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71話:常陸再建構想会議

冬の冷気がまだ残る早朝、羽鳥政庁の中央会議室では、石炭ストーブの柔らかな熱が空間を包み込んでいた。


 その一角――湯気立つ茶器を整えていたのは、斎藤お吉。彼女の淹れる煎茶は、淡く香りを立て、張り詰めた空気をそっと和らげていた。


 「皆さん、お疲れ様です。どうぞ、温うしてくだされ」


 お吉の言葉に、机に伏せかけていた渋沢栄一が顔を上げる。彼の目元には、徹夜の疲れが色濃く残っていた。


 「ありがたい……お吉さんのお茶は、胃の腑に染み渡ります」


 「はは、お褒めいただいても給金は増えませんよ」


 笑顔で返すお吉の言葉に、控えていた岩崎弥太郎も肩をすくめて笑った。


 「けどまあ、今朝のこの空気……まるで軍議の前夜みてぇでさ」


 「それほどの大仕事ですから」


 弥太郎は資料の束を片手に、続けた。


 「水戸藩が背負っていた負債――六十六万七千両。それを、羽鳥政庁が実務として処理しながら、水戸本藩が表向き肩代わりする。大胆な決断には違いありやせん。その代わりに、宍戸、下館、笠間、土浦……財政再建が望めない藩領は、水戸直轄に再編されるって寸法です」


 「つまり、“常陸再統合”だな」


 渋沢が茶を一口すすると、顔を引き締めた。


 「我々が用意したのは、単なる帳簿整理ではありません。各藩の負債、年貢収入、産業の基盤……すべてを数字で捉え、ひとつの再建計画として統合する。羽鳥銀行――“信用組織”が、その屋台骨となります」


 そこへ、無地の羽織をまとった晴人が入室した。全員が立ち上がりかけたが、晴人は軽く手を上げて制した。


 「ご苦労。……話を続けてくれ」


 そして、手にした巻物を卓上へ広げる。そこには再統合される旧藩領の収支と、羽鳥主導の行政再編案が記されていた。


 「今朝をもって、“常陸再建構想”を布告する。水戸藩の了承はすでに得た。幕府もまた、この動きを“財政再建の模範”として静かに支援している」


 沈黙のなか、弥太郎がぽつりと口を開く。


 「まるで、一気に国替えでもするような……」


 「いや、もっと大胆な“合併吸収”です」


 渋沢が答える。


 「もはや“藩”という枠に囚われていては、地域の未来は守れません。羽鳥はその殻を破り、“機能する自治”の実験場となるべきです」


 お吉が静かに湯を継ぎ足しながら、そっと口を挟んだ。


 「けど、町の人らは不安でしょうなぁ。屋敷が取り壊されたり、藩士が職を失うかもしれんて」


 「それを解くのが我々の責務だ」


 晴人は断言する。


 「役目を奪うのではなく、組み替える。士も庶も、“能力に応じた役割”へ移行する。それが再建の本旨だ」


 「ならば、俺の銀行が動きます」


 渋沢の声が強くなる。


 「働く意思ある者に、分け隔てなく資本を与える。旧来の身分に囚われず、新しい経済を築く。それが“羽鳥銀行”の役割です」


 「流通の網は、俺が引き直しやす」


 弥太郎が笑った。


 「道だけじゃねえ。川も、浜も、港も繋げてやる。羽鳥から物流が走れば、常陸の地は生まれ変わる」


 晴人はふたりを見渡し、小さく息をついた。


 「……頼もしい限りだ。お吉さん、もう一杯、いただけるかな?」


 「もちろん。お茶も人も、“熱いうち”がいちばん効くんですから」


 その言葉に、ふっと笑いがこぼれる。


 室内に漂う茶の香と炭の匂い。その背後で、常陸という地の地図が、ひとつに塗り替えられようとしていた。

羽鳥政庁・中央会議室。


 会議の主役たちが次々に集まり、朝の静けさを破るように書類が開かれ、墨の香が空気に混ざった。巨大な地図が中央の卓上に広げられ、その周囲に、晴人、渋沢栄一、岩崎弥太郎をはじめとする政庁中枢の面々が集っていた。


