7話: 議論の場へ――そして、人のための声を
春とは名ばかりの風が、まだ冷え残る水戸の空気を切り裂いていた。
石畳の参道を抜けた先に佇む屋敷の門前で、藤村晴人は深く息を吸い込んだ。胸の内側に、今でも微かに残る現代の感覚が、武士の世界に対する違和感として疼いていた。
「……まさか自分が、この時代の政治に関わる日が来るとはな」
そう小さく呟いてから、彼は足元を見た。継ぎのある足袋と草履。どこかまだ借り物のようなそれが、地に根を張ろうとする自分を鼓舞するようにも見えた。
東湖――藤田東湖の屋敷。復興会議という名目の非公式な意見交換の場に、晴人は招かれたのだった。
控えの間に通された彼の前には、既に数名の藩士たちが正座していた。皆一様に質素な裃をまとい、口を閉ざして晴人を観察している。
まるで、異物を見る目だ。
「……失礼いたします。藤村晴人、参りました」
簡素に頭を下げると、部屋の奥から柔らかな声が響いた。
「ご苦労であったな、藤村殿。こちらへ」
その声の主、藤田東湖が、静かに襖を開いて現れた。
文人としての風格を備えた姿は威圧感こそないが、その目に宿る光は鋭い。柔和に笑いながらも、晴人の一挙手一投足を見逃すまいとする、観察者の目だ。
「今日の席は、儂の個人的な興味にすぎん。肩肘張らずともよい」
そう言いつつ、すでに張り詰めた空気は容易にほぐれそうになかった。
東湖の案内で、晴人は席に着く。膝の裏がぴしりと痛んだ。畳に慣れていない足が、それを不快な信号として訴えてくる。
やがて、炭を熾した火鉢の上に、湯が沸く音が静かに立ちのぼる。障子の向こうから差し込む斜陽が、部屋を淡く照らしていた。
「さて、まずは……この場の者に、そなたの知恵を聞かせてやってくれぬか」
東湖がそう促したとき、周囲の藩士たちの視線が一斉に晴人に注がれた。冷静を装う者、軽く見下すような者、真剣な眼差しの者――混じり合った視線の中で、彼は静かに言葉を選んだ。
「復興の第一歩は、命を守る“流れ”の確保にあると、私は考えています」
その一言に、ざわりと空気が揺れる。
「流れ、とは?」
年配の藩士が、眉をひそめて問うた。
「水です。火災の延焼を防ぐための簡易水路と、清潔な飲み水の供給。疫病を防ぎ、町の再建を促すには、生活の基盤となる水の確保が必要不可欠です」
言葉を紡ぎながら、晴人は懐から小さな巻物を取り出し、広げた。それは、彼が前夜遅くまでかかって書き上げた水路計画図だった。
「これは……」
「既存の井戸を中心に、水の流れをつなげるように仮設水路を組む案です。雨水の排水も兼ねれば、地盤の緩みにも対応できます。町民の協力を得られれば、資材の大半は現地調達で済みます」
しばしの沈黙が落ちた。
「まるで、町人のような発想だな」
誰かがぽつりと呟いた。
「そうです。私は町人あがりですから」
晴人は一歩も引かず、きっぱりと答えた。その一言に、数名の藩士が目を見開く。
「だがそれでも、民の暮らしのために動く意思がある。ならば、出自など関係ないでしょう」
重ねるように言葉を継ぐと、東湖が小さく笑った。
「面白いな。――そなた、言葉だけではないようだな」
そう言って、彼は茶を一杯、晴人の前に差し出した。
「この国には、才よりも“志”が欠けていると、私は思うのだ」
「……私には、大した志はありません。ただ、目の前の人が困っていたら、助けたいだけです」
言葉に嘘はなかった。現代でも、過去でも、それが彼の軸だった。
東湖はしばし目を閉じ、火鉢の炭を突いてから、周囲の藩士を見渡した。
「――この男を、どう見る?」
一人の若手が、口を開いた。
「……町の者たちが彼を頼るのも、わかる気がします。理ではなく、実で動く者です」
年配の藩士は眉をひそめつつも、反論はしなかった。
それは――初めての、小さな一歩だった。
東湖は茶碗を置き、立ち上がった。
「言葉よりも行動、だ。藤村殿。そなたが語るその理が、実に通じるか――見せてみよ」
障子の向こう、庭の梅が、風に花を散らせていた。
意見交換会が終わった後も、屋敷の中にはまだ静かな熱気が残っていた。
障子越しに揺れる灯り。竹の風がそっと庭先の葉を震わせる音が、耳に残る。
「……お主の考えには、一理どころか、百理ある」
東湖が言った。
広間の奥、客間へと案内された晴人は、そこで東湖と二人きりになっていた。形式ばらず、しかし礼節を保ったその空間は、会議の時よりも、むしろ言葉が刺さる場だった。
