点Pは、「停止」を知らない。
白い天井が、近すぎた。
否、点Pは、それが天井であると理解するまでに、少し時間を要した。視界は滲み、輪郭は曖昧で、光だけがやけに強い。呼吸が、浅い。
胸の奥が擦れるたびに、音にならない痛みが生まれる。吸うことも、吐くことも、意識しなければできない作業になっていた。不便な肉体だ。点Pは心の中で悪態をついた。
点Pは、横たわっていた。体はもう、点Pの言うことをほとんど聞かない。
指先は冷え切り、足の感覚はない。腹の奥に何か重たいものが沈んでいるようで、それが自分の臓腑なのか、死そのものなのか、区別がつかなかった。しかし確かなことがある。点Pに明日はない。
ここがどこなのか、点Pは知らない。
病室なのか、仮設の建物なのか、あるいは誰かの家なのか。どうでもよかった。名前を聞かれても、きっと答えられないだろう。点Pは自答した。
「己の人生は、正しかったのか?」
分からない。正しいと、そう思えばそうなのだろう。最後くらいは自分を認めてやりたい。
医者も、神父も、家族もいない。
誰かがそばにいた形跡はあるが、今はもういない。呼ばれもしないし、呼ぶ力もない。家族はいたのか。死別したような気もするが、そうでもない気もする。どっちでもいい。どちらにせよ、ここに誰もいないことがありがたい。
静かだった。耳が痛くなるほどの静謐。その静寂を破ることは、決して犯されてはならない禁忌であるかのような。空気すらも、呼吸を止めている。心臓の砂時計が、最後の時を知らせようとしている。
点Pは、これまでの人生を振り返ろうとした。
だが、思い出は順序立って現れなかった。希望、絶望、甘い口づけ、泣き声、笑い声、誰かの背中、憧れ、嫉妬。断片だけが、脈絡なく浮かんでは消える。
意味のある場面など、ほとんどない。
英雄的な瞬間も、後悔なく選んだ選択も、物語として語れる結末もない。
必死に、無様に、醜く、時に何かに酔いながら。
誰かを助けたこともあれば、見捨てたこともある。愛したこともあれば、失ったこともある。信じたことも、裏切ったこともある。どれも等しく、価値があるとは言えない。
だが、どれも確かに、点Pの軌跡だった。これはすべて、自分の人生だった。
決して、点Pは一定には動かなかった。止まった日もある。動き過ぎた日もある。ゆったり動いた日もある。動き方の尺度は人それぞれであった。
呼吸が、さらに浅くなる。視界の端が暗くなり、音が遠ざかる。脈絡のない言葉が、脳裏に浮かんでは消える。
恐怖は、なかった。かつては死という迫りくる現実を受容しきれず、一人泣いた夜もあった。生きてるうちにやっとけーい、と女を抱いた夜もあった。
だが今は違う。終わりが来ることを、点Pは拒まなかった。
後悔はもちろんある。ぬぐいきれない失策。アレがああだったら、きっと今も違っていたかもな、など。
だが、後悔だけで人生が構成されているわけでもない。後悔は、あくまで一部。後悔以上に、幸福やささやかな愛などがあったはずだ。あまりに当たり前すぎて、気づいてないだけで。
点Pは、意味を知った。
否、生きる意味など、最初から与えられていなかった。
意味は、歩いた距離のあとから、勝手に付いてくるものだ。意味は定義などという万物不変のものではない。歩いた分だけ、動いた分だけ付いてくる、自分だけの備忘録だ。
だから、点Pは最後まで動こうとした。
指先を、ほんのわずかに動かす。
それだけで、息が切れる。脆い身体になったものだ。嘆息する。
誰にも見られなくてもいい。記録されなくてもいい。語られなくてもいい。
自分だけが知っていればいい。
「生きていた」という事実を。そして、生きたことを忘れかけたら、意味を思い出すと良い。
そのための備忘録だ。
自分が、自分の中で、確かに進んだことだけは、知っている。
視界が、完全に白に溶けていく。黒と白の調和が、まさに冥府を思わせる。
音も、痛みも、感覚も、すべてが遠のく。
それでも、点Pは止まらなかった。止まりたくなかった。やっと見つけた意味を、手放さないために。
点Pは、x cm 進んだ。




