表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

86/346

69話:咸臨、知を運ぶ船

冬の朝。羽鳥の空は凛と澄み渡っていた。


 政庁の応接間に差し込む陽光が、広げられた地図の上で揺れる。地図の端には、“太平洋”の文字とともに、その先の大陸――アメリカが、異国めいて描かれていた。


 「咸臨丸、いよいよか……」


 藤村晴人は呟きながら、卓上の手紙に目を落とす。それは、幕府の航海方・勝麟太郎――のちの勝海舟が羽鳥へ送ってきた便りだった。


 《拝啓 藤村殿


 いよいよ咸臨丸、来年正月十三日に横浜より発艦。太平洋を渡る初の国船として、幕命を果たす所存。


 しかしながら、この航海、単なる通商条約の随伴任務にあらず。実地を以て“西洋”の息吹を知り、我らの未だ見ぬ技術・制度・思想を肌で感じる旅にしたいと考えております。


 乗員の中には、蘭学塾の若き俊英・福沢諭吉の名もございます。如何なる成果を得られるか、甚だ楽しみであります。


 咸臨丸艦長 勝麟太郎 拝》


 晴人は静かに封を置くと、ふたつの名前を心に浮かべた――福沢諭吉、そして勝麟太郎。

 後者はすでに彼の名と実行力が羽鳥にも知られる存在だが、前者は、いずれ国の思想基盤を形作る“核”になるかもしれない逸材だ。


 数日後、水戸藩邸にて。


 藤村晴人は、徳川斉昭と一橋慶喜の前にいた。


 「――書籍購入、技術収集のための経費について、羽鳥として私費を拠出する用意があります。ただ、あの者たちにとって、幕府のお墨付きがあれば、使いやすいことでしょう」


 晴人は低い声で言った。

 斉昭は扇子を叩き、じっと彼を見据えた。


 「お主がそうまで言うなら、それほどの才か」


 「福沢という男、学識は群を抜いております。将来、間違いなく“言葉”で世を動かす人物になります」


 この言葉に、一橋慶喜も目を細めた。


 「父上、ここは一つ、幕府としても“書籍収集および制度調査”を名目に、彼らの活動に予算を割いてはいかがでしょう。あくまで学術的視察として」


 斉昭は頷いた。


 「よかろう。その代わり、得た知識は羽鳥にも共有させてもらうぞ」


 晴人は頭を下げると、口元を引き結んだ。


 (福沢が渡米で手に入れる知識は、国家の宝となる。ここで少し背中を押せば、やがて羽鳥にも還ってくる)


