60.5話:剣の誓い、盾の名にかけて
春の羽鳥には、やわらかな陽光が降り注いでいた。
川沿いの柳が芽吹き、山桜はすでに葉桜となり、街道の木々が若葉で輝いている。商人たちの声が重なり合い、市場には春野菜と山菜が並び、町はまるで生きた絵巻物のように賑わっていた。
一方、庁舎の一室では、静かな緊張が漂っていた。
「……やはり、ここからが正念場か」
報告書の束に目を落としながら、藤村晴人は眉間に皺を寄せた。机上には羽鳥各所からの治安報告が積まれている。盗難、喧嘩、博打――町の急成長とともに、“乱れ”もまた増えつつある。
(人口は五万を超えた。当初、わずか数百人の農村だった頃とは、まるで別の町だ)
水路と街道が整備され、城下のような町並みに生まれ変わった羽鳥は、今や“常陸の心臓”とも呼ばれる都市へと育っていた。医療、教育、商業はすでに軌道に乗っている。だが、それだけでは町は守れない。
「技術と制度は整った。ならば、次は……“剣”だ」
そう呟きながら、晴人は机の引き出しから、一枚の覚書を取り出した。
それは、三年前――羽鳥がまだ人口数百の頃、近藤勇を水戸に招聘し、彼を水戸藩士として迎え入れた際に取り交わしたものである。そのとき、近藤に付き従って来た少年がいた。十三歳で、剣の道に目を輝かせていた少年。
「……沖田総司」
その名を口にした瞬間、晴人の脳裏に、あの春の日の光景が蘇る。
竹林に囲まれた古道場の中、細身の少年が木刀を構え、必死に近藤の太刀を受け止めようとしていた。技は粗削りながら、眼の奥には鋭い集中と情熱が宿っていた。
(三年でここまで成長するとは……)
あのとき沖田総司は、近藤勇の内弟子として水戸に移り住み、ひたすら稽古に励んでいた。晴人が新設した「羽鳥武芸館」の第一期生のひとりでもあり、今やその武芸館で若手剣士を束ねる存在になっている。
窓を開けると、風に乗って道場から木剣の打ち合う音が届いた。踏み込みの響き、掛け声、息遣い――かつての少年のものではない。もう、立派な剣士のものだ。
晴人は筆を置き、静かに立ち上がった。
「――直接、話そう」
庁舎から歩いて数分。羽鳥武芸館では、今日も若き剣士たちが額に汗を流し、修練に励んでいた。砂埃舞う庭先で、白袴の沖田総司が五人の相手を次々と打ち倒し、最後に木刀を小脇に収めて深く一礼した。
「沖田。少し、話せるか」
晴人の声に、沖田は顔を上げ、表情を崩した。
「藤村様、お久しぶりです。ちょうど稽古を終えたところです」
「じゃあ、縁側で話そうか」
二人は道場の裏手、竹林に面した縁側に並んで腰を下ろした。春の陽射しが淡く射し込み、桜の花びらが一枚、畳の上に舞い落ちる。
「この羽鳥も、随分と賑やかになったな」
「はい。三年前とは、まるで別の町のようです。商人の言葉も、子どもたちの笑い声も、どこか……誇らしくて」
「だがな、沖田。人が集まれば、乱れる者も現れる。剣を振るう者の力が、町の未来を左右する日も遠くはない」
沖田は黙って頷いた。
「“衛士隊”を創設する。羽鳥の治安を守る、新しい形の組織だ。お前には、その筆頭士官を任せたい。禄は三百石でどうか」
沖田は少しだけ目を見開いたが、すぐに真っ直ぐな眼差しで晴人を見返した。
「……ありがたく、お受けいたします。町を守る剣を、ここに置かせてください」
「ありがとう。信頼している」
春の風が吹き抜ける中、二人はしばし黙して、未来の羽鳥を見据えた。
庁舎へ戻った藤村晴人は、机の上に置いた布包みを静かに開いた。中から取り出されたのは、手帳よりも一回り大きな、薄い黒い板。
これこそ、現代から持ち込んだ“知識の箱”――iPadだった。
晴人は椅子に腰を下ろし、そっと画面を撫でる。バッテリーは残り三十パーセントほど。だが、当面の目的に支障はない。
画面をタップすると、幕末の志士たちの資料が表示された。写真、年表、略歴。時に英雄と讃えられ、時に非業の死を遂げた男たちの記録が、静かにそこに並んでいる。
(……俺は知っている。この時代に、何が起きるのか。その中で、誰が光を放ち、誰が散るのかを)
晴人の視線が止まったのは、一人の男の名前だった。
清河八郎
庄内出身。文武に秀で、剣は神道無念流。尊皇攘夷の急先鋒として名を馳せながら、その実、柔軟な思想と巧みな弁舌で政局を動かす胆力を持つ――。
