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親友に婚約者を奪われた私に、公爵家の三男が婿入りを申し込んできました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/25

 私の婚約が終わったのは、馬の尻尾を編んでいる最中だった。


「ミュリエル。大事な話がある」


 厩舎の入口に立つテオバルトの隣には、イザリーヌがいた。


 今日は領地の春祭り。午後には騎乗競技がある。二人にも見てほしくて招待したのだが、まだ昼食にも早い時間だった。


「少し待って。あと少しで編み終わるから」


「馬のことは、厩番に任せればいいだろう」


 私は編みかけの毛を放さず、彼を見た。


「私が乗る馬なの」


「そういうところだよ」


 何が、と思った。


 するとイザリーヌが、彼の腕に手を添えた。


「私たち、愛し合っているの」


 馬が大きく鼻を鳴らした。


 私が尻尾を引っ張ってしまったせいだった。


 慌てて力を緩める。ごめん、と背中を撫でてから、二人を振り向いた。


「いつのお話?」


「先月、お互いの気持ちを確かめた」


 テオバルトは、堂々と答えた。


「お前は一人で何でも決める。競技に出ることも、領地を継ぐことも。イザリーヌは違う。僕の希望を、まず聞いてくれる」


「家を継ぐことは、婚約したときから決まっていたでしょう」


「これからの話をしているんだ」


 私たちの婚約は、一年前に両家で結んだものだった。


 伯爵家の一人娘の私に、子爵家の次男である彼が婿入りする。父はまだ元気だが、将来は私が領主を継ぐ。テオバルトも承知して、契約書に署名している。


 彼が婚約を望んでいると聞いたとき、私は嬉しかった。


 何度か会ううちに、よく笑うところが好きになった。


「申し訳ないわ、ミュリエル」


 イザリーヌが眉を下げる。


「でも、彼だって、自分の人生を選ぶべきでしょう?」


 彼女は私の友人だった。


 遠乗りに付き合うことはなくても、帰ってきた私の話を聞き、面白かったと言ってくれた。


 テオバルトと顔を合わせるようになったのも、私の家のお茶会がきっかけだ。


「……二人とも、両親にはお話ししたの?」


「先に、お前に伝えるのが筋だと思った」


 それなら、愛し合う前に伝えてほしかった。


 でも、今それを言ったら、泣くか怒鳴るかしてしまう気がした。


 私は尻尾を編み終え、飾り紐を結んだ。


「今日、ここへ来たのは、そのため?」


「そうだ」


「競技を見に来たのではなく?」


 テオバルトが、うんざりした顔になる。


「この状況で、まだ競技の心配をするのか」


「あなたが来ると、喜んでいたのよ」


 厩舎が静かになった。


 口にしてから、後悔した。


 イザリーヌが、気の毒そうに私を見る。


 その表情は、見たくなかった。


「分かったわ。父のところへ行きましょう」


 私は二人の間を通り、外へ出た。


     *


 父が一度だけ強く声を出したのは、二人が今日中に私との婚約を解消し、その後の二人の婚約にも異議を唱えないでほしいと言ったときだった。


「ここを、どなたの家だと思っている」


 窓の外では祭りの準備が続いていた。


 子供の笑い声が、妙に大きく聞こえた。


 父はテオバルトに、来週、子爵を伴って出直すよう告げた。イザリーヌにも、両親へ事情を話すようにと言う。


