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妻の印

その日の夜


屋敷へ戻った時、玄関ホールに使用人たちの出迎えはなかった。


いつもなら、夫の帰宅に合わせて、相馬を先頭に使用人たちが整列している。


夫が扉をくぐれば、空気が引き締まる。

妻がその隣に立てば、使用人たちは深く頭を下げる。


けれど今夜は、違った。


屋敷は静かだった。


黒い高級車が車寄せに停まる。


助手席に乗っていた相馬が先に降り、後部座席を開ける前に、屋敷の扉へ向かった。


白手袋の手が、重い扉を静かに開ける。


「お帰りなさいませ。ご主人様、奥様」


その声は、いつもと同じように整っていた。


けれど、ほんのわずかに安堵が滲んでいた。


妻は車から降りた。


腕には、茶色のクマのぬいぐるみ。


夫も続いて降りる。


その手には、淡い色のクマのぬいぐるみ。


一度離れた二体が、また同じ屋敷へ戻ってきた。


妻は玄関の前で、少しだけ足を止めた。


「……出迎えは、ないのですね」


夫は短く答えた。


「ああ」


「皆さんに、ご迷惑をかけてしまったのに」


相馬が静かに言った。


「奥様のお姿が確認できないため、一部の者で屋敷内を確認していた、とだけ伝えております。大半の使用人は、詳しい事情を存じません」


妻は相馬を見た。


「そうでしたか」


「はい」


「相馬さん」


「はい」


妻はクマを抱えたまま、丁寧に頭を下げた。


「ご心配をおかけしました」


相馬は深く一礼する。


「奥様がご無事で、何よりでございます」


「桐野さんにも、明日きちんと謝ります」


「はい。桐野も安心いたします」


夫が妻の手を取った。


「今夜はいい」


妻が夫を見る。


「旦那様」


「明日でいい」


短い言葉。


けれど、妻の手を握る指には、いつもより強い力がこもっていた。


命じているというより、確かめている。


そこにいるのか。

本当に戻ってきたのか。

もう離れないのか。


そう問うような手だった。


妻は何も言わず、夫の手を握り返した。


夫は少しだけ目を伏せる。


「行くぞ」


「はい」


相馬は扉の横に控え、二人を通した。


誰もいない玄関ホールを、夫と妻だけが歩いていく。


夫の手には淡いクマ。

妻の腕には茶色のクマ。


屋敷は、何事もなかったかのように静かだった。


けれど夫の胸の内では、まだ朝の空白が消えていなかった。


妻の部屋に妻がいなかったこと。

鏡台にネックレスが置かれていたこと。

サロンから茶色のクマだけが消えていたこと。


あの時の冷えた感覚は、今もはっきり残っている。


だから夫は、階段を上がる間も妻の手を離さなかった。


妻が小さく言う。


「旦那様、手を……」


「離さない」


即答だった。


妻は少しだけ目を伏せ、静かに頷いた。


「はい」


夫はその返事を聞いて、ようやく少しだけ息を吐いた。



夫婦の寝室には、柔らかな灯りがともっていた。


窓の外には夜の庭が広がっている。


深い藍色の空。

揺れる木々。

遠くの外灯の淡い光。


部屋の中は、屋敷の他の場所よりも静かで、暖かかった。


小さな棚の上には、二体のクマを置けるだけの空間が作られている。


夫は淡いクマをそこへ置いた。


妻も、茶色のクマをその隣に置く。


二体が、また並んだ。


妻はそれを見て、穏やかに微笑んだ。


「戻りましたね」


夫は妻を見る。


「お前もだ」


妻は振り返る。


「はい」


その一言を聞いた瞬間、夫は妻を抱き寄せた。


強く。


けれど、壊さないように。


妻の身体が夫の胸に収まる。


夫は何も言わなかった。


ただ、抱きしめた。


腕の中に妻がいる。


妻の温度がある。


妻の髪の香りがする。


妻の呼吸が、すぐそばにある。


それだけで、夫の胸の奥に詰まっていたものが、少しずつほどけていくようだった。


「旦那様」


妻が小さく呼ぶ。


夫は妻の髪に顔を寄せた。


「黙っていろ」


「はい」


「少しだけ」


妻は夫の背に腕を回した。


「はい」


