70.7話:焼酎と盟約 ― 薩羽連携の夜明け
夜の江戸を、二頭立ての馬車が静かに進んでいた。
雨こそ降ってはいないが、冬の終わりを知らせる冷たい風が、道沿いの土壁を叩く。石畳に車輪の音が響き、それが江戸の夜にひそやかな存在感を刻んでいく。
御者台の灯に照らされるのは、羽鳥政庁の徽章を掲げた漆黒の馬車だ。江戸において、それはまだ珍しい乗り物だった。武士たちの多くが駕籠を使い、町民は徒歩が基本である中、この西洋式の密閉馬車は、どこか異国の風を感じさせる。
中に乗っているのは、藤村晴人。羽鳥政庁の主宰にして、近代国家形成の構想を描く男。その隣には、彼の忠実な家臣であり財政面の頭脳、渋沢栄一が座っていた。
「……それにしても、江戸の空気は変わりませんな」
渋沢が口を開いた。窓越しに見える町の灯を眺めながら、感慨深げに言葉を続ける。
「羽鳥に比べると、ここはまだ“変わろうとしていない”匂いがする。人も、町も、そして役所も」
「変えたくないのだろう。変わることは、得も失うからな」
藤村は馬車の天井を見上げ、小さく息を吐く。
この日、彼が江戸に滞在していた理由――それは、薩摩藩からの密使として西郷隆盛が訪れるとの連絡を受けたためだった。表向きは幕府からの要請で「外様藩との財政連携調査」の任務を受けたことになっているが、実際には羽鳥政庁と薩摩藩の“相互救済”の布石である。
島津久光。かつて斉彬の弟として目立たぬ立場に甘んじていたこの男は、兄の死後、表舞台へと踊り出た。藩主ではなく「国父」として君臨する彼の背後には、巨額の借金と、崩壊しかけた制度が横たわっている。
その額――五百万両。
「一藩が抱える借財としては、もはや“限界突破”といっても差し支えない」
藤村が口にした言葉に、渋沢は静かに頷いた。
「羽鳥での改革を、あの規模で行った我々だからこそ、薩摩に示せる道があります」
「だが、これは単なる借金整理ではない。もし薩摩の建て直しに成功すれば――日本全体に“構造転換”の必要性を示すことになる。その意味で、これはある種の……」
「経済維新、ですな」
二人の視線が交差する。窓の外には、町奉行所が見えてきていた。馬車は江戸城の西丸近く、密談用に確保された屋敷へと向かっている。
「西郷殿がどこまで久光公の本意を掴んでいるかが鍵ですな」
渋沢がそう言うと、藤村は短く頷いた。
薩摩の財政破綻は、単に浪費が原因ではない。藩士への過剰な俸禄、膨れ上がる軍備費、そして琉球・長崎ルートを通じた非公式貿易の赤字――要因は複雑に絡み合っていた。だが、その一つ一つは、羽鳥政庁がすでに経験し、打ち破ってきたものでもある。
「予算の見える化」
「通貨の安定供給」
「武士階級の再編成」
「民間との連携による収益構造」
すべては藤村が主導し、渋沢が実行に移した。今や、羽鳥政庁の経済運営は日本中の知識人から注目されていた。
「西郷さんが我らをどう見ているか……それは会ってみねばわかるまい」
藤村は袖の中にある懐中時計――正確には、羽鳥で製作された機械式の小型時計を取り出し、時刻を確認する。西洋の技術を、和の設計思想で昇華させた逸品。それは彼らが志す未来そのものを象徴していた。
「……いずれにせよ、これは幕府に対する挑戦ではない。むしろ、幕府の延命策だ」
「はい。外様との連携による“幕府補完”政策……それが我らの提示する道筋です」
やがて、馬車は停まった。御者の声が、控えめに響く。
「ご到着でございます」
馬車の扉が開くと、冬の夜気が一気に吹き込んだ。藤村は羽織の襟を軽く正し、足元の段差を確かめてから、江戸の石畳に降り立つ。
視線の先――屋敷の門前には、影のように立つ男の姿があった。
頬のあたりに少し痩けが見えるものの、目は鋭く、体軀は鍛えられている。両手を背に組み、微動だにせず立つその姿――
「……西郷どん」
