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76話:常陸に咲く白梅

――1860年冬、羽鳥政庁


 凍てつく朝の冷気が、政庁の回廊を通り抜けていく。屋根の端にはうっすらと霜が降り、庭の松にも白く薄氷が張り付いていた。そんな静けさを破ったのは、奥の執務室から響いた一報だった。


 「……将軍・家定公より正式な裁可が届きました。“常陸藩”の設立が、これにより公式のものとなります」


 報を受け、藤村晴人は一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いた。

 文書の中には明確に記されていた――“徳川斉昭を名目的藩主とし、藤村晴人を政務総裁に任じ、羽鳥政庁を母体とした新たな藩政組織を設立する”と。


 政庁に集った役人たちの間に、凛とした緊張が走る。部屋の奥には、藤田東湖をはじめ、吉田松陰、佐久間象山、武市半平太、渋沢栄一、岩崎弥太郎らの姿があった。全員がそれぞれの分野で頭角を現す、才覚ある者たちである。


 「制度の統合か……幕府、水戸、羽鳥、それぞれの仕組みを一つにまとめるとは、前例のない試みですな」

 象山が眼鏡越しに晴人を見つめながら、口元を引き締めた。


 「理念がなければ、制度は腐る。だが、理念だけでは人は動かぬ。両者の“橋”となるのが、政だ」

 松陰がつぶやくように言い、晴人の言葉を待った。


 「常陸藩は……まだ土台に過ぎません。形にして終わりではない。これを維持し、育てるのは我々の行動です」


     * * *


 正午過ぎ。羽鳥政庁の正庁に、百名を超える要人と郷士、町民代表らが集った。


 壇上に立ったのは徳川斉昭その人である。威厳ある白髪と鋭い眼差しをもって、周囲を一瞥した斉昭は、壇上で一歩前に出た。


 「本日をもって、常陸に新たな藩を置く。名を“常陸藩”とし、水戸の理念と羽鳥の実行力をもって、新たなる国造りの礎とするものなり」


 斉昭の背筋はまっすぐに伸び、声には一点の曇りもない。隣には藤村晴人が並び、静かに頭を下げる。

 そしてそのすぐ後ろには、緋色の羽織を身にまとった一人の女性の姿があった。


 斎藤お吉――藤村晴人の身辺を長らく世話してきた側近であり、1860年4月より個人的な世話係として雇われた女性である。政庁職員ではなく、あくまで私的な身の回りの雑務を支えてきた存在だった。


