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68話:軍制改革第一段 〜民が軍を成す日〜

――西洋の風、武士に吹く――


 安政六年、春の終わり。羽鳥の空は雲ひとつなく晴れ渡り、若葉が光を弾いていた。


 しかしその陽気とは裏腹に、町の北端――旧宿場跡の広場には、緊張が張り詰めていた。


 「整列ッ!」


 怒声が地を裂いた。発したのは、羽鳥屯所軍政組織の教導役・近藤勇である。


 彼の鋭い眼差しが、整列した兵たちを貫く。列を成しているのは、羽鳥民兵百名に加え、水戸藩の藩兵、町人志願兵、農民の若者たち――その数、三百を超えていた。


 かつては鍬を振るっていた手が、今は銃を握る。


 「……半年でここまで仕上げるとはな」


 視察台から見下ろしていた佐久間象山が、腕を組みながら小さく呟いた。


 その隣には、軍制改革の技術顧問として招聘された村田蔵六――のちの大村益次郎が、冷静な目で隊列を観察していた。


 「まだ隊列の歩幅は乱れていますし、銃の保持姿勢も不統一です。ですが――鍛えれば、形になる」


 「新式銃の扱いはどうだ?」


 象山が問うと、村田はわずかに顎を引いた。


 「“火縄を使わぬ銃”として、模倣品の製造には成功しています。ただし火薬の品質が未熟で、命中率にばらつきがあります」


 「焦ることはない。西洋の軍制は百年の蓄積であろう。我らが半年でそれを越えようとするのが驕りというものだ」


 そのとき、兵たちの視線が一斉に訓練場の端へ向いた。


 軋む車輪の音とともに、干し藁に包まれた一門の砲が荷馬車に載せられ運ばれていく。


 「――あれが、羽鳥式臼砲か」


 土方歳三が歩み寄りながら呟く。その眼光は鋭く、すでに“剣の人”ではなく、“戦の人”のそれであった。


 「山城から取り寄せた鋳型を元に、羽鳥の鋳造職人が手掛けたものだ。軽量だが火力は未知数だな」


 「……ならば試してみるしかあるまい」


 そう言った土方の背後から、静かに声が響いた。


 「用意は、整っていますか?」


 藤村晴人だった。


 羽鳥政庁からの直々の視察である。佐久間も村田も、軽く頭を下げた。


 「おお、君が来てくれるとは。今日の演習は、“軍制改革”の節目に相応しい一日になりそうだ」


 「そうであってほしいですね。今日集まっているのは、武士だけではありません。農民も町人も、同じ意志で銃を握っています」


 「それが“民兵”という構想か?」


 「はい。彼らは“戦争のための兵”ではなく、“暮らしを守る兵”です。身分に縛られぬ、“覚悟ある人々”の集い――その象徴です」


 象山は頷いた。


 「……つまり、“士”ではなく、“人”のための軍、ということだな」


 「そうです。“守る力”は、特定の階級に独占されるべきではありません」


 その言葉に、村田蔵六が静かに続けた。


 「そのためには、技術と訓練が必要です。装備も、連携も、そして“共に在る意識”も」


 「ならば今日は、その第一歩にしてみせましょう」


 晴人は、手にしていた太鼓棒を軽く持ち直した。


 「臼砲の試射を行います。民兵たちの前で、“武器ではなく信頼”が火を噴く瞬間を見せてやりましょう」


 命を受けて、土方が荷馬車から臼砲の設置を指揮する。標的となる木製の標的は、谷間の斜面に置かれた。


 射手は水戸藩の砲術方、補助には羽鳥の町人鍛冶から選ばれた助手たちがついた。


 やがて、全ての準備が整う。


 村田が目を細めた。


 「風、なし。弾道、安定しやすいな……」


 「……撃て」


 晴人の声が下された。


 そして――。


 黒煙が砲口から噴き上がる。


 遅れて響く轟音とともに、斜面に設けられた標的が爆風に砕かれ、木片が空を舞った。


 一瞬の静寂。次いで、兵士たちから歓声が上がった。


 「当たった!」


 「やったぞ!」


 「俺たちにも……守れる力がある!」


 晴人は、手を握りしめた。


 「この歓声こそ、“民が立ち上がる国”の鼓動です。武器がすべてではない。支え合い、信じ合い、共に在ること。それが“力”なんです」


 土方が頷く。


 「……信じる仲間がいるなら、俺は何度でも立ち上がれる」


 そのとき、山を撫でる風が演習地を吹き抜けた。


 それは、刀の時代に別れを告げる“新たな風”だった。

午後の陽光が傾きはじめる頃、訓練場の周囲には落ち着いた空気が戻りつつあった。


 演習を終えた兵たちは、汗まみれの軍装のまま整列し、指導役の点呼を受けている。どこか誇らしげに胸を張る者、砲声の余韻に浸る者、仲間と小声で語り合う者。そこには、朝方の緊張とは別種の熱があった。