 政庁へ戻った晴人は、すぐに執筆を始めた。

 資金の出処は“羽鳥学術奨励金”として処理し、勝海舟と福沢諭吉の渡航に充てられる。


 その夜。


 政庁の奥では、佐久間象山や村田蔵六、近藤勇らが顔を揃えていた。


 「福沢諭吉……あの蘭学者の若造か」と、佐久間が苦笑した。


 「若いが、目の付け所が違う。銃器にも、印刷にも、西洋の文体にも通じておる。あれが育てば、百の学者に勝る」と村田が返す。


 晴人は頷いた。


 「その彼が今、海を渡る。だからこそ我々は、彼が戻って来たときに“知を受け入れる器”を整えておかねばならない」


 「器、か……」


 佐久間が空を仰いだ。


 「では、我々もまた、船をつくるとしよう。“知識の船”をな」


 咸臨丸がアメリカに向けて帆を上げる日。

 羽鳥でもまた、見えぬ船の建造が始まっていた。

冬の陽が傾きかけた羽鳥政庁の会議室には、歴史の転換点を告げる重さがあった。


 部屋の奥、障子越しに差し込む光が畳に長い影を落とし、その中央には、徳川斉昭、一橋慶喜、藤村晴人の三人が静かに向き合っていた。


 「咸臨丸が出航する……そう聞いたとき、思ったのだ」


 藤村晴人は、湯呑をそっと置いた。


 「これは“単なる親善航海”ではなく、日本が“何を学び、何を選ぶか”を試される機会になると」


 斉昭が目を細める。


 「勝海舟と福沢諭吉が渡米する。水戸としても無関係ではおれぬな」


 慶喜が静かに頷いた。


 「父上。羽鳥の若き政官、藤村より進言があります。ご一聴願えれば」


 斉昭のまなざしが晴人に注がれた。


 晴人は一礼し、懐から封筒と書状を取り出した。


 「今回の渡航において、福沢諭吉殿に“幾つかの特命”を託したく思います。内容は主に――米国よりの物資調達です」


 「物資?」


 斉昭の眉がわずかに動いた。


 「はい。書籍や印刷技術の資料はもちろんのこと、製薬器具、農機具の部品、照明技術、教育玩具、そして――ガラス製の理化学器具、蒸留器、蓄音機の構造図や部品など。いずれも、羽鳥が今後“近代都市”として備えるべきものです」


 慶喜が目を見開いた。


 「蒸留器……ガラス器具までとは。まるで化学工房の準備ですな」


 晴人は静かに頷いた。


 「羽鳥は、今後も独自に“薬学と農業”、そして“発電と衛生”を発展させねばなりません。日本国内では到底入手不可能な物資も多く、今しか買えぬものが山ほどあります」


 斉昭は湯呑の茶を一口すすり、唇を湿らせた。


 「その出費――幕府は当然、そこまでの支度金は出さぬであろう」


 「はい。ですので、羽鳥の自治資金の一部と、私費をもって、彼に“追加支援”を申し出ました。さらにお願いがございます」


 「申してみよ」


 「徳川家、すなわち父上と慶喜様の名義で“推挙状”を一筆いただければ、福沢殿も堂々と取引ができましょう。相手はアメリカの書店主や機器商です。肩書きがあることで、円滑に交渉が進むかと」


 斉昭は、眉をひとつあげた。


 「ほう……羽鳥の民政官ながら、よくそこまで読み切っておるな」


 「恐縮ですが、これも“政”の一端にございます」


 慶喜が微笑を浮かべた。


 「父上。拙者としては異存ありません。――この藤村、まさしく“先を視る才”がある」


 斉昭は、短く頷いた。


 「よかろう。推挙状の件、受ける。水戸の名においてではなく、将軍家の家令として手配しておこう。表には出ぬがな」


 「恐れ入ります」


 晴人は深く頭を下げた。


 その瞬間、外の庭で木枯らしが吹き抜け、乾いた竹垣の音が部屋に響いた。


 斉昭がふと、障子越しに空を見上げた。


 「……この国が、外海の嵐に呑まれるのは、避けられぬ。だがそのとき、踏みとどまるための“錨”を我らは打ち込まねばならぬ」


 晴人はその言葉に、静かにうなずいた。


 「はい。羽鳥がその“錨”のひとつとならんことを、我々は願っております」


 数日後、羽鳥から出発する文使いが、福沢諭吉のもとへと向かっていった。手には丁重な挨拶状とともに、詳細な物資リスト、そして斉昭・慶喜の名を記した推挙状、さらに羽鳥自治局の“記録館”の印を押した書状が添えられていた。


 そこには――


 《我らが求むるは、ただ“物”にあらず。“志”と“知”を運ぶ、その手である》


 という晴人の直筆の一文が、確かに刻まれていた。

咸臨丸の帆が、冬の風を孕んでゆっくりと膨らみ始めた。


 港に立ち尽くす見送りの人々は、寒風に外套の裾を押さえながらも、出航の時をじっと見守っている。その中には外国奉行の面々だけでなく、横浜に出張していた水戸藩の役人や、羽鳥からの密使も混じっていた。だが、それらの視線の多くが向けられていたのは、甲板の端に立つ一人の青年――福沢諭吉であった。