「本日の客人としてお迎えしたが、これ以上の滞在はお断りする」


 二人が退出すると、父は私を見た。


「今日の騎乗は、やめてもいいんだぞ」


 私は窓の向こうを見た。


 領民たちが運んできた旗が、柵に結ばれている。


 今年の競技には、王立騎乗学校からも審査員が来る。準備に関わった人は、二人や三人ではなかった。


「出るわ。私が乗らなければ、栗毛の子が、一生懸命に練習した意味がなくなるもの」


 父は笑わなかった。


「お前が、そうしたいなら」


「ええ」


 部屋を出て、誰もいない小さな納戸へ入った。


 壁に額をつけたら、涙が出た。


 出場を取りやめてもよかった。


 それでも乗りたかった。テオバルトが来るかどうかに関係なく、何度も鞍へ上がってきたのだ。


 しばらく泣いて、濡らした布で目を押さえた。


 午後には、目の腫れはほとんど引いていた。


     *


 結果は、六人中四位だった。


 一つ目の障害で馬を急かし、棒を落とした。


 二つ目では慎重になりすぎて、時間を使った。


 最後まで乗れただけ、上等だと思うことにした。


 手綱を緩めて馬を労っていると、審査席の男性が近づいてきた。


 バスティアン。公爵家の三男で、王立騎乗学校の教官長を務めている。


 春祭りの競技を続けるために父が前年から招いていた、今年の審査員だった。


「失礼。少し、歩かせたままで聞いていただけますか」


「はい」


 彼は馬から十分な距離を取り、私と並んで歩いた。


「二つ目のあと、よく立て直しましたね」


「あれは、この子が助けてくれたんです」


「ええ。その余裕を作ったのは、あなたでしょう」


 私は彼を見た。


「一つ落としたあと、手綱を強く引いて従わせようとする人もいます。あなたは一度、走らせ方を変えた。そのあとの跳び方は、今日一番よかった」


「でも、四位でした」


「順位は変えません。最初に二つ、失敗していますから」


 私は、つい笑った。


 お世辞を言われているのではないと分かって、嬉しかった。


「来年、取り返します」


「それは、審査のしがいがありますね」


 彼が馬の首を見る。


「飾り紐が、少し緩んでいます。結び直す間、持ちましょうか」


 頼んでから、尻尾のほうへ回った。


 緑の紐は、来てくれる婚約者のために選んだものだった。テオバルトの瞳と、同じ色だったから。


 外そうか、迷った。


 けれど、悪いのは紐ではない。


 きつくしすぎないよう結び直し、戻ると、バスティアンは馬の耳を見ながら待っていた。


「退屈しませんでした?」


「耳を動かして話を聞いてくれたので」


「何をお話ししたの?」


「来年は、最初からあの跳び方を頼みますと」


 私には何と言うつもりだったのだろう。


 尋ねたら、彼はあっさり答えた。


「最初の一つを、急かさないように」


 今度は、声を出して笑ってしまった。


     *


 婚約解消の話し合いには、テオバルトの父親も怒って来た。


 ただし、息子に対してだった。


「家の事情が変わったことも、まだお伝えしていなかったそうだな」


 私は父を見た。


 父も初耳らしい。


 子爵が説明したのは、テオバルトの兄のことだった。


 兄と隣国の令嬢の縁談は、以前から進んでいた。ところが先月、令嬢の兄が亡くなり、彼女自身が家を継ぐことになった。それでも結婚を望む兄が、あちらの家に入ると決めたのだという。


