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73話:信の灯、夜明けを照らす

冬の風が羽鳥政庁の瓦屋根を撫でるように吹き抜けていく。空は晴れているものの、地を這うような冷気が、木々の枝を微かに震わせていた。


 その日、政庁の北棟――通称「交易局」では、特別な会合が開かれていた。


 漆塗りの大卓を囲むのは、羽鳥商会の幹部たち、そして各郡の商人代表。さらにその場には、二人の若き異才――渋沢栄一と岩崎弥太郎の姿もあった。


 「……面白いですね」


 卓上に広げられた常陸全域の経済流通図を前に、弥太郎が鼻を鳴らした。


 「鉱山の出る日立は東の端。炭は高萩と太田の山中。陶器は笠間、木綿は筑波、薬草は八郷や真壁の山里から……これを羽鳥に集めて加工・出荷なさると?」


 「そうです」


 栄一が答える。表情は穏やかだが、指先に力がこもっていた。


 「羽鳥港は今や開港地。交易品の通関も可能になり、官許の計量所も設けられました。各地の特産物をここで集荷し、質を揃えてブランド化する。そして江戸・薩摩・長崎の三大市場に直接送る……。それが、この“常陸経済再興計画”の骨子です」


 「失礼ですが、藤村様。そもそも、どうして“信用局”などを立ち上げようとなさったのですか?」


 弥太郎が晴人に視線を向けた。彼は会合の進行役として黙していたが、質問を受けてゆっくり口を開く。


 「貨幣の流通だけでは、各地の資源は守れません。生産・加工・輸送・販売、そのすべてに“信用”が必要です。羽鳥商会はその中核に過ぎません。“常陸信用局”は、あくまで監査・資金管理・融資調整を行うための公的機関です」


 「つまり、商会の手を離れて、“藩”として金の出入りを見張るわけですね」


 弥太郎の言葉に、栄一が補足する。


 「民間と官の中間に立つ構造です。渋沢式に言えば、“論語と算盤”を両立させる仕組みかと」


 笑いが起こった。政庁幹部の一人が頷きながら口を開く。


 「炭や陶器は、すでに出荷量が倍増しています。薬草の加工も、羽鳥の製薬棟が動き始めました。だが……資金繰りの問題は常に付きまといます。信用局による“前渡し金制度”は助かりますな」


 「前渡し金、ですか」


 弥太郎が興味深げに眉を上げる。


 「つまり、出荷前に現金を渡し、生産者の資金難を防ぐ……とはいえ、不渡りを防ぐ仕組みは?」


 「そこが“信用”の真価です」


 晴人が返した。


 「協力農家・職人・商人の信用格付けは、各郡の代表が参与し、取引記録と推薦で決めます。羽鳥政庁は口を出さず、各地の声で決める。“信じられる人”に資金を預け、“裏切れば次がない”構造にする」


