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64話:羽鳥三法令

春の朝、羽鳥政庁の屋根には白い鳩が止まり、澄み切った空の下、町を見下ろしていた。


 新政庁の中庭では、役人たちの整列した列が静かに揺れていた。文書を手にした晴人が、一段高い壇上に立ち、羽織の裾を風に揺らしながら口を開く。


 「――これより、羽鳥政庁は新たな三法令を発布する」


 言葉と同時に、拍子木が静かに打たれる。詰所からは町役人たちが整列し、書記が法令文を手にして立ち会った。


 一、すべての男女は、一定の年齢に達した後、読み書きと計算を学ぶ義務を負う。

 一、病に倒れた者、負傷した者には、羽鳥政庁より治療補助が支給される。

 一、安政大地震により被災し、やむなく借財を抱えた者には、特例によりその負債の一部または全額を免除する。


 言葉の一つ一つが、石畳の広場に静かに染み渡っていく。


 「これら三法、すなわち『教育の義務化』『医療補助制度』『被災者救済特例』は、羽鳥政庁が藩を超えた“人の暮らしを守る行政”として歩む礎である」


 広場の片隅で、吉田松陰が目を細めて呟いた。


 「……この男、本気で“国を作る”気か」


 その横には、羽織姿の武市半平太が腕を組んでいる。


 「教育の義務化……土佐では考えられん。女子にまで文字を教えるとは……。だが、それが国を強くするならば、やむを得まい」


 「しかも医療費を支給するとは。病が貧しき者を殺すのが常であった世に、これはまさに逆転の思想ですな」


 そう語ったのは、羽鳥に招かれた新進の官吏思想家、津田真道である。彼はかつて幕府の下級役人として漢学と洋学を学び、今は羽鳥の施策を支える法制面の助言者の一人となっていた。


 その隣には、肥後より訪れ、晴人に忠誠を誓った家臣の一人、河上彦斎が静かに立っていた。


 「なあ河上どん。これはもはや“藩”じゃないよな」


 そう声をかけたのは、江戸から召し抱えられた若き剣士・沖田総司である。


 「“藩”は武家による支配。だが、これは――民を守る政。もはや羽鳥は“藩”ではなく、“国”として歩み始めている」


 その場にいた誰もが、その異質な空気を感じていた。今や羽鳥は、武力でも金力でもなく、“人を守る制度”によって勢力を拡げつつあった。


 広場を見渡した晴人は、最後にこう付け加えた。


 「われら羽鳥政庁は、もはや支配するためにあるのではない。守るためにある。学び、癒し、生き延びるための制度を、共に築こうではないか」


 拍手ではなく、静かな頷きが広場に広がった。


 その日以降、羽鳥の町では、寺子屋に通う少女の姿が珍しくなくなり、薬草所には無料で治療を受けに来る農民が列をなした。被災地に残された借金帳面は焼かれ、人々の背にのしかかっていた重荷は、ひとつ、またひとつと解かれていった。


 そして、他藩からの使者たちは、この地をこう称した。


 「羽鳥はもはや、“藩”ではない。“人の国”だ」と。

羽鳥政庁の正庁には、朝から多くの人が詰めかけていた。


 晴人が制定した「羽鳥三法令」――教育の義務化、医療補助制度、安政大地震被災者に対する負債免除――が、政庁の布告台で朗読されたのだ。


 「これより羽鳥の町においては、すべての子女は男女を問わず、七歳から十二歳までのあいだ教育を受ける義務を負うものとする。これを“初等義務教育”と呼称し、教育費は政庁が負担する」


 群衆のざわめきが広がる。男も女も、百姓も商人も、等しく教育の機会を与えられるという制度は、幕府の法とは一線を画すものだった。


 続いて朗読されたのは、医療制度であった。


 「羽鳥に籍を置くすべての者は、医師の診療にかかる基本費用を政庁より補助される。貧困者、高齢者、障害者に対しては、特例的に無料診療を認める」


 そして三つ目の法――もっとも拍手の大きかった条文が、それだった。


 「安政大地震の被災者であり、羽鳥に転住した者は、旧来の負債について免除を受けられる。これにより生活再建の機会を公平に与えるものとする」


 「これじゃ、まるで“国”じゃないか……」


 列席していた使者の一人がぽつりと呟いた。


 羽鳥はもはや、ただの城下町ではなかった。他藩が“年貢と統制”をもって治めるのに対し、ここでは“教育・医療・福祉”という近代的な概念が制度として動き出していたのだ。