(清河八郎が動く時、世の流れは加速する)
その事実を、現代の歴史は証明している。
だが同時に、その生涯は短く、苛烈でもあった。幕府の懐に飛び込み、新選組を創設するきっかけをつくりながら、自らの思想と現実の狭間で命を落とす男。
――ならば。
「この時代で、彼の“立ち位置”を変えてやればいい」
羽鳥に引き入れ、斬り結ぶだけの剣士ではなく、“言葉と胆力”で治安と政治を動かす存在として用いる。
沖田総司とは対照的な位置――だが、必要な柱だった。
晴人は筆を執り、手紙の下書きを始めた。
内容は簡潔にして率直。羽鳥の現状、治安維持のための衛士隊設立、そして清河八郎にその構想を支える“参謀役”として参画してほしいという旨。
打診ではあるが、そこには明確な期待と誠意が込められていた。
(もし彼が応じれば……いや、応じる。必ず来る)
現代の知識がそう告げていた。
そして実際、清河八郎は今、京から江戸へ向かう途中。水戸に立ち寄らせるためには、少しばかり早いが“舞台”を整えておく必要がある。
翌日。晴人は町役場の一室を用い、近藤勇と沖田総司を招いて小さな会議を開いた。
「清河八郎を招く。衛士隊の補佐、そして政と治安の橋渡し役を頼む予定だ」
静かな口調に、沖田は少しだけ眉を上げた。
「清河八郎……江戸で有名な志士のひとりですね。ですが、あの人は一癖も二癖もあると聞きます」
「だからこそ、うちに必要だ。剣では動かせない局面で、彼は“言葉”で動かせる男だ。覚えておけ、町を治めるには、“剣”と“理”の両方が要る」
晴人の視線は近藤に向いた。
「君から見て、彼を迎えることに不安はあるか?」
近藤は腕を組み、しばし黙考したあと、ゆっくりと頷いた。
「……己の剣に迷いがない男なら、私は歓迎します。志の芯が通っているならば、癖があっても構いません」
「よし」
会議を終えた晴人は、書状を清書し、使者に託した。
それから数日後――。
羽鳥の西門に一騎の馬が現れた。浅黒い裃を着た小柄な男が鞍から飛び降りる。
涼しげな眼差しに、観察力の鋭さを宿したその男は、門番に名を告げた。
「清河八郎。藤村晴人殿に呼ばれて、参上つかまつった」
その報を受けた晴人は、即座に迎賓館へと向かった。
応接間の障子を開けると、そこにはすでに着座し、茶を啜る清河八郎の姿があった。
「藤村晴人殿。お久しぶりです。噂は江戸まで届いておりますよ。“藩ではなく町を治める男”がいると」
「わざわざ来ていただき、感謝します。実は、貴殿にどうしてもお願いしたいことがあってな」
晴人は座り、包み隠さず語った。羽鳥の治安、衛士隊の発足、その構想。
それらを静かに聞き終えた清河八郎は、口元に薄い笑みを浮かべた。
「……愉快ですね。戦乱の火種が至るところで燻るこの国で、剣でなく、民のために剣を振るう町を創ると?」
「そうだ。民を守る剣だ。理不尽を斬る剣じゃない」
清河は立ち上がり、晴人に向かって深く頭を下げた。
「面白い。そういう町を見てみたかった。――羽鳥に、仕官つかまつる」
「……禄は、四百石を用意しよう。だが、金以上に、君の“覚悟”を買いたい」
「その言葉、しかと受け取りました」
こうして、衛士隊の“頭脳”がまたひとつ加わった。
春の陽光は、羽鳥の城下町に溶け込むように降り注いでいた。白壁の商家が並ぶ通りには、山吹色の暖簾が揺れ、軒先には摘みたての蕗や筍が積まれている。どこからか、三味線の音と祭囃子の稽古が聞こえ、人々のざわめきが春の訪れを告げていた。
だがその裏で、ひとつの密かな動きが始まっていた。
庁舎の奥、藤村晴人の私室にて。
「……斎藤一、永倉新八、原田左之助。そして――島田魁」
手元の書簡に目を通しながら、晴人は指で机を軽く叩いた。どの名も、新選組として歴史に刻まれるはずの剣士たち。だが今はまだ、江戸や浪人の間を漂っている立場だ。
(この時代だからこそ、“己の剣の行き先”を探しているはずだ)
藤村晴人が彼らの存在を知ったのは、iPadに残された資料の中だった。歴史の時間軸を記した年表、その中でわずかに記述されていた一人ひとりの足跡。その知識が、今、羽鳥の未来を守るための礎となる。
「全員、禄は二百石。士分として扱い、居宅と稽古場を与える。役目は、羽鳥の治安維持を担う“衛士隊”の主力。――異論はないな?」
