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70.9話:密室の茶室、影の談合

江戸・小石川。冬の朝霧が街を包む中、羽鳥政庁の出張所から少し離れた、ひときわ静かな一角にある茶室――。そこは、かつて御家人の屋敷であった建物を改装したもので、外見は地味ながら、羽鳥政庁と水面下でつながる“密談の間”として使われていた。


 炭をくべた炉が赤く光り、茶釜からはかすかに湯が沸く音が響く。墨色の畳が冬の陽を吸い込み、障子の向こうには葉を落とした梅の枝が影絵のように揺れている。


 その中央に、藤村晴人が座していた。羽鳥政庁の総裁という肩書を捨て、無地の茶袴に紋も外した装い。机の上には、一通の文が静かに置かれている。


 《島津久光、極秘裏に会見を所望す》


 差出人の名も、藩の印もない。だが、墨の運び、封の仕方、そのすべてから、晴人はこれがただ事でないことを即座に理解していた。


 「ついに、出てくるか……“影の当主”が」


 独り言のように呟いたその時、襖が静かに開かれた。現れたのは、浅黒い顔に落ち着いた眼差しを持つ青年――渋沢栄一である。


 「先生、間もなくお越しになります。薩摩の御一行、裏口よりお入りです」


 今や羽鳥政庁の経済担当として、内政・財政・通商の中核を担う渋沢。農村出身ながらも、藤村に抜擢され、その実務能力と洞察力を遺憾なく発揮していた。


 「薩摩……来るとは思っていたが、まさか久光公ご本人が動くとはな」


 「表立った交渉は一切なし。“拝謁”という建前での訪問です。ただ――」


 「ただ?」


 言葉を継ごうとした渋沢の背後、襖の奥からもう一人、影がすっと現れた。乱れた前髪に豪快な羽織、少し無精髭を生やした男――岩崎弥太郎である。


 「ただ、ってのはつまり――あっしの勘ですけどね、先生。やつら、ただ借金の相談に来るだけじゃねえ。羽鳥という“後ろ盾”を得て、政治の足場を固めたい。そう睨んでますぜ」


