75話:羽鳥から常陸へ
雪解け間近の羽鳥の町に、かすかな春の気配が漂い始めた。
それは季節の変化にとどまらず、この地に根づいた“制度”の風が、やがて全常陸を包み込む前兆でもあった。
羽鳥政庁――否、**新たに「常陸藩政庁」**と改称されたその庁舎には、今朝から藩旗が掲げられ、その下で整然と並ぶ文官たちの姿があった。
「……やはり、変わったな」
白木の手摺から外を見下ろしながら、藤田東湖が感慨深げに呟く。
その隣に立つのは、羽鳥教育局の中枢に招かれた吉田松陰と、主人公・藤村晴人の改革初期に自ら訪ねて来て水戸藩士となった武市半平太である。
「民を守る政庁が、いまここにある。名だけでなく、すべての仕組みが改まった」
松陰がしばし目を細めながら語ると、武市は腕を組み、厳しい口調で応じた。
「その実、わしにはまだ信じられぬ。土佐では、郷士と上士が血を分けるように争っておるというのに、ここでは武士も町人も“同じ常陸の民”と呼び合っているとは……」
東湖は静かに頷いた。
「それを実現させたのは、我らの才ではなく――この地に“必要だったから”であろう。飢えと混乱を乗り越えるため、過去を置いて前へ進むしかなかったのだ」
階下では、戸籍役所の開所式が行われていた。
紙と筆に代わる新たな記録簿、村の出張所から報告される婚姻・出生・死亡――すべてが「常陸藩政庁」のもとで一元的に管理され始めている。
「東湖先生、これは江戸の武家政からすれば、まさに異端にございますな」
松陰がやや苦笑しながら言うと、東湖は少し口角を上げて返す。
「正道を歩めば、それが正しいと認められる時が来る。藤村晴人殿は、理屈ではなく“成果”でそれを証明しようとしておられる」
* * *
その頃、庁舎の中庭では、銀建値札の発行式が粛々と進められていた。
「これより、藩札に代わる新貨幣――『銀建値札』を、常陸藩標準貨幣として布告する!」
式の中心に立つのは、当然ながら藩政改革の中心人物である藤村晴人だ。
従来の藩札に代わり、幕府の銀目取引と連動する“換金可能な基準貨幣”として、この地の経済が動き出すことになる。
白銀に似せた薄い金属札は、美しい家紋の透かし入りで、贋造を防ぐ細工も施されていた。
「これで、江戸や長崎、果ては薩摩との取引も、信用をもって行える。物の価値を揃え、嘘をなくす。すべては“信”のためだ」
晴人の言葉に、列席した各村の庄屋たちも一様に頷いた。
「わかりやすうて、ありがてえ。今までは両だの文だの、値段が毎日変わるでな」
「これが“お上の定めた値”ならば、安心して商いができる」
* * *
一方、各村に設置された出張所では、若き文吏たちが奔走していた。
彼らは単なる役人ではなく、教育塾や技術塾を経て採用された“地域担当官”であり、村ごとの事情を学び、民と共にある姿勢を貫いていた。
出生届を記録し、夫婦の婚姻を認め、土地の境界争いには中立の調停を行う。
そのすべてが、かつて“武家の裁量”とされていた事柄である。
「なあ、庄屋様。俺ぁ、あの役所の若い衆の言うとおりにやってみるぜ。確かに記録があった方が、後々の争いも減る」
「うむ……若いもんに教えられるとは思わなんだが、理に適ってる」
村人の間でも、そうした“納得”が生まれつつあった。
* * *
そして、斉昭公の言葉が、すべての変革に重みを与えていた。
彼はこの日、自ら筆をとり、政庁に向けて一通の書簡を送っていた。
――「この地が、再建の礎となろう」――
その言葉が、政庁内の掲示板に貼られるや否や、文官たちの間に小さなどよめきが広がった。
晴人はそれを見て、そっと口にした。
「我らがやってきたことは、まだ道の半ば……だが、ようやく“国”の輪郭が見えてきた」
そこにやってきた東湖が、静かに微笑む。
「藤村殿。人は国に従うのではなく、“国を選ぶ”ものです。ここで暮らしたいと思わせる――それが政治というものでしょう」
松陰もまた、晴人の背に語りかけた。
「この常陸が、新しき日本の雛形となるよう……我々も筆と声を尽くしましょう」
冬の冷気が残る朝、羽鳥から各地へと馬車が次々に発ち、その荷台には布にくるまれた簿冊と、刻印入りの錠付き箱が慎重に積まれていた。