 二週間前、子爵家では弟を跡継ぎにする方針を固めた。ただし、私たちとの婚約条件を変更できるかは、これから協議するはずだったそうだ。


「近日中に、私からこちらへご相談に伺うはずでした。本人には、先にご息女へ経緯を話しておくよう命じていたのですが」


 私たちの婚約は、彼が婿に来ることを前提にしていた。


 彼が自分の家を継ぐなら、結婚の条件を改めて協議しなければならない。


 父には甥もいる。どうしても私が嫁ぐことを望めば、そちらへ家を託すこともできる。


 ただし、私はそれを望んでいなかった。


「お前の考えは分かっていたから、言いにくかったんだ」


 テオバルトが、私に言った。


「僕が家を継げると知っても、喜んではくれないだろう」


「お祝いしたわ。そのあとで、私たちの結婚をどうするか、話し合ったと思う」


「結局、家を出るつもりはないんだろう?」


「ないわ」


 頷くと、彼は子爵へ顔を向けた。


「ほら。だから、無理なんです。イザリーヌなら、僕の事情を分かってくれる」


 私は目を上げた。


「イザリーヌは、あなたが家を継ぐと知っているの?」


「家の事情が変わったとは話した。僕の希望を優先すると言ってくれたよ」


 それだけではないかと思った。


 イザリーヌの家も、一人娘を跡継ぎに決めている。


 以前の手紙に、婿選びが大変だとあった。


 でも、それをテオバルトに言う気にはなれなかった。


 彼女の家の事情を説明するのは、私の役目ではない。


「では、そのご希望を、彼女とよく話し合ってください」


 私は、机の上の書面へ手を伸ばした。


 子爵家の事情変更だけを理由にすれば、どちらにも非のない解消にできたはずだった。


 けれど、テオバルトは協議を待たず、別の女性との交際を始めた。


 その事実と、息子自身がこちらの条件を拒んだことを、子爵も認めた。


 指輪は返した。


 婚礼の手配を取り消す費用は、先方が負担する。関係する家への連絡には、双方が確認した経緯を用いる。


 そこまで決めて、婚約は終わった。


 帰り際、テオバルトが低い声で言った。


「ずいぶん、簡単に諦めるんだな」


 簡単だったわけではない。


 まだ、寝る前に泣く日もある。


「あなたも、ずいぶん簡単に私の家を諦めさせようとするのね」


 彼は返事をしなかった。


     *


 その翌週、王立騎乗学校の紋章がついた封書が来た。


 競技の審査講評と、来年までの練習に役立つ書き付けだった。


 全出場者へ送られたものだと、冒頭に記されている。


 私の用紙には、一つ目の失敗について、容赦なく三行も書かれていた。


 その下に、二つ目のあとの持ち直しが褒めてある。


 最後まで読んで、もう一度、最初へ戻った。


 婚約者に裏切られた日としてだけ、あの日を覚えていたくない。


 講評を机の脇に貼った。


 そして父に頼み、騎乗学校の一般向け講習へ参加することにした。


 馬車で通える距離ではないので、王都の伯母の家に滞在する。二週間、週に三日の講習だった。


 男女とも成人した参加者を募る、小人数の講習である。


 初日の馬場でバスティアンを見つけると、私はつい背を伸ばした。


「来年のために?」


 出席簿を持った彼が尋ねる。


「最初の一つを落とさないために」


「では、馬が歩いている間に、もう少し肩を楽にするところからですね」


 六回の講習で、彼はほかの受講者と同じように私を指導した。


 失敗すれば止められたし、よくできれば頷いてくれた。


 伯母が最後の日の見学に来て、帰りの馬車で言った。


「あの方、思っていたよりよくお話しするのね。夜会では隅に立ってばかりいらっしゃるから」


「教えるお仕事ですもの」


「お仕事以外では、無口な方かと思っていたのよ」


 そう言われると、もっと聞いてみたいことがあった。


 どうして教官になったのか。


 父や兄たちと、どんな話をするのか。


 彼が楽しそうにするのは、馬の話だけなのか。


 講習が終わったのが、少し惜しかった。


     *


 その日の夕方、伯母から呼ばれた。


 客間には、バスティアンがいた。


 馬場の服ではなく、濃紺の上着に着替えている。


 私が入ると立ち上がり、礼をした。


「講習、お疲れさまでした」


「こちらこそ。今日は、何か忘れ物でも?」


 伯母が扇子を開いた。


 笑いを隠したのだと、すぐに分かった。


「私から、お願いしたいことがありまして」


 彼は一度、伯母を見た。


