妄言探偵と猫探し 前編
摩訶府市の裏通りにひっそりと看板を掲げる探偵事務所がある。
――星見探偵事務所。
摩訶府大学に通う女子大生・才羽遥は、そのドアの前でためらっていた。
「……本当に、ここでいいのかな」
いなくなった猫を探すだけなのに、なぜか他に頼むあてが見つからなかった。ビラを貼っても手応えはなく、交番に相談しても「猫は自分で帰ってくる」と言われるだけ。途方に暮れていたとき、「変な探偵事務所がある」という噂を耳にして藁にも縋る思いでここまで来たのだ。
意外にも自宅からそう遠くない場所にあったこの事務所、せっかく来たのだしこのまま立っていても埒が明かないと、意を決してドアを開ける。
カラン、と鈴の音。室内からは紙とコーヒーの匂いがした。
「おや、いらっしゃいませ!」
勢いよく立ち上がったのは若い女性だった。
背筋をぴんと伸ばし、少し短いネクタイと後ろで束ねた長い黒髪を揺らしながら笑顔を向けてくる。こういう探偵事務所ではヨレた服を着たコワモテのおじさんが出てくると思っていたので少しホッとした。
「ようこそ星見探偵事務所へ! わたくしは探偵の無籐有絵と申します! どのような依頼でもこの身命を賭して解決してみせますのでお気軽にアリエとお呼びください!」
ホッとしたのも束の間、遥は一歩後ずさる。
なんという声の大きさだろう。言っている事も重いのか気軽なのかよくわからなかった。
ふと、探偵を名乗る女性・アリエの左腕が目についた。服の袖が潰れている、どうやら彼女には左腕が無いようだ。
「おや、わたくしの腕が気になりますか?」
「あっ、すいません。そんなつもりは……」
慌てて目を逸らす。しかしアリエはにこやかに笑っていた。
「はっはっは、わたくしの左腕は珍しく今ちょっと出かけているのですよ!」
「はあ……」
「おっと、いけない。わたくしとした事がまだご依頼を聞いていませんでした。今日はどのようなご用件で?」
その言葉で遥は自分がここに来た目的を思い出した。
「えっと……猫を探してほしいんです。ニャン太っていうんですけど、黒猫で……」
「フフーン!」
アリエは机をばんと叩いた。
「なるほど、猫! それはただの猫ではございませんね! きっとおそらく宇宙から来た密偵なのでしょう!」
「は、はぁ⁉」
「猫は古来より次元を渡り歩く生物と言われています。あなたがお探しの猫ちゃんも摩訶府市の闇に挑んでいるのですね! つまりこれは――都市規模の陰謀に巻き込まれた可能性があります!」
遥は取り出し途中のスマホを握ったまま言葉を失い固まっている。
まだ写真も見せていないのにとんでもない説が飛び出してきた。というか何を言っているのか理解できない。
どうしたものかと混乱する頭を整理しようとしたその時、再びカランと鈴の音が響いた。
「……」
振り返るとそこにはやや幼い顔立ちの少女が立っていた。銀色の髪に銀色の目、美しく、そして不思議な印象の少女だった。
「ミモザ、お帰りなさい! お客さんが来ていますよ!」
少女に向かってアリエが叫んだ。少女はミモザという名でこの事務所の関係者らしい。
「紹介しますね! こちらはミモザ、この探偵事務所の所長にしてわたくしの左腕です!」
「……どうも」
ミモザが言葉少なに会釈した。
なるほど、出かけている左腕とは相棒の事だったのかと遥は納得する。関係者どころか所長というのが驚きだった。
「こ、こんにちわ。お若い所長さんなんですね」
「……」
挨拶のつもりだったのに完全に無視されている。アリエとは真逆な性格をしているようだ。
「ミモザ、こちらのかたは行方不明になった猫ちゃんをお探しのようですよ!」
「……ふうん、猫探し」
するとミモザは遥をじっと見つめる。
「……アリエが何か変な事を口走っていなかった?」
「えっ? ……は、はあ、少し」
本当は少しどころではないがそう言うのは気が引けた。
「……依頼は受ける。アリエの妄言はとりあえず無視して」
「へ? あ、はい。よろしくお願いします……」
あまりの異様さに依頼するかどうか迷っていたのだが、「依頼を受ける」という一言に反応しつい「お願いします」なんて言ってしまった。
「……でも覚悟はしておいて。ここは摩訶府市、あらゆる事が起こり得る街。それから、アリエはどんな小さな事件も大事にしてしまうからそのつもりで」