 弥太郎の口調には商人気質の軽妙さがありながら、核心を突く冷静さがあった。彼もまた、今や羽鳥商会の貿易局を統べる若き重鎮である。


 「……舌鋒は相変わらず鋭いな、弥太郎。だがそれも一理ある。久光公が羽鳥と繋がったと広まれば、幕府内での発言力は跳ね上がるだろう。とはいえ――」


 晴人は茶釜の音に耳を傾けつつ、低く呟く。


 「問題は、“どこまで見えているか”だ」


 外の気配が変わった。草履が石畳を鳴らす音、控えの者の小声、そして、茶室の外でひとつ、控えめな咳払い。


 渋沢がすっと立ち、障子の前に出る。


 「……お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」


 障子が静かに開かれる。冬の光を背に、墨染めの羽織をまとった男が現れる――


 島津久光、その人である。


 正装ではなく、質素な羽織袴。中肉中背の体にやや猫背気味の背筋。しかしその目には、一分の迷いもない光が宿り、引き結ばれた口元には“決意”の二文字が刻まれていた。


 「……御機嫌よう、藤村殿。いえ、今は“御当主”とお呼びするのが筋でしょうか」


 「私は、ただの案内人に過ぎませんよ、久光公」


 晴人は穏やかに一礼しながら、相手の視線を正面から受け止めた。久光もまた、かすかに口角を上げて応じる。


 「では、茶をいただきながら……本題に入りましょうか」


 炉に湯が沸き、三つの茶碗が並ぶ。冬の陽が障子越しに差し込み、茶室には、言葉よりも濃密な静けさが漂っていた。

囲炉裏の炭がわずかに赤く燻る茶室で、冬の光が障子を通して静かに揺れていた。


 島津久光は、炉端の正面に端座し、無地の羽織を整えながら一礼した。


 「……いきなりご無礼を――密かに、お話ししたかったのです。おおやけではなく、わたくしとして」


 その声音に、重ねた年月と抑えがたい熱が滲んでいた。政の場では抑制された人物であっても、その目の奥には、兄・斉彬の遺志を継がんとする剣のような光が潜んでいた。


 「伺っております。表立った来訪では不都合でしょうから、こうして裏からお通しいたしました。……ですが、それだけのご覚悟と拝察いたします」


 晴人は正座のまま、炉の湯気越しに久光の目を見据える。その横で渋沢栄一は湯を注ぎ、茶碗を滑らかに差し出した。岩崎弥太郎は、すでに傍らで無言のまま湯呑を傾けている。


 久光は一口、茶を含み、静かに話を進めた。


 「……我が藩の借財、今や五百万両を超えました。兄・斉彬の築かれた理想の礎が……無念ながら、夢の跡となりつつあります」


 その言葉には、決して他人事ではない痛切さがあった。


 「精錬所も、洋式の艦も、武器庫も、そして舶来の器械も、使いこなす“人”と“知恵”が続かねば、どれもただの鉄屑。兄の死とともに、構想も人脈も霧散し……今では、御台所も米蔵も、すっからかんでごわす」


 久光は、唇をかすかに引き結んだ。


 「それを、羽鳥に倣いたいと?」


 晴人の問いは、あくまで柔らかく。しかし、その内には鋭利な刃が含まれていた。


 「いえ。模倣ではなく、“学びたい”のです。そして――」


 久光は一拍、言葉を止めると、姿勢を正してから続けた。


 「“薩摩もまた、幕府の一環として機能したい”のです」


 その一言に、渋沢と弥太郎が無言で顔を見合わせた。


 「ほう……して、なぜ今この時期に?」


 「徳川政権が揺らぎ始め、外圧と内訌が同時に迫る中、我が藩が単独で道を探れば、いずれは“反逆”と取られるやもしれませぬ。ですが、“幕府と通じる形”で動けば、内から変える道が開けましょう」


 「それで、羽鳥と組みたいと?」


 「表向きではなく、陰にて。羽鳥は藩にあらず。されど、その政の仕組み、信用、そして人材は、今や江戸中に名を知られておる。……とくに、渋沢殿や弥太郎殿のような方々が築かれたものに、我らも学びとうございます」


 久光はそう言って、目線を晴人から二人の側近へと向けた。


 渋沢は静かに手を合わせた。


 「……ありがたいお言葉です。ですが、我らの試みは、決して安定しておりませぬ。規模も小さく、政庁の内部にすら、未だ軋轢が残っております」


 「それでも、芽がある」


 今度は、弥太郎がぼそりと呟いた。


 「江戸の連中も、長崎の連中も、みんな羽鳥に“何かある”と思いはじめてる。……けど実際は、先生(晴人)も手探りだ。それが逆に、どこへでも伸びる強さになっちまった」


 その言葉に、久光は目を細めた。


 「まさに、それが肝要。……羽鳥にしかできぬことがある。だが、それは羽鳥“だけ”では果たせぬ。薩摩も、肥前も、越前も、共に並ぶことで、幕府が変わるのです」


 久光は、少し躊躇するように茶碗を置いた。


 「藤村殿。……拙者は、公の立場では何も語れぬ。だが、今宵の対面は、確かに“久光個人”の意志であり、薩摩藩としての“密命”でござる」


 その言葉に、晴人の表情がわずかに動いた。


 「それは……“動き出す”ということか?」


 「はい。されど、我らは未だ無役。幕府内に支えもなければ、他藩との連携も脆弱。……そこで、御当主に願いがございます」


 久光は姿勢を低くし、深々と頭を下げた。


 「薩摩の立て直し、その道筋を――お導き願えぬか」


 茶室に、炉の火がゆらめき、静けさだけが満ちていった。


 久光の額に垂れる髪が、わずかに汗ばむ。


 藤村晴人は、目を閉じ、そして再び開いた。


 「……お引き受けは、できませぬ」


 「……!」


 久光の顔がかすかに動いた。


 だが、晴人は続けた。


 「羽鳥政庁は、いかなる藩とも、いかなる派とも、組せぬことを原則としています。どれだけの志であれ、いかなる御恩情であれ、我が地に引き込めば、いずれ“色”がつく。それは羽鳥にとって、最も忌むべきことです」