 「こちらが宍戸藩の財務状況。年貢収入は安定してますが、藩校維持と江戸屋敷経費で赤字が常態化してます」


 渋沢が指先で示したのは、宍戸藩の家計簿を写した精緻な帳面だった。江戸詰めの人員と、幕府からの使役――つまり無償労働による負担が、予算を圧迫しているのが一目瞭然だった。


 「下館藩も似たようなもんですな。2万石程度で、独立採算を維持するのは無理筋だ」


 弥太郎は、地図上の筑西に赤い印をつけた。周囲の村々が年貢を納めているにもかかわらず、出費に見合う収益構造が組めていない。地場商人の育成も遅れ、藩士の数ばかりが膨らんでいた。


 「いわば“領域疲弊”ですな。人口はいても活気がない。しかも、領民たちが年貢を納める先に信頼を持てていない」


 渋沢がその言葉にうなずき、机の端に置いた分厚い帳簿を開いた。そこには、再建案に基づいた“統合後の行政単位”が記されている。


 「我々が試みているのは、再編の名を借りた“信用回復”です。これまで藩が担ってきた役目を、政庁が受け持つ。そして、羽鳥銀行がその資金面の裏付けとなる」


 「ただ吸収するだけじゃ、禍根を残しますけん」


 弥太郎がぽつりとこぼした。


 「宿場町を整理して新しい物流経路を作る。それに伴って人の流れも変える。だがその過程で、古くからの職人町が廃れる可能性もある」


 「だからこそ、失業を出さない再配置が要なんです」


 渋沢が言葉を継ぐ。


 「藩士に限らず、町人、百姓も含めて、“働ける人間すべて”に再雇用の機会を提示する。羽鳥商会、羽鳥工房、再建支援室、それぞれが受け皿となるでしょう」


 晴人は黙って頷き、会議卓の端に目を移した。そこには、お吉が運んできた茶と菓子が控えめに並べられていた。


 「これ……城下で新しく作らせた焼き菓子です。水戸藩の再編で落ち込んだ商人たちに、菓子屋の新規開業を許可したんですよ。案外、良い味でして」


 彼女の声に場の緊張がわずかに和らぐ。晴人はその茶を一口含んで、深く息を吐いた。


 「この再編は、地図を塗り替えるだけではない。人の生活を、誇りを、もう一度“立て直す”ためのものだ」


 政庁の重鎮たちが次々に頷いた。羽鳥の取り組みは、単なる統治ではなく、社会構造そのものを“設計し直す”挑戦だった。


 「……しかし、幕府の中には、我々の動きを“越権”と見る者もおるでしょうな」


 弥太郎の言葉に、晴人は表情を崩さないまま答えた。


 「越権と言われようとも、見せればいい。成果を。“秩序を壊す改革”ではなく、“秩序を立て直す実績”を」


 渋沢が立ち上がる。


 「では、次に――土浦藩の統合案に入りましょう。南の拠点として宿駅を拡充する提案があります」


 会議室の空気が、再び引き締まった。


 羽鳥が進める「常陸再建構想」。それは、ただの経済再生にとどまらず、百年先を見据えた“地方モデル国家”としての一歩だった。

羽鳥の中心に、新たな政の拠点――羽鳥城が完成したのは、ちょうど初雪が舞った頃だった。


 ただし、これを従来の“城”と呼ぶには、やや語弊があるかもしれない。

 煉瓦と漆喰、石材を組み合わせたその建築は、瓦葺ではなく金属屋根を備え、左右対称の洋館風に整えられている。塔屋を中心にした外観は、むしろ後の明治期の庁舎建築に通ずる、きわめて異質なものだった。


