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70.8話:薩摩よりの使者、囲炉裏を囲んで

江戸の町に、冷たい風が吹いていた。


 年も押し迫った冬の江戸――。神田川沿いの道には霜が降り、軒先の桶には薄く氷が張っている。川岸に立つ柳も枝を震わせ、道ゆく人々は肩をすくめて足早に通り過ぎていく。


 その道を、羽鳥政庁の黒塗りの馬車が静かに走っていた。車体には小さく羽鳥の紋が描かれている。中に座るのは、藤村晴人と西郷吉之助の二人。馬の吐く白い息が、風にすぐかき消されていく。


 「ようもまぁ、この寒い江戸に来んさったですな、西郷どん」


 窓から外を眺めながら、藤村が静かに口を開いた。曇ったガラス越しに、白く煙る町並みが見える。凍えるような冬の江戸は、羽鳥とはまた違う鋭さを持っていた。


 西郷は分厚い肩をすぼめつつ、小さく笑った。


 「薩摩の寒さに比べりゃ、江戸も似たようなもんですたい。じゃっどん……心の寒さだけは、ここで温めたかとです」


 「温めるのは、これからですよ。西郷どん」


 藤村は膝の上に置いた書状を指で軽く叩いた。そこには、薩摩藩が抱える五百万両の負債、商人との取引経緯、そして藩内歳出の内訳が記されていた。送ってきたのは、渋沢栄一だった。彼は今、羽鳥から離れ江戸で活動しており、羽鳥屋敷と薩摩藩邸との仲立ちをしてくれている。


 「わっぜ、重か借金ば、どう返すか。藩の者たちゃ、皆手をこまねいちょります。そん中で、あんさぁの知恵にすがりたいち思うとります」


 西郷の声には、真摯さとわずかな焦燥が滲んでいた。


 「返せないのではない。“どう返すか”の筋道を、私は知っている。ただし、それには覚悟がいる」


 藤村の言葉に、西郷の背筋が自然と伸びた。彼の瞳には、己が信じた未来を託せると確信した色が宿っていた。


 馬車がやがて両国橋に差しかかったとき、町人の人だかりがちらほらと目につく。凧売りの子ども、行商の老婆、冬支度に忙しい女中――活気はあれど、どこか張り詰めた空気が流れていた。


 藤村はふと呟いた。


 「……時代が動いている。幕府も、薩摩も、越前も、みな、同じ風に晒されている」


 「じゃっどん、羽鳥さま」


 「うん?」


 「その風に、わっせ、旗ば立てとうなりました」


 藤村は笑みを浮かべた。だがその表情は冷ややかで、冬の空のように澄んでいた。


 「ならば、旗印を見せましょう。“民が生き、藩が立ち、国が変わる”――それが、羽鳥の旗です」


 馬車はやがて神田の一角にある羽鳥政庁江戸出張所に到着した。門前に立つ侍が慌てて駆け寄り、深々と頭を下げる。


 門をくぐると、雪をかぶった庭の松が冬の日差しを照り返していた。あたりに漂う空気は、張り詰めるように冷たく、そして静かだった。


 「さぁ、西郷どん――これが始まりです。薩摩の再建は、ここから始まります」


 藤村の言葉に、西郷は深く頷いた。


 「はい。命ではなく、未来を預けもす」

羽鳥政庁江戸出張所の会議室は、冬の朝日に包まれていた。


 格子窓の外には薄く霜が降り、庭の手水鉢にはうっすらと氷が張っている。奥座敷には炉が切られ、湯気の立つ鉄瓶がかすかに鳴っていた。畳の上には分厚い帳簿と、薩摩藩の財政報告書、そして藤村が持ち込んだ「再建計画案」が静かに並んでいる。


 その場にいたのは、藤村晴人と西郷隆盛、そして側近として羽鳥政庁から同行してきた文官二名。主計局からの精鋭で、いずれも渋沢栄一の教えを受けた若い才人たちだ。


 「……これが、薩摩藩の負債総額ですか」


 藤村は一枚の帳簿を手に取った。巻紙に筆で丁寧に記された数字の列が、まるで血の滲んだ戦いの記録のように見えた。


 「五百万両……これは、もはや藩の歳入の二十年分に匹敵する額ですね」


 西郷は眉根を寄せて小さく頷いた。


 「そん通りでごわす。しかも、この数年で、琉球貿易も滞り、年貢米も不作つづき……士族の俸禄も、一部では米による支給に切り替えちょります」


 「それは健全な判断です。貨幣による一律支給は、金利負担や商人との取引を通じてさらなる赤字を呼びます。米支給の方が内部統制が取りやすい」


 藤村はさっと帳簿をめくる。財政の内容を、視線だけで読み取っていく姿に、西郷の眼差しが変わった。


 「……羽鳥では、どうして財政を立て直せたとですか?」


 問いには素朴な疑念と、強い関心が同居していた。


 藤村は少しだけ笑みを浮かべると、畳の上に一冊の和綴じ冊子を滑らせた。表紙には毛筆で《羽鳥式歳出歳入可視化帳》と記されている。


 「まず、“可視化”です。誰が、何に、いくら使い、どこに流れているかをすべて洗い出しました。そして、不要不急の支出を一時停止。特に武士階級に対しては、現物支給と名目上の俸禄分離を徹底しました」


