70.6話:哀悼と誇りと――羽鳥声明、世界に届く
万延元年十二月。
冷たい雨が屋根瓦を叩く深夜、羽鳥政庁の執務室には、ガス灯の青白い光が静かに灯っていた。時刻は丑三つ時を回っていたが、藤村晴人の背筋は崩れることなく、整然と書状に向かっていた。
手元にあるのは、江戸から密かに届けられた一通の書状――差出人は「政事総裁職・一橋中納言慶喜」および「水戸中納言・徳川斉昭」の連名であった。
封蝋を割り、文を開くと、整った筆致で以下のように綴られていた。
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「近日、異国人ヒュースケンなる者、三田にて不慮の死を遂げ候。アメリカ合衆国公使ハリスより、強き抗議と誠意ある対応を求められ、幕府としても難局にあり候。
斯様な時勢、国政の針路を誤らぬためにも、羽鳥殿の所見を承りたく、筆を執り候。殊に、斉昭公も此度の件に胸を痛め、貴殿の申す“正しき筋道”とは何か、聞き届けたく存ず」
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さらに文末には、斉昭自筆による短い追記が添えられていた。
「誠と礼は政の根にして、過ぎれば国を滅ぼす。老いの身なれど、そなたの志に学びたき所、あり」
晴人はその一節を見つめながら、長く息を吐いた。
ヒュースケン暗殺は、尊攘思想の過激化がもたらした暴挙であり、列強諸国に対する外交信用を著しく損なう事件だった。ハリスは激昂し、報復も辞さぬ構えで「洋銀一万ドル(約一万両)」という巨額の支払いを要求してきている。
その額は、羽鳥政庁の年間予算を超えるほどであり、むしろ国家的屈服と受け取られかねない“見舞金”であった。
晴人は黙して考えた末、筆を取り、返書を書き始めた。
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「一橋中納言殿下
並びに水戸中納言斉昭公へ」
此度の不幸なる事件に際し、亡くなられたヒュースケン氏に深く哀悼の意を表すとともに、政務に奔走される御両名の御苦労に心より敬意を表します。
さて、対米交渉における“誠意”とは何かという問題にあたり、下記に所見を述べさせていただきたく存じます。
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一、**洋銀一万ドル(約一万両)に及ぶ支払いは、過度な譲歩にして、今後の対外交渉に重大な悪例を残すものと存じます。**一国の主権と威信の問題であり、他国による類似の要求が誘発されかねません。
一、とはいえ、完全なる拒絶は更なる摩擦を招き、軍事的圧力や通商破棄に繋がる恐れがございます。
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よって、羽鳥政庁としては以下の案を建議申し上げます。
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•幕府より**「弔意と友好継続の証」として洋銀二千ドル(約二千両)を上限とする支払い**を申し出ること。あくまで“見舞金”の範囲に留める表現とし、“賠償”とは一切表記せぬよう注意すべきと考えます。
•支払いに際しては、「治安不備」の責任について明確な断定は避け、幕府内浪士の監督強化不足として形式上の責任のみを表すに留めること。
•羽鳥政庁より、**英語および漢文による「再発防止声明」**を公文として発布し、誠意と秩序維持の姿勢を内外に示すこと。
•諸外国の通訳・公使随行員等に対し、羽鳥流警護要員の派遣を提案し、我が国の警備能力と意志を積極的に提示する機会とすること。
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これらの手段を講ずることで、我が国の対外的威信を保ちつつも、誠意ある対応を以て事態の沈静化を図ることが可能と考えます。
政は感情ではなく理にて為すべきもの。
誠と対等の両立――それが我らの進むべき筋道と存じます。
末筆ながら、御両名の御健勝と幕政の御隆盛をお祈り申し上げ候。
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羽鳥政庁 総裁
藤村晴人