 設計に携わったのは、海外の建築技術に通じた若き設計家・川村祐吉。彼は江戸で洋書の建築資料を翻訳していた才人であり、晴人の命を受け、羽鳥の地に“次世代の政庁”を築いた。


 「これが……羽鳥の“天守”ってわけかい」


 岩崎弥太郎が、完成した庁舎の正面階段を見上げながら呟いた。


 「防衛ではなく、運営のための城。人と情報が集まる場所だ。そういう設計ですな」


 隣でそう応じたのは、渋沢栄一。羽鳥銀行を拡張しつつ、各藩の財政を再編する任務に追われていた彼も、この“羽鳥城”に事務室を構えていた。


 二人が立つ庁舎の脇には、ちょうど常陸各地からの視察団が続々と到着していた。武士だけでなく、町人・農民・商人らの代表まで含まれた珍しい構成である。


 「さて、ここからが勝負ですな」


 渋沢は小声で言う。すでに再建対象となる宍戸藩・下館藩・笠間藩・谷田部藩などから、提出された帳簿や地券は山のように積み上がっていた。


 「合併は派手に聞こえるが、裏は泥臭い作業の積み重ねさ。何を残して、何を切り捨てるか……痛みの伴わん再建なんざ、ありゃしませんぜ」


 弥太郎が、懐から煙草を取り出しながら言った。


 「岩崎さん、煙草は庁舎の中じゃ禁止だ」


 「へいへい、わかってまさァ」


 二人が出入口の庇の下に移ると、遠くから馬を引く一団が見えてきた。羽鳥政庁の通達に応じて、笠間の牧野家の使者が到着したのだった。藩主本人の姿はないが、藩士を代表する使者たちは皆、真冬の旅装束で顔を赤らめていた。


 「今さらながら……これほどのことを、よくやる気になったもんだ」


 渋沢はふっと息を漏らしながら呟いた。


 「金が回れば、制度も回る。それを見せるのが我々の役目です」


 「羽鳥銀行、羽鳥通商、羽鳥輸送組……名ばっかりの“新興勢力”に見えて、その実、どれも実働してる。こりゃ本格的に、ひとつの“国”みてぇだ」


 「でも、藩じゃありませんから。あくまで“幕府の下部行政機関”。再建のモデルです」


 「その言葉を、あんた本気で信じてるのかい?」


 渋沢は答えなかった。代わりに、使者を迎えに出てきた斎藤お吉が、二人の背後から声をかける。


 「お二人とも、お寒い中でよう働いてくださって。あたしの淹れた熱いお茶、飲まんでいいんですか?」


 「そりゃ、飲みますよ。渋沢さんの理屈より、あんたのお茶の方が、ずっと沁みますきに」


 「まぁ、お上手なこと」


 政庁内では、すでに会議の準備が進められていた。晴人自身が進行役となり、各藩の統合案を説明する。先に仕上げられた統合文書には、町人層や職人組合の意見も反映されており、単なる上意下達でないことを示している。


 「……しかし、問題はここからですな。地元に“羽鳥支配”の意識を持たれたら、一気に反発が起きるやもしれん」


 弥太郎の言葉に、渋沢はゆっくりと頷く。


 「だからこそ、“同化”ではなく“協働”を示さねばなりません。羽鳥は“奪う者”ではない。共に再建する“伴走者”であると、行動で示すのです」


 その言葉に、お吉も小さく頷いていた。


 「なんだか、皆さん……戦の代わりに、別の“戦”をしてるみたいですねぇ」


 「うまいこと言いますなぁ、お吉さん。まったくその通りです」


 政庁の奥、晴人が待つ会議室では、いよいよ“常陸再建”の未来が動き出そうとしていた。

羽鳥政庁・会議室本棟。


 この洋風建築の中心に位置する大会議室には、常陸各地から集められた使者と代表者たち、およそ三十名余りが席に着いていた。武家の正装、町人の羽織、農民代表の質素な綿入れと――その服装一つを見ても、羽鳥の進める構想が“階級を超える合意形成”であることが明白だった。