少しだけ、と言った夫の腕は、長い間緩まなかった。


夫は妻の髪に口づけた。


額に。

こめかみに。

頬に。

唇に。


何度も。


確かめるように。


謝るように。


戻ってきた妻を、もう一度自分の腕の中に刻みつけるように。


妻は静かに受け止めていた。


泣かなかった。


ただ、夫の背に回した手に、少しだけ力を込めた。


夫は妻の頬に触れる。


昨夜、自分が叩いた場所。


もう痕はない。

腫れもない。

赤みもない。


けれど夫は、そこにまだ自分の罪が残っているように見つめた。


「痛くないか」


「痛くありません」


「本当に」


「はい」


「嘘をつくな」


妻は穏やかに答える。


「本当です」


夫の眉が苦しげに寄った。


「俺が痛い」


妻は夫の手に自分の手を重ねた。


「旦那様」


「ここを見るたびに思い出す」


「……」


「俺が叩いた」


妻は静かに夫を見つめた。


「私は、もう大丈夫です」


「お前はすぐ大丈夫だと言う」


夫の声は低かった。


「だから、俺は甘えた」


妻は何も言わなかった。


夫は頬に触れたまま、続ける。


「目障りだと言った」


「はい」


「下がれと言った」


「はい」


「部屋に呼んで、叩いた」


妻の瞳がわずかに伏せられる。


夫は苦い声で言った。


「それでも、お前は謝った」


「旦那様を不快にさせましたから」


「違う」


即座に否定した。


「謝るのは、俺だった」


妻が何か言おうとした。


けれど夫は、それを遮るように唇を重ねた。


短く。


けれど深く。


唇が離れると、夫は低く言った。


「悪かった」


妻は夫を見つめる。


「はい」


その返事は、許しだった。


責めるでもなく、泣くでもなく、ただ受け取るような返事だった。


夫はそれが、余計に胸に刺さった。


「昨日だけじゃない」


「……」


「ずっとだ」


妻の目が揺れる。


夫は言葉を探しながら続けた。


「俺は、言葉にしてこなかった」


「旦那様」


「お前が家政婦だった頃から」


妻は黙った。


夫は視線を逸らしかけて、やめた。


今夜は逃げない。


そう決めていた。


「通いの日を増やしたのは、仕事のためだけじゃない」


「……」


「住み込みにしたのも、必要だったからだけじゃない」


妻は静かに聞いていた。


夫の声はぎこちない。


けれど、一語ずつ本音を取り出しているのが分かった。


「お前が、家にいるのがよかった」


妻の指先が、夫のシャツをわずかに掴む。


夫は続ける。


「帰ってほしくなかった」


「……知りませんでした」


「言っていない」


「はい」


「言えなかった」


夫は妻を見る。


「結婚の時も」


妻は静かに頷いた。


「はい」


「結婚してほしいとも、お前がいいとも、言わなかった」


「……」


「お前でいい、と言った」


妻の表情は乱れなかった。


「私は、嬉しかったです」


夫の顔がわずかに歪む。


「そんな言葉で喜ぶな」


「でも、嬉しかったのです」


「俺が嫌だ」


夫は低く言った。


「あれは、お前に言う言葉じゃなかった」


妻は夫の頬に手を添える。


「旦那様」


「何だ」


「今、聞けています」


夫は目を伏せた。


「遅い」


「遅くありません」


「遅い」


「でも、聞けています」


妻は穏やかに言った。


「私は、それで十分です」


夫は妻を抱きしめ直した。


「お前は、本当に俺を甘やかす」


「そうでしょうか」


「そうだ」


妻は少しだけ微笑む。


「では、旦那様も私を甘やかしてください」


夫は少し黙った。


「……努力する」


「はい」


その返事がやわらかくて、夫はまた妻にキスをした。


今度は、少しだけ長く。


夫は妻を抱いたまま、ベッドの端へ腰を下ろした。


妻も隣に座る。


けれど夫は、すぐに妻の腰へ腕を回し、距離を許さなかった。


妻が穏やかに言う。


「旦那様、近いです」


「離れるな」


「離れません」


「ならいい」


不機嫌そうな言い方。


けれど妻には分かっていた。