藤村が歩を進める。西郷隆盛が、ゆっくりと頭を下げた。
「藤村様。やっと、お目にかかれました」
その声には、重みと、わずかな希望があった。
(――五百万両。その先にあるのは、薩摩の再生か、日本の未来か)
その始まりが、今ここにある。
江戸の春は、まだ硬い蕾の中に淡い色を秘めていた。
陽が傾き始めた城下の道を、一台の馬車が静かに進んでいた。馬の蹄が石畳を叩く音が、夕暮れの街に小さく響く。道の両脇では商人が帳簿を片手に立ち働き、長屋の子どもたちが、馬車の後ろ姿を指差してはしゃいでいた。
「……随分と目立っているな」
苦笑気味に呟いたのは、藤村晴人である。黒地に羽鳥の紋が入った襖付きの馬車は、簡素ながらも上質な造りであり、江戸の街中では異彩を放っていた。
「江戸ではまだ、馬車の利用は珍しいですからな。そもそも、乗り物で堂々と移動すること自体、武士階級の象徴とも見られております」
そう答えたのは、藤村の傍に座る若き家臣――渋沢栄一だった。
元は農家の出であったが、藤村の改革に感銘を受け、羽鳥に仕官して以後、その経済才覚と語学力をもって重用されていた。今では、羽鳥政庁の財政部門における右腕であり、江戸における藤村の“出先機関”を支える存在としても知られている。
「……こうして道を歩いていると、幕府の中枢がいかに旧態依然か、よくわかるな」
藤村の視線は、城下に点在する武家屋敷に注がれていた。多くは瓦葺きの堂々たる建物だが、その中に活気は感じられない。幕府の中枢たる江戸にあっても、構造改革の波は届いておらず、形式と伝統に縛られたまま膠着していた。
「薩摩からの使者、すでに着いているようです」
渋沢が懐から紙片を取り出し、藤村に渡す。そこには、文久二年二月某日、薩摩藩邸にて面会を希望するとの書き付けが記されていた。差出人は西郷吉之助――後の隆盛である。
「久しぶりだな、西郷どんと会うのも」
藤村は小さく笑った。西郷との最初の接点は、まだ数年前。羽鳥の財政改革が話題になりつつある頃、島津家中の下士たちを中心に、“中央と違う道”を模索する者たちが江戸で密かに動き始めていた。その中にあって、藤村に強い関心を持ったのが、西郷だった。
「たしか、斉彬公が亡くなられてからですな」
「そうだ。あのとき、薩摩が分裂しかけていた。開明派と保守派の板挟みで、西郷は相当苦労していたと聞く」
藤村の声には、同情だけでなく、かすかな期待が混ざっていた。
――島津久光が政権を握る中、実務の担い手として選ばれた男。わずか12石の下士に過ぎぬ身分ながら、藩主の信任を受ける西郷のような人材が、今の日本には必要だった。
「幕府との対立でも、薩摩との連携でもない」
藤村は静かに言った。
「この国を持たせるには、“新たな軸”が要る。権威でもなく、血筋でもなく――共に、先を見て歩ける同士が」
その言葉に、渋沢は頷いた。
「殿。実のところ、薩摩の借財、かなりのもののようです。記録では五百万両。ですが、実際の運用上では、現金化不可能な資産も含めて、それ以上の圧迫があると推測されます」
「だろうな。改革なくしては、破綻する」
藤村は馬車の窓から外を見た。日が傾き、江戸の街は赤く染まり始めていた。だがその中に、未来の色はまだ見えていなかった。
「幕府が動かないなら、外様が動けばいい。いや、民が動けばいい。その下地を作るのが、我々の役目だ」
やがて馬車が止まり、渋沢が軽やかに降りる。続いて藤村も降り立ち、薩摩藩邸の門前に立った。
瓦屋根の藩邸は、さすがの風格を備えていたが、どこか重苦しい空気が漂っていた。財政難、内部対立、対外交渉――多くの矛盾と緊張を内包した、現代の企業のような“危機の塊”だった。
だが藤村は、笑っていた。
「さて、行こうか。日本の未来のために――まずは、懐柔より信頼を」
そう言って、彼は堂々と門をくぐった。
藩邸の奥へと通された藤村と渋沢は、見事な床の間が設えられた書院造りの一室へと案内された。