 「では……」


 「ですが、道を示すだけなら、やぶさかではない」


 その言葉に、久光の肩が一瞬だけ震えた。


 「学ぶ意志があるなら、学びに来られよ。人も、帳簿も、技術も、すべて包み隠さず“見せましょう”。ただし、“自らの手”で再興なされよ。それが――未来に通じる道です」


 茶碗の中で、湯が冷めはじめていた。


 久光は、再び深く頭を下げた。


 「……この借り、必ず返しましょう。いつの日か、正々堂々と」


 「期待しておりますよ、“次の世”のために」


 冬の光が、障子の縁を淡く照らしていた――。

茶室の隣に設けられた控えの間――。壁一枚隔てたその空間では、羽鳥政庁の若き重鎮たちが、静かに時を待っていた。


 渋沢栄一と岩崎弥太郎。ふたりは、いずれも30歳にも満たぬ青年ながら、今や羽鳥政庁の経済と物流を支える両輪である。


 「……借金五百万両か。数字にすれば絶望だが、構造が見えれば手の打ちようはあります」


 そう切り出したのは渋沢だ。文箱を膝に置き、そこから取り出した帳簿をめくりながら、静かに言葉を紡ぐ。


 「薩摩は、斉彬の時代に投じた設備投資――精錬所、洋式艦船、造船所、砲術場――すべてが資産としては膨大です。しかしそれを“活かす術”を失っている。人材が流出し、運用が止まり、支払いだけが膨れ上がった状態です」


 「つまり、“今は動かない金の山”ってやつだな」


 肩肘ついて聞いていた弥太郎が、口を挟む。羽織の裾から帳面を引き出し、指先で叩くように言う。


 「だが、そいつを動かすには、“信用”がいる。金主に、商社に、幕府に。羽鳥がその“接着剤”になるなら――そりゃあ、向こうも縋ってくるわけだ」


 「ただし、代償も大きい。羽鳥が“親薩摩”と見られれば、江戸の他藩や幕府筋との取引に影響します。特に老中連中は敏感ですからね」


 「けど、久光が“学びたい”って言ってるのは、ただの社交辞令じゃない。やつは本気で藩の命運を変える気で来てる。目の色が違ったろ?」


 弥太郎は障子の方へ視線をやる。その先では、今まさに久光と晴人の密談が続いていた。


 「才ある者に囲まれておられる。羽鳥がただの地方自治ではないというのは、よくわかりました」


 その久光の声が、襖越しにわずかに聞こえてきた。


 「しかし……我々は“幕府のために動く”。薩摩のためには、動けない」


 晴人の返答に、渋沢と弥太郎は視線を交わした。


 「まっとうだな」


 「だが、その上で、“選択肢を持っておく”のが、羽鳥の流儀です」


 渋沢が低く言った。


 「直接手を貸さずとも、情報、物流、金融の“通路”だけは用意できる。すべては、“羽鳥の利益になる範囲で”ですが」


 「なあに、向こうも百も承知でしょうさ。お互いに“利”を取る。その一点で、政治は動くんですよ」


 弥太郎は立ち上がり、茶釜に手をかけた。


 「それに、久光みたいな男は、“勝ち馬”を見極める嗅覚がある。つまり、羽鳥が勝てば、自然と向こうも寄ってくる」


 「問題は、“そのとき何を与え、何を奪うか”ですね」


 渋沢は帳簿を閉じ、ひと息ついた。


 そのとき、茶室のほうから茶碗の音がした。静謐な空間に、冬の陽が斜めに射し込む。


 交渉の行方は、まだ見えない。だが、その背後では、すでに“動かす者たち”の手が動き始めていた――。

炉の火が静かに落ち着きを見せ、茶室を包む空気に、しんとした静寂が戻る。晴人は、茶碗を手にしながら、目の前の男――島津久光を見つめていた。男の表情には、演技でも虚勢でもない、藩主としての“覚悟”が滲んでいた。