夫は、まだ不安なのだ。


自分が本当に戻ってきたことを、何度も確かめている。


「私はここにおります」


「……ああ」


「もう、黙っていなくなりません」


「そうしろ」


「はい」


夫は妻の髪を撫でた。


ぎこちない手つきだった。


優しさに慣れていない男の、不器用な手。


「俺は、優しくない」


妻はすぐに答えた。


「旦那様は優しいです」


夫は苦い顔をする。


「どこが」


「迎えに来てくださいました」


「俺が追い詰めたからだ」


「それでも、来てくださいました」


「当然だ」


「私には、それが嬉しかったのです」


夫は言葉に詰まった。


妻は穏やかに続ける。


「旦那様は、ご自分の優しさを優しさだと認めません」


「優しくないからだ」


「でも、私は知っています」


「何を」


「私が欲しいと言ったクマを、二つ買ってくださいました」


「色違いがあっただけだ」


「カチューシャもつけてくださいました」


「お前がしつこかった」


「写真も撮ってくださいました」


「一枚だけだ」


「人混みで、私が押されないようにしてくださいました」


「邪魔だっただけだ」


「飲み物も買ってくださいました」


「喉が渇く前に飲ませただけだ」


妻は少しだけ笑った。


「全部、私には優しさでした」


夫は黙った。


妻は夫の手を包み込む。


「優しい旦那様も、嫉妬する旦那様も、怒っている旦那様も、不器用な旦那様も」


夫の目が揺れる。


妻は真っ直ぐに言った。


「全部、愛しています」


「全部など、ろくなものじゃない」


「私には、全部が旦那様です」


「やめろ」


「やめません」


妻は穏やかに言い返した。


「私は、旦那様を愛しています」


夫は息を止めるように黙った。


その言葉は、何度も態度で示されてきたはずだった。


けれど今夜、あらためて言葉として聞くと、胸の奥に深く沈み込んだ。


妻がいない朝を知ってしまったから。


妻が戻ってきたことが、奇跡のように思えたから。


夫は、もう認めざるを得なかった。


自分は妻を所有しているつもりだった。


だが本当は、すでに妻に心酔していた。


妻がいなければ、屋敷はただの箱だった。


妻がいなければ、財産も、使用人も、写真も、酒も、何の意味もない。


夫は妻を強く抱いた。


「俺は、お前がいないと駄目だ」


妻の表情が静かに揺れる。


「旦那様……」


「屋敷が空だった」


「……」


「お前がいない朝が、怖かった」


妻は夫の背に腕を回す。


「私は戻りました」


「ああ」


「ここにおります」


「分かっている」


夫は妻の髪に口づけた。


「でも、まだ足りない」


「何がですか」


「確かめるのが」


妻は静かに目を閉じた。


夫は何度もキスをした。


額に。

頬に。

唇に。


最初は切実に。


次第に、少しずつ穏やかに。


そして最後には、ようやく少し落ち着いたように、妻を抱きしめたまま深く息を吐いた。



しばらくして、二人はベッドに横になった。


夫は妻を腕の中に閉じ込めるように抱いている。


妻は夫の胸元に手を置き、静かに呼吸を整えていた。


外は深い夜だった。


使用人たちの気配は遠く、寝室には二人だけの時間が流れている。


棚の上では、二体のクマが並んでいた。


一度離れた片割れ同士が、また寄り添うように。


夫が、ふと低く尋ねた。


「お前にはないのか」


妻が顔を上げる。


「何がでしょう」


「独占欲や嫉妬心」


妻は少しだけ瞬きした。


「ございます」


夫は意外そうに見る。


「お前に?」


「はい」


「ないだろう」


妻は少しだけ不満そうに言った。


「あります」


夫はその顔を見て、わずかに興味を持った。


妻は少し迷った後、夫の胸元へ視線を落とした。


「過去に一度、強く嫉妬して、独占欲を抱いたことがあります」


夫の腕に、少しだけ力が入る。


「誰に」


「旦那様にです」


「俺?」


「はい」


夫は黙った。


妻は続ける。


「前の家で」


「マンションか」


「はい」


「いつの話だ」


