67話:藩境の波紋
春の陽光が、羽鳥の町をゆっくりと照らし始めていた。
一面の青空の下、小川のせせらぎが耳に心地よく響き、田畑には麦の芽が静かに伸び始めている。町を囲む農地では鍬をふるう人々の姿が増え、役人たちも頻繁に巡回へと出ていた。
「……またか」
政庁の一角に設けられた受付で、ひとりの役人が溜息まじりに帳面へ筆を走らせていた。机上には、隣藩からの「移住願い」が束となって積まれている。
筑波山を越えた小さな村――常陸と下総の境にある集落から、十数軒の農家が羽鳥への移住を申し出ているのだった。
「理由は“暮らしの安心”か……」
役人は、移住希望者の記録書を読み返しながら、ぽつりと呟く。
〈子どもの病に悩み、羽鳥の“湯屋付き医院”を見て移住を決意した〉
〈隣村の者が羽鳥の寺子屋に通わせたと聞き、ぜひ我が子にもと考えた〉
そして、極めつけはこの一文だった。
〈羽鳥は“年貢が軽く、教えもある”。生きている実感がある〉
――年貢が軽い。教えがある。生きている実感。
それはまさに、羽鳥という町がもたらした“希望の言葉”だった。
「このままでは……周辺諸藩との摩擦も避けられまいな」
役人の顔は、自然とこわばっていく。
◇
一方、町の北端にある視察台では、藤村晴人が望遠鏡を手に、遠くの山道を眺めていた。
「今日も来ている。向こうの峠道に三組……あちらの川沿いに二組」
隣に立つのは、沖田総司だった。彼もまた、双眼鏡を使いながら川辺を見つめている。
「農具を背負い、子ども連れの一団……完全に“移住”の装いだな。旅のそれとは違う」
「来る者を拒むつもりはないが……さすがに対応が追いつかなくなってきたな」
晴人は空を仰ぎ、静かに言葉を紡いだ。
「農地の再整備は進んでいるが、教育と医療の受け皿が限界に近い。“羽鳥式”が評判になってからは、江戸北部からの移住希望者も増えてきた」
「……羽鳥式?」
「“平民でも病院にかかれる”“子どもが無料で読み書きを学べる”。江戸では“羽鳥法”と揶揄されているらしいよ」
「名前だけ聞けば、まるで幕府法制のようですね」
沖田は皮肉交じりに笑ったが、その表情には複雑なものがにじんでいた。
「実際、幕府は焦っている。つい先日、水戸藩を経由して『町政報告の提出頻度を増やせ』と通達があった。“羽鳥の方針を逐次確認したい”という名目だが、実態は監視だ」
「つまり……密偵が来ている、ということですね」
「もう来ている。すでに、寺子屋に“江戸訛りの商人”が頻繁に顔を出しているそうだ。子どもに話しかけて、何を学んでいるか探っているらしい」
沖田が眉をひそめた。
「俺も感じていた。最近、“道を尋ねてくる旅人”がやたらと多い。羽鳥の町は、迷うような場所じゃないのに」
そのとき、背後から静かな足音が聞こえた。
「すでに探りは始まっている。あとは、どう応じるかだな」
現れたのは河上彦斎だった。
彼は旅装のまま、土埃のついた袖を払いながら視察台に上ってきた。
「お帰りなさい、河上さん。お疲れのところ恐縮です」
沖田が軽く頭を下げると、河上は静かに頷いた。
「いや、報告が急を要する。武州――江戸北部では、羽鳥の評判が“生きる羅針盤”になっていた。特に寺子屋と医院の仕組みが注目され、“もう武士の時代ではない”と口にする者も出始めている」
「それは……かなり思い切った発言ですね」
「だが、現実だ。農民も町人も、“義”ではなく“暮らし”を基準に動き始めている」
その言葉に、晴人は静かに頷いた。
「武力ではなく制度で民が動く……それは我々が望んだ“穏やかな転換”でもある。ただ、それが“体制への脅威”と見なされるならば――」
「次は、力でねじ伏せに来る」
沖田が短く言い切った。
「……わかっている」
晴人の声には、揺るがぬ意志が宿っていた。
「我々は、“新しい時代の試み”を続けるしかない。そしてそのための備えも怠らない。“羽鳥”は、誰かに任せる場所ではない。“つくる意志”が集う場だ」
視察台の上、三人の男たちは無言で頷き合った。
遠く、羽鳥の町へとまた一台、小さな荷車が川を越えてやってくる。
