74話:武と技の再構築
羽鳥政庁西館に併設された仮設軍政局では、朝から規律ある動きが繰り返されていた。旧藩士たちの再編に向け、訓練日程や物資の割り振り、武器整備の計画など、数十人の武士や役人が慌ただしく立ち働いている。
その中央に、二人の男が立っていた。
一人は、鋭い目元に静かな威厳を湛えた近藤勇。かつて江戸の試衛館で剣を学び、若くして道場を支えていた男である。
もう一人、やや細身で口数は少ないが、冷静沈着な気配を放つ土方歳三。彼もまた試衛館にて研鑽を積み、記録や会計に明るく、剣術だけでなく周囲の調整にも長けていた。
二人は、藤村晴人が水戸藩の政務を任される以前――未来の知識によりその才をあらかじめ知っていた晴人によって、水戸に招かれていた人物である。その後、晴人が羽鳥政庁の主導権を持つにあたって、ともに軍政局を支える要職に就いた。
「北部の小隊、予定より五日遅れだと?」
近藤が報告書に目を通し、書記官に問いただす。
「はっ、先日の大雨で街道が崩れ、橋も流されております」
「道が駄目なら別ルートを使え。あの辺りの峠越え、案内役がいれば通行は可能なはずだ」
「調査の手配を急ぎます」
無駄のない指示に、周囲の武士たちも姿勢を正す。
土方は、机に広げられた地図をじっと見つめながら、低く言った。
「補給経路の変更届がまだ出ていない。軍の動きに遅れが出れば、民にも影響する。訓練計画と併せて書類を一本化して出せるよう、書式を改めよう」
近藤が軽く頷いた。
「役人に任せるだけじゃ回らねぇ。現場も文も、両方知るやつが動くんだな」
そのやり取りに、若い士族の一人が感心したように目を見張った。
* * *
その日の午後、羽鳥政庁大講堂では、常陸の各地から集められた旧藩士約百名が列を成していた。式台の上に立つのは、政庁長官・藤村晴人。その両脇に近藤勇、土方歳三。背後には軍政局の面々が控えている。
堂内は、重い沈黙に包まれていた。
「――皆さん。お集まりいただき、ありがとうございます」
藤村は、ゆっくりと深く頭を下げた。
「皆さんは、それぞれの藩で武に身を置き、家を支えてきた方々です。しかし、今の世に求められるのは、剣だけではありません。技もまた、“守る力”として問われているのです」
彼の言葉に、幾人かが目を細めた。
「我々は、皆さんを“常陸義勇備”として再編成します。剣術の訓練はもちろん、銃の運用、通信、工兵、整備――あらゆる領域において学び直していただきます」
「では、我らは武士をやめて兵になれと?」
年配の士族が立ち上がり、問いかける。
晴人は静かに頷いた。
「いいえ。武士の“心”はそのままに、時代に通用する“力”へと昇華していただきたいのです」
その時、土方が一歩前へ出た。
「俺たちは、江戸で剣術を学び、民の道場で教えていた身だ。水戸に仕えてからも、最初は下役だったが、今は違う」
近藤も口を開いた。
「剣だけじゃ、この先は守れねぇ。火薬の扱いも、整備も、道の作り方も。全部、俺たちの“武”だ」
「剣の誇りにすがって、手を汚すのを嫌えば、やがて刀も振るえなくなる。技を持たねぇ者は、もう武士じゃねぇ」
堂内に、微かなざわめきが広がった。
* * *
その夜、羽鳥郊外の訓練場では、最初の講習が始まっていた。
スナイドル銃の取り扱いを教える男は、元薩摩藩の実戦経験者であり、現在は羽鳥軍政局の指導教官として雇われている。
「構え方が違う! 右肩の位置が高いと、狙いが狂う。照準は、呼吸で合わせろ!」
元藩士たちは、火薬の匂いに顔をしかめながらも、何とか言われた通りに銃を構えていた。
別棟の修理工房では、若者たちが分解された銃や刀剣の部品を前に、技術士の講義に聞き入っていた。
「修理は“戦”だ。道具を知らずに戦場に出るな。鍛冶屋任せにしてたら、命は拾えねぇぞ」
日を追うごとに、彼らの表情は変わっていく。
* * *
