残された12秒
船の操縦席で受信ランプが点いた。観測員はメッセージの再生ボタンに手を伸ばす。
『……宙域は危険……ログ……参考……に……すぐに離脱……こちらと同じ……』
ひどく掠れた声は、十二秒で途切れた。
[緊急メッセージ受信]
[航法ログ――添付]
[発信元――不明]
[安全に航路を変更できる限界まで 九十七秒]
「音声を直せるか」
「雑音の除去には、最短で四十一秒かかります。処理後に聞き取れる保証はありません」
時空異常調査隊の観測員は、再処理の表示を閉じた。正面の数字が九十二へ減る。この時間を過ぎれば、異常域を避けるための燃料が足りなくなる。
離脱しろ、とは聞こえた。何から離れろというのか。
「添付された航法ログを調べて」
「航行位置、時刻、速度、噴射記録を確認します」
航法ログは、船が通った場所だけを示す線ではない。いつ、どの速さで、どちらへ噴射したかまで残っている。同じ宙域にいる船なら、その記録を手本にして航路を引ける。
ただし、発信元は分からない。観測員は窓の向こうへ目を向けた。切り出した山のような小惑星が浮かんでいる。灰色の岩塊は、長いところで約六百メートルあった。
「映像は現在地と一致します。小惑星の三つの隆起、回転方向、背景の恒星を照合。誤差は許容範囲内です」
添付ログの映像にも、同じ三つの隆起が並んでいた。回転の向きも、背後の星の並びも合う。少なくとも、この宙域を通った船の記録ではある。
現在の観測値が一段上がった。添付ログにも同じ段差がある。その先で、ログの曲線は画面の上端へ消えていた。異常が測定できる範囲を超えたのだ。
「予定航路への影響は」
現在の航路が赤く変わった。小惑星の脇を通る道へ、広がりつつある異常域が重なっている。
「このまま進んだ場合、帰路が異常域に塞がれる可能性があります。添付ログを参考にした回避案を表示します」
青い線が現れた。予定よりも手前で曲がり、異常域の外へ回り込む航路だ。燃料は足りる。船体へ無理な力も掛からない。
「受信したログを使わず、いまの観測値だけでも計算して」
都合のいい答えだけを拾っていないか。観測員は、自分の測定結果でも確かめることにした。
「再計算します」
青い線は少しだけ形を変えたが、赤い範囲の外に残った。
「二つの計算は、ほぼ同じ結果です」
知らない船の記録を、そのまま信じたのではない。自分が測った値でも、安全だと確かめた。
[自動航行に変更を加えますか]
「手動で抜ける案は」
別の線が表示され、その先で船体後部が赤く点滅した。
「現在の速度では急旋回が必要です。船体の安全を保証できません」
[安全に航路を変更できる限界まで 六十八秒]
もう一度、別の線を引きたい。だが、安全な場所そのものが動いている。異常域が広がる様子を、さっき測ったばかりだった。
「青い航路なら、外へ抜けられるんだな」
「現在の観測値では可能です。船体への負荷と、必要な燃料も基準内です」
帰るために選ぶのだ。この青い線なら、船を壊さず、燃料も残して外へ抜けられる。
観測員は操縦桿から手を離した。掌の汗を膝で拭い、承認へ触れる。
[自動航行――変更]
固定具が鳴り、身体が座席の右へ沈んだ。姿勢を変える噴射が続き、小惑星が窓の端へ流れていく。異常を示す数値が下がった。船体への負荷も下がる。
AIが一回目の安全判定を告げた。まだ一回だ。観測員は表示を閉じずに待つ。二回目も緑。三回目も緑。握ったままの左手を、ようやく開いた。
自動航行に切り替えてから七分後、小惑星の表面に黒い点が見えた。
あんな影があっただろうか。
外部カメラで拡大する。点の中に光があった。岩肌の影に見えていた場所から、向こう側の星が覗いている。長さ約六百メートルの小惑星を貫く穴だった。