それは、希望を運ぶ旅人たちだった。
「……江戸からも、流れて来ている?」
藤村晴人の問いかけに、小石川養生所から出向している若い医師――堀田良直が頷いた。
「ええ。正確には“江戸北辺”、つまり武州の村落地帯からです。名主の紹介で病院を訪れる患者の中に、明らかに羽鳥の制度を目当てに来ている者が混じっていました」
晴人は視線を落とし、帳面の地図を指でなぞった。赤く印をつけた地点が、武州と常陸の境目に点々と並んでいる。
「つまり、羽鳥に来る前に、制度の情報が広まっているということか」
「はい。“羽鳥に行けば、病が癒える”“羽鳥の寺子屋は読み書きだけでなく算術も教える”と――まるで“お伽話”のように広まっている」
晴人は苦笑した。
「医療も教育も、我々からすれば“最低限の実行”にすぎないのだがな……」
「ですが、それすら届かぬ地では、“光”になるんです。何かひとつ希望が見えれば、人は動く。それが“生きている”という証なのです」
堀田の言葉に、晴人はそっと目を伏せた。
「……なるほど。だからこそ、武州では流民すら出始めているのか」
「はい。江戸北部の一部では、“羽鳥を目指す者を止めるな”とまで言われています。農民の間で、“役人にバレるな”という合言葉もあるとか」
晴人は、しばし考え込んだ後、呟いた。
「羽鳥は、もはや“地名”ではなく、“概念”として一人歩きしはじめている」
◇ ◇ ◇
夕刻、羽鳥南部の田園地帯――通称《迎えの坂》と呼ばれる街道の終点には、またしても新たな旅人の姿があった。
十人ほどの農家の一団。老人、子ども、赤子を抱く母親――一目で“本格的な移住”であるとわかる荷姿だった。
「……ここが、“羽鳥”か」
先頭に立っていた中年の男が、疲れた顔に一筋の安堵をにじませる。
「ほら爺さん、言うたろ。“読み書きができる場所だ”って。孫にも、ここで学ばせるぞ」
その声に、隣にいた老婆がそっと頷いた。
「年貢が軽くて、薬も貰える町なんて、本当にあったんだねぇ……」
まるで“理想郷”に足を踏み入れたような感嘆が、口々に漏れた。
その時――。
「やあ、お疲れさまでした。ここまで来るの、大変でしたね」
声をかけたのは、羽鳥の民政局役人・原田信一だった。彼は一団に頭を下げ、木札を掲げた。
「こちらが臨時の“移住者受付所”です。順番にお名前とご出身地、家族構成などを伺いますので、並んでお待ちください。お子さんは、隣の建物で少し休ませてあげてください」
農民たちは、口々に礼を言いながら、ゆっくりと列を作り始めた。
子どもたちが見つめるのは、受付所の向こうに広がる白壁の病院と、その隣に建てられた瓦屋根の寺子屋。
「……あれが、“羽鳥の教え場”か……」
「立派だなぁ……あんな建物、村にはなかったよ」
どこか憧れ混じりのまなざしが、未来を求める希望となって輝いていた。
◇ ◇ ◇
その光景を、少し離れた見張り台から見つめていたのは――藤村晴人、そして河上彦斎である。
「……あれが、今日で三組目です。どれも皆、周辺藩から抜けてきた者たち」
「まさに“越境”の波が広がっている」
河上の声は静かだったが、その中には不穏な気配が滲んでいた。
「武州、上総、そして下野の一部まで。“羽鳥に倣え”という空気が、少しずつ周囲に広がっている。“暮らしを見て動く”という考え方が、もはや藩境を越えているのだ」
晴人は、口を引き結んだ。
「我々は“招いている”つもりはない。だが、制度が生む“魅力”が、結果として引き寄せてしまう」
「だが、幕府がそれをどう見るか――問題はそこだ」
河上が手にした巻物を広げる。そこには、最近接収した幕府の密偵による“羽鳥報告”が記されていた。
〈羽鳥においては、病院と教育機関が日々拡充され、民の信頼が厚い〉
〈特に“無償の教え”が評判であり、“寺子屋の力”が武士の権威を脅かしている〉
〈羽鳥式町政は、近隣諸藩への“制度浸透”の恐れあり〉
「……“制度浸透の恐れ”。つまり、今の時代の体制そのものに“ひび”が入り始めている」
「いずれ“見せしめ”が来る」
河上の言葉に、晴人は頷く。