 その様子を少し離れた高台から見下ろしながら、藤村晴人は深く息を吐いた。


 「……一つ、山は越えたか」


 「山ではなく、丘だろう。まだまだ登るぞ」


 隣で腕を組んでいた佐久間象山が、口元を緩めたまま言う。


 「今日の一発で、すべてが変わるとは思っていない。しかし、民兵という構想が“絵空事”でないと証明できた。これは大きい」


 「肝心なのは、ここから先です。銃を撃てるだけでは“軍”ではない。進むべき方向が一致してこそ、初めて“力”になる」


 「……そして、その一致が難しい。身分も、育ちも、価値観も違う者たちを一つにまとめるのはな。だが――」


 象山はふと、演習地の隅に視線を向けた。


 そこでは、農民出の若者が銃の手入れをしていた。隣には、水戸藩の中級藩士が黙って腰を落とし、手際よく木製の台座を磨いている。


 互いに言葉は少ないが、動きに無駄がなく、息が合っていた。


 「――“共に立った者”には、垣根が薄くなるものだな」


 「ええ。戦とは、憎しみで始まっても、信頼がなければ終われない。だから我々は、“信頼の型”を作る必要があります」


 その言葉に、村田蔵六が静かに頷いた。


 「そのためには、“教練”だけでなく、“戦術”の導入が急務です。単なる集団ではなく、動きとしての一体感。それがなければ、たとえ数千の兵がいようと、烏合の衆になる」


 「……具体的には?」


 村田は、背中から巻物を取り出した。羽鳥の地図を広げ、その上に数本の赤線を引く。


 「この訓練地の裏手――あの斜面と森を活用します。兵を十人ずつの班に分け、斥候・伏兵・側面展開の練習を行います」


 「つまり、“個”ではなく“班”を鍛えるわけだな」


 晴人が感心したように呟く。


 「その通りです。そして、この“班”の育成は、藩士よりも町人や農民の方が吸収が早い傾向にあります」


 「なぜだ?」


 「一言で言えば、彼らは“生き延びる力”が強い。武士の多くは“死に場所”を求めがちですが、民は“生き抜く”ために動く。その違いが、咄嗟の判断や動きの柔軟さに出るのです」


