70.5話:香のような人
四月も終わりに差し掛かったある日。羽鳥政庁の一角、晴人の執務室では、山積した文書が机上を埋めていた。
一面に広がる紙の波。筆を走らせる音だけが、静寂の中に規則的に響いていた。
「……移住希望者の登録、農地の配分、寺子屋の開設希望……」
晴人は小さく嘆息し、額に手を当てて机にもたれかかる。ここのところ、政務も外交も立て込んでいた。思えば、食事をとったのは昨日の夜が最後だ。
そのとき、障子越しに低く、落ち着いた声が届いた。
「晴人様。河上にございます。少々、お時間を頂戴できますか」
「……どうぞ」
障子が静かに開かれ、羽鳥政庁の警護責任者、河上彦六が姿を見せた。その背後には、一人の和装の女性の影があった。
河上はきちんと膝をつき、深く一礼してから言葉を発する。
「本日は、晴人様のお身体について、少し申し上げたく存じます」
「……またその話か。倒れてなどいない。ただ、少し食事を忘れていただけだよ」
「それこそが、一番危ううございます」
静かに言い返す口調は、長年の信頼を背景にしていた。
晴人は苦笑しながらも、肩を落とす。その様子を確認した河上は、控えていた女性へと視線を送る。
「つきましては、ある方をお連れいたしました。晴人様の身辺をお世話申し上げるに、これ以上の適任はおらぬかと存じます」
その言葉に従って、女性が一歩前へ出る。
浅葱の小紋に霞模様の帯。白粉を薄く施した面立ちは、若々しくも落ち着きがあり、所作の一つ一つに、艶やかさと気品が宿っていた。まさに“花柳の世界”で生きてきた者の空気を纏っている。
彼女は畳に音もなく膝をつき、芸妓としての完璧な作法でゆっくりと頭を下げた。
「はじめまして。斎藤お吉と申します」
その名を聞いた瞬間、晴人の手がぴたりと止まった。
――斎藤、お吉……?
胸の奥に、小さな針が刺さるような驚きが走った。その名は、記録の中に確かにあった。下田で、アメリカ総領事ハリスの身の回りを世話したという女性。安政四年、幕府により支度金二十五両、年手当金一一二両という破格の待遇で召し抱えられた。
羽鳥政庁の役人でさえ、大奉行で年千両(相当石高一〇〇〇石)、中奉行で五〇〇両、町役人で一〇〇両である。芸妓として、しかも奉公経験のない者に与えられる額としては、異例を通り越して異常と言えた。
――だが、三日で暇を出された。
世間は「妾にされて捨てられた」と勝手に噂し、彼女の名を貶めた。だが、その裏には真実がある。
「……まさか、本当にその“斎藤お吉”なのか?」
問いかける晴人に、お吉は静かに、そして誇りをもって頭を下げた。
「はい。そう呼ばれております。下田では、“ハリスの妾”とも……」
そこまで言ってから、ふっと口元を緩めた。
「けれど、事実は一つもございません。あの方に、指一本触れられたこともありません。……ハリス様は、厳格なクリスチャンでいらっしゃいましたから」
その声には怒りも嘆きもなかった。ただ、揺るがぬ“誇り”がある。
晴人は河上に視線を向ける。
「なぜ、彼女を?」
「本人より直々に志願がございました。“羽鳥は、居場所を与えてくださると聞きました”と。その言葉に、偽りは感じられませんでした」
「……芸事以外の素養は?」
「調薬、香道、文の素読に礼法。加えて、台所と湯殿の段取りにも通じております」
お吉は一歩進み出て、正座のまま、背筋をぴんと伸ばして言葉を紡ぐ。
「私はもう、“誤解される人生”には戻りとうございません。……今度こそ、自らの足で立ちたく存じます」
その一言に込められた決意は、穏やかながら胸に響いた。
晴人はしばし視線を落とし、それから小さく頷いた。
「わかった。河上と連携し、私の身の回りを頼む。食事、入浴、睡眠時間――何より、“働きすぎ”を戒める役目として」
「……ありがたき幸せにございます。命を賭して、お仕えいたします」
お吉の瞳が、わずかに潤んだ。その光は、ただの雇用ではない。“居場所”を求め続けた者がようやく辿り着いた、光のような約束だった。
こうして、羽鳥政庁――いや、晴人の傍に、“香のように柔らかく、されど芯の強い存在”がそっと加わったのである。
春の陽は柔らかく、庁舎の障子越しに淡い光が差し込んでいた。
その中で、お吉は静かに歩を進めていた。晴人の部屋へと向かう廊下。擦るような足音も立てず、襟元を整え、袂を揃えて歩く姿は、まるで“しつらえそのもの”のようだった。
最初の朝。彼女が政庁へ“仕事”として足を踏み入れるのは、この日が初めてだった。