 「……ならば、幕府の“秩序”のために。薩摩がもし、道を誤りそうになった時……その“暴走”を、止めていただけますかな?」


 それは、奇妙な申し出だった。助力を求めるでもなく、連携を望むでもない。“止めてくれ”というのは、言葉を選べば「保険」であり、「牽制」でもある。けれども、それ以上に――彼自身の危惧の裏返しに思えた。


 晴人は、茶碗を脇に置き、代わりに、机に用意されていた盃に酒を注いだ。


 「薩摩が、幕府の法を逸脱する動きを見せた時。その時には、幕府の安寧を守るために、我々は動く。……それが羽鳥政庁の立場です」


 盃を掲げた晴人の声は、淡々としていたが、その裏には明確な線引きがあった。すなわち、薩摩の味方ではなく、幕府の“秩序の番人”であるという意思表示。久光の顔が、わずかに動いた。眉の端が少し下がり、目元に諦めとも、安堵ともつかない影が浮かぶ。


 「……それで、十分です」


 そう呟いた久光は、深々と頭を下げた。薄暗い茶室の中で、その姿はまるで、何かを手放す者のようにも見えた。


 「それだけの“力”が、ここにはある。それだけで、我らは……暴れずに済みます」


 その一言に、晴人の胸が、少しだけ軋んだ。久光の中に、かつての兄・斉彬の影を見たからだ。あの男もまた、未来を見ていた。誰よりも遠くを――けれど、それゆえに早く燃え尽きてしまった。


 「久光殿、私の願いも、まったく同じです」


 静かに言葉を重ねながら、晴人は盃を置いた。


 「我々は、内から幕府を倒すためにあるのではありません。……外から、それが崩れぬように支える。武力でもなく、策でもなく、“余白”としての在り方を、私は信じております」


 久光は、その言葉を聞きながら、しばらく何も返さなかった。じっと、爛々とした目で晴人を見据えていた。だがやがて、ゆっくりと頷く。


 「……兄が生きていたら、貴殿と杯を交わしたであろうな」


 「その機会を逃したのは、私にとっても惜しいことでした」


 炉の湯が、ことりと小さな音を立てた。外の障子越しには、月光が射し始めている。冬の夜が深まりゆくなかで、ふたりの影が畳の上で交わり、そしてまた分かれてゆく。


 やがて、久光は静かに立ち上がった。


 「私の言葉は、すべて“私個人”のものであると……後日、弁明することもあるでしょう」


 「構いません。こちらもまた、公文書には一切記しません」


 久光は、少し笑みを浮かべた。やはり斉彬の血を引く者だ。その笑みには、柔らかさと鋭さが同居していた。


 「それでは、今宵はこれにて」


 立ち去る久光の背を、晴人は見送った。障子が再び閉じられ、冬の静寂が室内に戻る。ふう――と、ひとつ長い息を吐いた晴人のもとに、控えていた渋沢と岩崎が、静かに姿を現す。


 「……いかがでしたか、先生」


 「久光殿は、優れた政治家だ。ただし、器用にはなれぬ人だろうな。言葉も、筋も、まっすぐすぎる」


 「逆に言えば、“踏み外せば一気に転げ落ちる”ってやつですな」


 弥太郎が肩をすくめて笑い、渋沢は深く頷いた。


 「薩摩が羽鳥を味方と見れば、抑えとして機能する。逆に、敵と見れば――」


 「……戦の口実になるやもしれん」


 晴人の目が、再び茶釜に向けられる。


 「だがそれも、“わからぬこと”だ」


 風のない夜、遠くで犬の遠吠えが聞こえた。


 「この国が、どこに向かっているのか……それすら、我々には読めぬ。だが、今宵の一席で、一つの“歪み”は防げた。今は、それで十分だろう」


 渋沢と弥太郎は、それ以上の言葉を口にせず、頭を下げた。外に出ると、月が見事に晴れた空に昇っていた。街の灯はまばらで、静寂が広がっている。


 その夜の密談は、記録に残ることはなかった。


 だが、それは確かに――後の激動の時代へ続く、一本の“細い橋”を渡す、大切な夜であった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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