 「名目上の俸禄分離……?」


 「はい。表向きは変えず、実際には半額を現物、残りは“利子付き俸禄券”として帳簿上に記録。これにより、忠義は守らせつつ、実際の財政負担を半減できます」


 西郷は思わず声を漏らした。


 「それは……士族の反発は?」


 「“今を耐えれば、未来に返ってくる”という証文を用意し、支給停止ではなく“延期”と伝えたのです。未来に希望を繋げば、人は耐えられる」


 藤村の言葉には、重みがあった。数字だけで人は動かない。信頼と制度が揃って、はじめて改革は成る。


 「……薩摩でも、同じことはできもすか?」


 「できます。ただし、準備が必要です。まずは、藩内の流通構造の見直しと、高利貸との債権再交渉からですね」


 藤村は筆をとり、一枚の掛け軸の裏に罫線を引いて書き始めた。


 「第一段階。“財政の見える化”と“再交渉”――これは羽鳥でも最初にやったことです」


 柱の横に控えていた若い文官が、手早く副本を用意する。その隣で西郷はうなずきながら、懐から取り出した小さな瓶を藤村の前に差し出した。


 「……麦焼酎です。鹿児島の田舎の親戚が手間ひまかけて造っちょる一本。今日のこの場が、わっぜ、大事な節目になる思て、持ってきもした」


 藤村はその瓶を手に取った。中には琥珀色の液体が揺れている。


 「ありがたい。これは、必ず未来への“盃”として受け取ります」


 二人は小さな盃を交わした。


 焼酎の香ばしい麦の香りが、静かな部屋にふわりと広がる。温もりは体の奥からじんわりと広がり、凍てついた空気すら和らいでいくかのようだった。


 「……薩摩は、生まれ変わらねばなりません。西郷どん。その先陣を、あなたが切ってください」


 藤村の声に、西郷はふかぶかと頭を下げた。


 「はい。いかなる痛みも、いかなる困難も――すべて引き受けもす。あんさぁの知恵と道を信じて」


 部屋の窓の向こうでは、細かな雪がちらつき始めていた。


 江戸の空に舞い降りたその白い結晶は、薩摩の未来に降る“再建の兆し”のようでもあった。

会談の翌朝、羽鳥政庁江戸出張所の中庭には、早くも人の気配が満ちていた。


 寒さ厳しい冬の朝、空は薄曇りながらも、昨晩の雪は積もるほどではなかった。庭の植え込みにうっすらと残る白の痕跡が、江戸の街に珍しい静けさを添えていた。


 座敷では、藤村晴人と西郷隆盛、そして羽鳥の主計官、薩摩の書役が対座している。畳の上には、数枚の掛図と勘定帳、そして藤村が自ら記した「薩摩藩改革草案」が広げられていた。