 伯母が頷く。


「講師としてではなく、一人の男性として、あなたに会うことをお許しいただけないでしょうか」


 私は、その場に立ったままだった。


 座ったほうがいいわ、と伯母に言われて、ようやく椅子へ向かう。


「……私に?」


「はい」


「どうして」


「話してみたいと思いました。馬から下りたあとにも」


 それは、私もだった。


 ついさっき、同じことを考えていた。


 でも、嬉しいと答える前に、確かめなければならないことがある。


「私、婚約を解消したばかりなんです」


「伺いました」


 胸が冷えた。


 事情を知っていて、声をかけてくれたのか。


「伯母様から?」


「今日、ご面会を申し込んだ際に。私から会いたいという意向をお伝えした、そのあとです」


 伯母が口を添えた。


「お父様には、元の婚約は正式に終わっていると、お手紙をいただいています。けれど、あなたの気持ちまでは私が決められませんから、本人に聞いていただくことにしたのよ」


 バスティアンが、膝へ両手を置いた。


「お困りなら、お断りください。ただ、ほかの方と婚約中なのでなければ、私の希望もお伝えしたかったのです」


「……ありがとうございます」


 私は、お茶を一口飲んだ。


 それから、茶器を置いた。


「もう一つ、お伝えしておきたいことがあります」


「はい」


「私は、家を継ぎます。結婚するとしても、婿に来ていただくつもりです」


「存じています。春祭りで、お父上から」


 そうだった。


 父は競技の挨拶で、来年の運営には、後継者である娘ももっと関わる予定だと話していた。


「それでも、よろしいのですか」


「私は三男です。公爵家は長兄が継いでいますし、次兄もすでに自分の家庭を持っています。私に実家を継ぐ予定はありません」


 私は、知らず知らず、上着の袖を摘まんでいた。


「途中で、ご事情が変わることも」


「あり得ます。だから、私の意思もお伝えします。今の教官の仕事は続けたい。実家を継ぐつもりはありません。事情が変わったら、まずあなたと話します」


 絶対に何も変わらないとは言わなかった。


 その答えなら、私も信じたいと思えた。


「私の家は、王都から少し離れています」


「勤務のある間は、王都に滞在する必要がありますね」


「父も当分は現役ですし、私も領地に一年中いるわけではありません。でも、ずっと離れたままになるのは嫌です」


「私もです。実際の暮らしがどうなるかも、お会いしながら相談できればと」


 伯母が、小さく頷いていた。


 私は背筋を伸ばした。


「それなら、私も、もっとお話をしてみたいです」


 バスティアンが笑った。


 馬場で私がうまく跳べたときよりも、ずっと分かりやすい笑顔だった。


     *


 それからの二か月で、私たちは何度も会った。


 王都で伯母と出かけた展覧会には、彼が家族の肖像を見たがったので同行した。長兄にそっくりだという昔の公爵の肖像を前に、どこが似ているのかと二人で首を傾げた。


 私の領地へも、一度来てもらった。


 父と馬の飼育について話し込んだあと、私たちは厩舎へ行った。


 栗毛の馬は、彼の袖を引っ張った。


「前に会ったのを、覚えているのかしら」


「菓子が入っていないか、確かめられている気がします」


 彼の言葉どおり、馬は空の手を見ると興味をなくした。


 私は笑い、馬の首を撫でた。


 馬から下りたあとの彼も、面白い人だった。


 高いところの展示を見せてくれるのに、自分は看板に額をぶつける。


 昼食では、辛い香辛料が苦手なのを隠そうとして、すぐに水へ手を伸ばす。


 私が笑うと、もう隠しても遅いですねと言って、素直に辛くない皿を選んだ。


 一緒にいる間、次の話題を探す必要がなかった。


 ある日、私から公爵家のことを尋ねると、彼は少し緊張した。


「兄に、お会いいただけますか」


「私が伺っても、ご迷惑ではなく?」


「私にできた好きな人のことを、詳しく聞きたがっています」


 私は返事をする前に、扇子を開いた。


 伯母は、これで顔を隠していたのだと分かった。


     *


 イザリーヌから、急ぎ会いたいと便りが来たのは、公爵家を訪ねる三日前だった。


 私は領地に戻っていた。


 彼女の家は隣領にある。翌日には、父も在宅している時間に訪ねてきた。


「テオバルト様から、あなたにもお願いしてほしいと言われたの」


 席に着くなり、イザリーヌが言った。