「だが、そのときこそ……我々の“覚悟”が試される」
視線の先で、まだ見ぬ希望の行列が、暮れゆく空の下に続いていた。
その日、羽鳥町政庁の奥では、晴人を中心にして密やかな会議が開かれていた。集まったのは沖田総司、河上彦斎、そして政務担当の要職に就く数名の藩士たちである。
「武州北部――いわゆる江戸近郊からの“視察者”が、ついに羽鳥庁舎の敷地内にも現れました」
資料を手にした若い役人が、緊張した面持ちで報告する。
「その者は名を『佐原屋』と称し、薬種問屋の後継を名乗っていましたが、動きが不審でして……」
「薬種問屋……江戸からの使者だな。正式な視察団なら公文書を携えてくる。だがそれがないということは、“偽装した密偵”と見ていい」
晴人の言葉に、河上が眉をひそめた。
「情報収集の手段が、いよいよ内政にまで及んできたということか」
「……羽鳥法の広がりが、彼らにとって“体制の瓦解”と映るのなら、そうなるでしょう」
沖田が静かに続けた。
「このままでは、羽鳥を取り巻く“藩境”が次第に溶けていく。“羽鳥だけが異質”であるという印象が、周囲に波紋を投げかけている」
「それは当然だ」
晴人は腕を組んで言った。
「羽鳥では、すでに“住民による自治”が芽吹いている。誰もが寺子屋に通い、病にかかれば診療所で平等に診てもらえる。農民も町人も、武士と同じく人として扱われる。江戸の体制下では考えられぬことばかりだ」
「ですが、それが反感の種にもなっているのです」
役人の一人が懸念を口にした。
「実際、隣接する岩間村では、役人が“羽鳥に出入りした者は年貢を上乗せする”と触れ回ったという報せもあります」
「圧力をかけてきたか……」
晴人の声が低くなる。
「だが、それは逆効果だ。民は自由を見たが最後、もう元の枠には戻れない。“羽鳥に移れば暮らしが楽になる”――それが現実となってしまった以上、彼らは動く」
「では、いっそ――」
会議に参加していた河上が、ゆっくりと声を発した。
「“羽鳥領”としての境界を、今こそ明確にすべきではないか?」
「……どういうことだ?」
「水戸藩の領内であることに変わりはない。しかし、羽鳥の制度を守るためには、明確な“緩衝地帯”を設け、移住や出入りを管理する必要がある。でなければ、外部の混乱が内部にまで波及してしまう」
「検問を設けるという意味か?」
「いや、“人”を見る。武装している者ではなく、“動機”を見る。移住者の意志が本物か、それともただの物見遊山か。あるいは、密偵か」
沈黙が走った。
しかし、それは決して否定的なものではなかった。むしろ、各々がその現実を噛みしめていた。
「……やるか」
やがて、晴人が言った。
「だが、検問ではなく“迎え”だ。“なぜ羽鳥に来たのか”を丁寧に聞く。そのうえで、我々のルールを説明する。それが“羽鳥のやり方”だ」
「なるほど。受け入れではなく、“共に歩むか否か”の問いですね」
河上が微笑んだ。
「ならば、案内役が要りますね。たとえば……“羽鳥を見て変わった者”などどうでしょう」
その瞬間、沖田と河上の視線がひとつに重なった。
「俺か……?」
沖田が苦笑した。
「適任ではあると思うが、俺が先に刀を抜いてしまっては台無しだぞ」
「それは言えてます」
役人たちが、思わず吹き出した。
――だが、それでも。
誰もが、今この時の羽鳥を守りたいと思っていた。
そのためならば、どんな不便や苦労も受け入れようと。
◇
その翌日から、“羽鳥迎え所”と名付けられた施設が、町の外れに新設された。
茅葺き屋根の簡素な建物だったが、囲炉裏があり、湯茶も出される。そこには数人の若い藩士とともに、沖田が立つ。
訪れた者は、まずここで話を聞かれた。
「何のために羽鳥に?」
「家族が病で……」
「読み書きを子に教えたいと?」
「はい。向こうの村では、金がかかりすぎて……」
そのひとつひとつに、丁寧に耳を傾ける。
そして、羽鳥の決まりを話す。寺子屋の規則、町の清掃当番、診療所での順番待ちの心得。
決して高圧的ではない。だが、羽鳥には“秩序”があることを、はっきり伝える。