 佐久間がくくっと笑った。


 「死に急ぐ武士に、生き抜こうとする農民か。なるほど、未来を託すなら……」


 「“命に執着できる者”の方が、国を残せると思います」


 そのとき、遠巻きに訓練を見ていた一団がざわついた。


 羽織袴の士族数名が、演習場の柵に寄りかかりながら、不満げに視線を向けている。


 「銃だの砲だの……武士の道を穢しておる」


 「農民に武器を与えるなど、秩序の崩壊だ」


 「このような真似をして、万が一“反乱”が起きたらどう責任を取るつもりか――」


 晴人はそちらを一瞥したが、何も言わなかった。


 代わりに、土方歳三が数歩前に出ると、その士族たちの方へ向き直った。


 「――なら、あなた方が前に出て守ればよい。“武士の道”とやらで、家族も町も、砲弾から守れるのならな」


 「……何だと?」


 「だが、現実は違う。守るべき命の前に、身分は意味を持たん。“道”を語る前に、“責任”を持て」


 士族の一人が顔を赤くしたが、土方の眼光に気圧され、言葉を失った。


 沈黙が落ちる。


 それを破ったのは、村田だった。


 「この国は、変わります。否、変えなければ未来がない。変革とは、常に“反発”を伴うものだ。だが、正しい道を進むなら、いずれ理解も追いつく」


 佐久間も、静かに続けた。


 「時代が進むほど、“刀”では守れないものが増えていく。文化も、町も、人の心も。だから、我々は“技術”と“意志”で守る道を選ぶのだ」


 晴人は視線を戻し、演習場に立つ若者たちを見つめた。


 誰もが額に汗を浮かべ、汚れた衣をまといながらも、顔には確かな誇りが宿っている。


 「……これが、我らの“軍”です」


 声に出した瞬間、その言葉が地に根を張るような感覚があった。


 “民の軍”。それは、武力をもって支配するものではなく、意志と信頼で築く共同体。


 “守られる”だけだった人々が、“共に守る”側へと歩みを進める。


 その最初の一歩が、ここ羽鳥で刻まれたのだ。


 やがて、太陽が山の端に沈みかける頃、訓練は終了となった。


 「整列、解散ッ!」


 掛け声とともに、兵たちは次々と退場していく。


 彼らの背中はまっすぐで、足取りは確かだった。


 その姿に、藤村晴人は胸の奥でそっと誓った。


 ――この流れを、止めてはならない。


 誰かの意志に屈することなく、誰かの利に歪められることなく。


 “国を守る”ということが、万人に開かれた言葉となるその日まで。


 次の訓練の準備に入るよう、彼は静かに、次の一歩を踏み出した。

午後の陽が傾きかけた頃、訓練地の北端では、村田蔵六が手帳に細かな記録を取りながら、兵士たちの構成を眺めていた。


 そこに広がる光景は、わずか数ヶ月前までの“武士の軍”とはまるで異なるものだった。


 「……農民が、これほどまでに前に出るとはな」


 彼の独り言に応えるように、後方から佐久間象山が足音も静かに近づいてきた。


 「意外だったかね? 私は初めから期待していたよ。土地を耕す者ほど、守ることの意味を知っている」


 実際、訓練地の一角では、日焼けした腕をむき出しにした若者たちが、泥にまみれながら剣術や槍術の基本動作を繰り返していた。彼らの多くは、元は羽鳥周辺の農村で畑を耕していた青年たちだ。中には村のまとめ役の息子や、かつて一揆に加わって投獄された過去を持つ者までいる。


 「軍の構成が、まるでひっくり返ったようだ」


 村田の言葉に、象山は軽く頷いた。


 「これまでの武士八割、町人と農民二割の編成から、今では農民が四割、町民三割、武士は三割以下だ。しかもその三割のうち、上級の者はごくわずか」


 「名ばかりの肩書きでは、現場の土と汗には勝てぬということか」


 その通りだった。晴人の方針は明確だった――「守る意志のある者なら、誰でも受け入れる」。それは、旧来の身分制を否定する思想ではなく、「守る力は身分に宿るのではなく、覚悟と責任に宿る」という信念に基づくものだった。


 結果、羽鳥の軍制改革は、兵制そのものだけでなく、“社会構造の転換”にもつながっていった。


 町人の中には、商家の跡取りであるにもかかわらず、訓練に参加する者も現れた。兵としての役目を果たした者には、税の優遇措置や商取引での特別認可が与えられるという、実利的な制度も導入されていた。これが、町人層の参加をさらに加速させた。


 「私は……彼らの姿を見るたびに、胸が熱くなるのです」


 背後から声をかけてきたのは、沖田総司だった。剣術指南役でありながら、町民兵の稽古にも熱心に関わっていた若き志士は、汗を拭いながら小さく笑った。


 「剣を持つ理由が、“生きるため”であること。それが、こんなにも人を変えるとは」


 沖田の視線の先では、足袋すら履かぬ農民の青年が、竹刀を握りしめ、必死に構えの型を繰り返していた。ぎこちない動きだが、目だけは真剣そのものだった。


 「昔の俺なら、“武士の真似事”と笑っていたでしょうね。でも今は……彼の背中が、とても大きく見えます」


 そこに、近藤勇が口を挟んだ。


 「笑えるかよ。あいつら、俺ら以上に命懸けだぜ」


 豪胆な声だが、どこか誇らしげだった。


 「“民兵”ってのはな、強い弱いじゃねえ。守りたいもんがあるかどうかだ」


 その言葉に、沖田がうなずいた。


 「はい。あの子らの目を見れば、それが分かります」


 近藤もまた、今や“剣士”ではなく、“教導官”として羽鳥に骨を埋める覚悟を持っていた。剣の力が“守る力”に昇華されたとき、人は初めて“戦士”になる――それを彼は、誰よりも理解していた。


 「“武士にしか国は守れぬ”などと、誰が決めた?」


 象山が低く呟いた。


 「力を持つ者が、責任を持つ。それだけのことだ」


 夕陽が訓練地を赤く染めていく。槍の先、竹刀の先、全ての瞳が同じ方向を見ていた。


 “自分たちの土地を守る”という、ただそれだけの意志が、かつてない統一感を生み出していた。


 「この地に、ようやく“民の軍”が根づき始めたようですね」


 晴人が現れ、そう告げた。


 「まだ理想の半分にも届いていません。でも……ようやく、はじまった」


 その言葉に、誰も異を唱えなかった。


 “身分ではなく意志”


