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60.6話:示顕の構え、未来への型

春の風が、羽鳥政庁の瓦屋根をそっと撫でてゆく。庁舎の庭に咲く辛夷こぶしの花が揺れ、どこか懐かしい香りを乗せて、広がった町並みに春の訪れを告げていた。


 かつて数百人の農村にすぎなかったこの地は、今や五万の人々が行き交う都市へと変貌を遂げている。水路と街道が網のように張り巡らされ、南の市街では新たな染物商が軒を連ね、北の山裾には演武館と学舎が並び立つ。羽鳥は“城を持たぬ城下町”と呼ばれるようになっていた。


 その政庁の一角。陽の差し込む書見の間で、藤村晴人は静かに硯に筆を浸しながら、数枚の稽古帳を広げていた。


 「……沖田の指導は安定してきた。斎藤も若手を育てる器がある。永倉、原田、島田も、素行と技量の面で申し分ない」


 ぽつりと呟きながら、晴人は一枚の紙に目を落とす。それは、羽鳥武芸館の第二期教育課程に関する草案であった。


 「剣術は制度としても、文化としても、町を支える柱のひとつになる……だが、それだけでは足りない」


 彼の手元には、もう一冊の小さな手帳があった。革表紙に包まれたそれは、現代から持ち込んだiPadを元に書き写した剣術の記録――その名は『笠間示顕流 傳書抜粋』。


 「笠間示顕流……」


 小さく呟く。これは、現代でわずかに伝承が残るのみの、極めて実戦的かつ苛烈な流派である。薩摩の示現流と混同されがちだが、より直線的で、“死を覚悟して踏み込む”ことを基本とするその構えは、剣術というより“命の投げ出し方”に近い。


 (現代の学びの中で、最も印象深かった流派……。この町がさらなる乱に呑まれる前に、“武”の象徴を、俺自身の中にも築くべきだ)


 ふと襖の向こうから、足音が近づいてきた。控えの者が頭を下げ、言葉を告げる。


 「藤村様、武芸館の沖田様より、朝の稽古が一段落との報告にございます」


 「そうか。……では、皆を政庁の演武場へ呼び集めてくれ。話がある」


 やがて、演武場にて。


 陽光の差し込む広々とした板張りの場には、沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁らが整列し、深く一礼をした。その姿は、もはや剣士というよりも、武家としての風格を備えつつあった。


 「お呼びとあらば、何なりとお申しつけくださいませ」


 斎藤が一歩前へ出て、恭しく口を開く。


 「……今日は、お前たちに尋ねたいことがある」


 晴人はそう言って、一歩前に出た。手にした木剣を、静かに床に置く。


 「町を護る剣、治安を支える力。それはお前たちが日々磨いている技だ。だが、俺自身はどうだ? お前たちに何をもって向き合うべきか」


 沈黙が流れる中、沖田がそっと口を開いた。


 「……藤村様は、すでに“言葉と政”で我らを導かれております。それ以上、何を……?」


 「俺が導く者として在り続けるには、“覚悟”を持ってお前たちと同じ道を知る必要がある。だからこそ、俺は“剣”を学ぶ。それも、最も苛烈な流派を」


 全員の視線が動いた。


 「笠間示顕流……」


 その名を告げた瞬間、場に走った緊張は、春の空気すら凍らせるほどだった。


 「藤村様……それは、あまりにも――」


 永倉の声がわずかに震えた。剣に生きる者にとって、示顕流の名は“死と隣り合わせの型”という認識に他ならない。


 「武芸館で教える天然理心流や体術では、俺の“覚悟”は伝えられない。命を賭す構えこそが、治める者としての証になる」


 斎藤が、静かに膝をついて頭を垂れた。


 「……主がその道をお進みになるならば、我ら、ただ見届け、支えるのみでございます」


 「ありがとう」


 晴人は頷くと、背筋を伸ばした。


 「旧笠間の郷士で、示顕流の継承者がいると聞いている。名は渡瀬重太郎。今、羽鳥に招こうと思っている」


 沖田の目が、真剣に細められる。


 「……そのお方が、藤村様に手を取らせてくださるのなら。命を賭す稽古となるでしょう」


 「それを承知で、俺は進む」


 陽光が差し込む中、藤村晴人は静かに木剣を構えた。まだ型にはなっていないその姿勢は、だが確かに、覚悟の兆しを宿していた。

羽鳥の北方。町の喧騒から離れた山裾に、ひとつの草庵がひっそりと構えていた。


 茅葺の屋根は幾度も修繕の手が入れられ、年季の入った木の柱には剣の風が染みついている。庵の前に立つ藤村晴人の背後には、沖田総司と斎藤一、二人の剣士が無言で控えていた。