 「この眼差し、まるで国の未来でも背負わされてるようなものだな……」


 そう呟いた諭吉の声は、潮風にすぐ掻き消された。


 しかし彼自身も、それに近い覚悟を背負っていた。


 船内の私室に戻ると、福沢は懐から分厚い包みを取り出した。羽鳥の藤村晴人から託された書状と資金、そして詳細な“買い物指示書”である。


 「顕微鏡はレンズ枚数と焦点調節方式を明記せよ、か。何とも気が利く……いや、気が利きすぎているな。まるで書斎の棚を再現せよというような注文だ」


 思わず笑いが漏れる。だが、指示書はただの買い物メモではなかった。明確な意図と方針が透けて見えた。


 書籍だけではない。

 耐久性の高い製図用具。欧州製の温度計と気圧計。航海用の六分儀。最新式の手回し印刷機の図面と、試作品の購入候補まで。更には「音を記録し再現する機械の部品群」「火を使わずに熱を保つ調理容器」など、耳慣れぬ要請もある。


 「羽鳥という地は、書を飾る場所ではなく、“機能”として活かす場なのだな」


 そう実感すると同時に、福沢は心の奥底で奇妙な高揚感を覚えた。


 自らが関わる事業に“続き”があること。

 咸臨丸の一往復ではなく、その先の“文明と実用”を繋ぐ循環の一部であるという実感。

 それが、羽鳥からの依頼状には宿っていた。


 「だが、これほどの道具立てが必要とは……。あの藤村という青年、ただ者ではないな」


 諭吉は改めて、藤村からの書簡を読み返した。そこには丁寧な文字で、こう綴られていた。


「日本が、西洋から学ぶべきは形ではなく“機能”です。

書は読まれるためにあり、道具は使われるためにある。

福沢先生がそれを見極める目をお持ちであることを、私は信じております」


 ――信じております、か。


 どこまでも他人に干渉しすぎず、だが芯を刺す言葉だった。

 それが、福沢諭吉の心を動かした。


 (俺は……あの男のために買い物をしているのではない。だが、日本の“目”を羽鳥が担うというのなら、ここで恥ずかしい仕事はできん)


 彼は机に広げた地図の上で、航路と寄港地を確認した。サンフランシスコでの調達は当然として、その先の書籍購入ルート、器具調達先まで検討を始める。


 さらに彼は、ある決断を胸に刻んでいた。


 「……俺自身も、羽鳥に行ってみたくなってきた」


 これまで諭吉にとって羽鳥は、遠くの実験場にすぎなかった。だが今は違う。

 そこには志があり、明確な目的があり、そして“信頼されている”という事実がある。


 自分の知識が、実際に人々の生活の中で活かされる――それを実感できる場が、日本に一つだけあるということ。


 「勝殿は寝ているし、福地はまだ海酔いしておる。ならば、俺がこの船の“荷物番”としての責任を果たすだけだ」


 諭吉は立ち上がると、積み荷の帳簿を確認しに甲板へと向かった。


 ――咸臨丸は、じわりと波を裂き、浦賀港を離れていく。


 冬の陽光の中で、潮の匂いとともに、未知への旅路が静かに始まった。


 船尾から遠ざかる日本の海岸線。だが、諭吉の胸中には、羽鳥の名と藤村晴人の筆致が、深く刻み込まれていた。

 そして、心のどこかで、彼は思っていた。


 (俺はこの男と、もう一度会うことになるだろう)


 それは、未来を担う者同士の、まだ見ぬ再会の予感であった。

咸臨丸が浦賀を出航してから数日後、羽鳥の空には、季節外れの風が吹いていた。


 冬の終わりを思わせるような湿った風――その風は、遠い海の匂いを運んでくるかのようで、藤村晴人は庁舎の屋上に立ちながら静かに目を閉じていた。


 「……もう太平洋の真ん中あたりか」


 呟きは誰に向けたものでもなかった。

 だが心の中には、確かに福沢諭吉の姿が浮かんでいた。


 咸臨丸の出航は、幕府主導による外交の大事業だったが、その裏で、羽鳥もまた“未来への投資”を託していた。


 「書籍だけではない。蒸気機関の仕組み、時計の部品、印刷技術、温度管理装置……持ち帰るものは多い。だが、本当に大事なのは、“目”だ」


 晴人は、空を仰いだ。


 この町は今、急激な変化の渦中にある。


 人口は五万を超え、郊外には新たな街区が建設中だ。鉄道の試験線が敷かれ、町には蒸気の匂いが混じり始めている。病院では小児科と産科が分離され、教育機関も拡充が進んでいた。農民たちは鉄製の農具を使い、市場では西洋野菜の苗が出回っている。