「何のお願い?」


「父の説得に、協力していただきたいの。あなたなら、私がどれほど彼を好きか、分かってくださるでしょう」


 分からない。


 あの春祭りまで、聞いたことすらなかったのだから。


「先に、ご事情を聞かせて」


 彼女は両手を握り合わせた。


「彼が子爵家を継ぐから、私に嫁いでくるようにと。でも、父は婿に来ていただくつもりだったの」


 彼女は、膝の上で鞄を押さえた。


「両家とも、相手がこちらの家に入るなら結婚を認める、とおっしゃるの。父と子爵様のお話は、ずっと止まったままよ」


 やはり、そうだった。


「あなたは、お家を継ぐのでしょう?」


「ええ。家を出るなら、従妹を養女にして、跡を任せると言われたわ」


「それが嫌なのね」


「当然でしょう。私は、ずっと後継ぎとして育てられたのよ」


 私も、そうだった。


 けれど、それは彼女には関係のないことになっていたらしい。


「テオバルト様は、あなたのお家を出たがっていたの。次男だから、婿になるしかないと諦めていたけれど、本当は自分の家で当主になりたかったのよ」


「それで、ご自身の家を継げることになったのでしょう?」


「だからといって、どうして私が家を捨てなければならないの」


 私は彼女を見た。


 イザリーヌは、私の視線に気づいていなかった。


「あの人のほうが、断ればいいじゃない。跡継ぎだって、従兄がいるそうだもの。公爵家から婿に来る人だっているのに」


 最後の言葉に、私は茶器を置いた。


「誰のお話?」


「バスティアン様よ。あなたと親しくしているでしょう。伯母様と展覧会にいらしたと、知り合いから聞いたわ」


「彼とは、まだ結婚の約束はしていません」


「でも、そうなってもいいと思っているのでしょう?」


 口を挟む前に、彼女は続けた。


「公爵家なら、ほかにもご兄弟がいらっしゃるのではない? 父には私が一人しかいないの。あなたは乗馬がお好きなのだから、領地が変わっても――」


「イザリーヌ」


 呼ぶと、彼女はようやく止まった。


「私は、この土地で生まれて、この馬たちと育ったの。乗れる場所さえあれば、どこでも同じだと思う?」


 窓の外で、厩番の少年が走っていった。


 去年は足が届かなかった鞍へ、今年は一人で上がれるようになった子だ。


「お家を大切に思うなら、最初から彼にも、お父様にも、その気持ちをお話しすればよかったでしょう」


「話したわよ。私は跡継ぎなのだと」


「彼も、お家の事情が変わったとは話したそうね」


 イザリーヌの顔が赤くなった。


「そんなこと、愛し合っていれば、相手が何とかしてくれると思うでしょう」


「あなたも、何とかしてあげるつもりだったの?」


 彼女は黙った。


 その顔を見て、二人で話し合った光景が、少しだけ想像できた。


 家のことは何とかする。


 好きな人となら、きっとうまくいく。


 そう言い合いながら、相手が自分の家へ来てくれるつもりでいたのだろう。


「私は、あなたのお父様を説得しません」


「ミュリエル」


「バスティアン様のご兄弟も紹介できません。お二人で、結婚を決めるときにするべきだった話をしてください」


「あなたは、いいわよね。彼より、ずっとよい方にお会いできたのだから」


 イザリーヌの声が尖った。


 私も、もう笑って答えるつもりはなかった。


「ええ。彼には、私が大切にしているものを、最初からお話ししています」


 イザリーヌは、強い勢いで立ち上がった。


「何もかも、自分で決めればいいと思っているのね」


「自分が誰と結婚するかは、決めたいわ」


 彼女は返事をしないまま、客間を出ていった。


 私は、手つかずの菓子の皿を片づけてもらった。


 少し悲しかったが、追いかけようとは思わなかった。


     *


 翌月の王都の夜会で、私は二人と顔を合わせた。


 伯母と出席した席だった。


 家族との挨拶を終えてからも、バスティアンとは会い続けていたが、まだ婚約はしていなかった。


 ただ、公爵家の主催するこの夜会で、彼は私を最初のダンスに誘ってくれていた。


 会場の端で待っていると、テオバルトが近づいてきた。


 イザリーヌも一緒だった。


「少し、話がある」


「この場で済むお話なら」


 伯母が隣にいることを確かめ、答えた。


「イザリーヌの父君を、説得してほしい。お前の言葉なら聞くだろう」


「私は、お断りしたはずです」


「僕は家を継ぐんだ。婿には行けない。こちらに嫁いでくるのが、普通だろう」