晴人の部屋の前に立つと、軽く、だが律儀に襖を叩く。
「……おはようございます。斎藤にございます」
中から返事はない。だが、予想はしていた。
お吉はそっと戸を開けた。
部屋の奥では、晴人が文書に向かっていた。まだ朝餉も摂っていないのだろう。烏の濡れ羽色のような髪が、微かに乱れている。
「失礼いたします」
お吉は膝をつき、一礼してから、手にしていた盆を静かに机の端に置いた。中には、白粥、味噌を薄めた汁、小鉢に入れた梅干しと煮物。どれも、胃にやさしいものばかりだ。
晴人がふと顔を上げた。
「……もう、そんな時間か」
「はい。ご無理をなさらぬよう」
お吉の声は、柔らかくも芯があり、耳にすっと馴染む調べだった。芸妓として培った声の出し方――響きすぎず、消えすぎず、残響だけが心にとどまるような、心地よさ。
晴人は筆を置き、眉根を寄せながらも口角をわずかに緩めた。
「君は……驚くほど、音がしないな」
「芸の基本でございます。……たとえば、男衆の夢を壊さぬように、立つも座るも、まるで影のようにと教わりました」
そう言って膳を整える所作にも、無駄がない。椀の蓋を開ける音さえ、風に溶けるように静かだった。
晴人が箸を手に取り、一口、白粥を口に運ぶ。
「……温かいな」
その小さな一言に、お吉はわずかに目元を緩めた。
「それが何よりの薬にございます」
食事を進めながら、晴人はお吉を改めて観察していた。
所作、言葉遣い、表情――すべてが“つくられた美しさ”ではなく、“馴染みきった優美”だった。自然であることの難しさを知る者にしか出せぬ気配だ。
やがて食事が終わり、お吉は静かに膳を下げた。
「午後に少し湯を張らせていただきます。肩をお召しになった方がよろしゅうございます」
「……まるで、誰かの妻のようだな」
からかい半分の言葉に、お吉はにこりと笑った。
「そういう場面も、芸の内でございますゆえ」
艶やかながら、どこか寂しげなその笑みに、晴人は言葉を止めた。
それは、遊郭や花柳界に身を置く者だけが持つ、独特の“諦念”にも似ていた。見世物でありながら、魂は見せない。心を売らずに微笑む術――それを、お吉は身に染みつくほど知っている。
それでも今、彼女は“仕える”ことを選んだのだ。誰かの夢ではなく、現実の誰かの暮らしを支えるために。
その覚悟に、晴人は胸の内で小さく敬意を抱いていた。
*
その日から、お吉の姿は政庁内のあちこちで見られるようになった。
庁舎の台所で食材の目利きをし、火加減を指導し、給仕の所作を整える。さらには、侍女たちの身だしなみを整え、香の炊き方を伝えることさえあった。
羽鳥政庁は、実務に特化した集団であり、女中の数は決して多くない。その中で、お吉の存在は、まるで“文化そのもの”を持ち込んだようだった。
「斎藤様に教わってから、手元の動きが違うって言われました!」
「庁舎に入る前に、香で空気を整えるなんて、江戸の奥女中でもしないってさ」
そんな声が、政庁内の女性職員から聞こえてくる。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。最初は“ハリスの妾”“大名の寵姫崩れ”と揶揄する声もあった。だが、お吉は一つ一つ、丁寧に応え、下にも置かぬ礼で接し、日々の働きで信頼を積み上げていった。
ある日、町役人のひとりが小声で言った。
「羽鳥の奉行でも、年八十両……だろ? あの人、昔は年に百十二両ももらってたって話だ」
「そんな人が、今は台所で芋の皮剥いてるんだぜ。なにが違うって、“覚悟”が違うよ」
人々の見る目が、少しずつ変わっていくのがわかった。
お吉は、過去を引きずってはいなかった。だが、過去を捨てたわけでもない。
彼女は、そのすべてを包み込んだ上で、“今”を生きていた。
*
夜。晴人が執務室を出ると、外はすでにとばりが降りていた。
「……明かりを、落としました。お身体、お冷やしになりませぬよう」
控えていたお吉が、袂を揃えて頭を下げた。
晴人は思わず小さく笑みを浮かべる。
「君が来てから、私の生活は少しずつ“人間らしく”なっているよ」
「それは光栄にございます。……ただ、あまりご無理をなさらぬよう。羽鳥は晴人様おひとりのものではありませんゆえ」
その言葉に、晴人は一瞬、胸を打たれる。
彼女の言葉には、媚びも遠慮もなかった。ただ、誠意だけがあった。
――これは、芸妓の言葉ではない。ひとりの“仕える者”の、魂の声だ。