「だが、民の目線で語る者は、とかく軽んじられやすい。とくに、ああした上士どもの前ではな」
苦笑を含んだ東湖の声に、晴人は静かに頷いた。
「はい……それでも、黙って見過ごすよりは、声にした方がいいと思いました」
「声にすることで、変えられるものがあると?」
「……そう信じたいのです」
その言葉の中に、晴人の“来たる未来”への責任と痛みが滲んでいた。
東湖は少し目を細めると、ふっと立ち上がった。
「腹は減ってはおらぬか。母は伏せっておるが、代わりに台所を任せている者が何か作っていたはずだ。よければ、茶と共に付き合え」
案内されたのは、屋敷の奥にある小さな茶間だった。
そこで待っていたのは、上品な和服を着た中年の女性。年の頃は五十代半ばほどだろうか。柔らかな物腰と、どこか芯のある眼差しを宿していた。
「ようこそお越しくださいました。東湖さまより伺っております」
「恐縮です。突然お邪魔してしまって……」
「いえいえ。お客さまに食事をお出しするのは、昔からの務めでございます」
東湖が補足するように言った。
「母は長らく床に伏しておりますが、この者は幼い頃から仕えておりましてな。家の味も、心配りも、母に劣らぬほどの腕前でして」
女性は小さく頭を下げ、湯呑みに茶を注いだ。香ばしい番茶の香りが鼻をくすぐる。
そして彼女が運んできたのは、梅干しと炊いた小豆を添えた素朴な麦飯。それに、大根と里芋の煮物、ぬか漬け、そして芋がらと油揚げの味噌汁だった。
晴人は思わず息を呑んだ。
――これだけの材料を、この物資不足の中でどうやって……?
女性はその反応を見て、くすっと笑った。
「驚かれましたか? あるものを活かせば、案外なんとかなるものですよ」
「……もしかして、近くの畑で?」
「ええ。裏の小さな畑と、井戸の水。それだけで十分。贅沢はできませんが、心があれば、食事も語らいも、力になります」
その一言が、晴人の胸に深く刺さった。
温かい味噌汁を一口すすり、麦飯を噛むたび、晴人の中にあった“現代の記憶”が、どこか遠くへ消えていくようだった。
「……おいしいです」
ぽつりと出た言葉に、女性は微笑みながらも、ふと表情を曇らせた。
「晴人さま。ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか?」
「はい」
「なぜ、あなたは、ここまでしてくださるのです?」
問いかけには、責める色はなかった。ただ、真実を知りたいという眼差し。
晴人は、茶碗を置き、静かに息を吐いた。
「誰かを救いたいと思ったからです。間違っているかもしれません。でも……目の前で苦しんでいる人を、見て見ぬふりは、できませんでした」
それは、彼が“未来の人間”として抱えてきた、罪にも似た感情の告白だった。
女性はしばらく沈黙したあと、そっと台所へと立ち上がり、戻ってくると、晴人の茶碗にもう一杯、味噌汁を注いだ。
「……その思い、どうか、忘れないでくださいませね。民は、それだけで、救われることがあります」
使用人のその言葉は、まるで雨上がりの陽だまりのように、晴人の心を照らしていた。
その夜、藤田家の屋敷を出た晴人は、薄明の空を見上げた。
――この道の先に、何があろうとも。
心に灯った“人のための道”を、決して見失うまいと、静かに拳を握った。
屋敷の門を出た時、空はすでに深い藍色に沈んでいた。
月は雲の合間から顔を覗かせ、瓦屋根の輪郭をやわらかく照らしている。夜風がそっと頬をなで、晴人は襟元を軽く押さえた。
――夜は冷えるな。
昼間の暑さが嘘のように、肌を刺すような冷気が漂っていた。それでも、胸の内に残る温かさが、不思議と足取りを軽くさせていた。
庭の砂利を踏みしめる音さえ、どこか心地よい。
誰もいない通りに、木戸の隙間から漏れる灯りが斑に落ちている。
(変えられるだろうか……この国を)
言葉にせずとも、心の中には問いが生まれていた。
藤田東湖という人物――。
その威厳と寛容の狭間にある眼差しは、まるで時代そのものを見据えているようだった。
そして、彼の家で受けたもてなし――あの質素な料理の一品一品が、晴人の心を揺さぶっていた。
出汁の優しさ、味噌の深さ、噛むほどに広がる麦飯の香り。
「民を救いたい」などと、口で言うのは簡単だ。
だが――。
(自分は、“本当に”誰かのために動いているのだろうか?)