 「ふむ、顔の見える金勘定、というわけですね」


 弥太郎は頷き、再び地図に視線を戻した。


 「しかし、流通がまだ追いついていないように思えます。飛脚便と水運の経路は、どのように整備なさるのですか?」


 「そこは、羽鳥商会の“運送局”が主導しています」


 そう言ったのは、交易局の若い担当者だった。彼は木製の箱から一枚の設計図を広げた。


 「水運は久慈川と那珂川を利用し、船便と馬車便を接続させます。飛脚は宿駅を整備し、常陸南部から日光・江戸へと三日で達する新ルートを構築中です」


 「なるほど、三日とは早いですね」


 弥太郎が関心を示した。


 「簡易金庫と連携した“預かり札”も配布予定です。荷物だけでなく、金銭や書類の受け渡しにも応じられるようになります」


 「つまり、小さな銀行と宅配便の合体……面白いですね」


 栄一がにっこりと笑った。


 「信用局の設立は、商人だけでなく庶民の生活を支える一歩でもあります。市場を育てるには、まず人々の財布を守ることからですから」


 「なるほど、よく仰いますね、渋沢さん」


 弥太郎が茶化すように笑う。


 「ところで藤村様、“常陸藩営業許可証”を本当に引き出されたのですか?」


 空気が一瞬、張り詰めた。


 「……はい。幕府に正式な稟議書を提出しました。“藩”ではなく“自治共同体”としての営業活動、しかも常陸全体を対象にするため、特例措置を講じてもらいました」


 「それは驚きですね。水戸藩でも土浦でもなく、“羽鳥政庁”が看板を掲げて商売できるというわけですか」


 「その通りです」


 政庁の文書官が補足する。


 「常陸信用局は、“特区経済体”としての認可を得ました。幕府内では異論もありましたが、藤村様の地道な折衝と……実績が評価されてのことです」


 「なるほど、“商いで国を救う”というわけですね」


 弥太郎の顔が綻んだ。


 「良いですね。私は、そういうのが好きです」


 静かに、しかし確実に――新しい経済の胎動が、羽鳥から始まろうとしていた。

羽鳥政庁の北棟から少し離れた西翼の一角――そこにあるのは、かつては役人用の資料庫だった古い建物を改装した新設の機関だった。


 木の看板には、墨文字でこう記されている。


 《常陸信用局 羽鳥支部》


 その日、開所を迎えた信用局の入口には、質素ながら整った式典用の幕が張られ、寒空の下にもかかわらず、周囲には多くの人々が集まっていた。町の名主や商人たち、農民代表らが、緊張した面持ちで列を作っている。


 式典が始まると、まずは簡素な挨拶があった。藤村晴人は式に姿を見せなかったが、渋沢栄一がその代役として前に立ち、落ち着いた口調で語りかける。


 「……皆様にとって、これは“始まり”に過ぎません。銭を貸すのではなく、信用を預け合う。人を信じ、人に応え、人と歩む――それがこの信用局の役目です。どうか、羽鳥と常陸の未来をともに創っていただきたい」