「え、ええ……?」
おまけにこの言葉だ。
けれどももはや引き下がれない。遥は心の中で泣いた。
「さて、そうと決まれば現場に行きましょう! えっと……」
見開いた熱い眼差しでアリエが何かを求めている。
遥は察した、そういえばまだ名乗っていなかった事を。
「あ、私は才羽遥です」
「ハルさんですね! わたくしとした事が依頼人の名前を聞き忘れるとは不覚! では気を取り直して、ご案内くださいな!」
「え、どこへ……」
「現場、すなわちあなたのご自宅です!」
***
事務所を飛び出したアリエと遥は事件現場、すなわち遥の自宅を訪れている。アリエいわく現場検証とやらが始まるらしい。
「さて、現場百回と言いますからね! まずは現場検証です!」
アリエは勢いよく宣言した。
「現場って、私の部屋より外を探した方がいいんじゃ……」
「いえいえ、猫は高次元存在、失踪の痕跡は必ず残されていると思われます! もしかすると壁をすり抜けてワームホールに消えた可能性もありますね!」
「そ、そんなわけないじゃないですか!?」
遥の言う事など気にも留めない様子でアリエは部屋の中をあれこれ眺めている。
その時、ふと奇妙な事に気が付いた。アリエが“両手”で部屋を調べていたのだ。
「あれっ⁉ アリエさん、その手は……?」
「これですか? 素晴らしいでしょう?」
遥かはアリエたちが出かける前に事務所の奥で何やら準備していたのを思い出した。
とすると、これは義手なのだろうか。素晴らしいと言うだけあって良くできている、はじめに片腕が無いところを見ていなければ義手だと気付かなかったかもしれない。
「ところでハルさん、わたくし気付いた事があります」
精巧な義手に感心しているとアリエがそう言った。
「え、な、何でしょうか」
「わたくし、ニャン太さんのお姿を知りません!」
……そうだった。写真を見せようとスマホを取り出したところで妙な事を言われ固まってしまったのだった。
というわけで改めて写真を見せる。
「えっと、預かった初日の写真が……。ほら、この子がニャン太です」
「ほう! 可愛らしいですね、立派な首輪も付いています! なるほどなるほど!」
アリエが何かに納得すればするほど不安になるのは何故だろう。せめてもう一人、あのミモザという少女がいてくれればと切に思った。
「あの……ミモザさんは来ないんでしょうか」
質問するつもりは無かったのについ口を突いて出てしまった。
だがしかし、それに対するアリエの答えは意外なものだった。
「何を言っているんです、ここにいますよ!」
ここにいる、その意味が遥にはよくわからないでいる。なぜならミモザの姿などどこにも無く、アリエはといえば左腕の義手を見せつけているだけだったから。
「……心配しないで、ちゃんと把握してるから」
「えっ⁉」
その時、ミモザの声が聞こえた。少し小さかったけど確かに事務所で聞いたあの声だ。
「驚きましたか? 本当にわたくしの左腕は素晴らしいでしょう! 他にも色々な事ができるのですよ、例えば――」
「……アリエ、仕事して」
「おっと、そうでした!」
驚いている遥を見透かすようにアリエが解説し、そのアリエを左腕から聞こえてくるミモザの声が制する。まるで一人芝居のようだ。
アリエによるとミモザは「凄い天才」との事だった。事務所であった時もあまり活発な感じはしなかったし、現場はアリエに任せてセンサーやマイクなんかを仕込んだ義手を介して協力しているのだろう。
「ところでハルさん!」
アリエが再び遥を呼んだ。
「今度は何でしょうか……」
「ニャン太さんはいつ頃から預かっておられるのですか?」
「あ、はい3日ほど前から。戸締りも気を付けていたのに1日でもういなくなって……あれ?」
ここで気が付いた。遥がまだアリエに言っていなかった情報の事を。
「私、預かっている猫だって言いましたっけ?」
いなくなった猫を探して欲しいとは依頼した、しかしまだ人から預かっている猫だという事は伝えていなかったはず。遥は目を丸くした。
「やはり! ケージやトイレその他の様子から飼っているにしては物が少なく、飼い始めにしては使い込まれているので短い間だけ預かっているのかと思いまして!」
「わあ……探偵さんぽいですね」