こうして、羽鳥政庁の政の背後に、静かに、香のように漂うもうひとつの力が芽生えつつあった。
五月の初風が羽鳥の町を吹き抜けていた。
若葉が日差しを弾き、朝市には山菜や筍、早摘みの茶葉など、春の名残と初夏の気配が入り混じって並べられている。人々の装いも軽やかになり、笑顔の交わる声に混じって、どこか鼻をくすぐるような上品な香りが漂うようになった。
「……あれは、政庁の香だな」
市場の一角で、年配の商人がぽつりとつぶやいた。
お吉が政庁に現れてからというもの、羽鳥の空気に微かな変化が訪れていた。
朝には白檀や沈香を焚いて空気を整え、客人の出入りには香気の流れを読み取るように障子や簾を調え、台所では旬の食材に合わせた調理と盛り付けが始まっていた。
だが、それらは決して“華美”ではなかった。
むしろ、政庁という実務の場に“過不足なき心地よさ”をもたらすための、徹底された“配慮”だった。
*
その日、政庁では江戸からの来客を迎えていた。
勘定奉行配下の役人で、歳若いながらも態度の厳しい男だった。書面を前にした彼は、開口一番、刺すような声を放った。
「羽鳥政庁は、公私の境が曖昧ではありませんか? 役所であるならば、香など焚く必要もない」
晴人は静かに笑った。
「必要ないものを、なぜ人は求めるのでしょうね」
「必要のないものに金をかける余裕があるとは、羽鳥は潤っているようだ」
場が凍りかけた瞬間、お吉が、膝をついてお茶を供した。
その所作は、まるで時を止めるようだった。
音もなく茶碗を差し出し、襟を正し、ふと目線を下ろす。
無言のうちに、彼女の“立ち居振る舞い”そのものが、場に流れる空気を変えていく。
役人は、受け取った茶碗を口にした。
――その瞬間、眉をひそめた顔が、わずかに緩む。
「……これは、抹茶ではないのか?」
「はい。乾燥させた桜の葉と、干し椎茸の粉末を混ぜた“香茶”にございます。胃をいたわる効果もあり、長旅のお疲れを和らげます」
お吉は淡く微笑んだ。
晴人は、その背を見つめながら言った。
「これが“無用の用”というものです。羽鳥にとっての“政”は、ただの数字や法ではありません。“空気”こそが、民の心をつなぐ道具になるのです」
役人は黙って茶碗を見つめ、そのまま何も言わず頷いた。
*
日が暮れ、庁舎が静けさを取り戻すと、お吉は小さな提灯を手に、廊下を歩いていた。
日々、政務を終えた晴人のもとを訪れ、湯を用意し、夜食の支度を調え、そして何より、“話し相手”となる。それが、彼女の仕事のひとつでもあった。
その夜も、晴人の部屋では蝋燭の灯が揺れていた。
「……今日の客人は、難物だったな」
「はい。けれど、最後には、晴人様のお言葉に耳を傾けておられました」
お吉は、酒器を小さく整えた膳に並べる。そこには、焼いた鰆と筍の木の芽和え、小鉢にした湯葉と胡麻和え、炙った海苔と、白湯の徳利が並んでいた。
晴人は湯飲みを手にしながら、ぽつりと問うた。
「……君は、なぜ本当に羽鳥に来た?」
お吉は手を止め、少しだけ、目を伏せた。
「……“香のない場所”に居たかったのかもしれません」
「それは、どういう意味だ?」
「香は人を酔わせます。ときに、真実を覆い隠します。……私は、それで何度も、誤解を生みました」
お吉の声は淡々としていたが、その奥には、幾重にも積もった過去が静かに横たわっていた。
「……羽鳥には、そういう“匂い”がなかったのです。飾らず、誤魔化さず、真っ直ぐに生きている人たちがいて、そして――政が、誰かのために行われている」
晴人は、黙ってその言葉を噛みしめた。
「それでも、君が来てから羽鳥は“香る”ようになった」
「……それが、良い香であれば、よろしゅうございますが」
お吉は、そっと笑った。だがその笑みは、いつもの芸妓の面差しではなく、ひとりの“人”としてのものだった。
晴人は、そっと湯を飲み干した。
「……ありがとう」
その言葉に、お吉の指がぴたりと止まる。
「……いえ。私の方こそ、ありがとうございます。ここでは、誰も私を“妾”と呼ばぬのですから」
部屋に、しばし静寂が満ちた。
その静けさは、言葉よりも多くを語っていた。癒えない傷と、それを包む温もり。どちらも、そこにはあった。
*
その夜、お吉が退室しようとすると、晴人はふと声をかけた。
「君は“香のない場所”を望んで来たと言ったな。……だが、私はこう思う」
お吉が足を止める。
「君のような人こそ、香として在るべきだ。誰かを惑わす香ではなく、心を鎮める香として、傍に居てほしい」
