70.7話:常陸と薩摩、影の交渉
江戸城西丸――冬の終わりを思わせる風が、御用門を抜けて吹き抜けた。石畳の隙間には霜柱の名残が僅かに残っていたが、空は澄み渡り、どこか新しい季節の気配を帯びていた。
その空気の中――藤村晴人は、羽鳥政庁の総裁として、幕府との制度調整のために一時江戸に滞在していた。黒羽織に身を包み、手元には今しがた届いた巻き紙の束が置かれている。外回りを終えたばかりの彼は、詰所の控え間で湯を口にしながら、束の間の休息をとっていた。
文久元年の暮れ、ヒュースケン殺害事件に際して羽鳥政庁が発表した対外声明は、予想を超える反響を呼んでいた。英語と漢文による同時発信という形式は列国から“誠実かつ整然”と評価され、幕府内でも「民政による治安維持」「通訳制度と護民隊の先駆性」に注目が集まっていた。
結果として、羽鳥は“実験成功のモデルケース”として取り上げられ、幕府老中から「羽鳥の制度を他藩に導入する際の参考資料を提出せよ」との要請が下った。
形式上は水戸藩の下部組織である羽鳥政庁――だが実際には、商業、教育、軍制、外交すら自前で整備するその実力に、各方面から関心と警戒の目が注がれていた。
晴人の江戸滞在の役目は、「羽鳥の仕組みを紹介すること」だった。
だが、真の狙いは別にある。
常陸国内の諸藩――笠間、土浦、古河、下館など――その多くは借金と人口流出にあえぎ、もはや自前の再建が困難となっていた。
羽鳥は、これらの諸藩の借財を条件付きで肩代わりし、新たに“常陸藩”という一つの枠組みに再編する構想を、水面下で進めていた。
「……表に出る必要はない。ただ、動けばよい」
机上には、町年寄・喜多村屋との輸送契約案、旗本筋の不満を和らげる妥協案、そして諸藩からの制度移植申請の報告書が並んでいる。
いずれも表に出ることのない交渉。だが、こうした継ぎ目のない作業こそが、新しい国の骨格を形作るのだ。
「今日もうまく、火種は摘んだな……」
湯呑を置いたその時、障子の向こうから控えの者が声をかけてきた。
「藤村様。一橋様より、急ぎお目通りのご指名がございます」
一橋様が、わたしに――?
一瞬だけ、胸の奥に波紋が広がった。だが晴人は表情を崩さず、懐から巻紙と短冊を確認し、静かに立ち上がった。
御三卿の控え屋敷に通された時、一橋慶喜はすでに床几に座っていた。隣には小ぶりな白磁の膳が置かれ、その上には、湯気を立てる小鍋と、味噌に漬け込まれた豚肉が、網の上で香ばしく焼かれていた。
「藤村。そなた、これは何という食い物か知っておるか?」
開口一番、そう問われて、晴人はわずかに目を瞬いた。
「……それは、彦根藩の御用達。味噌に漬け込んだ猪肉、もとい、豚肉でございます。尾張筋の醸造元が味噌を供給していたと聞いております」
慶喜はにやりと笑った。
「ほう。さすがによく知っているな。彦根の“味噌ぶた”はな、わしの好物よ。見ての通り、井伊の小僧は政で手も足も出ぬが、味だけはわしを満足させる」
井伊直弼――この世界線では、将軍継嗣争いに敗れ、大老にもなれず、桜田門の雪も踏むことはなかった。今では、ただの彦根城主に過ぎない。
「藤村。そなた、江戸においてもよう動いておるらしいな」
慶喜は、箸を置き、杯を手にした。
「わしはな、派手に事を動かす者より、“よき補佐”を持つ者のほうが強いと思っておる。政とは、好物一つで変わるものだ。味噌の香りが心を緩め、言葉が柔らかくなるなら、それは“戦なき勝利”といえるのではないか?」
晴人は、深く一礼した。
「は。羽鳥の地にて学んだのは、まさにその“勝たずして収める”在り方にございます。争いは避け、調和を紡ぐこと。今後も、それを信じて動いてまいります」
「……ならば、今後、我が政でも、その力を借りることになるやもしれんな」
その言葉には、重みがあった。正式な辞令ではない。だが、明らかに“人事”に近い香りがする。
味噌ぶたの香ばしい匂いが、広間に満ちていた。
膳の上の味噌豚は、すでにほとんど残っていなかった。脂が溶けた味噌の香ばしさは、冷え切った屋敷の空気に柔らかく残り香を漂わせていた。
「……水戸の者が、江戸でこれほど働いておるとはな」
一橋慶喜は、ふと独りごちるように言った。表情に明確な感情はない。だがその口調には、少しだけ興味と感心の色が混じっていた。