 「……この地に“武”の矜持を持ち込みしは、何人か」


 低く、静かな声が庵の中から響いた。


 現れたのは、一見して百姓か山人のような粗衣をまとった男だった。だが、身の内に潜む気配は一流の剣客そのもので、足取りに迷いがない。手にしていた竹箒を脇に置き、晴人を真っ直ぐに見据える。


 「お初にお目にかかります。拙者、渡瀬重太郎と申します。……お見受けするに、御主が羽鳥の政を預かるお方とお見受けいたす」


 「うむ。拙者は藤村晴人。羽鳥の政庁を預かる者である」


 晴人は丁重に頭を下げた。


 「本日は、武芸の件でご教示を賜りたく、直々に参上した次第だ。重太郎殿が示顕流を継承されていると聞き、願ってこの地へ足を運んだ」


 「……そのような“流派”の名を、そちら様から耳にするとは思わなかった」


 重太郎は目を細めた。その声音には、驚愕とわずかな警戒心が混じっていた。


 「もとより、示顕流は世に出す流派ではございません。かの薩摩の示現流と混同されがちですが、我らが道は“剣で生き残る”のではなく、“剣で死を受け容れる”道。覚悟なき者には、教えるに値せぬ剣でございます」


 その言葉に、沖田の表情が動いた。


 「……なるほど。確かにその気配、我々が学ぶ天然理心流とは性が違う。刀の音すら違うように思えます」


 「沖田、斎藤――下がってくれ」


 晴人は短く言った。二人は躊躇いながらも一礼し、庵の外に身を引いた。


 「重太郎殿、我が願いをお聞きいただきたい。私は剣士ではない。ただの役人上がりに過ぎぬ。しかし、この羽鳥の未来を担う者として、“武”を学ぶべきだと考えておる」


 「それは、形としての剣か? あるいは、意志としての剣か?」


 「……意志として、である」


 そう答えた晴人の眼差しに、重太郎の目が僅かに細められる。


 「して、何ゆえ“笠間示顕流”を所望される?」


 「最も苛烈で、退路なき道ゆえに、である。踏み込んだ者の覚悟を問う剣。未来に立つ者として、それを知っておかねばならぬと、そう思った」


 重太郎は黙して数歩、軒先へと歩み出る。そして軒先に立てかけてあった木刀を手に取ると、構えを取った。


 「ご覧じろ。これが“示顕の構え”――一撃必殺の構えである」


 次の瞬間、風が止まったかのように感じられた。


 重心はやや前。足先はすでに踏み出す意志を表し、両腕は肘を畳み、柄を低く構え、切っ先を敵の眉間に向けている。そこにあるのは、美しさではなく、剥き出しの“死の予感”だった。