「最初から、そうおっしゃっていればよかったのでは?」


 彼は少し声を落とした。


「お前は、僕たちに幸せになってほしくないのか」


「私が説得できると、本気で思っていますか」


 テオバルトが、口を閉じた。


 イザリーヌが彼の袖を引く。


「だから言ったでしょう。ミュリエルは、協力してくれないって。それより、あなたから父に、お約束どおり――」


「僕は、婿に行くと約束した覚えはない」


「私の希望を叶えると言ったわ」


「君も、僕の希望を優先すると言っただろう」


 伯母が扇子を閉じた。


「お二人とも。ここは公爵家の夜会ですよ」


 近くの人が、何人かこちらを見た。


 テオバルトは声を抑えたが、諦めなかった。


「とにかく、お前が断るなら、ほかの方法を考えないといけない」


「そうなさってください」


「冷たいな。僕は、イザリーヌが僕の家へ来れば、うまくいくと言っているだけだ」


「私は、そうは言っていないわ」


 イザリーヌが彼を見る。


 彼も、隣の婚約者を見た。


「家を継ぐのは、僕の希望なんだぞ。それすら分かってくれないのか」


「私が、父の跡を継ぐと言っているのは聞こえていないの?」


 ここで続けないほうがいい。


 私は言いかけたが、その前に、バスティアンが来た。


「ミュリエル嬢。そろそろ一曲目が始まります」


 それから二人へ挨拶し、静かに言った。


「ご相談を続けられるのでしたら、別室をご用意できます。係の者を呼びましょうか」


 イザリーヌが、彼の顔を見た。


「……バスティアン様は、お婿入りもお考えなのですか」


「私とミュリエル嬢の結婚については、いずれ、私たちからお知らせいたします」


 私の名前が、はっきりと添えられていた。


 イザリーヌは唇を噛み、隣のテオバルトへ向き直った。


「私たちは、どうするの?」


 彼は答えなかった。


 伯母が係の者に声をかけ、二人を小客間へ案内させた。


 私はバスティアンの腕を取った。


「お待たせしてしまって」


「間に合いました。踊る気分でなければ、少し外へ出ますか」


 楽団が、音を合わせている。


 私はそちらを見た。


「踊りたいです」


「では、どうぞ」


 差し出された手を取ると、彼が少しだけ屈んだ。


「私は、馬ほど跳びませんからね」


 笑ってしまい、足を踏みかけた。


「先に言ってください」


「今、申し上げました」


 その夜、私たちは二曲踊った。


 うまく踊れたかは分からない。


 でも、途中から、誰がこちらを見ているかも気にならなかった。


     *


 テオバルトとイザリーヌの婚約が解消されたと聞いたのは、その二週間後だ。


 父に、子爵から経緯を知らせる手紙が届いた。そこへ伯母からの報告も合わせ、父が私に説明してくれた。


 伯母は夜会の翌朝、二人の両親へ事情を伝えた。


 小客間で話し合っても結論は出ず、互いに相手の家族が折れればよいと言っていたそうだ。


 二人は結婚の条件を詰めるより先に、周囲へ婚約を知らせていた。両家は正式な結婚契約を交わす前に、いずれかの家が後継者を立て直せるか、協議を続けていたという。


 それでも二人が結婚を望むため、互いの家を出る場合の相続、居住先、財産の扱いを、最後に両親の前で一つずつ確かめる場を設けたという。


 どちらかが家を出れば、結婚はできた。


 けれど、二人ともそれを選ばなかった。


 イザリーヌの父親は、娘が家に残る以上、婿に来る意志のない相手との婚約は続けないと決めた。


 子爵も、息子が引き継ぐことを望んだのに、新しい相手へ何を約束したのかさえ明らかにしない態度に、とうとう堪忍袋の緒が切れたらしい。


 両家は取りまとめていた婚礼の話を白紙に戻し、それぞれ、最初に知らせた家々へ解消を伝えた。


 わずかな間に二度、縁談が破談になった子爵家では、テオバルトの結婚相手を改めて探す話も、しばらく止まった。


 彼には領地での仕事が増えた。


 自分の家の当主になりたいのなら、まず、その仕事を覚えなさいと言われたそうだ。


 イザリーヌの父親も、次の婿選びを急ぐことはしなかった。


 娘が跡を継ぐことと、家の名を使って好きに振る舞うことは違う。新しい縁談を進める前に、今回巻き込んだ相手へ詫びるよう命じたという。


 私へは、父親を通じて謝罪が来た。


 私は受け取ったことだけを、父に伝えてもらった。


 イザリーヌと会っても、もう彼女の恋を手伝うことはできない。


     *