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返書を書き終えた晴人は、封をし、特命の早馬にそれを託した。
静かなガス灯の光が、机の上に残された紙の端を淡く照らしていた。彼の表情には疲れが滲むことなく、ただ確かな覚悟だけが刻まれていた。
「……“誠意”を見せるだけでは、国は守れん。
“対等”を示してこそ、未来が拓ける」
その呟きは、雨音に紛れ、誰の耳にも届かぬまま、彼の胸の内に深く沈んでいった。
雨が止んだのは、午前四時を回った頃だった。瓦を打ち続けていた水音が静まり、羽鳥の町には深い静けさが戻っていた。
政庁に隣接する応接間では、白磁のカップから立ち上る湯気が、淡く青白いガス灯の明かりに揺れていた。ほろ苦い香りが部屋に漂っている。
晴人の手元にあるコーヒーは、薩摩経由で長崎から仕入れられたアラビカ種の焙煎豆だ。羽鳥商会の貿易担当が扱っており、政庁の賓客用としてわずかに保管されていた品だった。
「本当に、変わった人だったわよ」
カップを両手で包みながら、お吉が言った。表情には複雑な思いが滲んでいる。
「私の片言のオランダ語にも笑って返してくれて、時々、向こうの冗談なんかも混ぜてきて……でも、その目はずっと、何かに飢えてるようだった」
話題の相手は、江戸の蘭学通訳・ヒュースケン。アメリカ公使ハリスの側近として、長崎・下田・江戸を飛び回っていた人物である。
お吉は、かつて彼が下田に滞在していた頃、数度だけ言葉を交わした経験があった。
「どこか危うい人だった。“優しい異人”なんて言われてたけど……必死だったのよ、あの人。異国の地で、命張って“居場所”を勝ち取った人間の目だった」
お吉の声には、憐れみではない共感があった。
ヒュースケンは、もとは貧しいオランダ移民だった。幼くして渡米し、語学力だけで生き延びてきた。名門でもなければ、学者でもない。ただ、国境を越えて“言葉”を武器にしようとした人物だった。
「……でも、なぜ狙われたんでしょうか?」
晴人の問いに、お吉はわずかに視線を逸らしてから答えた。
「――夜に出歩くのよ、あの人。よく言えば“自由”、悪く言えば“無用心”。幕府の警護があっても、夜になると一人で平気で出ていく。好奇心なのか、土地を知りたかったのか……」
「それで、三田で……?」
「ええ。あの晩も一人だったと聞いてる。武士たちに“攘夷の象徴”として狙われた。言葉が通じるからこそ、余計に憎まれたのよ」
晴人は静かに息を吐いた。
「言葉が通じる者を憎む……最も危うい心の動きですね」
「ええ。だから怖いの。あの人の死って、“異国を拒む”以上に、“理解しようとする者を拒む”殺しだった気がするの」
沈黙が落ちる。外では夜明けの気配が濃くなり、鳥の声がかすかに聞こえ始めていた。
「幕府は、一万ドルもの“賠償”を請求されているそうですね?」
「ええ。だが、それを丸ごと支払えば、誠意どころか“従属”と見なされかねません」
晴人の声は静かだったが、語る言葉に一点の迷いもなかった。
「外交とは、誠意と対等の間を見極めること。過度な服従も、無意味な反発も、国を誤らせます」
「じゃあ……どうするの?」
お吉の問いに、晴人は短く答えた。
「二千ドル。弔慰金という名目で、それだけを払う」
「それで納得するかしら?」
「納得させるのが、こちらの務めです」
その言葉に、お吉は目を細めた。どこか諦めを含んだような、それでいてどこか希望のような表情だった。
「あなた、本当に“政治”をやってるのね」
「まさか、自分がやることになるとは思っていませんでしたがね」
晴人は立ち上がり、コーヒーの残るカップをそっと盆に戻した。
「だけど、やると決めた以上――国の恥を、国の誇りに変えてみせます」
窓の外、東の空が白み始めていた。長い夜は、ようやく終わろうとしていた。
夜が明けると、羽鳥の町は一変したように活気を帯びた。
雨に洗われた石畳には淡い陽光が射し、町の通りには行商人の掛け声や、朝の市へ向かう荷車の軋む音が戻っていた。蒸し上がるような地面の匂いに、冬の名残と春の予兆が混ざっている。
その喧騒の中心から少し離れた政庁の一室。藤村晴人は、用箋紙の束を前に筆を走らせていた。密書の返信を清書するのではない。これは、羽鳥政庁としての対外声明文草案だ。
「ヒュースケン氏の不慮の死に、我々は深い哀悼の意を表し、また、同様の悲劇が二度と起こらぬよう努める覚悟である」
文中には“再発防止”という言葉を繰り返さず、代わりに「羽鳥流の警護制度」「自治による治安の確保」など、具体的かつ積極的な語句が並んでいた。