 万雷の拍手が起きたわけではない。だが、拍手を送る者の手には、確かな熱があった。


 開所式ののち、局内の見学が始まる。帳場にはすでに、山間部から出てきた若い陶工や、日立で鉱石を掘る鉱夫が並んでおり、職員に説明を受けている。


 「ほら、これが信用格付けの帳面です」


 若い職員が指さしたのは、細かく区切られた紙帳だった。名前、職種、出荷量、過去の取引履歴、推挙人……すべて手書きで記録されている。


 「出荷実績があれば前渡し金の対象になります。逆に、記録に不備があると融資はできません。ただし、推薦状があれば一部免除も……」


 「そ、そいつぁ……厳しいな」


 鉱夫の男が額をぬぐいながらつぶやくと、職員がにっこりと笑った。


 「厳しさの分だけ、守られるんです。“信じた分だけ守られる”ってのが、うちの局長の口癖でして」


 別の窓口では、帳簿のつけ方を教わっている若い娘の姿もあった。彼女は薬草商を営む家の長女で、家計を支えるために父に代わって初めて帳場に立ったという。


 「一つひとつ丁寧に、毎日記録するんですか?」


 「はい、月末ごとでも構いません。大事なのは“自分の言葉で、正しく記す”ことです。字がうまくなくても、誠意は伝わりますよ」


 娘はうなずき、書き損じた紙をくしゃくしゃと丸めて捨てた。


 その姿を遠くから見守るようにしていたのは、政庁からの視察団だった。


 ――松平春嶽。その名を持つ人物が、今、羽鳥の地にいる。


 彼は眼鏡越しに信用局の様子を見つめ、静かに呟いた。


 「まるで……近代金融の雛形だな」


 隣にいた政庁の文書官が頷きつつ言葉を添える。


 「はい、殿。藤村様は“徳”と“秩序”の両立を図る中庸の政治を目指されております。信用局は、その試みの一端かと」


 「いや……これは政治ではない。もっと、民の根の部分に触れている」


 春嶽の目には、帳場で真剣に帳面と向き合う農夫や、木札に名を刻んでいる商人の姿が映っていた。


 それは決して贅沢なものでも、大規模な建築でもない。むしろ、泥にまみれ、冷たい風の中で生きる者たちの“確かな未来”を支える、小さな温もりだった。


 「商いと政治の狭間で、人の信を繋ぐ場……面白い。これは残すべき仕組みだ」


 春嶽の背後では、随行していた若き幕臣が感嘆の声を上げた。


 「殿。これほどの制度、もし江戸で披露されれば……」


 「だからこそ、見極めねばならぬ。成功すれば模範、失敗すれば前例となる。どちらに転ぶにせよ、注視せよと斉昭公にも伝えよう」


 その言葉に、周囲の幕臣たちは静かに頭を垂れた。


 一方その頃、渋沢栄一は視察団の到着を受けて、急ぎ羽鳥商会の別館へと戻っていた。


 「まさか春嶽公がいらしていたとは……」


 少しだけ額に汗をにじませながら、彼は藤村晴人の執務室に入る。


 晴人はすでに次の会合の準備をしていたが、栄一の顔を見るなり軽くうなずいた。


 「信用局は、もう“仕組み”として定着しはじめています。あとは、“実績”を重ねるだけです」


 「はい。春嶽公も、帳場の人々の姿をご覧になって……“これが民の政治だ”と仰っていました」


 「……それは光栄だな」


 晴人の口元がわずかに緩んだ。


 「だが栄一。制度が評価されても、“人”が信用されなければ意味はない。この局が信じられるのは、君たちが“顔”を見せて、責任を背負っているからだ」


 「承知しております」


 その言葉を受けて、栄一は胸を張った。


 政庁の外では、まだ冷たい風が吹き抜けていたが――信用という名の新しい灯が、確かに羽鳥の地にともりはじめていた。

午後、陽が少し傾き始めたころ。羽鳥港の小高い丘に立つ見張り塔から、澄んだ汽笛の音が響いた。


 「貨物船、入港です!」


 番小屋から若い声が上がり、港湾の荷役たちが一斉に動き出す。海の向こうから姿を現したのは、羽鳥商会が所有する中型の輸送帆船《常陸丸》。その船腹には、鮮やかな藍染めで「羽鳥」の大紋が描かれている。


 岸に待機していた運送局の係官たちが手旗信号を掲げると、船はゆっくりと接岸し、クレーン式の滑車を使って積荷が降ろされはじめた。木綿反物、硫黄、薬草、そして何より――日立鉱山から届いたばかりの銅鉱石。