 その夏、バスティアンが父に面会を申し込んだ。


 彼の長兄である公爵からも、弟の結婚の意思を尊重するという書面が届いていた。


 私は父とともに、彼の話を聞いた。


「ミュリエル嬢と、結婚させていただきたいのです」


 父はすぐには頷かなかった。


「婿にお迎えする条件については、娘から聞かれたね」


「はい。承知しております」


「公爵家のご兄弟である君には、ほかにも選べる縁があるだろう」


「あるのかもしれません。でも、私が結婚を申し込みたいのは、こちらにいる方です」


 私は、しっかり聞いているふりをしながら、膝の上の手を握った。


 何度も好意は伝えてもらっていた。


 それでも、改めて父の前で聞くと、顔が熱くなった。


 父は、結婚後の暮らしについても尋ねた。


 騎乗学校での仕事は続ける。王都にいる間は、私たちの家がすでに持っている屋敷で暮らす。領地に戻る時期は、学校の長期休暇や私の仕事に合わせて相談する。


 私は父の跡を継ぐ準備を続け、現地にいる父や管理人と役割を分担する。


 バスティアンは、自分が相続した財産も、私の家のものとは区別して書き出していた。祖母から受け継いだ家の賃料と、教官としての俸給がある。


 家に来たあとも、自分の仕事と財産の管理は自分で続けるつもりだという。


 私は、その話も彼と済ませていた。


 父は私を見た。


「ここまで、二人で考えたのか」


「ええ。私も、王都と領地を行き来する時期の希望を伝えたわ。全部、思いどおりになるとは限らないけれど、相談できると思う」


「そうか」


 父は背もたれへ身を預けた。


「では、私から確認したいことは以上だ。返事は、本人から聞いてくれ」


 バスティアンが、こちらを向いた。


 彼の顔を見ると、緊張していたのが分かった。


「私と、結婚していただけますか」


 私は頷いた。


「はい。よろしくお願いします」


 そのあと、緊張がほどけすぎて、言ってしまった。


「ついでに、栗毛の子の手綱を、これからも持っていただけると嬉しいです」


 父が口元を押さえる。


 バスティアンは笑い、答えた。


「もちろん。ただ、来年、順位を上げられるかは、あなた方の練習次第です」


     *


 秋に結婚した。


 式のあとの食事で、公爵夫妻は父と長く話し込んでいた。伯母は私に、今度は講習ではなく、お祝いで泊まりにいらっしゃいと言ってくれた。


 イザリーヌとテオバルトは招いていない。


 二人がどう思うかを考える暇もないほど、その日は忙しく、楽しかった。


 ドレスを着替える前、バスティアンと庭へ出た。


 厩舎のほうで馬の声がした。


「ご挨拶していませんでしたね」


 彼が言う。


「この服で?」


「入口から、少しだけ」


 栗毛の馬は、私たちの姿を見ると、首を伸ばした。


 いつもより大きな白いスカートに驚いたのか、一度足を引いた。それから私の声を聞き、また近づいてくる。


 バスティアンの袖を、鼻先で探った。


「今日も、何も持っていませんよ」


 彼が苦笑する。


 私は、馬の首へ手を伸ばした。


「この方も、これから、ここの家族になるのよ」


 馬は、私の指へ息を吹きかけた。


 あの日とは違う、上等な上着の袖が隣にあった。


 汚れるのも構わず、彼もそっと馬を撫でる。


「来年の競技は、教えた生徒が多いので、私は審査を外れます」


「まあ。お招きする審査員を、増やさないと」


「紹介しますよ。その間、私は客席にいます」


 私は手を止めた。


「見ていてくださるの?」


「もちろん。今度は、審査表を持たずに」


 順位をつける人ではなく、私が乗るのを見たい人として。


「でしたら、紐を変えようかしら」


 私は馬の尻尾を見る。


 春には緑色の紐を結んだ。


 来年は、隣の人の瞳に似た、濃い青にしたい。


「今の緑も、よく似合っていますが」


「ええ。でも、青で編んでみたいの」


「では、私にも教えてください」


 私は彼を見た。


「編んだことは、あるのですか?」


「ありません。今日まで、頼める人もいなかったので」


 私は少し笑った。


 この人にも、できないことがある。


 それなら、来年の春までに、練習すればいい。


「最初の一つを、急がないでくださいね」


 教わった言葉を返すと、バスティアンは、降参したように頷いた。


~完~


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