6話:竹と水と、志の流れ
エピソード8を改稿いたしました。
政次郎の登場シーンと東湖との会話を修正し、エピソード7からの流れをより自然にしました。物語全体の一貫性を高めるための調整です。
既読の方も、ぜひ新しいバージョンをお楽しみください。
水戸城下の朝は、どこか張り詰めた空気に包まれていた。
地震の余波はまだ冷めやらず、崩れた土塀の影から顔をのぞかせる子どもたちの目には、不安と飢えが濁っている。
晴人は養膳寮での炊き出しを終え、川沿いの通りを歩いていた。瓦礫の崩れた路地、割れた井戸の口、そこに集まる人々。
「……やはり、水の確保が最大の問題か」
木桶を手にした老婦人たちが列をつくる。しかし、その先の井戸は地震で土砂に埋まり、使えない。水が手に入らなければ炊き出しもままならず、衛生も悪化する。
「すみません、井戸は……」
「昨日の夜には完全に止まっちまいました。山のほうから引いてる水道筋が、崩れたって話です」
答えた若い男の額には、乾いた土埃が張りついていた。
「応急で水瓶を運んでる人もいますが、とても足りません。井戸を掘り直す話も出てますが、資材も人手も……」
晴人は頷いた。現代では当たり前の“水の流れ”が、ここでは一本の用水とそれを守る人々の手に委ねられている。
それを復旧させるには、指揮系統と資源の再配分が不可欠だった。
(ここで、俺ができることは……)
養膳寮では、自ら考案した「水なしで作れる非常食」が注目され始めている。干し飯と梅干し、塩昆布と味噌。最低限の湯と器があれば成り立つ簡易食だ。
だが、それも一時的な凌ぎにすぎない。復興の要は、水源の確保にある。
晴人は井戸の周囲を回り、土の状態を確かめた。地面は湿っているが、水は湧かない。崩れた土砂が水脈を塞いでいるのだろう。
「掘り返すには、どのくらいの人手が必要でしょうか」
傍らの男に尋ねると、彼は首を振った。
「五人、いや十人いても足りねぇかもしれません。それに掘ってる最中にまた崩れたら……」
危険と隣り合わせの作業だ。安全を確保するには、段取りと道具がいる。
晴人は手帳を取り出し、井戸の位置と状態を書き込んだ。城下にはいくつも井戸がある。その中でどれが使え、どれが使えないのか。把握するだけでも、水の配分は大きく改善する。
「この近くに、他の井戸はありますか?」
「ああ、三軒先に小さいのがある。あとは寺の裏手に一つ」
「ありがとうございます。確認してきます」
晴人は礼を言い、次の井戸へ向かった。
三軒先の井戸は幸いにして水が出ていた。ただし水量は乏しく、一日に汲める量は限られている。寺の裏手も同様だった。
(点在する水源を繋げるか、それとも一箇所に集約するか……)
晴人の頭の中で、水道網の構想が少しずつ形になっていく。
竹の樋で水源を結び、主要な拠点に集めて配る。現代の上水道の原型にも似た仕組みだ。
もちろん容易ではない。地形を読み、水の勾配を計算し、竹を正確に配置しなければならない。だが、不可能ではない。
晴人は手帳に簡単な図を描いた。水源の位置、地形の高低差、水を届けるべき場所――線で結ぶ。
「……これなら、いけるかもしれない」
独り言を洩らしたとき、背後から声がした。
「何を企んでいるのです、藤村殿」
振り返ると、藩の役人が立っていた。顔に覚えはないが、身なりからしてそれなりの地位にある。
「水源の調査をしております。養膳寮の仕事の一環です」
「ほう……養膳寮が水道まで?」
役人の声には、わずかな皮肉が混じっていた。
「食を供するには、水が不可欠です。水なくして炊き出しはできません」
晴人は静かに言い返す。
役人は少し黙り、やがて冷たい声で言った。
「……藤田様もそなたを重んじておられる。だが、出過ぎた真似は控えることだ。この城下には古くからの決まりがある」
「承知しております。ですが、決まりよりも命が優先される時もあります」
役人の目が鋭くなった。だが、何も言わずに踵を返す。
その背中を見送りながら、晴人は小さく息を吐いた。
(……やはり、簡単にはいかないか)
新しいことを始めれば反発がある。それは現代でも同じだった。
だが、それでも――進むしかない。
その夜、晴人は寺の一室に戻ると、筆と紙を取った。畳の上で膝を折り、震える手で状況と打開策を書き連ねていく。
・水源の再確認と用水路の整備
・使える井戸の位置の地図化
・炊き出し拠点の分散化と安全な移送経路の提案
・最悪の事態を想定した「非加熱食材」の備蓄リスト
(これを、東湖様に持っていくべきか……)
