を見送った。



 不思議の光。清々とした深山の精気。鳥の声。花の香。木々の葉ずれ。せせらぎの音。日の光。日の光。

 古都君は閉じていた目をあける。何者かが手を引いている。また大勢のものが脇をすりぬけ、頭上を飛んでいく気配。耳にではない、心の中に声がする。

「ようこそ」

「ようこそ、新しき日野媛」

「新しき仕えの君」

「ほほほ、ははは」

「めでたや」

 あたり一面喜びの声で満ちみちている。わが身を見かえれば、衣も透きとおり、五色の領巾が舞いただよう。天より花が散る。

「新しき媛の御入来」

「道をあけよ、花、鳥」

「我が君、我が君」

「御あるじにお知らせを」

 目に見えぬ召人にとりまかれて、古都君は神の御前にまかり出た。遠の白嶺にいます畏き神。力ある恐ろしき神。白羽の箭もて、里の乙女を供御に所望する無情の神。の、はずであった。

 翠なす苔のしとねに身を横たえ、半身を花房のからむ洞にかくして、しなやかに伸ばした左手を湧き出す清水に遊ばせ、目をとじる、これはまた何と美しく、神々しく若い神であろうか。古都君はその前に立ちすくむ。神の目が静かに開き、その翡翠の瞳に魅入られて、古都君は跪いた。美しさがこれほど恐ろしさに似ていることを、人の娘は初めて知った。

 神は人よりはるかに大きい。白銀に輝く肌膚に珠玉を連ね、青みをおびた黒髪をまとうた神は、ゆっくり片肘をついて身をもたげた。神の目が古都君の目とひったりとあう。

「嘆き。悲しみ。諦め。恐れ。それよりほかの心を持った人の娘とは珍しきかな」

「御あるじ、御あるじが目覚めたもうた」

「みことばを下された」

「なんと、果報の媛」

 召人たちのざわめきが歓喜と化して空に満ちる。花が舞う。鳥が鳴く。

「どのようにお仕えすれば、みこころにかないましょう。お教えください。そのように勤めまする」

「何も。ただいればよい」

 神はまた静かに目をとじる。



 日の光。風の音。雲が流れる。月が、星が、天空をめぐってゆく。幾時も幾時も、古都君は神の枕辺に座っていた。どれほどの時が過ぎたものか。神の目がまた開かれた。

「まだ汝よな」

「これまで上がった日野媛がいずこへ参りましたか、お聞かせくださいませんか」

「知らぬ」

「では、白羽の箭をお射ちなされるのは何故」

「吾は矢など射たぬ。すだまどもの仕業でもあろう」

「妾は何をすればよろしいのでしょう」

「汝、日野媛と申すか」

 古都君はしばし首をかしげて考える。

「いえ。古都君、と申します」

 神はにっこりと笑んだ。何という光の渦。

「吾が恐ろしくはないのか。吾が身は蛇体。汝をひと呑みにするやもしれず」

 神はゆっくりと洞より全身をたぐり寄せ、あかるみの中に身をさらす。白銀の神の腰より下は、幾尋ものとぐろなす輝く蛇体であった。古都君はすすり泣きをもらした。

「伽久耶の神は竜神にておわしますか」

「伽久耶とは、人が吾につけた名か。はるかなるわだつみの宮をいでしより、千年、万年、一族のものとはまみえておらぬゆえ、吾が名も忘れはてた」

「では、ずっとおひとりで」

「汝はただいればよい。この山に、吾に、時の流れに耐えきれなくなった時、すだまどもがいかがすべきか教えるであろう」

 神は寂しいのであろうか。寂しさの中で、悠久の時の流れをただまどろんで経るのであろうか。



 清水に目をこらすと、見たいものが映る。目に見えぬ召人たちが教えてくれた。

「決して、水面にふれてはなりませぬ。この湧水はわだつみの国に通じておりますれば」

 思いを込めれば空木の里も見える。盲目の母も、刑部の首も。思いを転ずれば、里を出た真名女と夏葉も見える。遊行人となって、村々を流れてゆく二人の懐には赤子も見える。

 もう幾年経たものか。まとうた衣はとうに朽ち果て、蓮糸の領巾のみが残っている。髪は地をはくほども伸びた。天の気、地の精を吸うのであろうか。神のもとに上がってより、何一つ口にせぬのに飢餓は覚えぬ。泉の水に己が面を映せば、山に登った年頃のままの顔が見返す。古都君はとうに人の世を見ようとは思わなくなっていた。

 神はまれに目を開く。今はすっかり洞より出て、しなやかな蛇体に黒髪をまつわらせて、幾重にもわがねた錦の帯のごとく横たわる。目に見えぬ召人たちは、神の黒髪を梳る。花を編みこみ、苔のしとねを整え、清水に落ちる木の葉を玉斗ですくいとり、たまさかには、その水を神の体に注ぎかけもする。古都君はそれを手伝った。まどろみ続ける神の翡翠の目があくほんのつかのまを思い焦がれて。