政庁屋上の見張り台からは、焚き火の灯りが揺れる訓練場や、整然と組まれた道具棚が並ぶ工房が見渡せた。
その光景を見ながら、藤村晴人は、近藤と土方に声をかけた。
「剣の先に何を見るかで、人の行き先は変わります。お二人の働きが、その“道”を示してくれています」
近藤は無言で腕を組み、土方が小さくうなずいた。
陽が傾く頃、羽鳥政庁の武官詰所には、剣術着に身を包んだ若き士たちが集まっていた。
廊下を通る風が、畳に落ちる夕陽の筋を揺らす。剣の稽古を終えたばかりの者たちが、木刀を抱えて濡れた額をぬぐっていた。外には、まだ打太鼓の音が響き、道場では次の組が気合を込めて対峙している。
「……ふう。今日も一日、無事に終わったな」
腕を組み、稽古場を見下ろしていた男が、静かに呟いた。常陸義勇備の副頭取・土方歳三である。浅黒い肌と引き締まった体つきは、かつての町道場の若き師範という面影を今に残していた。
「おう、歳三。休憩か?」
背後から声をかけてきたのは、同じく義勇備の頭取を務める近藤勇だった。大柄な体に似合わぬ静かな足音を立て、鉄瓶を手にしている。
「ちょうどよかった。水でも飲んでおけ」
「感謝する」
二人は腰を下ろし、火鉢を囲んで湯を注いだ茶碗を手に取った。
「昔は、ただの師範だった俺たちが、今じゃ軍政の中核とはな……」
「なに、あのとき藤村様に声をかけられなければ、まだ江戸で道場の掃除でもしていたかもしれん」
歳三が笑いながら返した。
「そうだな。いや、剣を磨いていたことが無駄だったとは思っていないが、ここでは“剣が意味を持っている”という実感がある」
「護る剣……だな」
「そう。民を斬るのではない。未来のために振るう剣だ」
二人は言葉少なに頷き合い、再び立ち上がった。
* * *
武備再編の発令から二十日。常陸全域にいた旧藩士二万余のうち、およそ七千名が羽鳥に集結し、“義勇備”という新たな編制のもとに再教育を受け始めていた。
訓練内容は旧来の歩兵・騎馬兵の枠を越え、火器運用、築城術、整備、医療救護など多岐にわたる。羽鳥政庁の軍政局に属する若手官僚や、技術塾から派遣された工学師範も連日指導に加わっていた。
鉄工所では、火花を散らしながら新式銃の試作が行われ、火薬庫では厳重な監視のもとで化学者たちが発破実験を繰り返している。
「軍と工、両輪で進むべし」
それが藤村晴人の方針だった。
* * *
羽鳥政庁の広間では、再配置された義勇備の中堅指導者たちを前に、晴人が訓話を行っていた。
「君たちは、かつて各藩で“武士”として生きてきた」
彼の目は、居並ぶ面々一人ひとりをしっかりと見据えていた。
「だが、時代は変わった。剣の価値は、“誰を倒せるか”ではなく、“誰を守れるか”にある。――この国を、民を、未来を守る剣。それが今、諸君らに求められる“武”である」
重い沈黙の中、近藤と土方が一歩前に出て膝をついた。
「拙者どもは、この新たなる“義”に従い、心して任務に励みます」
「民に剣を向けぬこと、それを守ること。それが俺たちの誓いでございます」
その姿に、他の藩士たちも頭を垂れた。
――忠義の対象が藩から“民”へと移る瞬間だった。
* * *
その夜、羽鳥の新道場では、一般町民に向けた剣術講座が始まっていた。
木刀を握る少年たち、農夫姿の青年、町娘に至るまで、道場の板の間には多様な人々が並ぶ。教えるのは義勇備の剣士たち。教本には、護身の構え、逃げ方、仲間との協力法までが記されていた。
「剣とは、相手を倒すためだけのものじゃない。“逃げる道をつくる”のも、立派な剣の仕事だ」
そう語る師範の言葉に、子供たちは真剣に耳を傾けた。
新たな“剣の価値”が、静かに羽鳥に根を下ろし始めていた。
早朝五時。まだ空が薄明るいばかりの羽鳥兵営に、号令が響き渡る。
「整列――っ!」
