62話:紙幣の革命――羽鳥札と信用の夜明け
春の風が、羽鳥町を穏やかに撫でていた。
商人たちの声が飛び交う市庭には、早くも新茶や春野菜が並び、木箱を担いだ農民や町人が活気に満ちた表情で行き交っている。かつて冬の寒さに震え、物資の乏しさに悩まされた日々は、いまや遠い過去のものとなりつつあった。
その活気の中心にあるのが――庁舎北側に新設された、白壁の立派な建物だった。
「羽鳥為替所」と記された木彫りの看板が掲げられたその建物は、他の役所と異なり、石造りの土台に堅牢な蔵造りの構造を持ち、厳重な出入り管理がなされている。朝から列を成す者の中には、町の大店の番頭もいれば、農具の修理費に困る農民の姿もある。
――ここが、羽鳥の未来を担う「銀行」である。
政庁の一室では、藤村晴人が分厚い紙束を前に、渋沢栄一と並んで腰を下ろしていた。
「……この“紙幣”というもの、人は果たして信じましょうか」
若き渋沢が慎重な面持ちで問いかける。
晴人は穏やかに頷いた。
「通貨の価値とは、物そのものではなく“信頼”に根ざすものだ。羽鳥では、すでに米や石炭、銅に対する信用ができつつある。これを裏付けとした紙幣ならば、十分に通用するはずだよ」
机上には、試作された「羽鳥札」の見本が数種並べられていた。筆書きで「五文」「二十五文」「百文」と記されたそれは、独自の透かしと藩印が押され、粗末ながらも丁寧な造りである。素材は、製紙場で試験された楮に米糊を用いて加工されていた。
「では、金銀に代わる価値の“保証”として、産出物を?」
「そうだ。金銀は確かに便利だが、今の日本では十分な量を国内で確保できていない。羽鳥が持つ“生産力”こそが、信用の土台になる」
その語り口は、渋沢にとって目から鱗であった。金銀という形ある“貨幣”に頼らず、人と物、そして暮らしの中にある価値を見出す主君の思考は、彼の中で何かを大きく揺さぶった。
「通貨とは、民が“信じて使う”からこそ成り立つ……か。まるで理屈で動く欧州の書物を読んでいるようです」
「君なら理解できると思っていたよ」
そう言って晴人は一冊の和綴じ帳を差し出した。中には、紙幣制度、信用取引、預金と貸付、為替業務といった先進的な知見が、当世風の言葉で記されていた。すべてが晴人の記憶と現代知識から書き起こされたものである。
「いずれ君が財政の柱となる日が来る。その時に備えておいてくれ」
渋沢はその冊子を両手で受け取り、深々と頭を下げた。
「……はい。必ずや身に染み込ませてみせます」
その姿に、晴人は内心で静かに頷いた。
(やがて君は、実業をもってこの国を豊かにする“礎”となる。だからこそ、今、正しい知識を手にしてほしい)
その日、羽鳥の町には初めての「紙幣」が流通し始めた。
商人は羽鳥札で米を買い、農民は羽鳥札で鍬を修理し、職人は羽鳥札で工賃を受け取る。最初こそ紙幣を不審げに眺めていた民も、やがてそれを受け取り、懐にしまうようになった。
金でも銀でもない紙片が、“暮らし”を支える“信用”へと姿を変えていく。
それは、やがて日本を変えてゆく「信用通貨」の、最初の一歩であった。
春の陽が、羽鳥の町をやわらかに照らしていた。
新たに設けられた「羽鳥為替所」には、朝から人の列が絶えなかった。白壁と黒漆喰の堅牢な建物の前では、藩士が交代で出入りを監視し、警備の目も厳しい。その一方で、列に並ぶ町民たちの顔には、期待と不安が入り混じった表情が浮かんでいた。
「ほんとに、あの紙っぺらで米が買えるってのかい……?」
最前列にいた老商人が眉をひそめて呟くと、隣の若者が笑いをこらえながら応じた。
「試してみりゃいいじゃねえか。今日から、羽鳥町だけじゃなくて、宍戸や笠間、土浦の市でも使えるって話だ。あれはもう、“紙”じゃなくて、“約束”なんだとよ」
羽鳥札――それは、羽鳥町で発行された最初の地域通貨である。表には「羽鳥為替所印」が押され、裏面には藩印と、透かし加工された銅鉱石模様が浮かんでいた。