沈黙のあと、お吉はゆっくりと、頭を下げた。
「……かしこまりました。では私は、晴人様の香となり、羽鳥の香となりましょう」
障子が静かに閉まり、その後には、ふわりと残る香のような余韻だけが残った。
初夏の朝。羽鳥の空は、うっすらと霞がかかっていた。
庁舎の廊下を歩くお吉の足取りは軽やかだった。掌に乗る木箱には、梅肉を溶かした湯と、昨夜仕込んだ小さな甘菓子が入っている。昨今、晴人の夜食は減り、代わりにこうした“滋養と香り”を重んじるものへと自然に変わっていた。
戸口にそっと膝をつく。
「お目覚めにございます、晴人様」
障子越しに返ってきた声は、わずかに掠れていた。
「……うん、すぐ開けてくれ」
中に入ると、晴人はまだ書簡の束を前に目を通していた。その傍らには、空になった湯呑と、読了した文書が無造作に積まれている。
お吉は言葉を発さず、机に残る紙片を整え、手元の木箱から湯を差し出す。その所作はもはや儀式のようで、晴人もまた当然のようにそれを受け取った。
「……君が来てから、俺はずいぶん健康になった気がするよ」
「それは結構にございます」
お吉の返しはいつも通りだったが、その声の温度には、わずかな弾みがあった。
*
その日、政庁には近隣の寺子屋を統括する教師たちが招かれていた。話題は、新たに開設された女児向けの学び舎について。
「女性に文字を教えるのは時期尚早では――」と述べた老教師の声に、若い教師が反論を重ねる。
議論は続いたが、その最中、お吉が一歩前に進み出た。
「失礼をば。私は、学びが“誰かにとって無用”であったことを、ただの一度も見たことがございません」
場が静まる。
「私は、読み書きを覚えたことで、自らの言葉を持つことができました。香を学び、調薬を学び、語り、書くことで、自分の名誉を守る術を知りました。……それが無意味であるとは、どうしても思えません」
彼女の言葉には、どこまでも静かな説得力があった。
晴人は、その横顔を見つめながら、思わず笑みを浮かべた。
“本物だ”――河上の言葉が、今も胸に響く。
*
夕刻、来客を見送ったあとの廊下にて。
お吉はひとり、軒下の風を感じていた。どこからか風鈴の音が聞こえ、空には早くも夏の鰯雲がのびていた。
「……この町には、香りがございます」
背後から声がした。
晴人だった。
「それは、お吉さんが持ってきてくれたものだ」
「いいえ。私は、ほんの香袋にすぎません。……香そのものは、晴人様と、この町の方々が持っておられるものでしょう」
ふと、沈黙が流れた。
「……私は、江戸でも、下田でも、“誰かのために飾られる存在”でしかありませんでした。けれど、羽鳥では違いました」
お吉は、風に揺れる髪を抑えながら言う。
「私が選ばれたのではなく、私が“選んだ”。それが、こんなにも嬉しいことだとは思いませんでした」
晴人は、しばらくその言葉を噛みしめた。
「……この町は、誰かの居場所であると同時に、自分の居場所を作る場所だと思っている。君がそう感じてくれて、良かった」
お吉の目が、静かに揺れた。
「……今夜、少し香を焚いてもよろしゅうございますか。月が綺麗に出そうですので」
「構わないさ。今日は、君に“羽鳥の夜”を託すよ」
*
夜。政庁の広間では、薄く沈香が焚かれていた。
白い煙が天井へ昇っていく。その中に、灯りを落とした障子の向こうから、町の音が聞こえてくる。人の気配、風の音、遠くの笑い声。
お吉は、香を見つめていた。
香は、目に見えず、手に取れず、けれど確かに“存在”するもの。
その静けさが、人の心を動かすのだと――この町でようやく知った。
ふと、襖の向こうに声がした。
「……まだ、起きていたのか」
晴人だった。
「はい。香が落ち着くまで、少しだけ」
晴人はその傍に腰を下ろす。
「……君のような存在が、この町に居てくれて、本当に助かっている」
お吉は、何も言わず、ただ微笑んだ。
香は、何も語らずとも、人の心に染み渡るもの。
そしてその夜――羽鳥の政庁には、静かな香とともに、確かな“信頼”が根を下ろした。
誰かを癒し、誰かに寄り添いながら。
彼女のような香が、この町の風景を、ひとつずつ変えていくのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
もし本作を楽しんでいただけましたら、
ポイント・ブックマーク・感想・レビュー・リアクションで応援していただけると励みになります。
引き続き、よろしくお願いいたします。