そう問いかけた瞬間、浮かんだのは、炊き出し場で列を作っていた子どもたちの姿だった。
目を輝かせて汁をすすり、小さな手で麦飯をすくっていた少女。
どこか疲れた母親の後ろに隠れながら、箸を握りしめていた少年。
――あの子たちのために。
背中を押してくれる理由は、いつだって、そんな名もなき誰かだった。
晴人は立ち止まり、夜の空を見上げた。
星が散らばるその景色は、どこか懐かしく、しかし“未来の記憶”とは微妙に異なっていた。
夜の町には、まだ復興の気配が薄く漂っていた。
倒壊したままの塀、傾いた家屋。
それでも、どこかの家の窓から、微かに聞こえてくる笑い声や、囲炉裏の薪のはぜる音が、この土地に命が戻りつつあることを教えていた。
歩を進めながら、晴人は道沿いに咲いた白い花に目を留めた。
(ユキノシタ……か)
野草に詳しいわけではないが、どこかで見た記憶があった。
小さく、目立たない花。
しかし、薬草として昔から人々の暮らしを支えてきた存在。
(目立たなくても、役に立つ。そういう人間にならなきゃいけないな)
ふと、背後から小さな足音が近づいてきた。
「……晴人さま!」
振り返ると、提灯を片手に走ってくる影。
見覚えのある子ども――炊き出し場で手伝っていた少年だ。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「これ、落としていかれました!」
そう言って差し出したのは、手帳のようなものだった。
(……メモ帳?)
ページの隙間から、鉛筆でびっしりと書き込まれた字が覗いていた。
晴人が現代で書き溜めていた復興案――町の水路設計、簡易トイレの配置案、資材の再利用に関する図案など。
「すまない。助かったよ。君が拾ってくれたのか?」
「はい。晴人さまが帰ったあと、道に落ちてました」
少年は得意げに胸を張った。
「ありがとう。君のおかげで、助かった」
そう言って頭を撫でると、少年は照れたように笑い、ぺこりと頭を下げて駆け戻っていった。
その後ろ姿を見送った晴人の胸に、小さな灯がまた一つ、灯ったような気がした。
(ああ、やっぱり……この時代に来て、よかった)
この国が、これから迎える未来を思えば、背筋が重くなるのは当然だった。
だが、だからこそ。
目の前の誰かを救うために、今日を、明日を、生きねばならない。
小さな提灯の明かりが遠ざかる。
再び闇に包まれた路地を、晴人は静かに歩き出した。
その手には、拾い戻された一冊のメモ帳。
そしてその胸には、“忘れたくない想い”が、確かに刻まれていた。
東の空が白み始める頃、晴人はすでに町の一角に立っていた。
瓦の隙間から、細く赤みを帯びた陽がこぼれる。
倒壊したままの屋根が、逆に朝日を受けて金属のように光っていた。
「……今日も、動き出すか」
昨夜は藤田家からの帰路、そのまま町を見て回っていた。
結局、宿へ戻ったのは夜半過ぎ。ほとんど眠っていない。
だが、不思議と身体は軽かった。
火薬の匂いが消えきらぬ町。
土壁が崩れたままの空き家の数々。
だが、瓦礫の隙間からは、確かな“人の営み”が顔を覗かせ始めていた。
「おじちゃん、ここに置いていい?」
炊き出し場の一角で、幼い少年が空になった木桶を抱えていた。