 「この構えを取るとは、“逃げ道を捨てた”ということ。使い手は一歩踏み込めば、命を捨てる覚悟が要る。……政を為す者に、果たしてこの剣が必要か?」


 「必要だ。私が先頭に立つ者である限り、いつか“命を賭すべき日”が来る。……その時、逃げぬと誓えるために、この構えを知っておきたいのだ」


 重太郎は構えを解き、しばし沈黙した。


 そして、静かに口を開いた。


 「ならば、模擬戦をいたしましょう。真剣ではない。だが、こちらは一切手加減いたしません。それでも構わぬと?」


 「異存はない」


 晴人はそう答えると、沖田から木刀を受け取った。手の中に収まる重みが、実に現実的だった。


 地を踏み、構える。


 ――どこか、ぎこちない。


 重太郎は一瞥するも、何も言わぬ。


 「構えなど、真似でよい。だが、心構えは真似では通らぬ」


 言葉の終わりと共に、重太郎が踏み込んだ。


 その一撃は、風のように速く、雷のように重く――だが、晴人は怯まず、真正面から迎え撃つ姿勢を崩さなかった。


 激突の音が、山の静寂を裂いた。


 衝撃が体を駆け抜け、膝が崩れる。晴人は木刀を支えに踏みとどまる。


 「……見事だ。倒れぬとは」


 重太郎の目に、わずかな光が宿った。


 「その覚悟、しかと見届け申した」


 続く稽古の中、晴人は幾度となく倒され、何度も呼吸を整え直した。それでも、彼の目には諦めも迷いもなかった。


 日が傾く頃には、地面に膝をつきながらも、晴人の構えはようやく“示顕”に近づいていた。

夜。


 政庁裏の稽古場に、ぽつりと灯る一つの行灯。その淡い橙が、小さな屋根付きの稽古台を柔らかく照らしていた。


 「……はあっ……!」


 息を吐き、振り下ろす。足元にはまだ雨の名残がある。湿った土が踏みしめるたびに鳴く音は、深夜の静寂に沈んだ羽鳥の町にさえ響いた。


 「踏み込みは命を捨てる覚悟、振り下ろしは敵を斬る執念……」


 晴人はひとり、重太郎から伝えられた“示顕の構え”を繰り返していた。足の運び、体幹の沈み、腕の振り……どれも拙く、完成には程遠い。けれどその姿勢には、真剣以上の真摯さが宿っていた。


 衣の下から滴る汗が、木刀の柄を濡らす。何度も滑りそうになったその手を、晴人は指先で締め直した。


 (この構えは……人を斬るためのものではない。退路なき構え、逃げ道を捨てた構え――)


 そうだ、重太郎は言っていた。


 “一歩を踏み出す覚悟がなければ、この剣は振るえぬ”と。


 (ならば俺が踏み出す一歩とは、誰を斬るためでもない。誰かの前に立ち、盾となるための……)


 再び木刀を振り下ろす。地を蹴る音に、空気が切り裂かれる音がわずかに混じった。


 そのときだった。


 演武場の屋根陰、夜風の中に立つ影に気づいた。


 「……沖田か」


 晴人は振り返りもせず、息を整えながら口にした。


 「はい。斎藤さんと共に、主君のお姿を見守っておりました」


 静かに歩み寄ってきたのは、肩に羽織を掛けた沖田総司。彼の後ろには、斎藤一の白い裃が、夜の闇にほのかに浮かんでいた。


 「……お二人とも、こんな夜更けに」


 「主君が一人で稽古に励んでおられると聞いて、黙っていられませんでした」


 沖田の声は、幼さの残る響きと、ひたむきな忠誠が同居していた。


 「主君。今宵のお姿……拙者には、まさしく“剣に生きる者の姿”と映りました」


 「いや、私は剣に生きるつもりはない」


 晴人は木刀を置き、額の汗を袖でぬぐった。


 「剣は、力を誇示するためのものではない。力を持つ者が、なぜその力を得たのか――それを忘れてはならない」


 斎藤が歩み寄り、一礼した。


 「……拙者、この羽鳥に参じて以来、ずっと考えておりました。何のために剣を振るうのかと」


 「そうか」


 「はい。しかし今宵、主君の背を見て、初めて一つの答えを得た気がいたします」


 風が吹いた。


 竹林が鳴り、行灯の火が小さく揺れた。


 「主君、重太郎殿は仰っておりました。“剣は振るう者の器に染まる”と」


 「……ならば俺は、“未来”を染めたい」


 晴人は静かに呟いた。


 「これは人を斬るためではない。“斬らせぬため”に振るう剣でなければならぬ。――この手で守れるものがあるなら、俺は、踏み込む」


 沖田と斎藤が、深く頭を下げた。


 主君の言葉は、命をかけて仕える価値のあるものだと、心からそう感じたからだ。


 雨は止んでいた。けれど、晴人の背には、打たれたような汗がまとわりついている。


 それでも構わぬ。木刀を拾い、また構えた。


 「まだ型は崩れておるな。……よし、もう三度だけだ。付き合ってくれるな?」


 「はい。主君のお供とあらば、喜んで」


 沖田が木刀を手に取った。


 その夜、月の光も薄い演武場に、静かに響いたのは――主君と家臣、三つの剣が刻む、覚悟の音だった。

その夜。静まり返った屋敷の一角、縁側に灯がともっていた。


 柔らかな灯籠の光に照らされて、藤村晴人は黙然と木刀を握っていた。庭先には小雨が降っており、竹林の葉を濡らす音がさやさやと鳴っている。だが彼の目には、ただ一点──仮想の敵を見据えていた。


 「――構え」


 足をやや広げ、右足を前に出し、木刀を正中に置く。


 腰の位置を落とし、背筋を真っ直ぐに伸ばす。


 それは、日中に渡瀬重太郎から学んだ“示顕の構え”。一撃必殺の踏み込みと、心の躊躇を断ち切る剛直な剣。


 (己が恐怖を超えなければ、守ることなどできない)


