70話:香のように、見えぬままに
春まだ浅い三月の京――。
御所の内庭には、薄紅の梅がほのかに香り、冷たい風に舞う花弁が、池の水面にやさしく落ちていた。
その静寂を破るように、ひとりの男が御所の通用門をくぐった。紋付き袴に身を包んだ男の名は――清河八郎。羽鳥藩から密命を帯びてやって来た、藤村晴人の密使である。
「……この京の空気は、いつ来ても張りつめておりますな」
そうつぶやいた八郎は、背筋を伸ばし、ゆっくりと御所内の通路を進んだ。道中で何人もの女官や公家の視線を浴びるが、彼は微笑すら浮かべず、まるで“風”のように気配を殺して歩いた。
――今回はただの使いではない。歴史に関わる、極めて繊細な“調整”の任だ。
その任務とは、皇女和宮の降嫁を円滑に進めるための、事前の根回しであった。
「お待ちしておりました、清河様。……女院様がお待ちです」
そう声をかけてきたのは、皇女付きの女官のひとりだった。彼女は深く頭を下げ、手で控えの間を指し示す。
八郎は礼を返し、静かに襖を開ける。
その先にいたのは――和宮内親王の養母にあたる女院。皇族としての威厳と母のような柔和さを併せ持つその女性は、やわらかな目で八郎を迎えた。
「……お初にお目にかかります。羽鳥藩よりの使い、清河八郎にございます」
「よく来てくださいました。晴人様よりお手紙を頂いております。……この件、“穏やかなる未来”のためと受け止めております」
女院の声音には、迷いも怒りもなかった。
むしろ、時代のうねりを受け入れる覚悟のような、静かな気迫が宿っていた。
「和宮様は、深く悩まれておいでです。しかし、晴人様から届いたお言葉――“政に愛を重ねることは、決して罪ではない”……とても心に響いたようでございます」
八郎はその言葉に深く頭を下げた。
「そのお言葉を、あのお方が……」
「ええ。武の国の男たちが刀を抜く前に、女たちが手を差し出せば、争いの未来は変わります。和宮様は、それを“できるかもしれぬ”と、言っておられました」
女院の目が、ふと宙を泳ぐ。
「ただ――“徳川慶喜”という名に、不安があるようです。あの方の名は、この京でも評判が定まりませぬゆえ……」
八郎は微かに口元を緩めた。
「御安心ください。慶喜公は今、羽鳥での改革を受け入れ、大老徳川斉昭公と共に、この国の未来を案じておられます。決して、ただの冷徹な男ではございません。和宮様を迎えるにあたっては、誰よりも慎重に、真心を込めた準備をなされることでしょう」
「そうですか……それを、和宮にもお伝え願います」
女院はしばし目を閉じ、頷いた。
「それと――大奥にも、一部ではこの縁談を良しとせぬ声がございます。特に、前将軍の側室方の周囲では、“京から姫を迎えるなど、家格を踏みにじる”と」
「それも、想定の範囲内にございます」
八郎は、懐から数通の書状を取り出した。
「こちらは、大奥に深く通じる者たちへ送る、“未来の証”でございます。羽鳥藩主・藤村晴人殿が自ら綴られたもので、事に当たっては“大奥の誇りを損なわぬ”よう、最大限の配慮をもって進めると――」
女院はその書状を両手で受け取り、ゆっくりと封を開ける。
「……“政治の継ぎ目に、情が差し込むことを、決して恥とせぬよう”……晴人様の筆は、やはり、強くて優しいのですね」
「誠に。あの方は、剣よりも言葉を信じる人でございます」
女院は深く頷き、襖の向こうへと視線を送った。
「和宮様を、きっと、お幸せにしてくれるのでしょうか」
その問いに、八郎はひざまずいたまま、はっきりと答えた。
「必ずや。この縁が、日本の未来を変える鍵となりましょう」
その言葉が、部屋の中にやさしく広がっていった。