 「おめでとうございます、晴人様」

 お吉は小声でささやき、晴人の肩にそっと羽織をかけ直した。「寒うございますゆえ、風邪など召されませぬように」


 「ありがとう。……お吉がいてくれて、助かっているよ」

 晴人の視線には、わずかな微笑と感謝が滲んでいた。


     * * *


 布告式が終わると同時に、各部署では新体制の運用に向けた作業が始まった。


 軍政局では、沖田総司が若い隊士たちに型を教えていた。その背後では、河上彦斎が配置案を手に、淡々と調整作業を進めている。


 「沖田、おまえはやはり教えるのがうまい。だが、調子に乗ると刀が軽くなるぞ」

 「河上さんの目は厳しいなあ。けどまあ、剣は“見られて”強くなるんです」


 言葉を交わす二人の後ろで、若者たちの剣撃音が次々と鳴った。


 一方で経済局には、渋沢栄一と岩崎弥太郎が顔を並べ、商圏拡大と流通政策について熱い議論を交わしていた。


 「まずは信頼だ。江戸や京の商家に常陸札を受け入れさせねば、市は育たぬ」

 「俺が薩摩との裏取引も見ておく。久光公がこちらに関心を持ち始めてる。次の手はその視察だ」


 帳面に書き込む岩崎の指先は止まらない。

 若い彼らの背後では、職人たちが新しい銀建値札の検品を進め、細部にまで注意を払っていた。


     * * *


 夕刻、庁舎の屋上に立った晴人は、遠く霞ヶ浦の湖面に反射する冬の陽光を見つめていた。


 背後から近づく足音に振り返れば、そこには藤田東湖がいた。

 そしてその少し後ろに、お吉が控えている。


 「見えるものが、増えましたな」

 東湖はそう言って空を見上げた。


 「……この空の下に、名を持ち、記録を持ち、生きる理由を持つ者が増えていく。それが“藩”であり、“国”の意味かもしれません」


 「その記録を、ずっとお守りします」

 お吉の声は、小さく、それでいて芯が通っていた。


 晴人は静かにうなずく。

 その瞳の先には、名もなき民の灯が、確かに揺らいでいた。

正庁での布告から数日が経った。羽鳥の町には、冬の乾いた風が吹きすさびながらも、人々の間には確かな熱気が宿っていた。


 表通りを行き交う商人たちの背には、新たに“常陸藩御用達”と染め抜かれた商標が揺れ、子どもたちは「ひたちばん、ひたちばん」と囃し立てながら駆けていく。町の入口には新しい高札が掲げられ、そこには常陸藩政庁の構成や、札の換算制度、治安維持に関する新たな告知が整然と並んでいた。


 「年の瀬だってのに、まるで祭りみてえだな……」

 市中を巡回していた郷士の一人が、吐く息を白く染めながら呟く。その足元では、露店の主が湯気の立つ焼き芋を売り出し、近隣の農民が干し大根や味噌を納めに馬を引いていた。


 羽鳥という町が、ただの地方の一拠点ではなく、“新たな藩都”へと変貌しつつあることを、誰もが肌で感じていた。


     * * *


 一方、庁舎の内部では、各部署が慌ただしく動いていた。新設された庶務課では、机や帳簿の配置が見直され、人の出入りも一段と増えていた。


 そんな中、藤村晴人は庁舎の自室――政務総裁室と呼ばれる空間にて、分厚い報告書に目を通していた。机の上には、収税制度改革案、流通整理計画、町割りの改定草案など、各局からの建言が山のように積まれている。


 「……文面の整合性がないな。これは三条目と六条目で、逆のことを言っている」


 額に手を当てて読み返していた晴人の前に、湯気の立つ茶碗がすっと差し出された。


 「熱いお茶でございます。少し、気を休められては」

 そう言ったのは、斎藤お吉だった。鮮やかな緋色の羽織に、丁寧に結い上げた髪。厳冬の朝でも乱れのない立ち居振る舞いは、かえって庁舎の中で際立っていた。


 「ありがとう。……助かるよ」


 晴人は湯呑みに口をつけ、喉を潤す。お吉は彼の背後に回り、積まれた書類の中から崩れそうな一束をそっと引き抜いて整えた。役職は与えられていないが、彼女の所作はもはや秘書官そのものであった。


 「この書簡、岩崎様が再考を求めていたものと存じます。裏に付箋がありましたゆえ、差し戻した方がよろしいかと」


 「……お吉、いつもながら気が利くな」


 「身辺のことは、私の役目ですから」


 控えめな笑みに、晴人の目元も緩む。


 机の脇には、彼女が縫った布の帳面袋と、渋沢から借りた帳簿書きが整然と並んでいた。お吉は元来、帳簿や制度設計に通じたわけではない。だが、日々の中で耳にし、目にしたものを独自にノートへ書き溜め、知らずのうちに「補佐」としての才を磨いていたのだ。


 「そういえば……お吉は、今年の春に来て、もうすぐ一年になるのか」


 「はい。四月でちょうど一年となります」


 「この一年、俺はずいぶん、お吉に支えられてきた気がする」


 お吉は小さく頭を下げた。


 「お役に立てているなら、何よりです。……けれど、私からすれば、ここでの生活が“生きる理由”になっておりますゆえ」


 その言葉に、晴人の手が止まる。


 「生きる理由?」


 「はい。――女に学問や武芸は求められませんが、役に立てる場所があるというのは……心に張りが出ます」


 それは一見して控えめな台詞だったが、その裏には、自分の居場所を確かに手に入れたという誇りがあった。


     * * *


 その日の夕刻、政庁前の中庭では、軍政局が初の新年演習に向けての準備を始めていた。冬の空気を割って飛ぶ掛け声。若い隊士たちが竹刀を交え、火のついた松明を並べながら陣形の確認を行っている。