羽鳥藩ではすでに米や石炭、銅の取引実績があり、各藩の商人たちも羽鳥との交易には高い信頼を寄せていた。今回の紙幣発行にあたり、藤村晴人は水戸藩内の有力諸藩――宍戸・笠間・土浦といった常陸国の支藩と綿密な協議を行い、「羽鳥札の信用保証」を藩間で取り決めていたのだ。
その中心となったのが、「交換協定」による信用の裏付けだった。日立で採掘された銅は、羽鳥へと運ばれ、貨幣鋳造や蓄蔵資産として活用される。羽鳥で生産された米や加工品は宍戸の鍛冶職人のもとへ届けられ、彼らの手で鉄製の農具や工具へと姿を変える。さらに、笠間の陶土は羽鳥の窯場に供給され、羽鳥札で焼き物や日用品が製造される。土浦港では、羽鳥札を使って荷が預けられ、農産物や物資が内陸各地へと送られていった。
こうして羽鳥札は、単なる紙幣ではなく、「物と労働の約束を結ぶ手形」として受け入れられつつあった。
為替所の帳場では、町民のみならず、宍戸や笠間、時には日立や那珂湊からも商人が訪れ、羽鳥札を求める光景が日常となっていた。
「次の方――」
受付の帳場に立ったのは、笠間藩の織物問屋「加島屋」の番頭だった。羽鳥札を十枚、懐から慎重に取り出しながら、係の役人に声をかける。
「これで、米を十俵、蔵に預けてもらえるか」
「はい、承知いたしました。倉印と交換札はこちらにございます。引換は南口の米蔵にて、午後四つ時より可能です」
番頭は安堵の息を漏らし、軽く頭を下げてから列を離れた。その様子を目にした町民が、小声で囁く。
「……笠間の加島屋が使ってるってことは、本物ってことだな」
その一言が、周囲に小さな波紋のように広がった。
羽鳥札は、信用を得ることで“実用”へと変貌していく。
そして、その変革の舵を取っていたのが――政庁の奥で机に向かう、藤村晴人と渋沢栄一のふたりであった。
「栄一。この件、あらためて良くやってくれた。水戸の経済を、一歩前に進めたな」
「いえ……主君の構想と知恵があってこそです。私はただ、形にしただけです」
晴人は机の上に並んだ羽鳥札の見本に視線を落としながら、小さく笑った。
「この“紙”が、いつか国を動かす時代が来る。君の力が、未来に繋がっていく」
その言葉に、渋沢栄一は静かに頭を垂れた。
「お言葉、深く肝に銘じます」
そのとき、政庁の奥から別の役人が慌ただしく入室し、一枚の書簡を差し出した。
「報告いたします。宍戸藩より、羽鳥札による鋤と鍬の取引が成立したとの報です」
「そうか……ようやく、“通貨”が“道具”になったか」
農民の手に届く道具を、信用で先に受け取る。その後の収穫で返済する仕組み。これまでなら借金か年貢で苦しむだけだった労働が、「契約」によって循環しはじめていた。
紙幣を通じて働きが回り、物が回り、信頼が回る。
その動きは、水戸藩の外郭――常陸の全域へと、ゆるやかに、だが確実に広がりつつあった。
午後の光が、西の空を金色に染め始める頃。羽鳥の町は、まるで祝祭のあとの余韻に包まれていた。
新たに開設された「羽鳥為替所」の前では、列がひと段落し、帳場の役人たちもようやく一息つけるようになっていた。だが、その内部では、さらなる仕組みづくりのための会議が続いていた。
政庁の会議室。机を囲むのは藤村晴人、渋沢栄一、そして水戸藩財政方の数名の家臣たち。
「――羽鳥札の信用は、確かに各藩の理解と支えあってのものだ。しかし、それを支える“裏付け”を曖昧にすれば、やがて瓦解する」
晴人の声には、日々の張り詰めた思索が滲んでいた。栄一は、懐から一枚の紙を取り出し、それを皆に見せた。
「こちらが、日立で採掘された銅の原票です。成分検査は羽鳥工場で済ませており、品質も申し分ありません。これを羽鳥為替所の裏書台帳に登録し、通貨発行量との対応表を設けました」
晴人は頷く。
