72話:三民意見協議所――歩み寄りの場
冷え込みの厳しい夜を越えた羽鳥の町に、かすかな土の匂いを含んだ風が吹き渡る。丘陵の木々はなお裸のままだが、政庁の周囲に立ち込める白い息の中には、確かに春の気配が宿りはじめていた。
羽鳥政庁本庁舎――その南棟に位置する大会議室では、夜明けとともに慌ただしい支度が進められていた。
中央に据えられた長机には白布が掛けられ、椅子は一つ一つ角度を揃えて整列させられている。壁際には、水戸徳川家の家紋――三つ葉葵が掲げられ、その下には「羽鳥制度草案」と記された巻紙が置かれていた。
部屋の隅では、黒く鈍く光る鉄のストーブに、若い職員が石炭を追加していた。火格子の中では、真紅の焔が音もなくゆらめき、部屋全体をじんわりと温めている。石炭は、昨年末に羽鳥商会が仕入れた西の炭鉱産で、熱効率は薪とは比べものにならなかった。
「おい、湯がぬるい。もう一度沸かし直してくれ」
「はいっ。すぐ差し替えます!」
臨時の給湯卓では、若手吏員たちが陶製の急須と湯呑みを忙しなく整えていた。緑茶に加えて、最近導入された麦湯、さらに渋沢栄一が好む黒砂糖入りの熱湯まで、用意は万全だ。
「渋沢さんは喉が渇くと茶を一気に飲むからな。三杯分は確保しとけよ」
「了解です、八木先輩!」
そんな中、中央の卓上では渋沢栄一が帳簿を広げていた。椅子に腰かけることなく、立ったまま筆を走らせる姿は、まるで戦場の軍師のようであった。
「……常陸七郡のうち、宍戸、下館、松岡、谷田部の四郡で統合案を先行実施。人口はおよそ二十八万。学齢人口は二万人強と見ていいでしょう」
「はい。年末までの戸籍再編調査に基づく最新数です」
報告した吏員が、静かに帳面を差し出した。
「租税の再編には四段階を設ける。旧藩税を段階的に解除し、代わって羽鳥式均分課税へ。次に貨幣流通の標準化――」
渋沢の指先が一枚の布図を撫でる。郡単位で色分けされた地図には、新たな郷校や税務所の設置候補地が記されていた。
「租税制度が整えば、教育も医療も保健衛生も機能する。逆ではいかんのだ」
その言葉に、若き吏員たちは黙ってうなずいた。
一方、窓際の別卓では岩崎弥太郎が交易統計を前に唸っていた。
「物流の背骨は、羽鳥・土浦・谷田部。この三点を連結せねば、南部の商圏は安定せんき」
「はい、鉄道計画はまだ先ですが、宿駅の改修と定期馬車の導入なら春までに――」
「……それでええ。急がば回れじゃ」
そのとき――扉が静かに開かれた。
議場の全員がわずかに背筋を伸ばし、言葉を飲み込むようにして沈黙する。
羽織袴の青年が、まっすぐに入室した。
藤村晴人――羽鳥政庁の代表であり、制度改革の実行責任者。その手には、特注の白木バインダーが抱えられていた。
彼は一礼ののち、ゆっくりと壇上へと歩を進める。
その足取りに、誰もが無言のまま見守った。
晴人は壇の中央に立ち、凛とした声で宣言した。
「皆さま。本日はご多忙の中、お集まりいただきありがとうございます。これより、“常陸統合協議会”を正式に発足させます」
その一言と同時に、部屋中の視線が一斉に彼へと注がれた。
「これまで羽鳥にて試行されてきた議会制度・租税改革・医療衛生・教育制度・通信体系の五本柱を、宍戸・下館・松岡・谷田部の四郡において段階的に導入いたします」
バインダーから数枚の用紙を抜き取り、卓上に配る吏員たち。
「士族・町衆・在地農民――この三層に等しく議席を割り振る“羽鳥式三民議会”を、各地に設置します」
ざわめきの中、晴人の声が重なる。
「武士の役割も変わります。もはや特権ではなく、倫理と責務に基づく“型”として社会の中核を担っていただく……我々の未来は、その調和にかかっています」
周囲に座る旧藩士たちが、顔を見合わせる。驚き、戸惑い、だがその中に小さな希望のような色が浮かんでいた。
そのとき、別室から吏員が駆け込み、小声で渋沢に耳打ちする。
渋沢が小さく頷き、巻紙を開いた。
そこには――徳川慶喜の署名と、三つ葉葵の家紋入りの印章が、はっきりと記されていた。
「水戸徳川家は、藤村晴人の行う制度改革を後見する」
その一文に、会場の誰もが息をのんだ。
渋沢は巻紙を掲げて一礼し、後ろへ下がる。
静まり返る場内に、晴人の声が再び響いた。
「まずはこの四郡にて――新しい常陸を、皆さまと共に創り上げましょう」