晴人はすぐに返事をせず、静かに湯呑を置いた。茶の香りがまだ唇に残る。
「羽鳥は、まだまだ小さな土地にすぎません。しかし、幕府と水戸と――そして民が、それぞれに責任を持てる仕組みをつくることができれば、“地方”という言葉に、未来が生まれると信じております」
「……信じている、か」
慶喜は目を細めた。晴人の目をじっと見て、確かめるように。
「おもしろい考え方だ。将軍職に近づく者の多くは“天下を動かす”と口にする。だが、そなたは“地を支える”という」
その言葉のあとに続いたのは、重い沈黙だった。
晴人は思った。
この男は、おそらく常に“上”を見ている。そしてその頂きが、あまりに高く、あまりに孤独なのだと。
やがて、慶喜は手元の懐紙に残った油を拭いながら、言った。
「……いずれ、常陸の地を一つにまとめるのだろう?」
晴人は眉を動かさなかった。だが心の奥で、確かに驚いた。
その言葉は、羽鳥の誰にも、まだ口にしていない。構想は動き始めていたが、“常陸藩”という名を明言した者は、幕府内にはいなかったはずだ。
「……すでに、お耳に入っていたのですか」
「江戸の空気は狭い。そなたが老中筋の屋敷を訪ね歩き、商会とも接触していれば、いやでも噂は立つ」
慶喜は苦笑したように口の端を上げた。
「だが、安心せよ。私はその策を悪とは思わぬ。むしろ……」
言葉を区切り、慶喜は膝の上の書状に目を落とした。
「“常陸藩”――その名は、古に通じる。“国”の概念が未だ定かでないこの時代に、藩ではなく“土地”の名で呼ぶとは、実に面白い」
晴人は静かに頭を下げた。
「名乗るには、まだ早うございます。ですが、笠間、土浦、古河、下館――いずれの藩も財政難にあえいでおります。羽鳥の仕組みと資金で支え、まとめることができれば、一つの“州”として生まれ変わることもできましょう」
「そのとき、藩主はどうする?」
慶喜の問いは、単刀直入だった。
「私ではありません」
即答だった。迷いはなかった。
「御三家の家格を持つ水戸徳川家こそ、旗印にふさわしいと考えております。私はあくまでその仕組みを整える“仕掛け人”にすぎません」
慶喜は、しばし黙したまま視線を落とした。
やがて、低く、しかし明瞭な声で言った。
「……水戸が、常陸一国を束ねる日が来ようとはな」
その言葉には、政治家ではなく、“水戸徳川家の血を引く男”としての感情が滲んでいた。
「尾張は尾張国を、紀州は紀伊国を預かった。だが、水戸は常陸の半ばと、点在する領地のみ。将軍に最も近き家柄でありながら、一国すら持たぬ……それが、我らの宿命だった」
晴人は、その言葉の重さに、思わず背筋を伸ばした。
慶喜の表情には、誇りと、どこか悔しさの混ざった色があった。
「常陸藩――その名が、幕府の許しによってではなく、民の力と仕組みによって立ち上がるなら……それは、水戸にとっても、新たな時代の証となろう」
その時、晴人は初めて、自身の構想が“ただの行政改革”ではないことを自覚した。
水戸という家の悲願。
常陸という国の再統合。
そして、“御三家”という名が、再び民のために機能するという未来。
それは、歴史をただ継ぐのではない。
歪んだまま置き去りにされた“家格の矛盾”を、制度の力で乗り越えるという挑戦だった。
慶喜は立ち上がり、窓の外を見やった。
江戸の町の上空には、夕暮れの朱がにじみ始めていた。屋根の先に煙が立ちのぼり、町人たちの忙しない声が遠く微かに聞こえる。
「人は、表に立った瞬間から“役者”になる。だが、裏で筋を通し、支えを続ける者は、最後まで“民の味方”でいられる」
晴人は黙ってその背を見ていた。
「……藤村。そなた、いずれは水戸を越えるぞ」
その言葉に、晴人は軽く頭を下げた。
「越えるのではなく、“結びつける”のだと思っております」
慶喜は振り向いて笑った。
「上等だ」
そのやり取りののち、屋敷を辞した晴人は、詰所へ戻る前に、ひとり城下の一角へと足を向けた。
夜が訪れかけていたが、まだ町には灯がともっておらず、夕闇がじわじわと石畳を呑み込んでいた。
通りの先に、小さな屋台があった。
「旦那、焼き味噌はいかがです? 今日は尾張味噌に、ちょいと柚子を混ぜてましてね」
中年の男が、風よけの板越しに声をかけてくる。
「……一本、もらおう」
受け取った串をかじりながら、晴人は立ち止まった。
味噌の香りが、あの屋敷に満ちていた空気を思い出させた。