 一段落したところで、沖田総司が晴人のもとへ駆け寄ってきた。


 「政務総裁殿! ちょっと見てほしいものがあります!」


 「どうした、沖田くん」


 「新隊の初陣式、演武構成を見直しました。武市先生と調整して、より“魅せる”形に仕上げました」


 沖田は巻物を広げ、手で模擬陣を描いて説明を始める。その背後では、河上彦斎が腕を組んで静かに見守っていた。


 「……相変わらず熱いな」


 「はいっ! でも、これが“藩”ってものだと思います。民に見せて、誇れるものを築く。それって、剣の所作にも通じるんですよ」


 若者のまっすぐな眼差しに、晴人は頷きながら言葉を返した。


 「君たちの剣が、藩の矜持になる。――頼んだぞ」


 「はいっ!」


 沖田の背筋が伸び、剣士たちの士気が一段と上がった。


     * * *


 夜。政庁の灯が落ち、庁舎の一角ではお吉が最後の帳面整理をしていた。静まり返った廊下の向こうから、晴人の足音が近づいてくる。


 「お吉、もう遅い。今日はもう、上がっていいぞ」


 「晴人様こそ、夜更かしは体に毒でございます」


 「……その言葉、そっくり返すよ」


 二人の間に、ふとした静寂が落ちる。


 「なあ、お吉。――“国を作る”って、どう思う?」


 「……私には、難しいことはわかりません。けれど、“誰かが守ってくれる”という安心があるだけで、人は強くなれるのだと思います」


 お吉はそっと筆を置き、顔を上げた。


 「晴人様がいてくださることで、私も……強くなれます」


 その言葉に、晴人は何も返さず、ただ黙って深く頷いた。

翌朝。羽鳥政庁・東棟の議政室では、窓越しに柔らかな朝陽が差し込んでいた。

 障子の外では、まだ雪解けの音がしとしとと続いており、庭木の枝には白い綿のような霜が残っていた。


 部屋の中央には大きな円卓が置かれ、その周囲に藤村晴人を筆頭に、藤田東湖、吉田松陰、佐久間象山、渋沢栄一、そして各部局から選ばれた若手代表らが席を囲んでいた。


 卓上には、分厚い法令草案集と、新しい通達様式を記した書状がずらりと並び、会議はすでに熱を帯びていた。


 「法は人を縛るためのものではなく、人を“守るため”の枠でなければならぬ」

 そう断じたのは松陰だった。右手で古びた巻物を押さえながら、真剣な目を晴人に向ける。


 「だが、人を守ると謳うだけでは、情と慣習に流される。統治に必要なのは、厳しさと整合性だ」

 対する象山は、冷静な口調で一字一句を指摘し、文言の“曖昧さ”を削ぐように詰め寄っていた。


 「理念が先か、運用が先か」

 晴人は書簡の束を指で叩きながらつぶやいた。


 「現場では“抜け道”を探す者もいる。理念が独り歩きすれば、制度は骨抜きになる。だが、理念なき制度は、ただの鎖でしかない」


 室内に、一瞬の沈黙が落ちた。


 その空気を和らげるように、渋沢が口を開いた。


 「実のところ、法そのものよりも、民が“納得するか否か”が肝要です。――たとえばこの税制。旧羽鳥地域と水戸旧領では、納税の習慣が微妙に異なる。ここを統一するのに必要なのは、技術でも罰則でもなく、物語です」


 「物語、ですか」


 若手官吏の一人が、興味深そうに問い返した。


 「はい。なぜその制度が必要なのか。どうして一律にするのか。――そういった説明が“誠意”として通じるか否か。それが、納得の度合いを分ける。数字や通達だけでは、民の腹には落ちません」