穴の直径は三十メートルほど。この調査船が三隻並んで通れる。手前の入口から裏側の出口までは、四百メートル近い。小惑星が回り、穴をこちらへ向けた。細い筒のような穴の奥に、星が集まって見える。
直前の映像では、そこに岩が詰まっていた。一コマ進めるだけで星空へ変わる。映像を戻せば、穴も消えて岩に戻った。
観測員は窓の外へ目を上げた。いま見えている小惑星も元に戻ってほしかったが、穴は開いたままだ。
「衝突か。爆発の痕跡はあるか」
「周囲に破片はありません。温度の上昇も検出されていません」
穴の縁は、隣の岩肌と同じ冷たい色を返していた。崩れたのでも、熱で溶けたのでもない。岩を削ったのなら残るはずの物が、どこにもなかった。
小惑星の端に、別の穴が開いた。船一隻が通れる穴。その脇に、人の背丈にも足りない穴が増える。
不意に、小さな穴の奥に見えていた星が消えた。岩肌が戻っている。ほかの穴は残ったまま。大きな貫通孔も、向こうの星を通していた。
「いまの現象は何だ」
「フェイズ・ボイドの特徴と一致します」
[フェイズ・ボイド]
フェイズ・ボイドは、その場所だけが周囲と違う時刻へずれる現象だ。物が壊れたわけではない。その物が存在する時間だけ、いまこの瞬間から外れる。映像にたとえるなら、岩が映っている一コマだけを抜き取ったようなものだ。その間、外からは穴に見える。
「戻る時刻は分かるか」
「予測できません」
小さな穴が何秒で塞がったかを測り、記録へ残す。ほかの穴へ印を付ける間にも、新しい穴が増えた。大きな穴のすぐ近くなのに、二つの穴に挟まれた細い岩は崩れずに残っている。
発生する順番に規則性は見つからない。フェイズ・ボイドは端から順番に広がるのではなく、離れた場所を虫食いのように抜いていた。
カメラの倍率を下げ、変更前の航路を重ねる。赤い線が小惑星の脇をかすめた。船体の幅まで加えると、大きな穴の縁まで十数メートルしかない。
あそこを通るつもりだった。
穴の脇に描かれた小さな船を見てから、観測員は窓の外へ目を移した。あのログがなければ、いまごろ小惑星のすぐ横にいた。怖いのは目の前の穴より、そこへ自分で航路を引いていたことだった。
変更前の航路を消し、新しい報告を開く。件名へ「離脱成功」と打った。成功の二文字を消す。一度抜けられただけで、安全とは言い切れない。
「帰投へ変更する。残りの観測は中止」
「未実施の項目が七件残ります。中止しますか」
予定表の観測項目が並んだ。ここまで来て残す仕事の多さに少し迷う。それでも、拾えた記録だけは持ち帰るべきだ。
「中止する。報告名は暫定離脱。いまの映像も添えて」
「承認しました」
報告を送信待ちへ入れた。
固定帯を少し緩め、保温ボトルを外した。コーヒーはすっかり冷めている。観測に出る日は、温かいうちに飲もうと思って一本用意する。それでも、いつもこうなる。
もう一口含むと、舌の奥にいつもの苦みが残った。食事時刻は六分過ぎている。生活区画の加熱器に予約を入れると、小さな作動音に続き、入口に湯気の印が灯った。
受信履歴には、送り主の名前がまだない。帰ったら通信班に雑音を消してもらおう。礼を言う相手が分かればいい。
「受信音声を確認待ちに。送り主の安否も調べてほしい」
「記録しました」
ボトルを膝に置き、固まっていた指を一本ずつ伸ばす。食事が温まるまでは、何もしなくていい。
表示の更新音が二度鳴った。先に航法用の時計が一秒を刻み、少し遅れて空調の時計が動く。
「時計がずれている」
「航法用時計が、空調用時計より〇・七秒進んでいます」
航法用の時計は、星と中継局を基準に船の位置を決める。空調用の時計は、酸素と温度を一定の間隔で調整する。一方が止まっても、もう一方が動けるように分かれているが、普段は同じ一秒を刻む。二つがずれれば、船の位置と船内で過ぎる時間が一致しなくなる。
「自動航行へ切り替えた影響か」