そして、わずかに間を置いて、彼はもう一歩だけ前に出た。
「変革とは、ただ過去を壊すことではありません。過去を受け入れたうえで、共に明日を築く――私は、皆さんとそれを為したいのです」
その瞬間だった。
扉が再び開き、別の吏員が駆け込んできた。額に汗を滲ませながら、紙片を掲げて叫ぶ。
「通信局より報告! 電信線の仮設試験、成功しました!」
一瞬、場内に沈黙が走る。
「羽鳥―水戸―土浦間、文字通信、全区間で確認。送信時間、わずか三十秒です!」
「やったか……!」
岩崎弥太郎が笑みを浮かべ、帳面に力強く丸を記した。
「これで、羽鳥の声が届く。遅れも齟齬もない――時代がこっちを向いたんじゃ!」
渋沢も、思わず頷きながら言葉を漏らす。
「言葉が届けば、思想が届く。思想が届けば、心が変わる……いい報せだ」
拍手が、ぽつりとひとつ、またひとつと広がっていく。
そしてやがて、それは講堂を満たす大きな拍手となり――
新たな常陸の夜明けを告げる、確かな鼓動となった。
冬の海風が吹きつける羽鳥港に、異国の鉄の船がゆっくりと姿を現した。船名は「アシュランド号」。アメリカで退役したスループ艦を福沢諭吉が購入し、改修ののち横浜経由で羽鳥に曳航させたものだ。蒸気機関を搭載し、主砲も一門を残すこの艦は、あくまで“象徴”だった。
港には、すでに政庁の吏員と荷受け班が待機していた。艀で運ばれる大量の木箱には、火薬や精密機器、布や書籍、家畜までもが含まれていた。すべてが、羽鳥の地には存在しない“新しき文明”の断片だった。
船から降り立った福沢諭吉は、厚手の外套の襟を立て、ゆっくりと政庁のほうへと歩みを進めた。
「初めまして。福沢諭吉でございます。お預かりしていた荷はすでに羽鳥港へ届き、政庁の倉庫へと順次搬入中です」
政庁前の石畳に、簡易の荷開き場が設けられていた。長崎奉行所で通訳を務めていた男が同行し、封緘を解きながら英語の説明書を読み上げていく。
「こちらは製図用の耐久器具。ヨーロッパ製の温度計、気圧計、航海用六分儀……そしてこちらが、手回し式印刷機の図面と部品一式です」
他にも、音を記録し再生するための試作機部品、火を使わずに熱を保つ調理容器の試作版。封を切られた木箱からは、まるで未来が顔を覗かせたかのようだった。
諭吉は、手元の帳面をめくりながら言う。
「ご用命いただいた物資は、これで概ね到着しております。ただし、家畜類は少し時間がかかりました。健康証明付きの豚十二頭、乳牛八頭、繁殖用の馬二十四頭です。特に馬は今後、朝鮮や清国方面への輸出や軍配備も視野に入れておられると聞いております」
「また、家禽類は鶏百羽、七面鳥四十羽、ガチョウ二十羽を輸送しております。すでに羽鳥検疫所にて健康確認中です」
書籍類も並ぶ。和訳予定の洋書が百冊を超え、哲学・法学・経済・農政・医療・機械工学に至るまで、あらゆる分野が網羅されていた。
さらに木箱の中から姿を現したのは、アメリカ南部から買い取られたばかりの若い男女三十人――元奴隷である。黒髪の女、栗毛の男、青い瞳の子どもまで。彼らはすでに英語・仏語の初歩を理解し、縫製、木工、調理、印刷、耕作などの技術を身につけていた。服装は質素だが清潔で、何より――その眼差しに曇りがない。
「こちらは現地での労働契約を結んだ上で、日本での技能育成と生活支援のために迎えた者たちです」
そして、諭吉は一歩進み、晴人に深々と頭を下げた。
「これは、あなたが洋書購入費を用立ててくださった礼です。心より、感謝申し上げます」
その言葉に、周囲の者たちも改めて藤村晴人という存在の“先見”を噛みしめた。
政庁大広間の中央に据えられた長机には、白布が掛けられ、椅子は一つひとつ角度を揃えて整列していた。周囲には町人、郷士、旧藩士らが三列に分かれ、緊張とざわめきが交錯している。
壁には、水戸徳川家の定紋――三つ葉葵が静かに掲げられていた。だが、今やその家紋も、羽鳥という“未来都市”の構想の中では、一象徴にすぎない。
「……常陸七郡のうち、宍戸、下館、松岡、谷田部の四郡で統合案を先行実施。人口はおよそ二十八万。学齢人口は二万人強と見ていいでしょう」
晴人が静かに口を開くと、会場の空気が変わった。演説ではない。計画の開示だ。背後の黒板には、丁寧に描かれた常陸全図と人口分布、農地の比率、既存の寺子屋数と師範の分布図が貼られている。