言葉において、“沈痛”と“責任”の線引きは極めて難しい。謝りすぎれば属国のように見え、強弁すれば非文明の烙印を押される。その絶妙な舵取りを、晴人は文面で試みていた。
「……『痛惜』よりも『敬意』を前に出そう。人ひとりの死を悼む以上に、“異国を理解しようとした者”を讃えなければ」
そうつぶやきながら、彼は「故・ヒュースケン殿は、文明の架け橋たらんとした志士である」との一文を付け加えた。
その言葉の背後には、前夜の“お吉の語り”が息づいていた。
――夜に出歩いていた、無用心な異国人。
――だが、言葉の壁を越えて笑い合った、ささやかな縁。
その“危うさ”と“誠実さ”の間にこそ、彼という人物のすべてがあった。
ふと、政庁の戸がノックされた。現れたのは、副官の鈴木だった。
「江戸より飛脚が再び参りました。幕府、正式に“弔意対応方針”を問う書状です。老中・脇坂安宅の名で届いております」
「……予想よりも早いな」
晴人は顔をしかめつつも、すぐに立ち上がった。
広げられた書状には、やや官僚的な言葉でこう記されていた。
「在江戸外国公使より、我が幕府の対応に注目集まり候間、迅速なる措置を以て外交不安を回避すべし」
また、脇坂は“羽鳥政庁の助言を求む”としながらも、暗に「速やかな支払いが望ましい」との意向を滲ませていた。
「……早く手打ちにしたい、ということか」
晴人は、文面を折り畳むと小さく息をついた。
政庁の一角、地図と外交資料が並ぶ参謀室へ移ると、すでに数人の重役たちが集まっていた。町奉行の奥村、海外交渉局の三枝、そして羽鳥商会の交易責任者である長谷部もいた。
「外交文書は最終案に近づいています。ですが、幕府は急いでいます。おそらく、我々の“案”を手直しせず採用することはないでしょう」
「つまり、我らは“名分”を立てろ、というだけですな」
奥村の苦い言葉に、晴人は頷いた。
「……だが、我々の役目は“損を最小限に抑えること”です。“悪しき先例”を作れば、これから十年、二十年、要求は際限なく膨らむ」
長谷部が腕を組み、静かに言った。
「仮に二千ドルで済むのならば、我が商会の利益から捻出も可能です。ただし、名目は“見舞金”に限ってください。“賠償”などと刻まれては、商人の信用にも関わります」
晴人は笑みすら浮かべず、頷いた。
「その意見、文中に反映させましょう。羽鳥政庁の“自主的判断”として、外交儀礼の範疇で対処する――それが肝要です」
会議はわずか十五分で終わった。すでに腹は決まっていたのだ。
晴人は再び執務室に戻り、羽鳥政庁印の印璽を手に取った。
その赤い朱が、書状にゆっくりと押される。
「……あの日、お吉が語った“飢えた目”を、俺は忘れない」
ヒュースケンの死は、哀しいだけの事件ではなかった。それは、この国が“異国”とどう向き合うかを試された試金石だった。
誠意を見せながら、誇りは折らぬ――。
その道を選び取るために、晴人は筆を置き、書状を包んだ。
窓の外、雨上がりの空には、薄く虹が架かっていた。
文久元年の暮れ。
江戸では、雪混じりの風が隅田川を吹き抜け、町人たちは肩をすぼめて年の瀬を急ぎ足で駆けていた。
一方、羽鳥の空気は、乾いた冷気を保ちながらも張り詰めていた。ヒュースケン殺害事件に端を発した外交危機は、わずか数日のうちに各国の公使館を揺さぶり、さらには幕府の中枢にまで波紋を広げていた。
しかし、羽鳥政庁――その中だけは、静かだった。
政庁の中央広間では、藤村晴人による「対外声明発布式」が粛々と準備されていた。特に対外的な示威として重要視されたのが、「英語および漢文による同時発信」という異例の形式である。
羽鳥翻訳局が精鋭を挙げて準備した文書は、品位ある筆致と、外交用語としての厳密性を両立した内容だった。
声明の主文にはこう記されている。
“The Government of Hatori extends its sincerest condolences for the tragic passing of Mr. Henry Heusken, who strived for mutual understanding and peace. We commit to strengthening the safety of all foreign envoys, ensuring such sorrow shall not repeat.”