静かな御所の庭には、梅の花びらがなおも舞っていた。
春の兆しが、京の空に少しずつ、しかし確かに訪れていた。
京からの便が羽鳥の政庁に届いたのは、三月も半ばを過ぎた頃だった。
新しい元号――**万延**が、ようやく全国に布告されたとの知らせに、庁内はひととき静かな祝賀の空気に包まれた。
「ついに“安政”が終わるか……」
藤村晴人は、書状を手にしたまま呟いた。
安政とは、暗い記憶が付きまとう時代だ。安政の大獄、地震、飢饉、開国の混乱……それらが次々と人々を押し流し、多くの命と未来を飲み込んでいった。
だが、それもようやく区切りがついたのだ。
政庁の書院の障子を開け放つと、外の庭には春の柔らかな陽光が差し込んでいた。雪解けの水が小川を流れ、梅の蕾は色づいている。
「万延――“延く萬”の時代。……この名の通り、長く、広く、皆の幸せが続けばいい」
そう口にした晴人の背に、佐久間象山が背を正して進み出る。
「良い名ですな。万延……まさに今、この羽鳥から“未来”を延べることこそ、我らの務めです」
晴人は微笑を返し、ふと視線を棚の上に向けた。そこには、一橋慶喜から届いた書状が並んでいた。
彼は今や十四代将軍の継嗣。時勢が変わり、徳川幕府の行く末が不確かな中、未来の将軍としての器量が問われる立場にある。
「……あの方に嫁ぐのが、皇女和宮か」
晴人は椅子に腰を下ろし、懐からもう一通の文を取り出した。差出人は、京の清河八郎。
“内々にて根回し完了。女院殿は晴人様の御言葉に深く感じ入られ、和宮様も前向きに思案中とのこと。”
筆跡は達筆で、だがその裏にある慎重さと冷静な洞察がにじむ。
晴人は静かに目を閉じ、あの皇女の姿を思い浮かべた。
彼女は――「人柱」としての宿命を背負う、稀有な存在だった。
それを知ったうえで、晴人はこの縁談を推進したのだ。政略結婚であることに違いはない。だが、それが“争いの芽”を摘む手立てになるなら、そして“愛”までは届かずとも、互いに敬い合える関係を築けるのなら――それは、未来をつなぐ希望となる。
「……清河。君に頼んで正解だった」
小さく呟いたとき、書院の外から足音が近づいてきた。
「失礼いたします。将軍継嗣・一橋慶喜様よりの文です」
羽鳥藩士の一人が、慎重に文を差し出す。
開封すると、そこには短くこう記されていた。
“和宮様のこと、誠にありがたく存ず。国の静謐、女院様の御賢慮、いずれも心に刻み候。今後の式典、羽鳥とも連携を願う”
晴人は、文を畳み、ひとつ息を吐いた。
「……ふふ、さすがだな」
彼は立ち上がり、政庁の奥に設けられた「物資準備局」へと向かった。
この一件が進むことで、江戸城内の“空気”も変わってくる。
特に、大奥の反発を抑えるためには、“形”が必要だ。
すでに晴人は、幕府勘定奉行や目付を通じて、京から羽鳥へ贈られる「和宮嫁入りの品々」の一部を、羽鳥からも返礼する手配を進めていた。
贈られるのは、羽鳥製の精緻な織物、織田職人による蒔絵細工、さらには、藤村晴人自ら設計した「回転式香炉」など、現代の知識を“和風”に落とし込んだ逸品ばかり。
また、女官への教育指導として、村田の薬師団が開発した滋養薬「五草膳湯」も、贈答候補に上がっている。
晴人は言う。
「贈るというのは、支配ではない。未来を渡すことだ」
その理念の下、羽鳥から始まった数々の施策が、今や幕府や朝廷にも届いている。
やがて、夕刻。
政庁の執務室に、使者が戻ってきた。
「清河八郎より報告書、届きました」
封を切ると、そこには、次のような文があった。
⸻
“女院様より、和宮様の御心の安らぎのため、羽鳥に由来する和歌三首を献上するとのこと。既に京の歌人たちの間で『羽鳥の春』として詠まれ始めております。余波は、都にも届きましょう。”