「切り替え時の時刻補正が継続しています。現時点では、ずれとの因果関係を確定できません」
引き継ぎに手間取っただけなら、それで構わない。観測員は異常履歴へ印を付け、ボトルを固定具へ戻した。環を閉じて軽く引く。動かない。
手を離すと、また更新音が二度鳴った。今度は音と音の間が長い。航法用の時計が進んでも、空調の時計は動かない。しばらくして、ようやく追いついた。
「差が広がっている。補正を止めて」
「自動補正を停止します」
次の一秒を待つ。間はさらに延びた。
故障なら、どちらか一つであってほしい。
遅れる時計を止めようと指を伸ばした時、右で硬い音がした。保温ボトルが床を転がっている。留め方が甘かったのかと壁を見て、手が止まった。
閉じたはずの固定環が、途中で切れていた。下半分だけがない。
目を凝らすうちに金属が戻った。だが、元の場所から半指ぶん右へずれている。ねじ穴のない壁へ端が食い込み、留め具が斜めに突き出していた。
「固定環が消えて戻った。位置がずれている」
「消失前と現在で、周辺部品の時刻に差があります。復帰した固定環と、現在の壁面が一致していません」
消えた固定環だけが過去の形へ戻り、壁は現在のまま残った。別々の時刻の部品を無理につなげたため、元の位置には収まらなかったのだ。小惑星では見えなかった時間のずれが、斜めになった固定環へ残っている。
さっき、ここへ指を掛けていた。
観測員は親指を曲げ、ほかの四本へ順に押し当てた。五本とも動く。痛みもない。それでも、指を挟まれた自分を思い浮かべてしまう。壁へ戻しかけた手を膝へ置いた。もう、固定環には触れたくない。
補助画面の角が、裏の配線ごと消えた。残った画面の船体図に、二つの欠損が灯る。
[船内フェイズ・ボイド検出]
「船内だと?」
息を吸い損ねた。小惑星だけで起きている現象ではなかった。
「船内二か所で時刻のずれを検出。発生範囲は確定できません」
窓の外へ目を上げ、すぐ航路へ戻す。青い線は異常域の外にあり、安全表示も変わっていない。
「安全表示は正しいのか。その表示を囲む枠まで欠けている」
「航路上の外部観測値は安全基準内です。ただし、船内の発生は判定に含まれていません」
画面が間違っているのではない。画面は、外の異常だけを見て安全と答えていた。船内で始まった異常を測る基準が、そもそもなかった。
ここを飛び続けてはいけない。
「自動航行を解除。手動へ切り替える」
操縦桿を倒すと、船が傾いた。その動きが固定帯を通じて身体へ伝わる。まだ手で動かせる。
「受信ログを使った時刻補正の履歴を出して」
航法ログには、位置と速度だけでなく、記録された船の時刻も入っている。自動航行はログの航路をなぞるため、その時刻を現在へ読み替え、自船の航法用時計へ合わせていた。
航法装置は、噴射器と船内重力を同じ時計で動かす。船が向きを変えた時、乗員だけが別の方向へ投げ出されないようにするためだ。読み替えた時刻は、重力制御にも渡っていた。
「時計のずれは、受信ログの時刻を取り込んだ直後から始まっています」
ログの時刻まで取り込んだせいなのか。
「航法装置を切れば止まるか」
「保証できません。補正された時刻は、すでに複数の装置へ送られています」
航法装置の電源を切る。だが、空調の時計は遅れ続けた。一度配られた時刻は、重力制御や空調など、それぞれの装置に残っている。元の装置を止めただけでは、船全体を同じ時刻へ戻せない。
どの時刻を正しいものとして残せばいい。
答えを探すより先に、生活区画の気圧警報が鳴った。短い警報が続く。振り返ると、非常隔壁が下り始めていた。隙間の向こうで、食事パックが浮く。
「生活区画の気圧が低下。船外への空気流出を検出。非常隔壁を閉鎖します」