それに反発する者もいた。だが、納得し、涙を流す者もいた。
「……こんな町が、本当にあるんですね」
ある老夫婦は、そう言って腰を下ろした。
「この歳になって、もう一度、人の世話になれるとは思わなかった」
沖田は、その言葉を忘れなかった。
羽鳥とは、そういう場所だった。
そして――だからこそ。
守らねばならなかった。
午後の陽光が、羽鳥の街を金色に染めていた。
整備された街道には、旅装の農民たちや荷車の列が続いている。川沿いの仮設受付所には行列ができ、羽鳥への移住を願い出る人々の声が飛び交っていた。
「これで、今日だけで百五十人を超えました。仮住居の手配、急がせます」
政庁の臨時執務室で、若い役人が書類を抱えながら報告する。
「町の人口は、すでに五万を突破しています。年内には六万の声も――」
「……急ぎすぎれば、瓦解も早い」
藤村晴人は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外の人々を見つめた。
「だが、“この羽鳥で生きたい”と願う声を、拒むことはできないな」
「はい。ですが、他藩の動きもあります。特に結城、下館、そして忍藩。領民の流出に関して、公式な問い合わせが来ました」
「圧力か?」
「表立っては“交流の申し出”ですが、内実は――」
そこまで聞いて、晴人は静かにうなずいた。
「すでに幕府も気づいている。羽鳥の広がりが、旧来の仕組みを揺るがしていることに」
徳川斉昭が大老として政治の中枢に返り咲き、一橋慶喜が将軍継嗣に決定したことで、幕政は従来より柔軟になっていた。
だが、それでもなお「羽鳥」という“実験都市”が持つ影響力は、中央から見ても異様だった。
「動いているな、“水面下”が」
晴人は、机の上に置かれた密報の文を見つめた。
それは、河上彦斎が先日届けたもの――江戸市中に散る密偵たちの動き、そして“羽鳥式”と称される制度が、すでに各地で模倣され始めているという事実だった。
「寺子屋、病院、通貨制度……模倣では済まず、次は“奪取”だ」
ふと、戸がノックされる。
「失礼します」
姿を見せたのは、沖田総司だった。帯刀のまま入室すると、黙礼の後、晴人の前に報告書を差し出した。
「周辺で、“通行手形”を持たずに越境してきた者が増えています」
「身元は?」
「半数以上が江戸方面。だが、その中に……“抜け参り”の形を取った密偵が混じっていました」
晴人は書状を受け取りながら頷いた。
「やはり、来ているか。羽鳥の“核心”に触れようとする者が」
「ただ、妙なことも」
沖田の表情が陰る。
「……密偵の一人が、“この地に仕えることを望む”と申し出ました。“今さら旧幕には戻れぬ”と」
「裏切り者、か。あるいは……時代を読んだ者か」
「前者であれ後者であれ、無下にはできません」
「そうだな」
晴人は静かに視線を落とした。
「人は、“生きたい場所”に正直になる。制度ではなく、希望を選ぶ。それが、羽鳥に人が集う理由だ」
そのとき、もう一人の影が現れた。
「それでもなお、時代はまだ、“旧い刀”を握っている」
河上彦斎だった。
風塵を帯びた羽織のまま、静かに室内に入ってくると、床に膝をついた。
「結城藩の武士の一部が、“武装移住”を画策しています。“羽鳥にいる家族を守るため”と――」
「……もう、ただの領民流入ではないな」
晴人の目がわずかに細められた。
「地図にない国が生まれかけている。それも、血ではなく、意志で築かれた国だ」
「だが、形を持たぬ国は、潰されやすい」
河上が呟くと、沖田も応じるように言葉を重ねた。
「守りましょう。我々が育てたこの町を。“制度”ではなく、“人”として」
「ありがとう。ふたりとも」
晴人は、静かに拳を握りしめた。
「我々は武力で戦うのではない。“未来を生きる場所”を示し続ける。そのための準備を、今こそ固めよう」
夕刻、町を囲む丘の上から見下ろせば、灯が次々と灯っていく様子が見える。
それは、命の灯。希望の灯。
羽鳥という町が、日本という国の中で、ひとつの“答え”になろうとしていた。