“戦なき勝利”――あの言葉の意味を、今なら少しだけ実感できる気がした。
風が吹く。暖簾が揺れ、町の端で拍子木の音が遠く響いた。
静かに、静かに、幕末という時代の呼吸が、次の鼓動を刻もうとしていた。
その翌朝、江戸城西丸・評定所奥の間。
格子窓から差し込む陽光は、まだ薄く白い。火鉢の灰は冷え、室内には重たい書状の匂いと墨の香りが漂っていた。
数人の幕臣が卓を囲み、黙々と筆を走らせていた。武家伝奏、目付、町奉行の名が記された報告書、財政局からの通達、そして諸藩の異動一覧。
その中に、藤村晴人の姿もあった。
彼は羽鳥政庁の総裁という肩書きのまま、今や実質的に「一橋派の政策参謀」として扱われつつあった。だが正式な辞令はなく、席次もない。ただ、必要とされる場所にいて、必要な言葉を口にするだけの存在だった。
「……次の書状は、紀州藩の大坂在陣隊より。貿易港警備に関する人員再配置の要請でございます」
朗読する町奉行の声に、諸役の者たちがうなずいた。
そのとき、障子が静かに開いた。
入ってきたのは、薄緑の羽織を纏った壮年の男――老中・安藤信正である。
その後に続くように、二人の人物が現れた。
一人は、端正な顔立ちに鋭い目を持つ若年の旗本。政事取扱として急速に頭角を現していた松平乗謨。
そしてもう一人は、赤茶の羽織に重たい足取りを忍ばせた――井伊直弼であった。
かつて将軍継嗣争いに敗れた男。今や、大老にもなれず、一藩主の立場で政務の場には出てこないはずの人物である。
空気がわずかに揺らいだ。場にいた誰もが、その名を無言で確認し合うような沈黙を作った。
安藤は形式的に一礼し、口を開いた。
「一橋様の命により、本日ここに新たな協議が設けられました。常陸諸藩の再編――その是非について、幕府として初めて正式に検討することとなります」
ざわめきが走る。
“正式に”――その言葉の意味を誰もが知っていた。
藤村は一歩前に出た。
「まず初めに申し上げます。これは羽鳥政庁が勝手に進めた私案ではありません。各藩の藩主、家老より、借財整理と行政整理の相談を受け、羽鳥が協力を申し出たものです。各家の名誉も領地も侵さぬことを、まずご確認ください」
その言葉に、松平乗謨が小さく頷いた。
「それが事実ならば、ありがたい。だが、井伊家としては、この再編が“表向き”だけのものであるとは見ておらぬようだ」
その場に重たい視線が注がれた。
井伊直弼が、静かに口を開いた。
「水戸は、御三家でありながら、諸国において軍を構え、学問所を持ち、今や自ら制度を作って他藩を吸収しようとしている。――これは、幕府の頭越しに国を作ろうとする行為ではないのか?」
その問いは、怒りではなく、淡々とした事実確認のようだった。
しかしその声音には、明らかな棘があった。
晴人は正面から目を逸らさずに応じた。
「井伊様。私は、“吸収”ではなく、“再建”と申し上げたい。笠間も、土浦も、いずれも自力再建が困難な状況にございます。羽鳥が提供するのは制度と資金のみ。武力も、官位も、奪うことは決してありません」
直弼は少しだけ眉を動かした。
「では問う。なぜ“常陸藩”と名乗ろうとする? その名は、かつて水戸が一度も手にしたことのない、常陸一国を意味する。武威によらぬ支配であっても、名が先に立てば人はそれに従う」
その言葉に、会議の空気が引き締まった。
沈黙の中、口を開いたのは――やはり、一橋慶喜であった。
いつの間にか入室していたその姿に、誰もが反射的に立ち上がりかけたが、彼は手で制した。
「井伊殿。そなたの言う通りだ。名は力を持つ。だが、名を捨てる者がいれば、拾い上げるのは誰の自由だ?」
その言葉に、直弼はわずかに目を細めた。
「水戸は、常陸の名を“与えられなかった”御三家だ。尾張も紀州も一国を持ち、城下を軸に統治している。だが、水戸はそれが叶わなかった。――ならば、今、その機を掴んで何が悪い」
慶喜は淡々とした口調で続けた。
「時代は変わっている。幕府は民に支えられ、民は制度に生かされる。“忠”も“孝”も、時に姿を変えるのだ。そなたは大老の座を得ることなく終わった。だが私は、政を託す者を選ぶ自由がある」
その声には、冷たさではなく、澄んだ決意があった。
井伊直弼は黙して立ち、会釈一つで退席した。
残された者たちは、誰も口を開けなかった。
沈黙を破ったのは、藤村晴人だった。