天井は高く、柱は磨かれた黒檀。だが、その優雅な造りとは裏腹に、部屋には重苦しい空気が満ちていた。畳の匂いとともに、どこか湿った焦燥感が立ちこめている。
「……ご足労、かたじけもんどす」
静かに襖が開かれ、入ってきたのは、黒羽二重の羽織に身を包んだ男だった。丸顔に無精髭をたくわえ、目はどこか優しげでありながらも、射抜くような力を秘めている。
西郷吉之助。後に“隆盛”と称されるこの男も、まだ当時は一介の藩士にすぎなかった。
「吉之助どん、久しいな」
藤村は微笑んだ。言葉に力はない。だがその声音には、互いの距離を一気に縮めるような、人の奥底を掴む柔らかさがあった。
「ようこそおいでいただきもした。拙どん、かの斉彬公に仕えしより、この日を待ち望んでおりもした」
西郷は深く頭を下げた。藤村が席につくと、渋沢が軽く周囲を見回してから、そっと座に着いた。
「斉彬公は、我が国で最も先を見ておられた方だった。だが、時代はその志を咀嚼する前に、呑み込んでしまった……」
藤村の言葉に、西郷はうなずいた。彼の顔には、言葉にできぬ思いがこびりついている。
「拙どんは、未だに夢を見もす。主君が生きておられたら――いや、主君の意志を形にするためにも、動かねばなりもはん」
そして、西郷は正面から藤村を見つめた。
「羽鳥殿。お力を、お借り申せぬか。薩摩は、今、沈みかけた船の如し。五百万両もの借財を抱え、藩士は俸禄を受け取れず、商人らの信用も落ちて久しか。拙どん一人の力では、もはや手立てがありもはん」
藤村は、腕を組んだまま目を閉じた。そしてゆっくりと開き、静かに口を開いた。
「吉之助どん。私は、羽鳥という一地方を預かる者であり、幕府の中枢にはおらん。だが、改革とは、中央からではなく、いつも周縁から始まるものだ」
彼は渋沢に目をやると、懐から一冊の冊子を取り出した。そこには、緻密に書き込まれた財政戦略案が記されていた。渋沢が江戸で取りまとめ、晴人が構想した、“五年完済”の未来設計図である。
「見える化、歳出精査、借換え、貿易、増税、信用創出……どれもが地味だが、確実な手だ。一歩ずつ、この腐りかけた制度を食い破る。羽鳥でやれた。薩摩でできぬはずがない」
西郷は、その冊子を手に取った。墨の匂いが新しく、だがそこに記された数字は、重く現実的だった。
「……これは、現実の話でございもすか?」
「現実にする。してみせる」
藤村の言葉に、渋沢も小さく頷いた。
「まず初めに、全財政の棚卸しと、隠れ借財の洗い出しをいたします。非効率な歳出は即刻停止し、高利の債務は利率の再交渉を。商人たちとは“償還付き投資証書”の発行で、一時的な流動性の確保を。実行段階では、羽鳥より財政使を数名お送りします」
西郷は驚きの表情を浮かべた。
「そこまで……?」
「それだけの価値が、薩摩にはある。いや、君たちにはあると私は信じている」
藤村の声は、ただ静かだった。しかしその静けさが、西郷の胸を打った。
「ありがとうございます。拙どん、今まで多くの策士、改革者を見てきました。だどん、藤村殿のように、“民”を口にされるお方は、あまりおりもはん」
そう言って、西郷は深く頭を下げた。
「まずは財政使の受け入れと、改革準備室の立ち上げから始めてもらう。久光殿には、私の書状を預けよう。幕府と羽鳥の推薦を得れば、久光殿が要職に就く道も開けるはずだ」
「老中に……?」
「異例だが、非常時には異例こそが必要だ。幕府にとっても“外様の成功例”は、むしろ好都合。斜陽の組織には、新たな柱が要る」
西郷の瞳が、わずかに震えた。
――かつて、斉彬公が夢見た国家。その礎を、目の前の男が築こうとしている。
「羽鳥殿。よかろう。拙どん、この命、すべて預け申す」
力強く手を差し出した西郷に、藤村もまた応えた。
その握手には、外様藩の悲願と、中央を動かす意思が宿っていた。