 「……なるほど、役人の言葉だけでは、町は動かないと」


 晴人は静かに頷いた。

 「その“物語”を背負うのが、我々であり、“常陸藩”という看板なんだな」


     * * *


 会議が終わると同時に、晴人は一人、政庁内の新設された“公示広間”へ足を運んだ。


 ここは町民や郷士が自由に出入りできる情報交換の場として、斉昭の進言で作られたものである。

 壁には掲示板がずらりと並び、藩政の施行予定や、職人向けの税軽減制度、銀札流通の状況報告などが貼られていた。


 その一角では、小さな囲炉裏を囲みながら、十名ほどの男女が意見を交わしていた。


 「常陸藩っちゅうのは、結局、水戸と何が違うんだい?」

 そう問うたのは、商家の年配男である。


 「こっちじゃ、“晴人様”が表に立ってる。それだけで、町は変わった気がしますよ」

 と答えたのは、豆腐屋の娘。膝の上で幼い弟をあやしながら、にこやかに語る。


 晴人は扉の外からその声を聞いていた。声をかけるべきか、一瞬迷ったが、結局そのまま立ち去った。

 心に残ったのは、“名前があること”の重みだった。


     * * *


 その日の夕刻。

 庁舎の裏手にある、小さな石畳の庭で、お吉が一人、桜の木に竹箒をかけていた。


 冬木立の中、葉を落とした桜の枝に、早くもつぼみのような膨らみが生まれているのに気づき、お吉はそっと手を伸ばした。


 「……春が、来るんでしょうかね」


 その背後から、静かな足音が響いた。

 藤村晴人だった。手には、庁内で配られたばかりの『常陸藩行政報』の草稿が握られている。


 「お吉――これは君にも見てほしかった」


 「はい?」


 晴人は草稿を差し出した。


 「この報には、“常陸藩が何を目指すか”を載せた。制度ではなく、未来像を描く言葉として。……君が話してくれた、“支える場所があるだけで、人は変わる”というあの言葉を、最後に使った」