 「……だからこそ、“その先”が必要だ」


 既存の知識だけでは足りない。未来に飛び込むには、さらなる“光”が必要だ。

 それを羽鳥は、福沢に託した。


 庁舎の一角では、職員たちが新たな“道具”を受け入れるための準備に追われていた。輸入予定の蒸気印刷機に対応するため、紙の規格を再整備する班。病院に届くであろう医療器具を収納・管理するための専用倉庫を建てる班。さらには、新たな図書館の設計図も描かれつつあった。


 「晴人様、こちら、新設の文化資料館用の台帳案です」


 秘書役の伊達が、重ねられた図面を運んできた。晴人は頷き、目を通す。


 「分類は“発展段階別”か。欧州風ではあるが……いいだろう。今後、児童用の簡易分類も並列して検討してくれ」


 「はっ。あと、福沢殿が持ち帰るであろう書物の仮目録を作成中です。彼の著述癖を見越して、原稿用紙や筆記用具も合わせて準備済みです」


 「さすがだな」


 笑みを浮かべながらも、晴人の目はどこか遠くを見ていた。


 咸臨丸の航路、福沢が立ち寄るであろう書店、器具商。そこから繋がる新たな知見。その一つ一つが、羽鳥を変える力となる。


 ――そしてその果てに、何があるのか。


 ふと、彼の耳に届いたのは、町の雑踏のざわめきだった。


 市場では「咸臨丸が海で竜に襲われた」だの、「福沢様はすでに大酔いして沈んだ」などと、無責任な噂が飛び交っていた。


 「……こういう話が出るのも、羽鳥が“世界”を意識し始めた証だな」


 笑いながらも、晴人は思う。


 かつての羽鳥は、ただの寒村だった。

 だが今では、日本で最も“外”に目を向けている町のひとつとなっていた。


 その中心に、自分がいること。

 それが、彼に日々の緊張と誇りを与えていた。


 その夜、町の迎賓館では、小規模な晩餐会が開かれていた。


 出席していたのは、徳川斉昭、一橋慶喜、そして佐久間象山や村田蔵六といった軍政改革の中枢を担う者たちである。


 「藤村晴人――お前の判断には、いつも驚かされる」


 斉昭が杯を掲げながら言った。


 「福沢という人物に目を付けたのも、見事だ。学者は多くとも、あの若さであそこまで視野の広い者は珍しい」


 「彼は、理論を“実地”で語れる男です。そこに賭けるだけの価値はあります」


 晴人の返答に、象山が静かに頷いた。


 「羽鳥は、ただの模倣で終わる町ではない。……いや、終わらせてはならん」


 火のような視線を向けられても、晴人は真正面から受け止める。


 「はい。“未来をつくる町”として、羽鳥は歩み続けます。例え、咸臨丸が波に飲まれようとも――私たちは止まりません」


 言葉に、一同が黙した。


 それは、決意の重さが伝わった瞬間だった。


 宴が終わり、皆が帰路につく中、晴人はひとり、町の高台へと登った。


 冬の夜風が、遠く咸臨丸の航路をなぞるように吹き抜けていく。


 彼は手袋を外し、胸に手を当てた。


 「頼んだぞ、福沢さん。君が持ち帰る“知”が、この国の未来を灯す」


 その声は、夜空に吸い込まれていった。

 咸臨丸がまだ帰らぬ遥か彼方の海原へ、志を乗せて――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