⸻
政と歌が混ざり合う春。
争いを力でねじ伏せるのではなく、歌と心を届け合う――そんな国のかたちを、今、羽鳥から広げようとしていた。
四月の風が羽鳥の町を優しく撫でていた。
咲き誇る桜並木の下では、子どもたちが歓声を上げ、母親たちが買い物袋を片手に笑みを交わしている。そんな市井の風景の片隅で、晴人はゆっくりと歩を進めていた。今日の視察先は、新たに整備された「礼儀講習所」だった。
和宮降嫁に関する一件が朝廷で進行中の今、この地でも“迎え入れる準備”が静かに進められていた。
といっても、皇女本人を迎えるわけではない。だが、“心”の橋渡しとして、羽鳥から京へ、そして江戸へとつながる礼節と文化の訓練機関は、陰ながらも重要な意味を持っている。
講習所の門をくぐると、淡い香の匂いが鼻をくすぐった。中では十代後半から二十代の町娘たちが、所作の稽古に励んでいた。講師役を務めているのは、元京都御所に仕えていた老女・滝川。晴人が直接斡旋して呼び寄せた人物である。
「――背筋、伸ばしなされ」
低く張った声に、娘たちは一斉に緊張し、動きを止めた。
滝川は目を細めて娘たちを見回すと、晴人の方へわずかに頷いた。
「これほど早く形にされたとは……さすが羽鳥様にございますな」
「ありがとうございます。いざという時の“備え”は、武器だけでなく、礼もまた力になりますから」
そう返した晴人は、講習所を後にした。
その足で向かったのは、政庁内の文書局。この日、京と江戸から重要な報が届いていた。
まず、京で動いている清河八郎からの密書。
――“朝廷は内々にて和宮降嫁を了承の意向。女院殿をはじめ、羽鳥からの文化的支援と贈答が功を奏しているようです”
続いて、江戸城・大奥筋からの報告。
――“大奥老女の間で『水戸の慶喜様ならば』との声が広まり、和宮様への警戒感は目に見えて薄れてきております。羽鳥から贈られた扇と香は、今や大奥でも話題の品にございます”
晴人は小さく頷き、ほっと息をついた。
「香りは、記憶に残る。……やはり正解だったか」
それは、羽鳥の薬草職人たちと共に調合した香――桜皮と白檀を組み合わせた柔らかな芳香を、小瓶に詰めたものだった。淡い香は華美すぎず、それでいて記憶に残る。まさに、京の女院や江戸の大奥にふさわしい“静かな贈り物”だった。
「……さて、清河にはもう一押し、頼むとしようか」
晴人は机に向かい、筆を取った。
清河君へ。
祝言の正式決定があれば、羽鳥より和宮様への献上品目の一部を変更いたしたく存じます。
とりわけ衣装については、御所の格式や意匠と齟齬のないよう、あらためて御調整願いたく――。
墨を乾かす間、晴人はふと天井を見上げた。
その先にある空の彼方――京では、和宮が日々揺れる心を抱えて過ごしているのだろう。
自らの意思で決められぬ人生。
それでも、何かを信じて一歩を踏み出さねばならぬ運命。
「和宮様。どうか……笑える日が、来ますように」
その祈りを胸に文を封じると、外では夕暮れの鐘が鳴り始めていた。
その夜。
政庁では、一橋慶喜からの内書を受け、密やかな会議が開かれていた。
出席者は、佐久間象山、村田蔵六、そして羽鳥藩の若手筆頭たち。
慶喜の文にはこうあった。
「皇女和宮様の降嫁が正式に内達される運びとなった。諸所に火種は残るが、ここで一枚岩となることが重要。羽鳥の力、再び借りたく候」
象山が眉を上げる。
「つまり、いよいよ正式決定ということですな」
「しかも、“羽鳥の力”と明記してくるあたり……」
晴人は頷いた。
「我々が“影の後見”であることを、慶喜様は確信しておられるのでしょう」
村田が机の上に分厚い書類束を置く。