思案していると、廊下の足音。晴人はすぐに立ち上がった。
「藤村様……? 夜分にすみません」
寺の門前で、役人風の若者が深く頭を下げた。
「城下の方でお会いした若いお方より、書付を渡せと……藤田様のお遣いとのことで」
晴人は驚いた。
(まさか、あのときの……)
水路の確認に出た折、遠巻きに様子を見ていた男の顔が脳裏をよぎる。名乗らずに去ったが、侍らしからぬ鋭さがあった。
手渡された封筒を開くと、東湖の筆跡でこう記されていた。
『明日、城下にて小議あり。水源の件、意見を乞う』
晴人は紙を折りたたみ、深く息を吐いた。
「……動くときが来たか」
小さな声だったが、その響きには確かな決意が宿っていた。
その帰り道、寺の前で若侍が待っていた。顔はどこか険しい。
「藤村晴人殿……殿のお言葉を賜りたいとのこと。今宵、東湖様の屋敷へとお越しくだされ」
空気が張り詰める。政次郎が不安げに見上げた。
「大丈夫。ちょっと話をしに行くだけさ」
そう言って晴人は、竹の束を政次郎に預けた。
「これ、頼んだぞ」
「……うん!」
振り返らずに歩き出した背に、政次郎の声が小さく響いた。
「晴人どの……がんばって!」
* * *
水戸の城下町に仮設水道を敷く作業が、静かに、しかし確かに進んでいた。
寺の裏手に湧く水を利用し、晴人は政次郎や町の若者たちと共に、手作業で竹を切り、節を抜き、簡易な導水路を形作っていく。切り出した青竹をつなぎ合わせ、地面に傾斜をつけて並べる。見た目は素朴だが、その一つ一つに工夫が込められていた。
「もうちょい、そっちを上げて……そうそう、そこ!」
晴人の指示に応え、政次郎が全身で竹を押さえる。泥だらけになりながらも、少年の顔はどこか誇らしげだった。
町の者たちも次々と加わり、老若男女を問わず、手の空いた者が水を運び、枝を払い、土を均して支柱を打つ。
作業を始めて三日目の朝、晴人は竹の継ぎ目に麻縄と粘土を詰め込んでいた。水漏れを防ぐための処置――現代の配管で言うシーリング材の役割だ。
「晴人どの、これでいいか?」
政次郎が別の継ぎ目を指す。しっかり粘土が詰められ、隙間がない。
「完璧だ。よくやった」
「えへへ」
作業に加わっていた老人が感心したように言う。
「わしも長く生きておるが、こんな仕組みは初めて見た。水が高いところから低いところへ、まるで生き物のように流れていく……」
「田に水を引くときのやり方を、町中に応用しただけです」
晴人は謙遜したが、実際には現代の上水道の知識を総動員していた。勾配の計算、水圧の管理、継ぎ目の処理――県庁での防災業務が活きている。
「……よし。試しに、水を流してみよう」
晴人の声に、周囲の手が一斉に止まった。彼が湧き水の溜まり場から柄杓で水を注ぐ。しばらくして――
「通ったぞ!」
誰かが叫んだ。仮設水道の終点に据えられた木桶へ、細く澄んだ水流が落ちる。歓声がどっと上がった。
「おお……本当に、水が……!」
「これで井戸まで何度も往復せずに済む!」
「晴人どの、ありがとう……ありがとうよ……!」
晴人は泥にまみれた頬を袖で拭い、照れたように笑う。
「……これで終わりじゃありません。これは応急です。雨が降れば崩れるし、水量も安定しない。でも――今日を凌げれば、明日も動けます」
「やったな、晴人どの!」と政次郎。
「おう。けど、まだやることは山ほどある」
そのとき、人垣の向こうから馬の蹄の音。人々が道を開け、藩の役人が数人下馬した。先頭は、数日前に言葉を交わした男だ。仮設水道を一瞥し、眉をひそめる。
「藤村殿。これは……藩の許可を得ているのか?」
「いえ。緊急の措置として独断で」
「規則を無視した行いだ。本来なら、罰せられてもおかしくない」
政次郎が前に出かけたのを、晴人は手で制した。
「承知しています。ですが、この水がなければ、もっと多くの命が危うかった。罰は受けます」
役人は深く息を吐き、静かに言う。
「……だが、結果は出ている。民が救われているのも事実だ。東湖様も、そなたの働きを高く評価しておられる。今回は不問とする。今後は必ず報告を」
「ありがとうございます」
役人たちが去ると、また歓声が湧いた。政次郎が袖を引く。
「よかった……!」
「ああ。でも、これからは気をつけないとな」
夕暮れが迫り、町の空気にほんの少し、希望の匂いが混ざった。
* * *
夜、晴人は藤田東湖の屋敷に招かれた。広くも豪奢でもないが、凛とした座敷。中央に座するは、水戸藩政の中枢に立つ男――藤田東湖。
「来たか、藤村晴人殿」
「はい。お招き、光栄に存じます」