「郵便制度は羽鳥―水戸―土浦―谷田部の主幹線を柱に、枝線を各町村に延ばします。既存の飛脚組は再雇用、民間雇用枠として地方書記や配達吏員を募集します」
「医療制度については――」
声が重なった。
「待てい!」
声の主は、かつて宍戸藩の中老を務めたという老武士だった。白髪を束ねた頭を振り、机を叩く。
「我らの村に突然、知らぬ役人が来て土地台帳を作るという。まるで征服ではないか!」
晴人は静かに、しかし真っ直ぐに答えた。
「これは征服ではなく、再構築です。どこかの藩が他を吸収するのではなく、皆で一つの“土台”をつくる。そのために必要な情報を、今、等しく集めているのです」
ざわめきが再び起こった。
水戸藩による主導であることは否定できない。だが、それが“征服”か“建設”か――その認識は、立場によって分かれる。
「郷士や庄屋はともかく、町の若い者が“政庁吏員”になったと聞いている。それでは、武士の面目が立たん」
別の代表者がそう言った瞬間、席の後方にいた若い男がすっと立ち上がった。役人の制服を着たその青年は、かつて谷田部の足軽の家に生まれた者だった。
「申し訳ありません。ですが、私はここで学び、働くことに誇りを持っています。町人の娘が私に算術を教えてくれました。そうして、この政庁は、身分に関係なく“学ぶ者”に機会を与えてくれたんです」
ざわめきは、少し沈静化した。誰かの“物語”が、他者の心に何かを残すのだ。
晴人は続けた。
「医療制度は、旧藩医の再雇用と、羽鳥医術館を拡張した地域分室の設置が柱です。巡回医師を各郡に配置し、医療器具は福沢諭吉殿の協力で海外から取り寄せています。聴診器、血圧測定器、簡易手術具――これらは各分室に配備されます」
後方から小さな感嘆の声が上がった。
「ほ、本当か……うちの村には医者が一人しかおらんのに……」
「そして最後に、土地台帳です」
晴人の声が落ち着いて響く。
「これは徴税のためではなく、“共通の土台”をつくるための地図です。災害や飢饉が起きたとき、どの村がどれだけの支援を必要とするかを把握するためのもの。所有者情報も明記しますが、売買や相続の際に役立つ“公文書”として整備します」
沈黙が広がる。
反論しようと身を乗り出した者が、ふと後ろを振り返る。
そこには、福沢諭吉が静かに控えていた。彼が持ち込んだ洋書の束が、整然と積まれている。箱の横には、「近代国家の成立と市民の権利」「制度経済と租税法」の文字が読めた。
「そもそも、金はどうする!」
叫ぶような声に、晴人は待っていたかのように言った。
「……すでに決まっています。常陸旧藩の借金は、すべて“羽鳥政庁”が肩代わりします。帳消しです」
――どよめき。
「さらに、旧藩士・藩吏の再雇用枠を設けます。これまでの知識や経験を生かせる部署を用意します。無理に制度へ従わせるのではなく、“共に歩く”体制です」
「そんなことが……可能なのか?」
誰かが呟いた。
そこへ、静かに歩み出たのは、黒羽織の男――越前藩主・松平春嶽であった。視察のために訪れていた彼は、晴人の隣に立つと、会場をぐるりと見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「可能か否かではない。“やる”か“やらぬ”かだ。これは、旧幕の腐臭を断ち切る気概と見た。そなたらが、まだ旧き藩制に縋るなら――その先にあるのは、沈黙と滅びだろう」
春嶽の言葉に、沈黙が支配する。
やがて一人、二人と、代表者たちが深く頭を下げた。かつての敵対関係ではなく、“共に成す”仲間として。
会議は、ようやく――動き出した。
その日の統合会議は、陽が傾くまで続いた。
諸郡からの代表者たちは、武士・町人・農民を問わず、交代で意見を述べた。晴人はそのすべてを正面から受け止め、時に紙を広げて数値で示し、時に現場の実例を語って応えた。
「――よろしい。話は分かった。だが、それでも我らには“発言の場”が欲しい」
松岡郡の代表を務める庄屋・仁兵衛が声を上げた。髭をたくわえたその表情には、長年地域を支えてきた自負と、少しの警戒が入り混じっていた。
「統合案が立派でも、結局は上からの“お達し”では、また旧藩と変わらぬではないか。せめて、我らが意見を述べ、届ける場を――」