箱の中身は、常陸藩政庁が正式に布告した新たな地方貨幣――「銀建値札」である。水戸で鋳造され、羽鳥政庁の監査印が押されたこれらの札は、順次、各郷の出張所や宿場町の両替所へと届けられ、従来の藩札や物々交換に代わる標準通貨として流通し始めていた。
「重いな……」
若い搬送員が箱を抱えながら唸る。脇を歩いていた中年の役人がふっと笑う。
「札が重いんじゃない。中に詰まっているのは、“信用”の重さだ」
「でも、“銀”って名前でも、別に銀そのものが入ってるわけじゃないんですよね?」
「ああ、そうだ。“銀建て”とは、価値を銀に準拠させているという意味だ。本物の銀貨は数が限られてる。だから、その代替として紙札を使い、政府がその価値を保証する仕組みさ」
「……そんなもの、みんなが信じなきゃ、ただの紙じゃ?」
「信じさせるのが、俺たちの仕事だ」
その言葉には、未来を築こうとする者の決意が宿っていた。
* * *
常陸藩政庁の一角――かつて羽鳥政庁と呼ばれた場所では、朝早くから帳簿と印章の音が響いていた。
この日、各村に設けられた出張所から、続々と報告が届いていた。
「北の松岡村、出生届は今月すでに二十五件です。婚姻届けは八件。制度としては十分な滑り出しと言えるでしょう」
「谷田部村では地所の境界を巡る訴訟が三件。いずれも調停役の判断で和解に至っております」
報告を受ける晴人は、頷きながら備え付けの帳面に朱筆を走らせた。半年以上前から試験的に導入していたこの制度は、今や全藩をカバーする本制度として動き出した。
彼の背後には、記録局の若手役人たちが黙々と書類を整理し、財産・戸籍・訴訟・婚姻という四つの項目に分類して、中央の記録室へとまとめていた。
「……出張所の担当者、定数は足りているか?」
「はい。郷士の次男三男や、寺子屋出の文士を選抜し、各地に派遣しています。現地の者との軋轢はあるものの、村人の信頼はおおむね良好です」
「制度を押しつけるな。現地の声を吸い上げて、柔軟に運用しろ。規則が人を締めつけるようになったら、それはもう“行政”ではない」
晴人の言葉に、報告していた役人の顔が引き締まった。
その様子を、そばで見ていた吉田松陰が、柔らかく微笑みながら口を開いた。
「政とは、すなわち“行う学”である――近ごろ、私もそう思うようになりました」
松陰はかつて長州で獄に繋がれていたが、晴人の密かな奔走により水戸藩に招聘され、現在は羽鳥で若者たちに学問を教えている。
「学ぶことも大事だが、行わねば意味がない。まさに今、それを地でいっておられる」
「……未熟ですよ。たとえば、この銀建値札だって、数年もてば上々です。いずれまた見直さねばなりません」
「それでも始める、その胆力が、民を動かすのです」
* * *
その頃、常陸の各出張所では、“記録の式”と呼ばれる儀式が行われていた。
出生・婚姻・訴訟・死亡――そのすべてを記録し、公文書として保存する初の制度は、単なる事務ではなく“共同体の証し”と位置付けられていた。
羽鳥政庁の公簿堂では、藤田東湖が式典に立ち会い、緊張した面持ちの若い書記官に語りかけていた。
「君の筆が、未来を記す。間違えることはあっても、誤魔化すことは許されない。正しさよりも、誠実さを優先せよ」
青年は深く頷き、渾身の筆致で一行一行を綴っていった。そこに記されたのは、山間の小村で誕生した一人の子供の名前だった。
――今までは記録すら残らなかった庶民の存在が、初めてこの国の歴史に刻まれた瞬間である。
その様子を見つめながら、晴人はぽつりと呟いた。
「……これが“国家”の最小単位なんだろうな」
* * *
庁舎の外、中庭では武市半平太が若者たちに声をかけていた。
彼は土佐ではなく、水戸改革初期に自ら晴人を訪ねてきて、「ここで働かせてほしい」と申し出た男だ。現在は警政局の指導役として、青年層の啓発に務めている。
「身分は関係ない。お前たちはこの土地を守る“民の盾”じゃ。困ってる者を見たら助けろ。迷ってる者がいたら道を示せ。偉ぶるな、怯むな、誇れ」
「はいっ!」
凛とした返事が広がる中庭で、晴人は立ち止まり、しばしその様子を眺めた。
「半平太さん、いい教官になりましたね」
「最初は口下手でしたけど、今はもう……こっちが教えられてます」
彼らの背後には、庁舎の柱に貼り出された「常陸民の誓い」の掲示文が風に揺れていた。
――我らは、常陸の民として誇りを持ち、隣人を敬い、正義を守ることを誓う。