 “生まれではなく選択”


 それこそが、羽鳥軍政改革の核心だった。

陽が沈みかけた頃、訓練地の片隅では、夕食を終えた兵たちが再び集まり、整列を始めていた。


 「今日は最後に、夜間演習を行う。篝火かがりびを設置し、制限された視界の中での連携と行動を確認するぞ」


 土方歳三が低い声で告げると、兵士たちは各々の持ち場に散っていった。


 その横で、藤村晴人は静かに村田蔵六に問いかけた。


 「村田先生。これからの改革において、最も難しいのはなんだとお考えですか?」


 村田は筆を止めずに答えた。


 「“常識”の打破だ。いや、より正確に言えば――“習慣”と“誇り”の再定義だな」


 「……誇り、ですか」


 「武士は己の刀に誇りを持ち、農民は土地に、商人は計算に、職人は技術に誇りを持つ。それは美徳だが……戦になると、誇りはときに障壁にもなる」


 村田は視線を前にやった。


 篝火のゆらめく炎の先には、複数の班に分かれて戦列を組む兵士たちの姿があった。


 そこにはもはや、“武士の戦”は存在しなかった。農民が盾を掲げ、町民が指揮を取り、武士がそれを支える――そんな光景が、今では当たり前のように広がっていた。


 やがて、訓練用の空砲が鳴らされた。


 ドン――ッ!!


 その音を合図に、隊列が動く。火の粉のように散った兵たちが、瞬く間に二手、三手に分かれて行動を開始する。


 物陰から物陰へ、身を屈めて進む者。合図の笛に応じて一斉に突撃姿勢に入る者。誰もが互いの動きを読み合い、支え合いながら前進していた。


 「……見事なものですね」


 象山が感嘆するように言った。


 「特にこの“分隊式運用”は、私の知るどの藩よりも早く完成度が高い。いや、江戸の幕府歩兵隊をすら凌ぐかもしれん」


 「それは先生方が、躊躇なく“民”を信じてくださったからこそ、です」


 晴人のその言葉に、象山はふと苦笑した。


 「民を信じる――か。いや、私は“民”を信じているわけではない。“変化”を信じているのだ」


 「変化、ですか」


 「そうだ。たとえ愚鈍な百姓でも、道具を与え、知恵を与え、仕組みを整えれば、“国を守る者”に変わる。問題は、“変える側”がそれを許すかどうか……」


 そのとき、訓練場の端で、若い町民兵がつまづき、盾を落とした。


 それを即座に隣の農民兵が拾い上げ、手渡し、何事もなかったかのように前進を続ける。


 ほんの一瞬のやりとりだったが、その背中に宿る信頼と連携は、まさしく“兵”のものであった。


 「……許されたようですね。変化が」


 晴人の言葉に、象山も静かに頷いた。


 演習は夜遅くまで続いた。


 最後の訓練が終わり、解散の号令がかかると、兵士たちは次々と訓練地を離れていった。笑い声、足音、時折聞こえる歌声。それらが、今日の“学び”の成果であった。


 「今日で何人目です?」


 近藤勇が、帳簿を見ていた沖田総司に尋ねた。


 「正式に登録された志願兵だけで、今月は百十六名。まだ見習いや仮登録もいますから、実質的には百五十を超えます」


 「……随分と、増えたもんだな」


 「しかも、なかなかの顔ぶれです。中には算術に強い者や、火薬の調合に長けた町人までいます」


 近藤はにやりと笑った。


 「なら、そのうち“民の軍”どころか、“民の技師団”までできるかもな」


 「そのつもりです。武器を扱う者、作る者、整備する者――全部、ここで育てる」


 「……夢みてんな、お前も」


 そう言いながら、近藤はふと空を見上げた。


 そこには、まだ色の残る夕暮れの空と、ぽつぽつと浮かびはじめた星が広がっていた。


 「けど、その夢は悪くねえ。いや――いい夢だ」


 藤村晴人は、その言葉を心に刻んだ。


 かつて、この国の“武”は、支配の道具だった。だが今、それは“守るための力”へと生まれ変わろうとしている。


 身分や出自ではなく、意思と連携で動く軍――。


 それが、水戸藩の地で、確かに生まれようとしていた。


 誰もが、気づいていた。


 風は、もう吹いている。


 武士の終わりを告げ、民の力で築かれる新しい時代の風が。

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