地鳴りのような足音が続き、訓練場に隊列が並ぶ。ぴしりと揃った歩調、姿勢、武器の持ち方まで、一糸乱れぬその立ち姿は、まるで武芸者というより“統制のとれた部隊”そのものだった。
この日、常陸義勇備の新編成部隊が、初の観閲式を迎えた。
「気をつけ、前へ――進め!」
声が飛び、全隊が地を蹴る。足並みは揃い、軽快な太鼓のリズムに合わせて歩みを進める。
槍隊、弓隊、そして最新式の火縄銃を装備した射撃隊。さらに、鍛錬を受けた工兵隊と野戦衛生班までが整然と進み、観閲台の前を通過していく。
観閲台には、藤村晴人、近藤勇、土方歳三をはじめ、軍政局の要人が並んでいた。
「……美しいな」
思わず漏らしたのは、技術塾の若き塾長だった。学者肌の男が、この日は初めて正装で列席していた。
「武力を誇示するだけの行進ではない。礼儀と統制、そして“使命”が滲んでいる」
その視線は真剣で、静かな感動を湛えていた。
(――まるで、自衛隊の観閲式だな)
晴人はそう心中で呟いた。無駄のない動き。だが機械のようではなく、人間としての誇りと意思がひしひしと伝わる。その“矛盾なき力”の在り方に、かつての未来が重なって見えた。
晴人は口を開いた。
「戦うための力ではない。“備える力”を見せたのさ。誰もが恐れず、安心して暮らせるようにする……それが、この観閲式の本当の意味だ」
* * *
この義勇備は、単なる再雇用策でも、旧藩士たちの慰労でもなかった。晴人が目指したのは、「民間防衛と技術融合による、自立型の地域防衛力構築」だった。
――つまり、“武”と“技”を一体化した、近代的な自衛組織。
これは、後世の“自衛隊”や“災害派遣部隊”の先駆けともいえる取り組みであった。
羽鳥軍政局が配したのは、精鋭の中から選抜した専門班だった。
■救護班:各地の医師や蘭方医を講師とし、止血・骨折処置・野戦看護を習得。
■工兵班:橋梁建設、簡易陣地、土砂崩れ対策など土木工学を習得。
■火薬処理班:新型炸裂弾の扱いや、爆発物処理の初歩訓練を導入。
■通信班:旗・松明・太鼓・狼煙を使った統一通信法の整備。
■気象観測班:欧州製の温度計・気圧計・風向風速計を導入し、天候記録を開始。
「戦がなくとも、災害はある。橋が落ちた、堤が決壊した、地震で村が崩れた――そういうときに動けるのが、本当の“兵”だ」
軍政局の書記官である磯村が、部下の若者にそう語る姿は、すでに武家ではなく“公務員”のようであった。
* * *
道場とは別に開かれた“技術塾別科”では、士族の子弟や一般町民から選抜された若者たちが訓練を受けていた。
晴人が直接監修したカリキュラムはこうだ。
・午前:理数基礎、製図、工具の使い方
・午後:戦場救護、架橋訓練、土嚢構築、旗信号通信
・週一回:座学(地理、戦史、経済)
教官として呼ばれたのは、元長崎通詞の英語官、蘭方医、そして砲術家である。
「お前たちが今、習っていることのすべてが――これから“人を助ける力”になる」
ある教官はそう言い、気象観測の説明に入った。
「この圧力計は、オランダから取り寄せた。天気の変化が読めるようになれば、船の出港判断も、農地の守りも、全部“予測”できるようになる」
若者たちは真剣に耳を傾け、ノートに写し取っていた。
「人は剣だけで守れぬ。技術と知識、そして仲間の協力があってこそ、人は人を守れるんだ」
* * *
その夜。羽鳥兵営の中央広場では、控えめな“夜間演習”が行われていた。
薄暗い中を、提灯を最小限にして動く救護班。担架に載せた負傷者役の訓練人形を、土のうで囲んだ救護所に運ぶ。
その動きは静かだが、どこか美しさすら感じさせた。
「……夜でも動けるかどうかが、生死を分ける」
見学に来た晴人は、小さく呟いた。
「昔の武士なら“卑怯”と笑ったかもしれないな」
だが、今は違う。
敵が見えぬ夜、崩れた山、火の手が上がる村――そうした“異常時”こそが、この国の未来を守る鍵なのだ。
晴人は静かに言った。