閉鎖を急がせようと操作を重ねても、扉は安全装置の上限より速くならない。首筋を冷たい風が撫でた。生活区画の空気が、見えない穴から宇宙へ吸い出されている。隔壁が閉じなければ、操縦席の空気も同じ場所から失われる。
早く閉まれ。途中で止まるな。
扉の下端を追う。床を打つ音がした。風が止まる。気圧計の針は、緑の範囲で止まった。
[操縦席――気密維持]
操縦席の気密は維持されている。まだ息はできる。
生活区画のカメラを開いた。簡易寝台の脇に星が見える。外壁の縦横二メートルほどが消え、薄い白い靄の中を給水袋が飛んでいた。衣類は壁に張りつき、穴から船外へ抜けていく。寝台の固定帯だけが、何もない場所へ突き出していた。
さっきまで、あそこに座るつもりだった。
寝台の脚に引っかかった食事パックが膨れ、端から白い中身を噴き出している。入口には、加熱器が動いていることを示す湯気の印が残っていた。
「加熱を止めて。生活区画への電力も切る」
AIが停止を告げ、湯気の印が消えた。もう向こうは使えない。残った空調だけは動かしておかなければならない。
「空調を航法装置から切り離せるか」
「独立した時計へ切り替えられます。ただし、船内の時刻異常が止まる保証はありません」
「切り替えて。自動補正も止める」
二つの時計がそろった。四秒が過ぎた。欠損の印は増えず、空調の脇に緑が戻る。
止まったのか。
息を吐いた。早く桿を握り直したいのに、二本の指がうまく開かない。右手で一本ずつ伸ばす。
動くうちに離れよう。
予備画面へ船首の向きを出し、小惑星と反対側へ目標を置いた。操縦桿に手を移したところで、視界の左端に赤い救急具が見えた。
収納を覆っていた壁がない。肩のすぐ横で、中の物が剥き出しになっている。身体を右へ倒すと、固定帯が脇腹へ食い込んだ。救急具の下にある工具袋まで見える。手を伸ばせば触れられる距離だ。
見えていた中身が、戻ってきた壁に隠された。
「いまの欠損範囲は」
「幅四十七センチです。復帰位置に三センチのずれがあります」
固定環も、元の場所には戻らなかった。この壁も同じだ。壁と肩の間には、掌を縦に差し込めるだけの隙間しかない。
次は、もう少しこちらまで消えるかもしれない。
小惑星では、最初の穴の隣へ次の穴が開いた。小さな欠損で終わる保証はない。壁が肩まで失われれば、戻る時に身体と重なるかもしれない。
せめて腕一本ぶん離れたくて、固定帯の留め金を探った。足元には、ずれて戻った固定環の影が落ちている。そこへ下りて、どこへ行く。背後の隔壁は閉じていた。向こうには空気がない。
留め金から指を離し、座席の中央へ背を寄せる。壁へ寄りかからないようにしていると、時計の更新音が二度鳴った。また、間が空いている。
「空調を切り離しても、ずれが広がっている」
「はい。装置の設定ではなく、船内そのものに時刻のずれが生じている可能性があります」
設定を直すことと、この船がいる時間を戻すことは別なのだ。
受信音声を開く。聞き落とした言葉がある。止め方を教えてくれていたのなら、いまからでも聞きたい。
「雑音を除去して」
処理は三パーセントで止まった。
[処理装置――応答なし]
「別の装置で続けられないか」
「使用可能な処理装置がありません」
声一つ直せない。次の警報が鳴る前に少しでも離れたい。観測員は左の壁から目を逸らし、音声の窓を閉じた。
ここを離れれば、まだ間に合う。
小惑星と反対側へ船首を向けるため、左側の噴射器を使った。窓の縁を星が流れ、目標の印が中央へ近づいてくる。右側の噴射器を使えば、回転を止められる。何度も行ってきた操作だ。
右側の接近警報が鳴った。船外カメラの端に、四十メートルの岩が入っている。さっき航路から外した岩だった。
「衝突するか」
「最接近距離は八メートル。衝突予測はありません」
二つはそこまで近づくが、ぶつかりはしない。いまは船の回転を止める方が先だ。