「式典の護衛、江戸への献上品、女官たちの配属……準備すべき項目は山積です」
「清河が京で動いてくれているが、江戸には“調整役”が必要だな」
そのとき、静かに一歩前へ出たのは、斎藤一だった。
「私を江戸へお遣わしください。かつて江戸詰めの家士として仕えており、大奥や幕府儀礼にも一定の心得があります。口数は少ないかもしれませんが、必要な任務は遂行してみせます」
その声は落ち着き、揺るぎない覚悟を湛えていた。
晴人は迷わず頷いた。
「よろしく頼みます。羽鳥から江戸へ“陰の舞台監督”を送り込む。我々の名は出さず、最後まで誠心誠意、務め上げてください」
かくして、皇女和宮の降嫁という一大政略の裏で、羽鳥の人々は再び“裏方の英雄”として静かに動き出したのだった。
四月も終わりに差し掛かったある日、羽鳥政庁では、和宮降嫁に関する最終調整が静かに進められていた。政庁の一角にある書院。障子から差し込む淡い陽光の中、晴人は文箱を前に何度も筆を走らせていた。
「……贈呈品目一覧、京と江戸の礼法基準を照合済み。女官の人数、調整済み。――あとは、こちら側の護衛と随行者か」
机の上には、細密な献上品リストがずらりと並べられていた。羽鳥特産の織物、香木、薬草、さらに欧米から取り寄せた細工箱や香料、洋墨に至るまで、すべてが和宮の品格にふさわしいものばかりだった。
「一つひとつは小さくとも、それが積み重なれば“誠意”になる」
晴人は独り言のように呟くと、筆を置いた。そのとき、襖が音もなく開き、斎藤一が姿を現す。
「失礼いたします。江戸より、老中久世殿を通じて非公式の報せが届きました」
斎藤は封書を差し出した。晴人が目を通すと、そこにはこう記されていた。
“羽鳥よりの調整、京でも大奥でも極めて良好と聞き及ぶ。特に、大奥老女・瀧山が羽鳥の礼節と贈答の配慮に感銘を受けている模様”
「……順調に進んでいるな」
「はい。とりわけ香り袋の効果が大きかったようです」
晴人はうなずき、机の脇に置かれた香袋のひとつを手に取った。羽鳥産の白檀と桜皮を使い、封には「和宮」と金糸で刺繍が施されている。派手ではないが、凛とした品格がある。
「このまま京での祝言が滞りなく進んでも、その後が本番だ。和宮様が“水戸の殿様”に嫁がれるということが、民衆の安心と誇りに繋がるよう、我々は静かに支え続けねばならない」
斎藤は静かに頷いた。
「裏から支えることこそ、我らの役目。お任せください」
その数日後、江戸では和宮降嫁に関する内々の会議が開かれていた。老中たちの間で情報が行き交い、大奥の重鎮も意見を交わす。その場に斎藤一の姿はない。だが、彼が手配した香袋や調度品は、すでに京と江戸の双方に届けられていた。
黒漆の箱に納められた香袋を開けた老女が、目を細めて囁く。
「……穏やかで、凛とした香り。和宮様にふさわしい」
誰ひとりとして羽鳥の名を語ることはなかったが、確かな“気配”がそこにはあった。
同じころ、京でも和宮の心を支える動きが進んでいた。清河八郎は羽鳥から託された香袋を届け、定期的に文をしたためて晴人に報告していた。
“和宮様は静かに、しかし毅然と過ごされております。羽鳥より届いた香袋を枕元に置き、毎夜、香を焚いておられるそうです”
晴人はその文を読み終えると、そっと目を閉じた。
「……香りのような存在であり続ける。それが、我々のやり方かもしれないな」
春の陽が再び書院を照らしていた。やがて香りは空気に溶け、人の記憶に滲んでいく。表に出ることなく、だが確実に未来をつなぐ力として――。
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