 雨音に混じり、庭を踏みしめる足音が聞こえた。竹を掻き分けて現れたのは、白い羽織に笠を差した一人の剣客。渡瀬重太郎である。


 「……ご当主。夜分遅くに申し訳ございません」


 「構わない。むしろ、来てくれて嬉しいよ」


 晴人は木刀を下ろし、ゆっくりと振り返った。


 「重太郎殿。お前の言葉が、心に残って離れなくてな」


 「恐れ入ります」


 重太郎は丁重に頭を下げ、濡れた笠を脇に抱えながら、縁側に座した。


 「私は、この地に来てようやくわかりました。剣を教えるとは、ただ型を教えることではない……主君の覚悟に触れ、心を委ねることに他なりませぬ」


 「……そのように言ってもらえるとは、面映ゆいな」


 しばしの沈黙が流れ、春の雨が竹林を包み込む。


 重太郎は膝を正し、きちんとした口調で言葉を継いだ。


 「改めまして、拙者・渡瀬重太郎、以後この羽鳥に仕え、剣術の道を以ってお役目を果たす所存。どうかご指導ご鞭撻のほど、賜りたく存じます」


 「うむ、頼もしい。そなたには、羽鳥武芸館の外部指南役として禄二百石を与えよう。屋敷は政庁南の石畳沿いに一つ空けてある。好みに合えば、すぐ住まわせよう」


 「過分なお計らい、誠に感謝いたします。……必ずや、この羽鳥の地を守る剣を鍛えてみせましょう」


 晴人はその言葉に、深く頷いた。


 「重太郎、そなたが教える“剣”は、いずれ羽鳥の魂となる。だが、忘れないでほしい。私は剣で人を斬るために学ぶのではない。人を斬らせぬためにこそ、学ぶのだ」


 重太郎の瞳が、わずかに揺れた。


 「……承知しております。ご当主のお志、しかと胸に刻みました」


 そのとき、屋敷の奥から小走りの足音が聞こえた。


 姿を見せたのは、羽織を羽織った沖田総司と斎藤一だった。彼らもまた、晴人の稽古を遠巻きに見ていたのだろう。


 「ご当主、遅くまでご精進お見事でした」


 沖田が礼を取り、斎藤も静かに頭を下げた。


 「お主たちも……寒い中、ありがとう。だが、今日はもう休め。明日からの稽古が本番だ」


 「はいっ!」


 二人の返事はまるで声を合わせたように響き、竹林に吸い込まれていった。


 ふたたび縁側に戻ると、重太郎が穏やかに語った。


 「剣は、振るう者の器に染まります。乱心の者が振れば、狂気を宿す。……されど、志ある者が握れば、それは人を導く光となりましょう」


 「ならば、私は未来を染めよう。剣を道具にせず、意志の延長として――この町と人々のために振るう」


 その言葉に、重太郎は深く礼をした。


 「ご当主の剣が、羽鳥の未来を守る楯となりますように」


 雨はいつのまにか上がっていた。濡れた地面が淡く月光を反射し、庭には新芽の若葉が輝いている。


 晴人はもう一度木刀を構え、静かに呟いた。


 「一撃で仕留める構えは、逃げ道を捨てた者のものだ。この一歩で、守れるものがあるなら……俺は踏み込む」


 その一歩が、羽鳥の未来を切り拓く“型”となる。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回描いた「笠間示顕流」は、単なる架空の“剛剣の象徴”ではなく、筆者自身にとっても深い縁と想いのある流派です。


実は、今から九年前――私はその継承者の方に直接ご連絡を差し上げ、稽古を願い出る寸前まで話が進んでおりました。しかし、その直後に不運な通勤災害に遭い、ダンプカーに追突されるという事故で身体を強く痛めてしまいました。


その後、二年間にわたって寝たきりの生活を余儀なくされ、立ち上がることさえ困難な日々が続きました。回復の兆しが見え始めた頃には、当時の連絡先も失われ、気づけば約束を果たすことなく歳月だけが過ぎていました。


今回、この羽鳥の地で主人公が示顕流に挑む物語を描くにあたり、あのとき交わせなかった一礼と、一振りの覚悟を、物語に託したつもりです。


剣を学ぶとは、ただ敵を斬るためではなく、自らの弱さと向き合うため。


そして、“何か”を守りたいという強い想いこそが、人をして剣を握らせるのだと思っています。


未だ直接稽古を受ける夢は叶っていませんが、この物語を通じて、当時の志が少しでも形となれば幸いです。


次回もまた、羽鳥の地での“未来をつなぐ一歩”を描いてまいります。どうぞ、お楽しみに。

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