「つまり、羽鳥札が“信用札”として成り立つのは、具体的な“物”と交換できると皆が理解し、安心して使えるからだ。目に見えるもの、手に取れるもの――それが紙幣の重さを支えている」
「はい。日立の銅は、鋳造や工業材料としてだけでなく、将来的には輸出資源としても用いられます。現時点で藩内の使用分に留まっていても、その将来価値が信用の源になります」
帳場役人のひとりが、疑問を口にした。
「し、しかし……銅の量にも限りがございます。それを担保に無制限に札を刷れば、たちまち“札の軽さ”が露見します」
栄一は即座に返す。
「無制限に発行するつもりはございません。上限を設け、また地域ごとの“預かり資産”に応じて発行枠を設定するつもりです。羽鳥、宍戸、笠間、土浦、それぞれが一定の担保物資を持ち、それに基づいて分配します」
晴人は、地図を広げた。
「日立では銅、宍戸では鉄製農具の製造と供給、笠間では陶土と焼き物、土浦では港と倉庫を通じた物流。それぞれが物と労働で連携し、それを“信頼”という形で羽鳥札に集約する――これが、今の我々の挑戦だ」
窓の外では、馬車がため息をつくように軋みながら通りを行く。その荷台には、今まさに宍戸へ向かう“鍬と鋤の先行出荷品”が積まれていた。
「それに、我々には“実績”があります」
そう言ったのは、渋沢栄一だった。
「今回、宍戸藩の農民組合と取り決めた契約では、羽鳥札を担保に農機具を貸し出し、収穫の一部を年末に納入することで完済とする。利子は取らず、代わりに道具の維持費や修繕費を“共済”で積み立てる。これが成功すれば、“信用による循環”が実証されます」
晴人の目が細められる。
「共済か……農村部の連帯を形にしていく手段にもなるな」
「はい。道具の貸出から、種子の配布、病害への備え……すべてを“信頼の仕組み”として紙幣に込めることができれば、それはもはや単なる金銭ではありません。“共同体の証文”となります」
部屋の空気は、静かに熱を帯びていた。
そのとき、ひとりの若い文官が入室した。
「失礼いたします。日立鉱山より新たな出鉱報告が届きました。今月の産出量は昨年比で二割増とのこと。羽鳥為替所の銅在庫にも余裕が生まれそうです」
「よし。それならば、第二弾の羽鳥札の発行準備に入ろう。今度は五分札と一分札を中心に、少額決済にも対応できるように」
「はっ、承知しました」
文官が退室し、晴人は机に置かれた一枚の紙幣を手に取った。
「この一枚が、人の暮らしを動かす。渋沢、君にはこの道を拓いてもらいたい」
「……栄誉に存じます」
渋沢の声は、どこまでもまっすぐだった。
その夜、羽鳥の市では、最初の「羽鳥札夜市」が開かれた。
町の広場に並べられた屋台には、焼き団子や干し柿、鮮魚に布地と、色とりどりの品々が並んでいる。老若男女が行き交い、通貨の“試し使い”として無料配布された羽鳥札を手に、笑顔を浮かべながら買い物を楽しんでいた。
「おっかあ、これも羽鳥札で買えるの?」
「そうだよ、今日はこの紙が“銭”なの。ありがたく使いな」
子どもたちがはしゃぎながら紙幣を握り、団子を買っては兄弟で分け合う。
その様子を、物陰から見つめていた藤村晴人は、そっとつぶやいた。
「通貨とは、人の信頼だ。そして信頼は、行いによって築かれるものだ――」
その言葉に、隣で控えていた渋沢栄一もまた、静かに頷いた。
冷たい朝霧が羽鳥の町を包み込む中、藤村晴人は一人、為替所の裏庭に立っていた。空はまだ淡い灰色。吐く息が白く浮かび、足元の霜が細かく音を立てて砕ける。
彼の手には、一枚の羽鳥札があった。
厚みのある和紙に、藩の紋章、そして地紋には銅山と港を象徴する意匠。透かし彫りの加工も施され、粗製濫造される“私札”とは一線を画していた。だが、その真価は「印刷技術」でも「見た目」でもない。この紙の向こう側にいる――人々の暮らし、それがこの一枚に込められていた。