この文は、晴人が草案を書き、東湖と松陰が添削し、半平太が現場で実践させたものだった。
「言葉は、ただの飾りになりやすい。けれど、信じて生きる者がいる限り、言葉は剣にも盾にもなる」
東湖の言葉に、松陰が頷く。
「“誓い”があるからこそ、人は人であり得るのでしょう。いつかこの常陸が、大和の模範となる日が来るやもしれませんな」
正午を告げる太鼓が鳴り響いた頃、羽鳥政庁前の広場には、遠方の村々から集められた代表たちが列をなし、その手には封印された布包みが抱えられていた。中にあるのは、各郷に配布される銀建値札――常陸全土を覆う、新たな信用と価値の象徴である。
「おらの村にも、これが届くんだな……」
木綿の上着を着た初老の男が、目を細めてつぶやく。隣にいた若い庄屋が頷いた。
「はい、親方。今日から、うちの村でも“値”が統一されます。味噌も米も、銭ではなく、この札で取引できます」
「昔は“こめ何合”だった。銭じゃ価値がぶれちまう。だが、これは“銀の値”に合わせてある……それがよう分からんが……」
「分からずとも信じて使えば、仕組みはあとから理解されます。制度はそういうものです」
すぐそばでは、記録局の若者が出張所の代表に銀札の使用マニュアルを説明していた。払い戻しの手順、偽札対策、交換の手続き。用語も極力わかりやすく、「百文」といった従来の単位と併記することで、農民にも違和感なく導入されるよう工夫されていた。
「これを村に持ち帰れば、今度は庄屋が住民に教えるのですね?」
「ええ。すでに巡回講習も始めています。“文字が読めない人にも伝わるように”と、芝居仕立ての寸劇を作っている村もあるとか」
「……まるで芝居で札を売るとは、なんとも面白い世になったものよ」
笑い声が広がる中、政庁の二階に設けられた執務室では、晴人たち幹部が地図を前にしていた。常陸の地図には、かつての藩境を示す線がまだ残っている。土浦、笠間、松岡、宍戸……いずれも長く“藩”として存在してきたが、今ではその名すら薄れ、住民たちは次第に「常陸の民」と口にするようになっていた。
「……不思議なものだ。名前を変えただけで、人の意識がこんなにも変わるとは」
松陰がぽつりと漏らすと、藤田東湖が頷いた。
「いや、変えたのは名ではなく“仕組み”じゃ。名前は象徴に過ぎん」
「確かに、制度があって初めて“名”が定着するのですね」
そのとき、部屋の扉が開いた。
「斉昭公がいらっしゃいました」
係の声に、一同が立ち上がる。徳川斉昭――いまだ健在であり、後継に慶喜を据えつつも、羽鳥と常陸の行く末を見守り続ける重鎮である。
白髪に近い髷、深く刻まれた眉間の皺。その眼光はいまだ鋭く、晴人にも一歩引かせるほどの威圧を放っていた。
「……今日が、その始まりか」
斉昭は地図を見下ろすと、ゆっくりと手を伸ばし、筆を取った。
かつての藩境を示す線の上に、太く力強い筆致で一文字を書き込む。
――「無」。
「過去の境は、今日をもって“無”とせよ」
一瞬、場が静まり返る。その静寂を破るように、武市半平太が声をあげた。
「……では、我らは何を以て、この国を分けるのでしょう?」
斉昭は振り返ると、低く、だがはっきりと答えた。
「“分ける”必要はない。“担う”のだ。名も身分も捨て、土地を背負う者が“国”となる」
その言葉に、松陰も東湖も黙して頷いた。もはやここは“水戸”ではない。“羽鳥”ですらない。“常陸”という名の、新しい共同体なのだ。
* * *
広場に戻ると、民たちの前で晴人が口を開いた。
「本日をもって、羽鳥政庁は“常陸藩政庁”へと名を改めます。皆さまがこの地に生きること、それそのものが、新しい時代を創る礎です」
その言葉に拍手が巻き起こる。とくに若い者たちは、新しい名、新しい仕組みに希望を見出していた。
「父ちゃん、うちらも“常陸の民”になるん?」
「そうだ。今日からは、そう名乗ってええ」
「……なんか、強そうな名前やな!」
笑い声と共に、未来の足音が少しずつ確かに鳴り始めていた。
その夕刻。
薄茜に染まる空の下、羽鳥にある教育庁附属学館――通称「共学舎」では、ちょうど一日の学びを終えた子どもたちが、手に手に習字帳や木板を抱えて外に出ていた。
「先生、見て見て! “しんよう”って、こう書くんだよ!」
小さな手が掲げた半紙には、たどたどしい筆致ながら、確かに『信』の文字が記されていた。