 その一つを手に取った男が、目を見開く。


 「こりゃ……かなり純度が高いぞ」


 商会の検品係が頷きながら記録簿に書き込む。


 「第三坑道の新層から出たものだそうです。試掘段階でこの質、とのことです」


 周囲の目が輝いた。


 それらの積荷はすぐさま検量所に送られ、重さと品質を確かめたのち、信用局の預かり票と引き換えに“前渡し金”が支払われる仕組みになっている。


 だが、その日――検量所の一角では、あるトラブルが起きていた。


 「な……なんでうちは認定されねぇんだよ!」


 怒鳴ったのは、常陸北部から来た新興の炭窯職人。彼の持ち込んだ炭は、見た目には遜色なかったが、含有水分量が規定値を超えていた。


 若い職員が冷静に説明する。


 「申し訳ありません、乾燥工程が不十分と判断されました。今回の前渡し金はお出しできませんが、改善次第、再申請は可能です」


 「ちっ……こちとら山奥から三日かけて来てんだぞ!」


 男は怒気を孕んだ目で睨みつけるが、その背後から別の商人が声をかけた。


 「決まりは決まりだ。俺たちも最初は弾かれたさ。けど、一度信用を得れば、次からは格が付く」


 それは、老舗の陶工だった。彼はゆっくりと職人の肩を叩き、こう続けた。


 「“金がないから信用できない”んじゃない。“信用があるから金が出る”。そこが、ここの肝さ」


 その言葉に、職人の肩の力がふっと抜けた。


 しばらくして、彼は再申請の紙を受け取り、無言で頭を下げて立ち去った。


     * * *


 一方その頃、羽鳥政庁内の会議室では、春嶽と藤村晴人、そして家臣の岩崎弥太郎の三人による密談が行われていた。


 机の上には、羽鳥信用局の構造図と、資金流通フローを示す帳票が並べられている。


 「……面白いな。まるで、“国の中にもう一つの経済圏”を造るつもりだ」


 春嶽がそう言って、羽鳥市街の地図に目を落とす。


 「羽鳥商会が実行部隊、信用局が監査、政庁は旗印……三者分立、か」


 「仰るとおりです。ただし、政庁はあくまで“後ろ盾”でございます」


 晴人の言葉に、弥太郎がすかさず膝を正し、深く頭を垂れる。


 「恐れながら申し上げます、旦那様。“後ろ盾”というのは、すなわち“常に介入する権利を保持しておられる”ということでもございます。万が一の際は、ご判断を仰ぐ所存にございます」


 晴人は視線だけを弥太郎に向け、静かに帳面を閉じる。


 「……私は商売人ではない。地を守り、人が生きられる仕組みを築いているに過ぎない」


 「誠にそのとおりでございます。旦那様のご高配には、ただただ頭が下がります」


 弥太郎はさらに深く礼をし、続ける。


 「ただ、僭越ながら申し上げますと、“信用”というものは極めて脆弱な土台にございます。人の欲が介在すれば、信頼はすぐに崩れます。拙者の旧知の土佐でも、それゆえに幾度か制度が瓦解いたしました」


 春嶽が手を振って言葉を遮った。


 「しかし、金のみを信ずる者は“徳”を持たぬ。金と信用の間にこそ、人の“志”が宿る。制度とは、それによって支えられるものだ」


 藤村晴人は静かに頷いた。


 「……だから、裏切りは許さない構造にした。記録を残し、推挙制で見極め、再起は一度に限り、二度の不渡りで永久除名とする」


 「お見事にございます。まさに、厳正にして温情を忘れぬ制度かと存じます」


 弥太郎の声には、忠誠と敬意が滲んでいた。


 やがて春嶽が地図から視線を上げ、重々しく言った。


 「……この制度、江戸へ持ち帰るつもりはない。ただ、“ここにしかない価値”として、余は心に刻もう」


 それは、最大級の称賛だった。


 弥太郎は改めて深々と頭を下げた。


 「この羽鳥の地で、微力ながら拙者も一角を担えれば、この上ない誉れにございます」


 「協力は歓迎する。ただし、忘れるな。“地元の声”が最優先だ。君が誰の家臣かを、間違えなければな」


 晴人の視線を受け、弥太郎は座を崩すことなく答えた。


 「心得ております。すべては、旦那様の志にお応えするため。羽鳥の繁栄こそ、拙者の本懐にございます」


     * * *


 その夜、信用局の灯は遅くまで消えなかった。


 帳簿に向かう若い書記たち、再提出の帳面を片手に戻ってくる職人たち、そして各地から届く信用記録の確認に追われる係官たち。


 誰もが口には出さずとも、胸のうちにひとつの言葉を抱えていた。


 ――信じられるだろうか、この制度を。


 そして――信じてもらえるだろうか、自分という存在を。


 その問いの答えを探すように、羽鳥の夜は静かに更けていった。

夜の羽鳥政庁は、静かでありながら活気があった。


 政庁南館の三階――信用局の灯は、深夜になっても消えなかった。幾つもの帳面が机に広げられ、若い書記官たちがペンを走らせている。油煙の匂いが漂う中、紙の擦れる音、筆のかすれる音、そしてため息が交錯していた。