その直訳文は、政庁の壁面に掲げられ、儀礼に参列した町役人、商会代表、さらには羽鳥警護団幹部たちが静かにそれを読み上げた。
晴人は、壇上に立っていた。
その姿は羽織袴のまま、だが帯に差された小刀も、胸に挿された銀時計も、どこか“武”と“智”を併せ持つ新時代の象徴のように見えた。
「……哀悼とは、屈服ではない。誠意とは、国の矜持を削る行為ではない。我らは、羽鳥の民として、羽鳥の責をもって対処する」
壇上からの言葉は、静かに、しかし確かに空間を貫いた。
会場には、わずかにため息のような空気が流れた。感嘆とも、納得ともつかぬその沈黙の中で、人々の目だけが確かに“政庁”を見つめていた。
その後、晴人は政庁執務室に戻ると、最後の調整として、アメリカ公使館宛の英語文書と外交添状に署名した。
羽鳥流特別警護団――“護民隊”の英語案内書も同封された。これは晴人が発案した、“異国人要人を護衛する組織”の設立構想であり、単なる治安ではなく、“国際理解の体現”として位置づけられていた。
「……守るのではない。共に歩むという姿を、示すための盾だ」
そう語った彼の声は、どこか熱を帯びていた。
ふと、扉の外で足音がした。
「総裁、お客様が――江戸駐在の羽鳥連絡官です。アメリカ使節団からの書状を携えております」
鈴木の声に、晴人はすぐ「通せ」と答えた。
入ってきたのは、まだ20代前半ほどの若い通訳兼書記官だった。黒羽織に身を包み、凍える手に外交用封筒を携えながら、慎重な口調で報告する。
「本日、江戸の羽鳥連絡所にアメリカ使節団から正式な文書が届きました。政庁の声明に対し、“sincere and dignified(誠実かつ威厳あるもの)”との評価が記されております。また、支払い要求についても、“再考の余地がある”との意向が添えられております」
少し間を置き、彼は付け加えた。
「なお、ハリス総領事からの私信も同封されており、“真の信頼とは、誠意ある対話の中でのみ育まれる”と記されておりました」
――瞬間、室内の空気が一変した。
鈴木も三枝も、思わず顔を見合わせた。
だが、晴人の表情は崩れなかった。ただひとつ、筆を止め、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……ならばこちらも、“受け入れる勇気”を持たねばならない」
交渉は、譲歩の強要だけではない。誠意を見せれば、相手もまた変わる可能性を持っている。それを信じ、行動に移す――それが、羽鳥政庁という“新しい政治”の在り方だった。
その夜、羽鳥では臨時の町集会が開かれた。
通りには提灯が掲げられ、商人も百姓も集まり、町役たちの口から“政庁の対応”が語られるたび、小さなどよめきが起こった。
「うちの息子、護民隊に入りたいってさ」
「英語の習い事も始めたらしいぜ。こんな田舎で、信じられるか?」
笑い混じりの声が、冷たい空気をあたためた。
――未来は、静かに、しかし確かに動き始めていた。
藤村晴人は、政庁の二階の執務室からその光景を眺めていた。
その背に、ガス灯の光が淡く差している。
「……ただ金を払うのではない。ただ頭を下げるのでもない。“選ばなければならぬ時代”が、ここに来た」
彼の目には、夜の中で微かに浮かび上がる町の灯り――そしてそれを守り抜こうとする人々の姿が、確かに映っていた。
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