「うむ、よくできました。力強く、真っ直ぐに書けていますね」
優しく目を細めたのは、かつて長州で幽囚の身であったはずの吉田松陰である。今は水戸藩士として羽鳥に籍を置き、未来を担う子らに“志と理”を教えていた。
「“信じる”って、なに?」
と、隣にいた少女が首を傾げた。
松陰は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに静かに言った。
「信じるとは、目に見えぬものに希望を託すことです。誰かを、そして未来を信じることは、やがて己を信じる力になります」
「……ふーん。でも、ちょっとむずかしい」
「難しいことを、君たちはこれから毎日、少しずつ学ぶのです。それが“学び”という旅ですよ」
そのとき、通りの向こうから晴人が歩いてくるのが見えた。
「藤村さーん!」
数人の子どもが駆け寄ると、彼は膝を折って目線を合わせた。
「今日も学問、頑張ったか?」
「うん! “けいざい”って字、書けるようになった!」
「おぉ、それはすごい。“けいざい”は国を動かす大事な力だ。みんなが上手くなる頃には、この国はもっと良くなってるはずだぞ」
「じゃあ、もっと勉強するー!」
子どもたちの声が夕暮れに溶けていく。その光景を、松陰は微笑ましく見守っていた。
* * *
夜が訪れ、羽鳥の街には静かな光が灯った。
ガス灯の橙色の火が街道を照らし、店先では夜市の準備が進んでいる。新しい銀札が配られたこともあり、町人たちの間では「札で買えるもの」を試すように、干物や布地、薬草などが並びはじめていた。
「ほれ、銀建値札や。これでちり紙十束、な?」
「へぇ、ありがとよ。思ったよりしっかりしてるな……ほら、おっかぁ!」
広場の片隅には、旅芸人たちが即席の小舞台を作って寸劇を始めていた。
「“ほれ見ぃ、旦那様。あの札があるから、今宵の酒も安心して飲めるってもんで!”
“おぉ、ありがてぇ、ありがてぇ……!”
通りすがりの子どもたちや町人が笑い、拍手を送る。――制度は、ただ書物に記されただけでは根付かない。人の口から口へ、身体から身体へ伝えられてこそ、血となり骨となる。
* * *
その頃、政庁内の小広間では、政庁幹部と各藩から移籍してきた代表者たちが一堂に会していた。
集められたのは、松岡、宍戸、谷田部、笠間、下館といった各藩出身の郷士や文人、そしてかつて町奉行や検地役だった者たちだ。
「……これまでは藩の壁があった。だが、これからは“職能”でつながる」
晴人の言葉に、皆が真剣な面持ちで頷いた。
「地名も、家名も、格式も――それは尊ぶべき歴史だ。だが、今必要なのは“これから何をするか”だ。常陸は、おのおのの力を活かし、共に歩む場でありたい」
ややあって、ひとりの老年が口を開いた。
「わしは元・宍戸藩の者じゃが、こうして呼ばれるとは思わなんだ。“宍戸”でなく、“常陸”の名で人に会うのも、悪くない」
別の者も続く。
「……正直、不安もある。“藩”が消えるのは、自分の故郷がなくなるような寂しさもある。だが、今の羽鳥を見てると、“ここなら託せる”と、そう思えてくる」
「託されるからには、恥じぬよう働きます」
晴人は静かに頭を下げた。拍手はなかった。ただ、誰もが背筋を伸ばして席に座っていた。
* * *
その夜。
政庁中庭では、“常陸民の誓い”を祝して篝火が焚かれ、住民代表と政庁幹部が囲炉裏を囲んで火を見つめていた。
東屋の柱には、改めて新しい掲示文が掲げられた。
――我ら、郷士・町人・庶民を問わず、常陸の民として誇りを持ち、隣人を敬い、正義を守ることを誓う。
「誓い」とは、目には見えぬ鎖でありながら、心に灯を点す言葉でもある。
藤田東湖は立ち上がると、静かに言った。
「皆がこの誓いを忘れぬ限り、常陸は道を見失わぬであろう。もし曇ったときは、ここに戻り、火を見よ。この火は、我らの“志”だ」
それを聞いていた少女が、ぽつりと尋ねた。
「この火、ずっと灯しとくの?」
晴人が膝を折り、笑って答える。
「うん。誰かが灯し続けてくれれば、ずっと灯る。君も、その“誰か”の一人になれるよ」
夜風が吹いたが、火は揺れても消えなかった。
それは、名もなき民の中に宿る“志”の火。やがては藩を越え、国を越え、時代を照らす光となる――そんな予感を胸に、彼らはそれぞれの家路についた。