晴人がうなずくと、少年は無邪気に笑い、桶をそっと地面に置いた。
「ありがとうな。手伝ってくれてるのか?」
「うん! あのね、かーちゃんが『誰かの役に立つのよ』って!」
そう言って走り去っていく後ろ姿に、晴人は自然と頬を緩めた。
(本当に、変わりつつあるんだな)
最初は、警戒と戸惑いしかなかった町人たち。
だが今では、自発的に手を貸す者も増えていた。
炊き出しだけでなく、道端の掃除や瓦礫の片付け、見回りなど――。
「町が、“生きて”きてる……」
それは、かつて現代で味わったどんな再開発よりも、心を打つ光景だった。
晴人は、一度しゃがみ込んで地面を見つめた。
土はまだ、湿っている。昨夜の露だろう。
(この土地に、根を張るような支援を――)
そう、心に決めた。
その時、背後から声が飛んだ。
「おう、晴人どの! 朝からご精が出るなあ!」
振り返れば、肩に薪を担いだ屈強な男が歩いてくる。
「昨日は議論の場、ご苦労であった」
「ああ、あの時の……」
「名は佐藤と申す。下士だが、こう見えても昔は兵学をかじっていてな。お主の話、腑に落ちたぞ」
晴人は礼を返しながら、思わず問うた。
「……本当ですか? 正直、反発されると思っていました」
佐藤は苦笑し、薪を地面に下ろすと、火のそばに腰を下ろした。
「反発しないわけじゃない。だがな、口には出せずとも、あの場にいた何人かは、目を覚まされたような顔をしていたぞ。……あの“東湖さま”でさえ、な」
「東湖さんが……?」
「ふふ、あの方は“言葉”を持つ御仁だが、同時に“行動”を重んじるお方でもある。お主のやりようが形となれば、必ず支えるだろう」
佐藤はそこで立ち上がり、ポンと晴人の肩を叩いた。
「やってみるんだな。口だけで終わるなよ、晴人どの」
「……はい」
見上げれば、日が完全に昇りつつあった。
藩士の言葉が、朝の空気に溶けていく。
――やってみせる。口だけで終わらせない。
晴人は再び町を歩き出した。
壊れた塀の脇で、年配の女性が竹箒を動かしていた。
裏路地では、数人の子どもたちが紙くずを拾っていた。
その一つ一つが、この町を“もう一度、人が生きられる場所”に変えていく。
(必要なのは、未来を語るだけじゃない。今を、動かすことだ)
足元の土を、しっかり踏みしめる。
それが、彼がこの時代に来て得た“確信”だった。
その時、炊き出し場の奥から一人の若者が駆けてきた。
「晴人さん、見てください! 水路の水が、ちゃんと流れてます!」
「本当か?」
急ぎ水場へ向かうと、先日整えたばかりの石組みの溝を、水がゆるやかに流れていた。
(……うまくいった!)
思わず拳を握る。
これで第二炊き出し場の衛生環境は飛躍的に改善される。
「ここを中心に、もう一箇所……そうだ、“あの地図”を使って配置を……」
思考が先走る。だが、それが心地よい。
この地で、やるべきことが山ほどある。
支えなければならない命が、目の前にある。
太陽が、町の屋根に反射して輝き始める。
晴人はその光を見上げながら、改めて心に誓った。
――この町を、見殺しにはしない。
自分の手で、ひとつずつ、立て直していく。
そしていずれ、あの議論の場に集った上士たちすら――
“この道が正しい”と認めざるを得ないように。
町に鳴り響く朝の鐘が、静かに、一日を告げていた。