 その後の控えの間では、視察に訪れていた面々が熱心に議論を交わしていた。


 「まさか、女童にも学問を与えるとは……想像を超えたな」


 驚いたように言ったのは、吉田松陰である。


 長州で幽囚となっていたが、晴人の進言により水戸に呼び寄せられ、藩士として羽鳥政庁に出仕していた。


 「男だけを学ばせても、国は育たぬ――それをこの地は証明しようとしているのだろう」


 「しかも、薬代を政庁が持つとは。人の命をまつりごとに組み込むとは……真に新しき世の萌芽と見た」


 そう語ったのは、熊本から招かれた肥後藩士、河上彦斎である。幼少より漢籍を修め、正義と仁義を重んじる男だが、この地で行われている「実務からの理想主義」に強く惹かれていた。


 「理想だけでは国は動かぬ、現実だけでは民はついてこぬ――この羽鳥は、その両輪を並べようとしている。まさに“政と徳”の合一だ」


 「ほう。ならば俺たちの“剣”の意味も変わるかもな」


 静かに言葉を挟んだのは、沖田総司である。


 警備の助っ人として羽鳥に滞在していたが、いまでは町の人々と打ち解け、剣術指南役としても知られていた。


 「民が学び、癒され、生き直すための剣。そんなものも、ありかもしれませんね」


 「剣の意味が変わる……そうか」


 武市半平太が呟く。


 彼の出身である土佐は、いまだに厳しい身分制度が残る地だった。


 「羽鳥では、郷士も農民も同じ教室で読み書きを学ぶそうだ。これを真似ることが、土佐では叶わぬのかもしれんが……。されど、これが“正しさ”なのだろう」


 「志があるなら、制度を超えられる。いや、制度ごと変えてしまえばいい。そういう生き方が、ここにはある」


 そう語ったのは、美作国津山出身の蘭学者・津田真道だった。


 佐久間象山の門下生であり、晴人の求めに応じて語学所の運営にも関わっていた。開明的な思想をもち、羽鳥にもその風を吹き込んでいる。


 「羽鳥政庁が行っているのは、ただの制度改革ではない。“人間そのものの底上げ”です。これに耐えられるかどうか、それは他の藩ではなく、我々自身に問われているのかもしれません」


 静まり返る一同の前に、晴人が姿を見せた。


 「皆さん。羽鳥は変わり続けています。しかしそれは、ここに“夢を見てくれた”皆さんのおかげでもあるのです」


 晴人は深く頭を下げた。


 「教育は“武力を持たぬ武器”です。医療は“民の命を繋ぐ橋”です。そして、再起の機会を与えることは、過去を否定することではなく、“未来を作ること”だと信じています」


 晴人の言葉は、決して声高ではなかった。だが、ひとつひとつが静かに、心に届いた。


 その日から、「羽鳥三法令」は広く周知され、他藩の改革派にとっての希望の光となっていく。

布告の翌日。羽鳥政庁を中心に広がる町は、いつもと違う熱気に包まれていた。


 掲示板の前には人垣ができ、町中の酒場や茶屋では「羽鳥三法令」の話題で持ちきりだった。農民も町人も町外からやって来た旅人までもが、互いの感想を口にしながら耳を傾けていた。