東湖は筆を置き、晴人の目を射る。
「町の噂は聞いた。養膳寮の働きも見事だが、それに加えて水道まで整備したと」
「水がなければ、食も供せません」
「ふむ……」
東湖は書状を手に取る。
「報告によれば、独断で敷設したという。規則破りだが――結果を見れば、誰も文句は言えぬ」
晴人は黙って頭を下げた。
「養膳寮筆頭としての働き、見事だ。だが、そなたにはもっと大きな仕事を任せたい」
「と、申しますと?」
東湖は立ち、窓外に目をやる。庭では家臣たちが復興の打ち合わせをしていた。
「水道の整備、衛生管理、物資配分――それらを統括せよ。養膳寮の枠を超え、城下全体の復興を指揮してもらいたい」
晴人は息を呑む。
「私が……ですか?」
「そなたには現場を見る目があり、仕組みを作る力がある。今の水戸に最も必要な人材だ。受けてくれるか?」
短い沈黙ののち、晴人は口を開く。
「……光栄です。ただ一つ、お願いがあります」
「申せ」
「現場の声を、必ず上げさせてください。民が何を求め、何に困っているか――それを知らずに、良い仕組みは作れません」
東湖は満足げに頷いた。
「当然だ。そなたがそう言ってくれることを期待していた」
書状を差し出す。
「これは藩主への上申だ。そなたを『復興事業統括』に任ずる旨、記してある」
晴人は書状を受け、深く頭を垂れた。
「必ず、お応えします」
「期待しているぞ」
* * *
屋敷を出ると、外は静かな闇。月が淡く雲間に浮かび、竹の影が石畳に揺れる。晴人は振り返らず、ゆっくり坂を下った。
その背に、遠くから声。
「晴人どのーっ!」
振り返ると、政次郎が小脇に竹筒を抱え、全力で駆けてくる。
「すげぇ! 水、ちゃんと流れてるぞ! 婆さまも、泣いてた!」
「そうか……それはよかった」
「晴人どの、オレ……もっと手伝いたい!」
曇りのない光が、その瞳に宿っている。晴人は手を伸ばし、ぽんと頭に置いた。
「ありがとう、政次郎。お前がいなかったら、ここまで来られなかった」
「えへへっ」
二人の影が、月の下で静かに並ぶ。明日のことはまだ分からない。けれど、誰かが動けば、町も国も少しずつ変わっていく――そんな確信が、晴人の胸に芽吹いていた。
* * *
その夜、晴人は寺の裏庭に設けた仮の机で、新たな計画に筆を走らせた。
復興事業統括としての最初の仕事は、水道網の本格整備である。仮設水道は応急にすぎない。もっと安定し、持続する仕組みが要る。
「……次は、浄水だな」
山の湧き水はきれいだが、濁りや落ち葉、虫の混入は避けられない。竹樋だけでは限界がある。砕いた炭や砂利、布を使った簡易濾過装置を各水源に設ければ、最低限の飲料水として機能するはずだ。
晴人は図を描く。濾過装置の構造、設置場所、必要資材――一つずつ丁寧に書き込む。
と、草履の音が控えめに近づいた。
「……起きてたか、晴人どの」
振り向くと、政次郎が手ぬぐいを肩にかけて立っていた。顔に幼さは残るが、目は確かだ。
「眠れなかったのか?」
「……なんか、怖くなってさ」
政次郎はそっと傍らに腰を下ろす。灯明が風に揺れ、二人の影が長く引かれた。
「婆ちゃん、寝てる時、たまに苦しそうに息してんだ。助けてくれてありがたいって思ってるけど、それだけじゃ足りねぇ気がして……」
「政次郎」
晴人は少年の頭を撫でた。
「お前はもう十分だ。水を集め、竹を運び、俺の話を信じてくれた。――それがどれだけ心強かったか、分かるか?」
政次郎の肩が小さく震える。
「でも、俺、侍じゃないし……何も守れないかも……」
「侍だけが守るんじゃない」
「心があれば、誰だって、人の役に立てる。お前はもう、立派に役に立っている」
政次郎は涙を拭い、頷いた。
「……俺、もっと頑張る。晴人どのみたいになりたい」
「政次郎なら、きっとなれる。いや、もっとすごい人間になれる」
晴人は笑った。
「だから、焦るな。一歩ずつでいい」
「……ありがとう、晴人どの。おやすみ」
「おやすみ、政次郎」
少年の背が闇に溶ける。晴人は再び紙に向き直った。
復興事業統括としての責務は重い。だが、政次郎のような少年がいる限り、この町には未来がある。
その未来を守るために、自分にできることをする。
筆が走る。夜風が紙の端をめくり、遠くで犬が吠えた。
明日はまた長い一日が始まる。
だが――どんな困難でも、歩みは止めない。
それが、この時代で生きると決めた者の務めだった。
晴人は空を見上げた。雲の切れ間に、星が一つ、二つと灯る。
まるで、未来への道標のように。