 お吉の目が見開かれた。


 「まさか……あのような、何気ない独り言を……」


 「民が読むものにこそ、そういう言葉が必要だと思った」


 晴人は庭石に腰を下ろし、空を見上げた。


 「俺は、“民を導く者”にはなれない。けど、“ともに歩む者”でありたいと思っている。それが、俺がここに来て得た結論だ」


 お吉はしばらく何も言わず、黙って草稿を受け取った。


 そして、ぽつりと呟く。


 「では、私は“道を掃く者”でいましょうか。貴方が歩む道が、少しでも滑らかでありますように」


 その言葉に、晴人は笑みをこぼした。


 「それは、とても頼もしいな」


     * * *


 夜が更け、庁舎の窓に灯がともるころ。

 藤田東湖と佐久間象山が二人並び、政庁の廊下を歩いていた。


 「……藤村殿の考え方は、まことに“新しき道”を感じさせますな」

 象山がぽつりと言う。


 「新しき道――しかしそれは、けっして独りでは開けぬものだ」

 東湖が頷く。


 「だからこそ我らは、己の“剣”を磨くだけでなく、“筆”を振るわねばならぬ。名もなき者たちの言葉をすくい上げ、次の世に渡すために」


 二人の足音が、静かな廊下に響いた。


 その夜、“常陸藩”という名前のもとに交わされた言葉の数々は、まだ形にならぬ国の未来を、少しずつ照らし始めていた――。

雪の残る庭園を前に、政庁奥座敷の障子が静かに開かれた。

 廊下の向こうから、ひとりの老臣が歩み寄り、深く頭を下げる。


 「斉昭公、すべて、整いました。常陸藩設立の告文、江戸にも発せられました」


 「そうか……そうか」


 徳川斉昭は、静かに立ち上がった。

 病の気配など微塵もない。背筋は伸び、眉間に刻まれた皺は、むしろ威厳そのものだった。


 その視線の先には、白梅が咲き始めた一株の老木がある。

 羽鳥に移ってから三年。水戸から運ばれてきたその梅は、この地の土にようやく根を張り、この冬、初めてひとつの蕾をほころばせた。


 「……花は、咲くものだな。移された先でも、時を選び、静かに咲くものだ」


 誰に語るでもなくそう呟いた後、斉昭は背後に立つ影へと声を向けた。


 「慶喜、見たか。この庭も、ようやく“常陸の春”を迎えたのだ」


 「はい……父上」


 脇の柱に身を預けるようにして立つ徳川慶喜が、深く頷いた。

 その眼差しには、咲きかけた梅と父の背中が重なって見えていた。


   * * *


 「常陸藩」――。


 その名が告げられた今、もはや水戸藩は“過去”となった。

 旧来の支配体制を脱し、民の中から生まれ、民の手で築かれる、新たな統治の形。


 斉昭が若き日に志した“理想の国づくり”――。

 文を重んじ、武を尊び、民を育む。そのすべてが、かつては御三家の一藩主には夢に過ぎなかった。


 「だが、夢は、夢では終わらぬようだな……」


 斉昭は、玉座にも似た座布団に静かに腰を下ろし、襟元を整えながら独りごちた。


 「我ら水戸家は、正しき道を求め、常に江戸に咎められてきた。朝廷への忠義を唱えれば“狂気”とされ、民を顧みれば“謀反”と疑われた」


 その声音に、慶喜がわずかに表情を曇らせる。


 「父上……それでも、私は幕府の中に、道を通す余地があると信じています」


 「わかっておる、慶喜。お前の才と胆力は、幕府の中でこそ試されるべきだ。だがな……」


 斉昭は、ゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。


 「この常陸こそが、水戸の理想を現す“器”なのだ。農と兵の両立、身分を超えた学問、公議による自治……。藤村晴人という異形の才によって、それが現実になろうとしておる」


 その目に灯った熱は、志士としての若き日の情熱の名残であった。


 「水戸では狭すぎた。だが、今の常陸ならば――。あやつならば……わしの夢も、安政の志士たちの夢も、“かたち”になるやもしれぬ」


 慶喜は言葉を呑んだ。

 父がかつて晴人を“危険な男”と遠ざけようとした時期を、彼は知っている。


 だが今、斉昭の表情には、“危うさ”よりも“希望”が浮かんでいた。

 異物であれ、異端であれ、それを活かすことが“時代を変える”という確信が、そこにあった。


   * * *


 「慶喜」


 「はい」


 「もし、そなたが将軍となったならば――あの男を、晴人を、“ただの家臣”として見るな。あやつは、時代のほうを動かす男だ」


 「……」


 「だからこそ、恐れ、敬い、そして……できることなら“友”として遇せよ」


 その言葉に、慶喜は深く頭を垂れた。


 「承知いたしました、父上」


   * * *


 その夜。斉昭は、文机に向かって筆を執っていた。


 一枚の書状。

 それは“常陸藩創設布告”の最終稿であり、末尾には斉昭自らの筆で、こう綴られていた。


――此の地をもって、我らが“再建”の礎と為す。

――新しき藩の名は、“常陸”。この名のもとに、我らが志、再び萌ゆることを。


 筆跡は凛として、揺らぎがなかった。

 斉昭の胸には、“この場所でなら、夢を託せる”という確信があった。


   * * *


 そして同じ夜。

 隣室の灯の落ちた書斎で、徳川慶喜は帳面を広げていた。


 藤村晴人とのやり取りを記した記録帳。

 一行一行を読み返すたび、胸に刻まれる覚悟があった。


 「父は、お前に未来を託した……。ならば、私は“隣に立つ者”として、自分の道を切り開く」


 そう呟き、慶喜は一筆、記録の末尾に記した。


――常陸は、父の夢。

――江戸は、我が戦場。


 筆を置いた若き将軍候補の眼差しは、迷いなく未来を見据えていた。

 その背に、父の志と、自らの覚悟が、静かに重なっていく――。

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