 「こりゃあすげえことになったな……。女の子まで学校に通えるとは……」


 そうつぶやいたのは、郊外に住む百姓の男であった。娘のことで悩んでいたが、政庁の読み上げを聞き、目の奥が潤んだ。


 「うちの子も……読み書きができるようになるんか……」


 傍らで畑道具を持った妻が、そっと夫の背中に手を置いた。その表情には、驚きとともに、ほんの少しの“誇らしさ”が浮かんでいた。


 町の南端、薬草を扱う小さな薬種商でも、羽鳥三法令の話がされていた。


 「診療費の補助か。こいつは、医者だけじゃなくて、うちみたいな薬商にも関わってくるな」


 店主の老人が唸りながら、帳簿に視線を落とした。


 「だが……ただで薬がもらえる時代になったら、どうなるんだろうな。儲けにはならねぇかもしれんが、病で倒れる子どもが減るなら、それも悪くない」


 老人の目の奥には、かつて病で娘を亡くした悔いが微かに揺れていた。


 一方で、町の書肆では、紙や筆、教本が次々と売れていた。


 「急げ! 子どもを学問所に通わせるつもりの客が朝から並んでる!」


 店の若旦那が叫び、奉公人たちが棚の奥から読み物を抱えてくる。


 町が、動いていた。教育の場は、寺子屋から政庁主導の「共学舎」へと広がりつつあり、子どもたちの声が路地にまであふれ始めていた。


 ◇


 その日の午後、政庁の小会議室では、晴人が数名の来訪者と向き合っていた。


 「まさか、ここまで……いや、これほどまでに“人”が変わるとは思わなかった」


 吉田松陰が感嘆の声を漏らした。政庁の記録役が読み上げた三法令の全文を改めて手に取り、何度も目を通していた。


 「民を変えたのは、制度ではなく“信じられたこと”そのものだ。女子も学べる。病を恐れず暮らせる。借金を負っても、生き直せる。すべては、民に“自らを高めてもいい”という許しを与えたのだ」


 「いや……“命令”ではなく、“承認”だったのです」


 晴人は言った。


 「人を導くのに、鞭はいらない。ただ“居場所”と“未来”を示せば、人は歩き出す。それが、羽鳥で得た答えでした」


 松陰の目が静かに光を帯びた。

 彼は立ち上がり、深く頭を下げる。


 「……晴人様。私のような“罪を得た者”が、こうして政策立案の場に立ち、学び、語ることを許された。それだけで、命の使い道を見出したように感じております」


 そして、言葉を継いだ。


 「いま、私は“水戸藩士・吉田寅次郎”として、未来を語る資格を得た。この羽鳥の地で、理想を形にしてみせましょう。たとえどれほど険しい道であろうとも、志は潰えぬと――信じております」


 晴人は、ゆっくりと彼に向き直った。


 「……あなたの言葉が、やがて多くの者を動かすでしょう。変革とは、理想に生きる者が日常を変える営みです。ともに、羽鳥を育てましょう」


 「はっ――」


 松陰は一礼し、決意を込めてその場を後にした。


 ◇


 別室では、武市半平太と沖田総司、河上彦斎が並んでいた。彼らの前では、津田真道が政庁の模型を用いて、今後の改革案を説明していた。


 「語学所の発展に伴い、来月からは西洋語を学ぶ者たちの中から、長崎や江戸の書物所との交流班を編成します。また、羽鳥では先進国の技術書を独自に翻訳して配布する体制が整いつつあります」


 「ほう……こいつは“西洋”に先んじる気概だな」


 沖田が興味深そうに模型を覗き込む。武市もまた黙ってうなずきながら、ふと隣の河上に視線をやった。


 「彦斎どん、こうして“制度”が変わると、人の心も動くと思うか?」


 「……ああ。いや、きっと“心”の方が先に変わっていたのだ。制度はその後を追っただけだろう」


 そう返す河上の表情には、静かな熱が宿っていた。


 「幕末は動乱の時代になるだろう。だが、それを“破壊”だけで終わらせてはならない。羽鳥のように、“創造”に転じる道を、我らが示さねばならぬ」


 「まったくだ」


 武市もまた、座したまま拳を握る。


 「……俺も、土佐で変えてみせる。身分の壁を、義の剣で斬り伏せるような、そんな志を持った者たちと歩むために」


 その言葉に、誰もがうなずいた。


 ◇


 その夜。羽鳥政庁の屋上からは、灯りに包まれた町並みが見渡せた。


 行燈に照らされる道を、小さな子どもたちが駆け、商家の女房が米を買いに行き、老人たちが縁側で湯を啜る。

 日常のすべてが、少しずつ、確かに変わり始めていた。


 「……あの灯りが消えぬように」


 晴人は、遠くを見ながらそう呟いた。


 隣に立つ佐久間象山が、口元を引き締めて言葉を返す。


 「灯火を守るのは、理ではない。血だ。汗だ。言葉ではなく、行いだ」


 「ええ。その覚悟は、とうにできています」


 晴人は夜風を背に受けながら、ゆっくりと目を閉じた。


 “羽鳥三法令”――それは単なる法ではなく、“未来への誓い”であり、“過去との決別”であり、そして何より“人間への信頼”だった。


 彼の胸には、確かな鼓動が響いていた。

夜の羽鳥は、静かに息づいていた。


 通りに灯る行燈の列が、柔らかな明かりで石畳を照らし、往来を行き交う人々の影を、淡く地面に映していた。三法令の発布から数日が過ぎ、町には驚きや戸惑いの気配もすでに薄れ、かわりに“新しい日常”が、ゆっくりと根を張り始めていた。