右側の噴射キーを押した瞬間、映像の岩が欠けた。幅三十メートル近い丸い欠損が、岩の大半をえぐっている。
同時に、カメラ手前の船体も同じ形に途切れた。その間にあった右側の噴射器がない。アンテナの支柱まで、映像のどこにも見つからない。
「右側噴射器、応答なし。主アンテナとの接続も失われました」
観測員は噴射キーを押し込んだ。止まれ。目標の印が窓の中央を通り過ぎていく。ここで止めるつもりだった。止められなければ、何のために向きを変えた。
船体図から噴射器の印が消えても、押し込んだ指に力が入る。岩の欠けた部分に、自船の大きさを示す枠が重なった。船を囲む四隅のすべてが、穴の中の星空に収まっている。
あの中には、船ごと入る。
左側の噴射を止め、船内の姿勢制御も使う。星の流れが少し遅くなった。観測員は桿をさらに倒す。
「回転を止められるか」
「残った装置では、完全には止められません」
もう少しでいい。目標へ向け直すまで、止まってくれ。
倒しきった桿を押し続けても、星は流れていく。窓には同じ星が巡ってきた。穴だらけの小惑星まで、何度でも現れる。さっき見送ったつもりなのに、まだここにいる。
離脱したという報告を、送らずに残したままでよかった。そんなことを考える自分が嫌になった。
「母船を呼んで」
[アンテナ――応答なし]
AIは予備アンテナへ切り替えたが、接続音は鳴らなかった。配線をたどると、右側の欠けた船体で途切れている。噴射器と一緒に、通信に使うアンテナまで失われたのだ。
声さえ届けば、ほかの手を教えてもらえるのに。いま誰かに、大丈夫だと言ってほしい。根拠などなくても、その声を聞きたい。
気圧計の針が、いつの間にか緑の端まで下がっていた。閉じた隔壁から続く細い音を、聞かないようにしていたことに気づく。
「操縦席の空気は、あとどれくらい保つ」
「現在の漏出量では、維持限界まで五分四十秒です」
耳を塞ぎたい。それでも、音が変われば振り向かずにはいられない。
帰投が遅れれば、母船は捜しに来る。予定航路に沿った捜索範囲を開いたが、自船の印はその外にある。自動航行で航路を変えたため、母船が最初に探す場所から外れていた。
「救助が来るまでの時間は」
「最短で二十六分です」
観測員は、空気が保つ時間と重ねさせた。画面へ二本の線が出る。時間は左から右へ進む。空気の限界を示す線よりも右に、救助到着の赤い線があった。右にあるということは、救助より先に空気が尽きる。
線へ触れても、同じ時刻が大きく表示されるだけだった。
船外服なら生命維持は二時間。収納を選ぶと、生活区画の最後の映像が開いた。収納の下半分が星空になっている。上半分には手袋が一つ残っていた。
服は外れて床へ落ちただけかもしれない。その下を拡大しても、星の粒が大きくなるだけだ。別の角度から見ようとして、これは止まった映像だと思い出す。
もう、探せる場所がない。
非常開放の取っ手へ目が行った。自分で見に行けば、まだ何か見つかるような気がする。だが、扉の向こうの気圧は赤い零のままだ。開ければ、操縦席に残る空気まで失う。
[操縦席維持限界――一分未満]
残った時間を確かめることばかりしている。せめて、いまいる場所を送らなければ。
「使える通信装置をすべて探して」
「通常通信、主アンテナ、予備アンテナは使用不能。非常用送信機は待機中です」
小さな白い待機灯が点いた。非常用の送信機だけは、主電源が落ちても動く。遠くの母船とは話せないが、近くの船を自動で探し、短い記録を送れる。
「近くの船を探して」
探索の線が一周しても、何も灯らない。顔を寄せて先を追ううち、画面に息が掛かった。近くに船などいないのかもしれない。だが、ここで止めれば、つながることは絶対にない。
[現在航法ログ――自動添付]