「もちろん、用意しています」
晴人が即座に返すと、会場が静まり返る。
彼は黒板の横に立ち、幕を一枚引いた。そこには、三つの円が重なり合った図が描かれていた。
「これは、“三民意見協議所”の構想図です」
一同が息を呑む中、晴人は説明を続けた。
「三民とは――士、町人、農民の三層を指します。それぞれの立場から代表を選び、郡単位で協議の場を設けます。ここで交わされた意見は政庁へ届けられ、政策の助言や改良提案として受け止められることになります」
「代表の選び方は? 結局は武家の上層ばかりでは?」
町人の一人が声を上げる。
「士族の意見はもちろん尊重されます。ただし、町や村の声を拾うためにも、町会や村会での互選や推挙を取り入れ、知恵ある者の登用を図ります」
ざわめきが広がる。だが、その波の底にあったのは拒絶ではなく、「今までにない方法」への戸惑いだった。
「文字を読めぬ者の意見は、どうする?」
「意見を持つ者すべてが“届ける手段”を得られるよう、代読・代筆を認めます。そして、寺子屋や夜学舎を通じて読み書きを広げていく。それが、この制度の根幹でもあります」
黒板の隅には、仮設の夜学舎や出張の読み書き教室の案も描かれていた。
「これは、身分を壊すものではありません。それぞれの立場に即した“学びと声の場”をつくることで、互いを知り、支え合うための制度です」
その言葉に、黙っていた青年が一人、立ち上がる。下館郡から来た、元足軽の子だ。
「俺の村には学び場なんてなかった。でも、羽鳥に来て字を学んだ。今は、倉庫の帳簿もつけてる。俺の言葉が届く場所があるなら、話してみたい」
拍手が起きた。小さな、しかし確かな賛同の音が、会場の空気を変えていく。
「……ふむ」
その様子を見ていた松平春嶽が、静かに腕を組んだ。
「藤村君。これは、ただの改革ではあるまい」
「はい。“誇り”を壊さず、歩み寄る道です」
春嶽はにやりと笑い、立ち上がった。
「さて、ここからが肝要だ。制度を掲げたとて、人の心までは揃わぬ。“形”に命を与えるのは、言葉でも刀でもない。“歩み”だ」
そう言って、彼は会場全体に向けて一礼する。
「私は、越前へ戻り、この目で見たことを諸藩に伝えよう。誰かが火を灯さねば、この国の冬は明けぬ」
実のところ、春嶽の羽鳥訪問は、幕府による密かな視察要請を兼ねていた。水戸藩の“羽鳥改革”が各地に与える影響を探るため、温和で中立的な立場にある春嶽が選ばれたのだ。
だが、春嶽自身は、幕府の命を超えてこの地に惹かれた。
「人が制度を生むのではない。制度が人を変える。その逆もまた真なり……か」
彼は誰にともなく呟きながら、政庁をあとにした。
※ ※ ※
日が暮れた羽鳥政庁。
長きにわたった会議の余熱が、まだ建物全体に残っていた。
晴人は政庁の廊下を歩き、応接室の扉を開ける。そこにいたのは、福沢諭吉だった。
「……大変だったようですな」
「ええ。でも、ようやく“話す場”が整いました。互いに敬意を払いながら意見を交わせる、そんな仕組みを築きたいのです」
諭吉は頷き、机の上に置かれた革張りの帳面を指した。
「これは、先日お渡しした物資目録の詳細です。学問関連の書籍はさらに二十冊追加。医学書はオランダ語訳が入手でき次第、次便で」
「ありがとうございます。医療も教育も、この国の“土台”ですから」
窓の外、政庁の中庭には、提灯の光が揺れていた。町人の子らが駆け回り、守衛が軽く注意を飛ばす。
その光景を見ながら、諭吉はぽつりと呟く。
「……これほどの光景を、十年前に誰が想像できたでしょうな」
晴人は黙って、うなずいた。
「でも、ここからが“始まり”です。制度を育て、守るには、なお多くの言葉と行動が必要です」
「でしょうな。ですが、あなたにはそれがある。“耳を傾ける力”が、ね」
諭吉は立ち上がり、夜風にそよぐ暖簾をくぐって出ていった。
※ ※ ※
その夜、羽鳥の空には星が瞬いていた。
風は冷たいが、街には明かりが灯り、人の声が絶えなかった。
そして政庁の掲示板に、一枚の紙が貼り出される。
――《第一回 三民意見協議所 参加募集》
文字の隣には、笑顔の子どもと、帳簿を抱えた青年の絵が添えられていた。
新しい時代が、確かに動き始めていた。