「実は探偵なのです! それで、どなたから預かっているのですか?」
「えっと、私の友達から旅行に行く間預かって欲しいって。門月益代っていう子なんですけど」
遥は再びスマホを見せた。遥と益代の二人が並ぶ写真を。
「ほうほう、こちらの金髪でハデな感じのかたがマスヨさんですね!」
「大学の友人なんです。(そこはマスさんじゃないんだ)」
「むむっ、これは新たな可能性が出てきましたよ! もしや、マスヨさんは摩訶府市に潜む秘密結社の人間、もしくはそういった人たちに狙われているのかもしれません!」
「えええ⁉」
遥は「探偵ぽい」と言った事を後悔した。本物の探偵に言ってしまった無礼をではなく、ちょっとでも凄い人なのかもと思ってしまった自分に。
「……ハルカさん、聞こえる?」
落ち込む遥の耳にミモザの声が聞こえた。やっぱり声はアリエの左腕から聞こえてくるようだ。
「ミモザさん? はい、聞こえてます」
「アリエはいつもこんな感じだから」
「本当に見つけてもらえるんでしょうか……」
「アリエの話はちゃんと聞いておいて。彼女はちょっと“見え過ぎ”ているの、キツいとは思うけど大事な事だから」
「うへぇ……」
思わず変な声が出た。
「おおっ、この窓は内側から開けられた形跡がありますね!」
「3階ですから」
「なるほど、ではニャン太さんが自分で開けて出ていったか、もしくは猫コレクターの怪物による誘拐事件かもしれませんね! 複雑な突風による自然現象の可能性も出てきましたよ!」
今言ったばかりの「内側から開けられた可能性」とやらはどこへ消えたのだろうか。
「うう……本当に大丈夫なのかなあ」
「こうしてはいられません! ニャン太さんは街の守護神である可能性が高いですからね、今頃は秘密結社により洗脳を受けている危険性があります!」
「どこの世界にそんな猫がいるんですか」
すると、ここで突然話の内容が変わった。
「ところでマスヨさんのご自宅はご存知ですか?」
「え? はい、時々遊びに行きますけど」
「では我々も行ってみましょう! 車を取って来ますのでしばしお待ちを!」
「わ、ちょっと⁉」
騒がしくもアリエは遥の手を取り外へ飛び出した。
あたりはもう夕方、空がうっすら赤く染まりはじめている。二人はアリエの車に揺られ益代の自宅を目指していた。
普段の様子から運転が荒いかとも思われたが杞憂だった。アリエの運転テクニックはなかなかのものだ。
「義手なのに凄いですね。というか運転できるんですね」
「驚きましたか? 実は片腕でも免許は取れるのですよ! 少々大変ですけどね!」
運転技術は大したもの、しかし別の心配はあった。
「だいぶ日が暮れてきましたね。猫ちゃんは夜行性なので夜の方が活動的ですが、あまりに目立ちすぎると猫を食べる大蛇や猫好きのUFOに見つかってしまう可能性があります。ニャン太さんが空を飛んでいないといいのですが」
アリエは運転しながらあちこちをキョロキョロと眺めている。ちゃんと前を見ているのか心配になるほどに。
「あの……、安全運転でお願いしますね……」
その言動も含めもはや突っ込む気力すら無くしかけたその時、またしてもミモザの声が聞こえた。
「ハルカさん、あなたはどうしたい?」
「どうって……」
「アリエの妄言には力がある。あなたがどうしたいか、あなたはどうなって欲しいのか、あなたが決めて引き寄せて」
「引き寄せるって、どういう……?」
それ以上ミモザからの返事は無かった。
「さあハルさん、到着しましたよ!」
車を駐め、二人は益代の自宅があるマンションの前へと降り立った。
「おお、これは立派な所ですね!」
「あはは……貧乏ですいません。って、来てから言うのもなんですけど益代いないのに入れませんよ?」
「はっはっは、心配ご無用!」
そう言うとアリエは玄関前のパネルにそっと左手を触れた。するとどういうわけか、ごく当たり前のように玄関の自動ドアが開いた。
「あれ⁉」
「さあ行きますよ、お部屋はどこでしたっけ?」
「あ、はい……」
当然ながら部屋の鍵もかかっていたのだが、そこでも同様に鍵が開いた。遥は探偵よりも怪盗に向いていると思ったが口には出さなかった。
「マスヨさんおじゃまします!」
「うう……ごめんね益代」
家主のいない部屋に踏み込んだその瞬間、遥は息をのんだ。