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点Pは、「抱擁」を知らない。

幼いころ、母から聞いた言葉を、点Pは未だに覚えている。「別れはあまりにも唐突であるから、後悔しないように生きなさい。」何を言っているんだ、と思った。別れは別れ。自分はそんなに弱くない。幼いながらの強がりか、それは無垢な反抗心か。

点Pは、無視した。

それは一瞬だった。地面が唸り、空が割れるような轟音が響いた。天の怒りもかくあらんといったような強震である。瓦礫が屋根を押し潰し、壁は音を立てて崩れ落ちる。

点Pは子どもを抱えたまま、家の床を這った。手は泥とほこりで真っ黒になり、指の感覚はほとんど残っていない。ひょっとしたら骨が、ああもしや神経が。ひょっとしたら、腕ごと持っていかれているのかも知らん。しかし点Pは、己の心配をしている余裕などなかった。

「助け」

子どもの声はかすれ、泣き声はすぐに涙と土砂に紛れた。

点Pは声にならない呻きを上げ、瓦礫の隙間に手を突っ込む。腕は擦り切れ、血と泥が混じる。だが、止まるわけにはいかない。最愛の息子。亡き妻が、腹を痛めて産んだ一人息子。点Pは必死の形相で、息子がいたハズの場所に、感覚のない腕を伸ばした。

瞬間、点Pの視界の隅で、子どもが瓦礫に潰される。グシャアアッと、耳を塞ぎたくなるような音が響く。肉と瓦礫が擦れ潰れる音。やめろ。やめてくれ。やめてください。

体は動かない。声も出ない。重さだけが腕と胸に突き刺さる。

点Pは、戦慄した。

泣くでも怒るでもなく、ただ、目の前で失った現実を凝視した。胸の奥が軋む。世界から、色彩という色彩が一瞬で剥がれ落ちた。

抱くものを守れなかった自分を、父親である自分を、憎んだ。伸ばした両腕の着地場所はどこにもなく、ただそれは虚しく地に落ちた。瓦礫の下、誰かが呻き、また誰かが死んでゆく。

助けることも、手を差し伸べることも、点Pにはできなかった。息子を失った。もう、何にも意味を見出すことなど、点Pにできようもなかった。

点Pは崩れた。

ああ。ああ、ああああ。点Pは、意味もなく言葉の羅列を発しながら、方向を見失いながらも足掻いた。足掻いて、もがいて、進んだ。息子を抱きとめるはずだったこの両の腕は、今は虚空しか抱きしめることができない。

生き延びるためには、ただ動くしかない。前に、前に。息子の分まで生きるとか、生き残った意味とか、そんなことは一切考えない。今あるのは保身だ。息子を失った父親による自己防衛の術なのだ。

どうしようもない父親だと、点Pは内心自嘲する。

点Pは、何かに酔っていた。

泥水に足を取られ、腕の骨は軋む。だが点Pは歩き続けた。子どもの温もりは、もう腕の中にない。

抱くことの意味は、瓦礫の下に埋もれた。

この両腕は、もはや意味を為さないだろう。骨は折れているに違いあるまい。しかしもう、これでいい。

夜が来ても、点Pは震えながら進む。

泣き叫ぶことも、立ち止まることも許されない。動くことが、生きている証拠だと、自分に言い聞かせるしかない。

点Pは、抜け出した。

瓦礫の山から顔を出したとき、彼は目の前にある惨状に目を疑う。見慣れた建造物はそろって横倒しになり、人の死体の山がまるでゴミのように折り重なっている。

朝が来る頃、点Pの体は泥まみれ、血まみれだった。

子どもはいない。愛すべきものは奪われた。

だが、点Pは進む。瓦礫を掻き分け、傷だらけの手足を動かす。誰も見ない、褒めない、評価もない。

点Pの周りには、一種の風格が漂っていた。

愛する者を失った。もう守るべきものはない。もう、何も失わなくていい。

点Pは笑った。

そうでもしないと。どうにか卑劣な考えをして、脳を麻痺させないと。今すぐこの瓦礫の山に、再び身を投じてしまいそうだから。

まるで脳を酔わせるためにアルコールを摂取するように。点Pは、現実から目を背けるために卑劣な思考を巡らせた。それで充分だった。

涙は流れない。何かが欠落したような、そんな未完成さが点Pを覆う。意味も、未来も、愛も。

人間が人間としていられるすべての要素を失った。

点Pは、生き始めた。

自分のためだけに生きるために。他者を顧みずに、己のことのみを信じるために。


点Pは、x cm 進んだ。

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