 「これは……梅沢製炭所。水分含有率再検査で基準クリア、三等格付けで通過、と」


 書記官の一人が声に出して確認し、隣席の同僚が帳簿に記録を転記する。


 「再提出分、増えてきましたね」


 「ええ。諦めずに戻ってくる職人が多いってことですよ」


 その言葉に、年長の係長が頷いた。


 「“信”ってのは、誰かに与えられるもんじゃない。試される中で、自分で育てるもんだ。俺たちもそうだったろ?」


 「……はい」


 若者たちは頷き、再び筆を走らせた。


     * * *


 一方、北棟では別の会議が行われていた。


 「実は、羽鳥信用制度の形式に対して、外部からの圧力が強まりつつあります」


 報告するのは、信用局直属の情報収集班長だった。彼は密かに水戸藩内や江戸方面の動向を探っていた。


 「具体的には?」


 藤村晴人が顔を上げる。


 「幕府の一部から、“藩の一行政区が独自通貨に近い発行行為をしているのは不敬”との意見が……」


 「まるで、“小判に代わるものは一切認めぬ”という幕府の矜持か」


 春嶽が苦笑しながら呟いた。


 「信を通貨と見ているのか。ある意味、慧眼だな」


 晴人は沈思し、ゆっくりと言葉を置いた。


 「我々は“通貨”を作ったわけではない。ただ、“未来の労働に信を置いた”だけです。保証したのは“銭”ではなく“意思”――そう理解してもらわなければならない」


 「理解しない者も、必ず出るでしょうな」


 春嶽が厳しい表情で言う。


 「だが、制度とは常に“無知と猜疑”との戦いだ。それを恐れていては、改革など進まぬ」


 「はい……だからこそ、先に形を定着させます」


 晴人の目には決意が宿っていた。


     * * *


 その頃、羽鳥城下町の外れ、明かりの落ちた小さな陶工の窯元でも、一つの変化が生まれていた。


 「……どうだ?」


 黙々と窯の火を見守っていた初老の陶工に、若い職人が声をかける。


 「うん、熱の入りは均等だ。火力調整、ずいぶん上達したな」


 若者は、照れたように頭をかいた。


 「信用局の書付に、“熱斑がある”って書かれてさ。悔しくて、何度もやり直したんです。……そしたら、前より良い焼きができました」


 「なるほどな。あそこは容赦ねえからな」


 二人は笑い合い、火の揺らめきに顔を照らされた。


 「でも、なんか……悪くないです。“文句言われたら終わり”って町じゃない。あそこは、戻る道がある」


 「信じてくれてるんだよ。“もっと良くなる”って」


 「はい。……だから、信じられたいです。俺も、羽鳥に」


 そう言った若者の目に、ゆらぐ火よりも熱い光があった。


     * * *


 政庁南側の小道を、二人の人影が歩いていた。


 一人は、藤村晴人。もう一人は岩崎弥太郎である。晴人は懐から小さな帳簿を取り出し、開いた。


 「これは……?」


 「制度導入初期の記録です。最初の前渡し金を出した十名の職人と商人の名簿」


 「ずいぶんと……年季が入っておりますな」


 「導入から、まだ一年足らずです。ですが、あの一歩がなければ今はありません。“信”の灯を最初に掲げた者たちの、名もなき勇気の記録です」


 弥太郎は目を伏せ、しばし風の音に耳を傾けた。


 「わたくしも、信じてみたく存じます」


 「ならば、彼らのように、“誰かを信じること”から始めてください。制度とは、他者を信じる覚悟の連なりなのですから」


 その言葉に、弥太郎は深々と頭を下げた。


     * * *


 夜明けが近づいていた。


 信用局の窓から漏れる灯りが、淡い青に溶け始める頃。最後の帳簿に判が押され、今宵の仕事がようやく終わりを告げた。


 机に伏して眠る書記たちの横で、窓際の職員が、ぼんやりと東の空を眺める。


 「……信じてもらえるかな、俺たちのやってること」


 そう呟いた声に、上司が穏やかに答えた。


 「信じてもらうんだよ。何度でも、相手の目を見て。言葉にして。嘘じゃないって、何度でも」


 「それでも……裏切られたら?」


 「その時は、記録に残せ。誓いを裏切った証を。そして、それでもまた信じる道を残せ」


 朝日が、そっと山の端から顔を覗かせる。


 光が、政庁を、港を、町を、そして人々の顔を――すべてを照らし出す。


 “信”という、見えぬ灯を灯すかのように。

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