 「……まずは、商人衆の動きを制することが肝心です」


 藤村が指先で地図を示す。薩摩城下、鹿児島の城下町を中心に、御用商人の拠点が赤く記されていた。


 「負債の八割が、島津家と結託した旧来の豪商から成っております。この者たちは既得権にあぐらをかき、藩の財政再建には不向きです」


 西郷は眉間に皺を寄せた。


 「たしかに……せっかく斉彬さまが築かれた蒸気船や工場の類も、今ではその維持費が負担となり、屋台骨を揺らしておる始末です」


 「斉彬公の先見の明は確かですが、設備投資を先行しすぎました。今必要なのは“人”です。――財務を預かる人材の刷新と教育。それが薩摩を変えます」


 藤村の言葉にうなずき、西郷は懐から封をされた文書を取り出した。


 「この者は、今度の件で江戸に常駐させるつもりの者でごわす。名は、川口雪篷と申します。筆は達者で、義理堅い。帳簿仕事には向いておる」


 「素晴らしい。こちらからも、羽鳥で鍛えた文官を一名、鹿児島に常駐させましょう。互いに監査と支援を行える体制にします」


 「……して、その者は?」


 「羽鳥主計局の甲斐守新一。若いですが、帳簿の鬼です。数字に対しては一文字の狂いも許さぬ性格でしてね。西郷殿が彼と出会えば、納得していただけるでしょう」


 そう告げる藤村の口調は、わずかに柔らかかった。戦略と信頼、そして育てた部下への誇り――それらがにじむ言い方だった。


 「羽鳥式財政改革の肝は、三つあります」


 藤村は筆をとり、机上の和紙に記しながら語った。


 「一、収入の集中。年貢米、特産品、藩有林――あらゆる収益源を一括で管理し、無駄な横流しを防ぐ」


 「二、支出の整理。軍備と教育、産業育成の三本柱以外は、原則として予算を縮小」


 「三、内部通貨の導入。俸禄や工賃を“再建証券”と名付けた通貨で支給し、一定期間後に藩札へ交換可能とする。これにより、即時の現金支出を抑制する」


 西郷は眼を見開いた。


 「それは……一種の“信用創造”ではありもはんか?」


 「ご明察。未来への“信用”を、いま現実の“通貨”として流通させる。羽鳥では、この方法で予算の四割を圧縮しました」


 「……わっぜ、恐ろしか頭脳でごわすな」


 西郷が感嘆の声を漏らすと、藤村はそれを遮るように静かに語る。


 「これは、武力で改革を進める時代ではありません。数字で、制度で、信頼で……日本を動かすのです」


 やがて、西郷が立ち上がった。


 窓辺に歩み寄り、寒空の下に広がる江戸の街を見下ろす。煙突の煙がゆらゆらと立ち昇り、町人たちの暮らしがその下に広がっている。


 「羽鳥という小さな地に、これほどの知恵があったとは……。あんさぁが現れなんだら、薩摩も、いや日本も、どうなっていたか分からんごわす」


 「私一人の力ではありません。羽鳥には、志ある人々が集い、その声を聞いて制度が形作られてきました」


 藤村の答えに、西郷はふっと息を漏らした。そして、懐からもうひとつ、小さな包みを取り出す。


 「……それは、母が送ってきた“からいも餅”でごわす。故郷の味を、あんさぁにも味わって欲しか」


 「ありがたい。ならばこちらも、羽鳥の“干し柿と麦味噌”を」


 二人は自然と笑い合った。戦ではなく、贈り物で結ばれる絆。武力で国を動かしてきた時代の終焉が、そこに確かに感じられた。


 その日、羽鳥政庁江戸出張所には、雪がしんしんと降り始めた。


 白い帳はやがて江戸の町を覆い、だがその下で芽吹く改革の種は、春に向けて確実に息吹きをたたえていた。

火の揺らめきが、囲炉裏の鍋に浮かぶ干し大根の輪郭をぼんやりと照らし出していた。味噌と焼き干しの出汁が香る小鍋の隣で、藤村晴人の手元には、白濁した麦焼酎の湯割りが静かに湯気を立てている。


 「――薩摩の財政立て直しに、“羽鳥式”を使いたい。久光公の真意は、そこにあると見てよいのだな?」


 藤村の問いに、西郷吉之助は神妙な面持ちでうなずいた。黒木綿の袴にくすんだ羽織。禄高わずか十数石の下士にすぎぬ身なりだが、その眼差しには、一介の使者を超えた決意があった。


 「先生……羽鳥のまつりごとは、民の心をつかんでおりもす。目で見える道、耳で聞こえる法、手で触れられる暮らし。どれもが確かで、裏表がなか。薩摩にも、そげな“まことの政治”が要ると、殿はお考えでごわす」


 「だが、それをやるには、まず藩内をまとめねばなるまい。お前も言ったな、旧臣の反発があると」


 「はい……実のところ、わいも難しか役目を背負っちょります」


 西郷は、薪の火に目を落とした。酒の湯気の向こう、頬に滲んだ汗を拭いもせず、ぽつりと呟く。


 「藩政に関わらせてもらえるのも、せいぜい“実務の小間使い”程度。されど……このままでは、斉彬さまの理想が“空っぽの夢”で終わってしまいます。自分は、それが……たまらんとです」


 その声に、藤村は一瞬、かつての自分を重ねた。


 夢が志に変わる時、人は初めて「前を見る」。

 そして志が現実にぶつかった時、初めて「方法」を探し始める。


 「お前は、変わろうとしている。いや、すでに変わり始めているのだろうな、西郷吉之助」


 「恐れ入ります……」


 ふと、藤村は手元の巻物を開いた。中には、羽鳥で実践されている「民政五原則」、そして町人層への信用制度、物資流通の簡易課税策、共有地の利用改革案――すべてが、試行錯誤の末に培われた経験の結晶だった。


 「この政を、持っていけ。羽鳥の“真似”ではない。“翻訳”だ。薩摩に合う言葉で、合うやり方で――お前の言葉で伝えるのだ」


 藤村は巻物を差し出すと同時に、もう一つ、薄手の革帳を取り出した。


 「それは、渋沢が記した財政整理の実施例だ。彼は勘定方ではないが、民の息遣いを財に換える術に長けている。薩摩の五百万両――遊興と虚勢で崩れた財政を、“生きた経済”へと組み替える土台になる」


 西郷は、手を伸ばした。その指先には、かすかな震えがあった。感謝でも緊張でもない。重みだった。藩という巨大な船を、動かすための“舵”を手にした責任。


 「わっぜ、ありがたか……。必ず、殿に……いや、藩に役立て申す」


 「殿、ではなく“民”にだ」


 藤村は静かに言い添えた。


 「この政は、“民”が動かなければ意味をなさぬ。お前がそれを誰よりも分かっているから、私は託すのだ。上からの改革ではない。下から突き上げる、熱と覚悟をな」


 囲炉裏の火が、再び小さく弾けた。

 静かな夜が続くその中で、薩摩の未来を動かす火種が、確かに置かれたのだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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引き続き、よろしくお願いいたします。

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