「一橋様。常陸の名に恥じぬ仕組みを、我々が用意いたします。それは、武力ではなく、制度と信頼による再建の証にございます」
慶喜は、短くうなずいた。
「構わぬ。そなたが背負うべき言葉は、もう決まっておる」
その言葉が、政の場に静かに降りた。
そして、新たな“常陸藩”の構想は、この日、公式に評定所に記録されることとなった。
湯気立つ味噌豚の香りが残る中、控えの間を出た藤村晴人は、冷えた石畳の上を静かに歩いていた。
江戸城西丸の回廊。そこは表舞台ではない、しかし政の核心が動く場所だった。夜の帳が降りかかる江戸の空の下、藤村の思考は静かに、そして速やかに回転していた。
(……島津か)
懐から取り出した文は、薩摩藩の使者・西郷吉之助の手で届けられたものである。文は簡潔だったが、そこに込められた意図は重い。
「久光公は、兄君・斉彬公の夢を否定するものにあらず。ただ、夢を夢のまま終わらせぬために、現実と折り合いをつけねばなりもはん」
西郷の筆跡は、豪胆で飾り気がなかった。だがその裏にある思索の深さは、藤村にも通じるものがあった。
島津久光。藩主ではなく“国父”として権力を握るその男は、開明を志した兄と異なり、現実の重みを噛みしめていた。藩財政は逼迫し、実に500万両の負債を背負っているというのは、幕府の裏帳簿にも記されている事実だった。
水戸の借財すら霞むその規模に、江戸の各藩も密かに危機感を募らせている。
(――このままでは、薩摩は列強の誘いに乗る危険がある)
冷たい風が藤村の羽織を揺らす。江戸の空はまだ冬の色を残していたが、その奥に春の兆しが混じっていた。時代もまた、変わろうとしていた。
薩摩が“独自の経済圏”を築けば、日本は分断の危機に陥る。幕府の権威が揺らぎ、諸外国による介入も招きかねない。
だが、久光は斉昭や慶喜のような理念主義者とは異なる。
藤村はその“現実派”としての資質にこそ、交渉の余地を見出していた。
(久光公が斉彬公に距離を置いたのは、“理想”が現実を破壊しかねぬと知っていたからだ)
だからこそ、久光は斉彬の急進性にブレーキをかけ、今また、その後始末を担おうとしている。
そこにこそ、藤村の“補佐の余地”がある。
「これは、調停ではなく、協定だ」
小さく呟きながら、藤村は羽鳥政庁から持ち込んだ覚書に目を通す。羽鳥モデル――自治による安定的民政、借財処理の柔軟化、民間物流の公的整備――それらはすべて、今の薩摩にとって“解”になりうる。
(薩摩単独では立て直せぬ。だが、羽鳥との連携であれば……)
羽鳥を拠点とした中立的金融機関の設立。薩摩藩をその枠組みに引き込むことで、幕府の体裁を保ちつつ、地方の経済主権を確保する構想が、彼の頭の中にはすでにあった。
――武で封じるな、制度で導け。
争いを未然に防ぐ“仕組み”をこそ、未来への盾とせよ。
「井伊家は、それができなかった」
桜田門の悲劇が起きなかったこの時代でも、井伊直弼は政から距離を置いている。政治の表からは外され、保守本流として静かに退いている状態だった。
だが、それで平和が訪れるわけではない。
(水戸と薩摩。思想も系譜も異なる二つが、今、“合理的協調”を迫られている)
藤村は立ち止まった。目の前には、夕暮れに染まる江戸の町が広がっていた。提灯の灯がともり始め、行き交う人々の影が長く伸びている。
(もうすぐ……“常陸藩”が成立する)
水戸を母体とし、羽鳥、日立、そして周辺町村を包括する新たな地方行政単位。尾張や紀州のような大藩とは異なるが、ひとつの“国”として機能する姿が、そこにあった。
それは、先代・斉昭が果たせなかった夢だった。東湖が筆を折り、慶喜が政を動かし、そして藤村が現実に結びつけた構想の結実。
(我らは、諦めなかった)
背筋を伸ばし、歩み出す。
一歩一歩が地図を変え、未来の礎を築いていく。
だが、それを誇る者はいない。
政を整える者たちは、いつも名を残さない。
だからこそ――
藤村晴人は、裏方で在り続けることを選んだ。
味噌豚の香りの残る江戸の夜、その決意は、誰にも知られることなく、ひとつの時代を支えていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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