[記録範囲――宙域進入から現在]
「なぜ航法ログを付ける」
「移動中の船同士で通信位置を合わせるためです。航路と時刻を外した場合、受信先の探索を継続できません」
添えられたのは、自分の船がここへ来てからの記録だった。受信したものと同じ種類のログだ。
「事故の部分だけにできないか」
「処理装置が応答しないため、記録を編集できません。添付を外した場合は探索も停止します」
この航路まで渡していいのか。受け取った者が、自分と同じように参考にするかもしれない。だが、ログを外せば誰にも届かない。
それなら、そのまま信じるなと伝えなければならない。
「音声を追加する」
閉じた非常隔壁へ目を向ける。食事を取りに立つたび、片手を掛けていた縁があった。そこだけ塗装が薄い。いまも手を伸ばせば届くのに、この先には行けない。
扉の向こうから、加熱器の音はもう聞こえなかった。調査を終え、食事をして、帰る。それで今日が終わると思っていた。
床を転がってきた保温ボトルが、座席の脚で硬い音を立てた。手を伸ばしても固定帯が胸を押さえ、指先は蓋をかすめるだけだ。ボトルは脚の陰へ入り、もう動かない。
あのコーヒーを、もう一口だけ飲みたい。
「録音できる時間は」
「十二秒です。録音と送信を一度ずつ実行できます」
救助計算の窓を閉じると、録音開始の印が現れた。赤い点の周りに、十二の短い目盛りが灯る。一つの目盛りが一秒。すべて消えるまでに録音を終えなければ、送信に使う電力が残らない。
観測員は、もう一度数字を見たくなるのをこらえ、印の上へ指を運んだ。唇を動かしてみると、舌が上顎に張りついてうまく離れない。これで声が出るだろうか。一度口を閉じ、鼻から細く息を吸う。
添付欄には、自船の航法ログがある。ここへ助けに来てほしい。あの計算より早く着く方法を、誰かが知っているかもしれない。
けれど、別の船がこのログを信じ、欠けた噴射器の脇を通ったら。
来てくれ、と言いかけて口を閉じた。ここへ向かう船まで失うのは嫌だ。まず危険を知らせよう。そう決めて、一度息を吐く。
録音を始めると、赤い点が灯った。最初の言葉で、思ったより多くの息が漏れた。背を起こして顎を少し引くと、声が喉の奥に引っかかる。
焦るな。まだ言わなければならないことがある。
舌先で一音ずつ形を確かめていく。窓の外を、小惑星が横切った。穴の奥に集まった星が、岩の縁へ一つずつ隠れる。遠ざかる輪郭を見ながら、短く息を継いだ。
指が添付ログの表示へ戻る。唇を結び、次の言葉を押し出した。天井で、高い音と低い音が続けて鳴る。肩が少し動いたが、赤い点は灯っている。
十二の目盛りは、半分を切った。観測員は口を止めず、マイクへ顔を近づける。喉の奥が擦れ、語尾が細くなる。
届かなければ意味がない。
残る息を声に乗せ、膝の上の手を握った。小惑星が窓から出ていく。その後ろには星だけが残り、船の回転に合わせて静かに流れている。
観測員はその光を見ながら、最後の言葉を収めた。開いた唇を閉じるより先に赤い点が消れ、吐いた息だけが残る。
[録音完了]
探索線の先に、応答を示す点が一つ灯っていた。相手の名前は、まだ出ていない。
本当につながったのか。誰でもいい。聞いていてくれればいい。
観測員は点へ指を運び、送信に触れた。航法ログに続いて、音声の転送が進んでいく。あと少し。画面が暗くなる前に、最後まで届いてくれ。
[送信完了]
船首が欠け、操縦席のあった場所に星が瞬いた。残った船尾も音もなく失われ、そこには、隔てるもののない星空が広がっていた。
◇
傷ひとつない同じ船の操縦席で、受信ランプが点いた。観測員はメッセージの再生ボタンに手を伸ばす。
『……宙域は危険……ログ……参考……に……すぐに離脱……こちらと同じ……』
ひどく掠れた声は、十二秒で途切れた。
<了>