部屋の空気が、少しだけ柔らかくなった。
重苦しい交渉の終わりに、どこか安堵を含んだ空気が流れはじめたのを感じた西郷吉之助は、静かに立ち上がると、部屋の隅に控えていた小者に合図した。
「……羽鳥殿、渋沢殿。せっかくの縁どす。粗酒やけんど、少し口にしてもらいもせんか?」
そう言って差し出されたのは、桐箱に入れられた一本の焼酎瓶だった。
「これは……?」
藤村が怪訝な顔で手に取ると、西郷はうれしそうに頷いた。
「麦どす。都城の奥、宮之城で取れた麦を丁寧に醸し、土瓶で三年寝かせたもの。酒好きやった斉彬公が、内密に造らせとったんですわ」
「へえ……これはまた」
藤村は目を見張った。すでに羽鳥では醸造所を数カ所稼働させていたが、焼酎の本格的な熟成にはまだ至っていなかった。とりわけ麦を使った酒は、香りが立ちやすく、冷涼な関東では管理が難しい。
「麦の酒は、香りがよう立ちますな。ちと甘みもありもす」
西郷が自ら杯に注ぎ、次に藤村、渋沢の順に並んだ漆の杯が満たされた。部屋にふわりと立ち上る麦の香ばしさ。焼いた麦とほのかな蜜の香りが入り混じったその匂いに、思わず藤村も表情を緩めた。
「……いただきます」
三人は静かに杯を傾けた。
「――うん、いい香りだ。柔らかくて、舌にまとわりつかず、すっと抜けていく。これは、上物ですね」
藤村の評価に、西郷の頬が赤らんだ。
「拙どんは、そんなよう分からんのやけど……これは、羽鳥の酒にも負けんと、そう思うとります」
「これは対抗ではないよ。競うのではなく、繋ぐのです。薩摩の酒も、羽鳥の器で売りましょう」
藤村のその一言に、西郷は目を見張った。
「羽鳥で売る、ち申されますと……?」
「私が江戸に来た理由は、それだ。薩摩と羽鳥の連携によって、“東と西の流通軸”を作る。米、鉄、織物、そして酒。西郷どん、物流とはつまり、命脈です。金を持つ者と、汗を流す者を結ぶ血管です」
その声には、静かだが確かな熱があった。
「薩摩は、商人との信用を失いかけている。それを取り戻すには、具体的な成果が要る。財政改革だけでは足りない。取引と流通、すなわち“外の動き”が必要なんだ」
藤村は、脇に控えていた渋沢に目配せをした。渋沢は懐から一冊の帳簿を差し出し、静かに言葉を継ぐ。
「すでに羽鳥では、羽鳥商会を通じた統一流通網を確立しています。これを南下させ、薩摩の特産品――さつま揚げ、黒糖、陶磁器、そしてこの麦焼酎などを含めた“薩摩ブランド”として江戸で流通させる準備が整っております」
「なんと……」
「もちろん、名義は“薩羽商会”でも結構。名を残すことが目的ではない。互いの土地を守ることです」
藤村の真意を悟った西郷は、しばらく黙した後、小さくうなずいた。
「斉彬公がご存命やったら、きっとお喜びになったことでしょうな……」
「いや。斉彬公は、その先を見ておられたはずだ。私は“民を見よ”と教えられた。それを、あなた方と共に実践したい」
焼酎の余韻が喉を通り過ぎる頃、ふと襖の向こうに足音が聞こえた。
「お取り次ぎいたします。久光様より、間もなくお目通りとのことです」
西郷がわずかに眉をひそめた。
「拙どんが勝手を致しまして……けんど、久光様は……まあ、お話だけでも聞いてくださるはず」
藤村は杯を置いた。
「話すべきことは、ただ一つ。未来の形と、それを誰と築くか、です」
その言葉に、西郷は深く頷いた。
日が暮れかけ、障子の外に朱が差し始めた。薩摩の古き屋敷が、ゆるやかに時の色に染まっていく。静かな夕暮れ、だがそこには、幕末という荒波に挑むための、新たな灯火が確かに灯りはじめていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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