「これが、俺たちの“未来の軍”だ」
かつて剣に生きた男たちが、いまは土を掘り、救急箱を携え、旗を振って合図する。誰よりも汗を流し、誰よりも命を大切にする。そんな“新しい兵”の姿が、羽鳥には確かに存在していた。
夕暮れ時、羽鳥の西外れに広がる訓練林――。
常陸義勇備の一部隊が、隠密行動の演習を行っていた。赤く染まる空を背に、兵たちは無言で樹間をすり抜け、目標地点を目指して進む。
「距離、五十間。索敵班、前進開始」
低く抑えた指揮官の声に、二人の若者が手信号を交わし、草むらへと身を沈める。草の揺れ一つ立てず、影のように移動する姿は、かつての武士というよりは、まるで現代の特殊作戦兵のようであった。
彼らは単なる守り手ではない。敵を先んじて見つけ、動きを封じ、時には制圧に踏み切る。それが常陸軍の理念だ。
“民を守るために、敵を待つ必要はない”
これが、藤村晴人が掲げた“攻守一体”の思想だった。
* * *
かつて水戸藩士であった兵たちは、武士の誇りを捨ててはいない。
だが今、彼らは“藩の兵”ではなく、“常陸という共同体の公僕”として再編成された。
「敵とは、外に限らぬ。悪徳商人も、村を壊す利権も、武装した無法者も、我々が正す」
土方歳三がそう語ると、訓練中の兵たちは一斉に背筋を伸ばした。
彼らの任務は、戦乱への備えだけではない。領内治安の維持、密貿易や密造酒の摘発、山林や港の監視など、行政と連携した“準警察力”の役割も担っていた。
羽鳥政庁は、これを「郡方警備隊」と呼び、各地域に駐屯所を設けていた。そこには元藩士の分隊長と、技術塾卒業の若者たちが混成で配属されており、武と技が融合した防衛拠点が形成されていた。
* * *
「……風下から火の匂い」
夜間の索敵訓練中、ある斥候が小声で報告した。
直ちに部隊は潜伏体勢を取り、偵察班を交代で送り出す。報告にあったのは、村外れで無許可に行われていた焼畑行為だった。山林に火を放ち、土地を勝手に開墾しようとしていた農民と、それを焚き付けた悪徳商人――。
「斬るな。包囲して押さえろ」
近藤勇の声が飛ぶ。即座に兵たちは動き、無駄な力を使わず制圧に成功する。
事後処理では、郡役所の担当官が同席し、村の代表と犯人に対して違法性と代替農地の提案を丁寧に行った。
「我らは斬るために刀を持つのではない。秩序のために“抑える力”を持つ」
その姿はまさしく、“治めるための兵”――。
藤村晴人の描く新時代の常陸軍は、専守防衛にとどまらず、“内なる混乱”にこそ目を向けていた。
* * *
一方、羽鳥の中央修理工房では、新型の榴弾砲の試作が進んでいた。
「次の装薬量は半分にしろ。炸裂は必要だが、威力ばかりを追うな。精度と安定が優先だ」
技術塾の砲術部門を率いる白髪の技師が叫ぶと、若き整備士たちが即座に応じて準備を整えた。
射撃実験では、従来の火砲よりはるかに正確に標的に命中し、周囲の塀を破壊せずに“威嚇”のみで制圧が可能なことが証明された。
「戦わずして敵を制す」
それは、晴人が常陸義勇備に求めた究極の姿だった。
* * *
後日、羽鳥政庁にて。
「最近、他藩の視察が増えております」
軍政局付きの記録官が報告した。薩摩、長州、越前――かつて羽鳥を冷ややかに見ていた藩の代表が、次々と視察に訪れていた。
その目当ては、制度そのものではない。“動いている組織”の実像だった。
「誰が命じるのでもなく、整然と動く軍。民の信頼を得て、恐れられない兵――それがこの地にはある」
ある越前藩士は、視察記にそう記している。
晴人はその報告を見て、つぶやいた。
「いいだろう。警戒されるくらいで、ちょうどいい。――だが、恐れられてはならない」
彼が目指す軍とは、“武”によって未来を切り拓き、“技”によって民を守る力。
それは、征服のためではない。だが防衛だけにとどまらぬ、“内と外を見据えた新しい秩序”だった。