 ある時、古都君は神の黒髪のひと房を額にあてて泣いた。涙は神の体に落ち、真珠色に輝く鱗に染みいった。神はそのあたたかさをいぶかしんで目をあけた。人の娘はまだそこにいる。これまで目を開けるごとに違う娘を見ることに慣れ、神はとうに人の心の強さに信を置くことをあきらめていた。それが、この古都君と名乗った娘だけはまだそこにいる。娘の髪は地にわだかまるほどに伸び、神自身の黒髪に混じりからんでいるではないか。娘はその両手に黒髪の房を握りしめて泣いている。その涙が髪をひたしあふれて、蛇体の胴をぬらしているのである。

 神は身を起こした。

「なぜに泣く」

 水晶のような涙は神の胸をかきみだす。涙はあとからあとからまろがりこぼれて、清水とはちがうあたたかさをひろげていく。

「お許しください。古都君は耐え切れなくなりました」

 では、この娘も行ってしまうか。いままで口に出して暇をこうたものはなかったが。

「妾が去りましたら、お召人のどなたかが、また里に白羽の箭を射つでしょうか」

 神はかすかにうなずく、と、娘はいっそう泣いた。神はその時心を決めた。いにしえ、空木の里人とかわした誓約、その誓約を解きはなつ。これより先未来永劫、孤独と寂寞のうすやみに陥るとても、今この娘の悲嘆を見るにしのびなし。

「白羽の箭は二度と射たせぬ」

 娘はぬれた瞳をあげた。その目がかすかに青みをおびているのを神は見た。

「ありがとうございます。我が君。どうか妾をお罰しください。これで心置きなく喜んで御手のもとに伏しまする。」

 神は目をそらしてすだまを手招く。その手が止まる。

「お目が見たくなりました。お声が聞きたくなりました。お体にふれ、お起こししたくなりました。畏れ多い。身の程知らず。どうか神罰を下されますよう」

 神はとぐろをといて伸びあがった。何という言葉を吐くか。人の娘の分際で。神の体にふれようとは。神を意に沿わそうとは。黒髪がざわめき、雲をなして広がった。眦も裂けんばかりに見開かれた翡翠の目。その光にひしがれて、娘は苔の上に伏しまろんだ。山が鳴りどよもした。空の四方より雷雲がわき出し、稲妻が縦横に走った。すだま、こだま、ちみども山精はみな、頭をかかえて地の狭間にもぐりこんだ。

 遠の白嶺にいます神の畏さ、恐ろしさ。真の怒りの凄まじさ。天より地をつらぬく、大いなるひとふりのみつるぎの神。御稜威みいつにふれるもの、ことごとく押し伏されよう。雷のやいばをまっすぐに落とそうとして、神はふとその手をとめた。

 目を落とせば娘はとうに息絶えているようではないか。神はゆるやかに娘のまわりにとぐろをまいた。泣きぬれたまぶたはとざされ、ほのかな赤みも今はうすれようとしている。最後の息が唇をもれでようとしている。それでもなお、両手は神の黒髪を固く握っているではないか。神罰の下に身をゆだねるそのありさまは、神をなみするのではなく、畏むものではあるまいか。

 神は身をかがめてそっと娘の名を呼んだ。頭の方より足元より。神は横たわった娘の体をめぐりめぐって、その名を呼んだ。人の命の絶えるのを間近に見るのは初めてであった。神はめぐりにめぐって、さながら錦の輪となった。夜がめぐり昼がめぐり、とうとう耐えきれなくなって、神は人の娘にふれた。

 ひんやりとつめたい、もろい花のかばね。神はその小さななきがらを両腕に抱く。とじたまぶた、もの言わぬ唇。血のぬくもりもなく、身じろぎもせぬそのなきがら。神は娘の青ざめた頬に顔を寄せて、名を呼び続けた。答えなきものに耐え切れぬその心が、どのようなものか知った。


  あがひめ あがひめ いまいちど

  あれをみたまえかし いまいちど

  あれにこたえたまえかし

  なにとて あれをひとりのこして

  あれのゆけぬくにへ みまかりたまうぞ

  あがひめ あがひめ

  いまいちど あれになさけをかけたまえ


 神の目から涙がこぼれ、娘の胸をぬらした。すると今のいままで冷たくこわばっていた娘の体が、やわらかくほどけ、静かに血がかよいはじめたではないか。神の腕の中で娘はかすかに身じろぎした。


  天も見よ 地も聞け

  これなるは

  吾が御妻 古都君


 古都君はそっと目をあけた。目の前に神の翡翠の瞳。神はひそめていた息をつき、ふるえる唇にほほえみをうかべた。再び開いた人の娘の瞳の色は、はるかなる遠きわだつみの青であったゆえ。




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