 暖炉の薪がぱちりと弾け、木製の梁に光が揺らめく。


 「……それでは、これより“羽鳥政庁・常陸再建構想会議”を開きます」


 開会の口火を切ったのは、総務筆頭の吉川慎吾だった。彼の静かな声が空間に響くと、どの席でも背筋が伸びる音が微かに聞こえた。


 「まずは政庁代表より、構想の中核について説明がございます」


 促されて、一段高く設けられた演壇に立ったのは――羽鳥政庁代表、藤村晴人その人だった。


 飾り気のない羽織袴に、黒革の書類バインダーを手にした晴人は、一礼してから言葉を発した。革製の綴じ具付きフォルダーには、再建構想に関する図面や組織案が納められている。


 「……私たちはいま、未曾有の財政危機と、幕藩体制の綻びに直面しています。再建とは、ただ借金を返すことではありません。“しくみ”を変えなければ、未来はありません」


 その口調に、誰もが耳を傾ける。


 「今回、羽鳥政庁が主導する“常陸再建構想”は、単なる“借財肩代わり”ではありません。水戸藩の承認と幕府の黙認を受けて、宍戸、下館、笠間、谷田部、松岡といった再建不能な小藩を、実務上、羽鳥政庁の管轄に再編します」


 ざわっ、と会場に微かな動揺が走る。


 「これらの領地においては、旧来の藩組織を廃し、“羽鳥モデル”に基づいた新たな行政区として再構成されます。藩士は身分に関係なく、再任あるいは転任。町人、農民、職人には平等に参政の機会を与え、地域自治を強化します」


 「……そんなことが、幕府のお上に通じると?」


 低くつぶやいたのは、笠間からの使者だった。牧野家の用人を名乗る男が、懐から手帳を取り出す。


 「再建と称して藩を解体すれば、それは“国替え”に等しい。禁忌とされてきたこの行為を、どうやって正当化するのか?」


 その言葉に、晴人は動じなかった。


 「正当化ではなく、“結果”を示します。羽鳥が財政を再建し、民の支持を得て、犯罪や流民を減らしてきたこと。それを現実として幕府に提出してあります。もはや、口先より成果で通す時代です」


 続けて渋沢栄一が立ち上がった。


 「羽鳥銀行では、すでに各藩の帳簿を精査し、負債返済とインフラ整備を並行して行う試算を立てています。旧藩士も町民も、全員が“担い手”となる構想です。必要なのは、身分ではなく“意思”です」


 弥太郎も言葉を添える。


 「物流と商流を繋ぐ“宿駅網”は、谷田部と土浦を基点に、河川・海路を含めたルート構築を進めてます。羽鳥が持つ“繋がる力”を、常陸全体に延ばす。それが俺たちの役目です」


 やがて、重ねて提出された資料――行政組織案、地域別予算配分、公共工事の工程表が、会場を圧倒する。


 その中には、教導職や産業指導員、医療班、農業改革指導団といった“新職制”が設けられており、旧来の侍や町役人が、新たな役割を担う姿も含まれていた。


 「武士を斬るのではない。再び、刀を鍬に替えてもらう。町人は帳簿から地域マネジメントへ。農民には農業技術と市場への道を拓く。“誰も切り捨てない”のが、羽鳥のやり方です」


 そう語る晴人の声には、確固たる意思が宿っていた。


 やがて、誰もがそのビジョンに言葉を失っていった。


 「……最後に一つ、申し上げます」


 晴人は一歩前へと出る。


 「羽鳥は、水戸の名を継ぎ、常陸全体の“未来”を共に背負う覚悟を持っています。合併ではなく“共創”。破綻ではなく“再建”。今日のこの席が、未来の礎となることを、心より願います」


 静寂の中、誰かが手を叩いた。


 やがてそれは波紋のように広がり、拍手が会議室を満たしていく。


 “旧き体制”の終わりは、すでに始まっていた。

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