「……紙切れ一枚に、これほどの“重さ”を感じるとはな」
晴人がそう呟いた背後から、そっと足音が近づく。
「お目覚めが早いのですね。お身体の具合は?」
声の主は、渋沢栄一だった。寝間着の上に外套を羽織り、彼もまた早朝から出仕していたようだった。
「少し考えごとをな。……いや、少しというには重すぎるかな」
晴人は札を握ったまま、静かに振り返った。
「君は知っているか? これまでの“金銀通貨”というものが、どれだけの混乱と争いのもとだったか。産地が限られるがゆえに権力者に独占され、為替相場で民が振り回され、銅銭は混じり物が増え、価値が目減りして……」
「ええ。商家にいた頃から、その“恐ろしさ”は嫌というほど見てきました。金があれば商いも広がる、けれど信用がなければ、それは“絵に描いた餅”」
「だが、いま我々が手にしたのは――“人の信用に基づいた通貨”だ」
そう言った晴人の目は、まだ陽の昇らぬ空を見つめていた。
「日立の銅がある。宍戸の鍛冶がある。笠間の陶土、土浦の港、そして――羽鳥の民の勤勉さがある。この土地の“働き”そのものが、“通貨の裏付け”になる。それはもはや、武家社会の専横に委ねられた金銀とは、別の次元の通貨だ」
栄一は小さく頷く。
「それを“日本”に広げるのが、殿のお考えなのですね」
「いずれは、な。だが今はまだ、“信頼”を積み重ねる時期だ」
晴人は懐から小さな帳面を取り出した。
「これは――土浦から届いた試験報告だ。羽鳥札を使って穀物の先物取引をしたいという申し出があった。取引相手は、結城藩の問屋だ」
「結城……! 常陸の外ですか」
「そうだ。つまり、“羽鳥札”は常陸国内だけでなく、利根川流域、江戸周辺まで浸透する可能性を持っている」
栄一の目が見開かれる。
「信用が国境を超える……それは、まさに“未来の経済”そのものです」
「……だが、リスクもある。流通が加速すればするほど、我々が制御できない場所でも札が動くようになる。偽札、信用詐欺、紙の粗悪化、価格の混乱。どれもが信用を瓦解させる火種になりうる」
その時、朝靄の中から馬の蹄の音が響いた。
「急使です!」
門を駆け抜けてきたのは、土浦の物流官だった。顔にはうっすらと汗がにじみ、懐から一通の文を差し出した。
「水戸より報が……“偽造札”が出回ったとのこと!」
栄一の顔色が変わる。だが晴人は、落ち着いた様子で文を受け取り、静かに開いた。
「……これは羽鳥札ではない。“似せ札”だ。見た目は羽鳥札に似せているが、透かしの位置も、紙質も違う。だが、一般の民にとっては見分けがつきにくい」
「つまり、“羽鳥札の信用”に便乗した者がいる……!」
栄一の声に、静かな怒気が混じる。
晴人は、馬を整備していた近習に命じた。
「ただちに印刷所と為替所に伝令を。すでに流通している羽鳥札を全量再確認し、正規札には新たな“刻印”を加える。また、交換期限を設け、期限内に旧札と交換すること。新札には“銅鉱印”を加える。……この件、迅速に、だ」
「はっ!」
近習が駆け去ったあと、晴人は静かに呟いた。
「これは洗礼だよ、栄一。“信用通貨”を掲げるというのは、すなわち“信用詐欺”との戦いでもある。だが――それでも私は、この道を進む」
彼の声は静かだが、決意に満ちていた。
「なぜならこれは、“人が人を信じる世界”への、最初の一歩だからだ」
栄一は、そんな晴人の横顔を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……殿。もし、この仕組みが軌道に乗ったならば、私は江戸へ向かいます。問屋を、商家を、そして幕府の財政担当までを説いて回りましょう。“金銀の時代は終わる”と」
「君に託すよ、渋沢栄一。――“この国の、明日の金を、変えてくれ”」
その言葉を背に、空がゆっくりと朱に染まり始めた。
羽鳥の空に、今日も新しい日が昇る。