「旦那様にプロポーズをしていただいて、すぐの頃です」


夫の顔が苦くなる。


「……あれをプロポーズと言うな」


妻は微笑む。


「私には、プロポーズでした」


「お前でいい、だぞ」


「はい」


「ひどい言い方だ」


「でも、嬉しかったのです」


夫は返す言葉を失った。


妻は続ける。


「その少し後に、旦那様がマンションのご自宅で商談をされたことがありました」


「あったな」


「担当の方が女性でした」


「覚えていない」


「お若くて、とても綺麗な方でした」


「知らん」


妻は夫を見つめる。


「旦那様にも、積極的でした」


夫の目が少し細くなる。


「そうか」


「時折、旦那様の腕に触れていらっしゃいました」


夫の表情が冷えた。


「触ったのか」


「はい」


「なぜ言わなかった」


「商談中でしたので」


「関係ない」


妻は穏やかに答える。


「その時の私は、まだ言える立場ではないと思っていました」


「もう妻になる女だった」


「はい。でも、まだ実感がありませんでした」


夫は黙る。


妻は静かに続けた。


「旦那様が席を外された時、その女性に言われました」


夫の声が低くなる。


「何を」


「お茶を入れ直してほしい、と」


「それだけか」


「気が利かないとも言われました」


夫の目が完全に冷える。


「他には」


妻は夫のシャツを軽く握った。


「旦那様とその方が一緒になれた時には、私には出て行ってもらう、と」


部屋の空気が一瞬で冷えた。


夫の腕に力が入る。


「誰だ」


妻は首を横に振る。


「昔のことです」


「名前を言え」


「旦那様」


「言え」


妻は夫の頬に手を添えた。


「もう、よいのです」


「よくない」


「その方は、もう旦那様の近くにはいません」


「当然だ」


夫の声は冷たかった。


「そんな女を置く理由がない」


妻は、その言葉に少しだけ満足したように微笑んだ。


「その時、私は思いました」


「何を」


「絶対に、旦那様は渡さないと」


夫は息を止めた。


妻は恥ずかしそうに目を伏せる。


「自分でも驚きました。私は、そんなことを思うのだと」


「……」


「旦那様は私のものです、と言いたかったのです」


夫の胸の奥に、熱が広がった。


普段の妻からは想像できない告白だった。


いつも控えめで、夫の半歩後ろに下がり、自分の感情を慎ましく隠している妻。


その妻が、夫を渡さないと決意していた。


妻にも独占欲があった。


嫉妬心があった。


夫だけが一方的に縋っていたわけではない。


その事実に、夫は驚き、戸惑い、そしてどうしようもなく満たされていった。


「妬いていたのか」


妻は小さく頷く。


「はい」


「俺に?」


「はい」


「その女に触られて」


「とても嫌でした」


夫は妻の手を握った。


「言えばよかった」


「言えませんでした」


「なぜ」


「旦那様のお仕事の邪魔をしたくありませんでした」


「馬鹿だ」


「はい」


「俺の方が大事だろう」


妻は少し驚いた後、柔らかく微笑んだ。


「はい」


夫はすぐに視線を逸らす。


「……そういう意味ではない」


「では、どういう意味ですか」


「うるさい」


妻は小さく笑った。


夫は不機嫌そうに眉を寄せる。


「笑うな」


「嬉しくて」


「またそれか」


「はい」


妻は少しだけ身を起こし、夫を見つめた。


「今も、旦那様に触れようとする女性がいたら、嫉妬すると思います。その女性にも、旦那様にも」


夫は即座に言った。


「触らせない」


「本当ですか」


「当たり前だ」


妻は少し冗談めかして言った。


「浮気はだめですよ、旦那様」


夫は一瞬、本気で言葉を失った。


妻がそんなことを言うのは珍しかった。


「するわけがない」


「分かりません」


「疑うのか」


「旦那様は魅力的ですから」


「くだらない」


「他の方が近づくかもしれません」


「近づけさせるな」


妻は目を瞬かせた。


「私がですか」


「ああ」


「では……」


妻はゆっくり夫へ近づいた。