 共学舎の前では、灯籠のもとで子どもたちが寄り集まり、読み書きの復習をしていた。


 「ここ、“え”って読むんだよ」


 年長の少女が、小さな男児に教えている。まだ幼いその子は、木炭で書いた字を見ながら、一生懸命に首をかしげた。


 「え……あ、え、え!」


 「うん、そう、それ!」


 思わず拍手が起き、周囲の子どもたちが笑顔で寄ってくる。親の姿はない。だが、その輪のなかには、確かに“家族のような温かさ”があった。


 その様子を、道端の長椅子から見つめていた老夫婦がいた。


 「……昔はな、女が字を覚えるなんざ、贅沢だって言われたもんだ」


 「ほんに。あの子らの中には、あたしたちの孫と同じ年頃の子もおるんだろうなあ」


 ふたりは、ゆっくりと手を取り合う。今ではもう、孫を持てる年齢の子どもたちも皆、どこか遠くの町に嫁ぎ、あるいは病で失ってしまった。それでも、こうして羽鳥で学ぶ子どもたちの姿を眺めているだけで、胸の奥が温まるのだった。


 「……灯りが、消えんようになったな」


 「政庁のおかげだねぇ」


 そうつぶやいたその言葉が、夜風に乗って消えていった。


 ◇


 政庁では、遅くまで灯りが灯っていた。書記や記録係たちが、三法令に関連した各町村の対応状況を整理し、報告書を次々と積み上げていた。


 晴人はその山の前で、眼鏡を外し、ゆっくりと目を閉じた。疲労の色は濃い。しかし、その顔には、どこか静かな満足が浮かんでいた。


 「よくぞここまで……」


 そう言葉にしたのは、傍らにいた佐久間象山だった。


 「一夜にして法を作る者はいても、それが人の心に届くとは限らん。だが、お主の法は、人を前に歩かせた。……それが何よりの証じゃ」


 「ありがとうございます」


 晴人は短く礼を述べた。だが、心の中ではまだ、安堵しきってはいなかった。


 「象山先生。これからが、本当の始まりです。教育の義務化も、医療の補助も、そして救済も――制度だけでは、絵に描いた餅に終わる可能性があります。信じてくれる人々を裏切らぬよう、我々が動き続けねばならない」


 「それが“政”というものだ」


 象山は静かにうなずいた。


 「命を燃やして、道を敷く。だが、その先を歩むのは、民よ。お主が灯した光を、彼らが明日へと運んでゆく」


 「……その言葉、胸に刻みます」


 ふと、扉の向こうから声がした。


 「失礼いたします」


 現れたのは、吉田松陰、沖田総司、河上彦斎、武市半平太の四名だった。


 「おお、ちょうど良かった」


 晴人が手を上げると、松陰が小さく頭を下げた。


 「夜分、恐れ入ります。どうしてもお伝えしたいことがありまして」


 彼の目は、真っ直ぐだった。


 「私は、あなたのおかげで、再び“言葉”を持てました。人に教え、導く者として、希望を語る資格を、羽鳥が与えてくれたのです」


 「……松陰殿」


 「私はここに留まり、書を綴ります。教えを広め、次代を担う者たちに希望の種を植えるつもりです。羽鳥で、いや、水戸で、私にできるすべてを――」


 晴人は、しばしその顔を見つめ、ゆっくりと笑んだ。


 「ならば、ここが“志の地”になる。どうぞ、羽鳥の一隅を照らしてください」


 松陰は静かに、深く頭を下げた。


 ◇


 その晩、政庁の屋上に四人の影が並んでいた。


 「……こうして、我らが並ぶ日が来るとはな」


 武市がぽつりと漏らす。


 「それぞれ、異なる土地で剣を振るっていたというのに」


 沖田が肩をすくめる。河上は頷き、ぽつりと口を開いた。


 「だが、志はひとつだ。刀を置いても、未来は築ける」


 「羽鳥は、それを証明しちょる」


 武市の手が、そっと腰の刀に触れた。


 「……剣は、人を切るためじゃない。守るためにある。俺は、土佐にそれを伝えたい。できるかは、わからんが……」


 「やらねば、誰がやる」


 河上の声は、澄んでいた。


 「幕末は、選択の時代だ。破壊ではなく、創造を選ぶ者こそが、次の世をつくる」


 風が吹き抜け、遠くから太鼓の音が響いた。夜警の拍子木の音が、一定の間隔で町に鳴り響く。


 「火の用心――、火の用心……」


 夜の羽鳥に、静かな“未来の胎動”があった。

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