そして、夫の首筋にそっと唇を寄せた。


夫の身体がわずかに強張る。


「おい」


妻は答えない。


首筋に軽くキスをする。


一度。


そして、もう一度。


今度は少し強く、吸い上げるように。


夫の喉がかすかに動いた。


「何をしている」


妻は唇を離し、夫の首筋に残った小さな痕を見て、静かに微笑んだ。


「印です」


夫は本当に戸惑った顔をした。


「印?」


「はい」


「お前が?」


「はい」


妻は少し恥ずかしそうにしながらも、目を逸らさなかった。


「旦那様は、私のものですので」


夫はしばらく妻を見つめていた。


驚き。


戸惑い。


そして、それ以上の愛おしさ。


普段の妻からは想像できない告白と行動だった。


けれど、それが夫の胸をどうしようもなく満たした。


夫は妻の腰を引き寄せた。


「悪い女だな」


妻は静かに答える。


「旦那様の妻です」


「それで全部済ませるな」


「便利ですので」


夫は、ほんのわずかに息を漏らした。


笑ったようにも、呆れたようにも聞こえた。


妻はその小さな変化を見逃さなかった。


「旦那様、今、笑いました」


「笑っていない」


「笑いました」


「黙れ」


「はい」


妻は嬉しそうに頷いた。


夫は妻の額に口づけた。


「浮気などしない」


妻が夫を見上げる。


「本当に?」


「俺が放っておけないのは、お前だけだ」


言った瞬間、夫は少しだけ顔をしかめた。


言いすぎた、という顔だった。


妻は目を見開いた後、穏やかに微笑む。


「旦那様」


「忘れろ」


「忘れません」


「忘れろ」


「絶対に忘れません」


夫は諦めたように息を吐いた。


「面倒な女だ」


「はい」


「……俺の妻だ」


妻の表情が柔らかくなる。


「はい。旦那様の妻です」


夫は少し黙った。


それから、目を逸らしながら低く言う。


「俺も」


妻が夫を見る。


「はい?」


「俺も、お前のものだ」


妻は泣かなかった。


ただ、深く息を吸い、夫を真っ直ぐ見つめた。


その瞳は静かに揺れていたが、涙は落ちない。


「旦那様」


「何だ」


「それは、今夜一番嬉しい言葉です」


夫は視線を逸らしたまま言った。


「大げさだ」


「大げさではありません」


「忘れろ」


「忘れません」


「……そう言うと思った」


妻は微笑んだ。


「はい」


夫は妻を抱きしめ直した。


「浮気などしない」


「はい」


「お前以外、要らない」


妻の表情が静かに揺れる。


夫は少しだけ苦しそうに続けた。


「お前だけでいい」


妻は夫の胸元に顔を寄せた。


「私も、旦那様だけです」


夫の腕に力が入る。


棚の上では、二体のクマが並んでいた。


夜の寝室は静かだった。


夫は妻を腕の中に閉じ込めるように抱いたまま、もう一度だけ首筋に触れた。


妻がつけた小さな印。


それは普段の妻からは想像できないものだった。


けれど夫にとっては、ひどく愛おしいものだった。


妻もまた、自分を欲している。


自分を渡したくないと思っている。


その事実が、夫を満たしていた。


夫は低く言った。


「もう少し、そばにいろ」


妻はすぐに答える。


「はい」


「寝るまで」


「はい」


「起きても」


妻は微笑む。


「はい」


「ずっとだ」


「はい、旦那様」


夫はようやく少しだけ息を吐いた。


妻の温度が腕の中にある。


妻の声が耳元にある。


妻が戻ってきた。


それだけで、屋敷は屋敷に戻った。


夜は静かに更けていく。


使用人たちの大半は、妻がいなくなっていたことを知らない。


屋敷は何事もなかったように眠っている。


けれど夫婦の寝室では、確かに何かが変わっていた。


夫は、言葉にしてこなかった想いを少しだけ渡した。


妻は、隠していた嫉妬を少しだけ見せた。


支配だけではない。


従順だけでもない。


互いの不器用な独占欲が、ようやく同じ場所に並んだ夜だった。

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