そう言って顔を上げると、部屋にはすでに数名の重臣たちが静かに頷いていた。警備組織としての“衛士隊”は、すでに方針として庁内で了承されていたが、剣士たちの名が並んだ途端、その緊張感は一層高まった。
「晴人様。確かに一人ひとりが、只者ではありません。しかし……これほどの剣士を一同に迎えれば、羽鳥は“剣の町”と呼ばれましょうぞ」
「かまわない。剣は恐れではなく、信頼と規律の象徴とすべきだ。暴力のためではなく、秩序のためにあると証明する」
その静かな言葉に、誰も反論しなかった。
――同日午後。
晴人は城下の文士館に向かっていた。そこは庁舎とは別に、諜報や連絡を扱う機密部署であり、かつて清河八郎を通じて情報網を築いた場所でもある。
「これが……江戸の宿所です」
渡された地図には、斎藤一と永倉新八が滞在しているとされる長屋の位置が記されていた。江戸市中の諜報網は、清河八郎を起点として羽鳥にも広がっており、今や羽鳥は諸藩と情報を共有する「知の交差点」としても知られていた。
晴人は、すぐに書簡をしたためる。
⸻
斎藤一殿、永倉新八殿、原田左之助殿、島田魁殿
突然の文、不躾お許しください。
私、藤村晴人と申します。現在、水戸藩羽鳥にて政務を預かる立場にございます。
貴殿らの剣名、信念、そして生き方を深く敬服し、今この文を送らせていただきます。
もし、貴殿らが己の剣を振るうべき“未来”をまだ探しておられるのならば――
羽鳥という町に、その場を提供したいと願っております。
剣を暴に使うのではなく、剣によって人を守る時代へ。
我らは、そうした武士の在り方を築こうとしております。
禄は二百石、士分の待遇。屋敷、稽古場、そして尊厳をお約束します。
もしお心に響くものがあれば、ぜひ羽鳥へお越しください。
すでに沖田総司殿は、筆頭士官として参画しておられます。
ご一考のほど、何卒お願い申し上げます。
――藤村晴人 拝
⸻
書簡が発送されたその夜。庁舎の屋上にて。
晴人はひとり、月を見上げていた。
(歴史は、変わり始めている。いや、変えるために俺はここにいる)
この世界に来てから三年。農地の改革も、鉱山の開発も、教育も、すべては「誰かを救える社会」のためだった。そして今、治安と安全という「力」がなければ、築いた制度も町も崩れると悟った。
(――ならば、最強の盾を揃える)
藤村晴人の中で、迷いはなかった。かつての未来で、新選組と呼ばれ、信念を貫いて散っていった男たち。その剣と心が、今、羽鳥の礎となる。
春の風が、町の灯を揺らした。
静かだが、確かな胎動が、羽鳥に生まれようとしていた。
春も深まったある朝、羽鳥の空は霞がかかりながらも、どこか清廉な気配に満ちていた。
城下の要地に新たに建てられた「羽鳥衛士隊本部」の前には、白木の門と土塀が整えられ、まだ新しい檜の香りが漂っている。その構えは小藩の城館にも匹敵するほどの堂々たる佇まいだった。
開門と同時に、町中から視線が集まった。まだ何も始まっていないというのに、緊張と期待が入り混じったような空気が流れていた。
(“守りの剣”が、羽鳥に根を張る――)
庁舎から歩いてきた藤村晴人は、胸の内でそう呟く。衣は黒紋付の羽織、足元は白足袋に革張りの草履。肩には羽鳥印の金刺繍が入っている。
そして彼の傍らには、白い道着に水色の袴を着た沖田総司の姿があった。眼差しは真っ直ぐ前を見据えている。
「総司……緊張しているか?」
「いえ。稽古の前と同じ感覚です。剣を抜く代わりに、言葉を交わす――それだけです」
そう言って沖田は微かに笑みを浮かべた。その顔にはかつての少年らしさが残る一方で、目の奥には確かな覚悟と成熟が宿っていた。
やがて、門の奥から控えの者が一人現れた。
「……ただいま、江戸より四名、到着いたしました!」
その言葉に、周囲がざわつく。門の奥から姿を現したのは、いずれも精悍な面持ちの男たちだった。
一番手、斎藤一。無言で歩き、鋭い眼光で周囲を一瞥しながら、最も静かにして最も威圧感を放っている。
次いで、永倉新八。大柄な体格に柔らかな笑顔を浮かべているが、その肩の張り方には武士としての誇りがにじむ。
続いて、原田左之助。右腰に槍の鞘を差し、まっすぐな足取りで歩く姿は、まるで戦場から戻った兵のようだった。
最後に、島田魁。どっしりとした体躯に、どこか老成した気配を纏いながらも、目だけは少年のように光っている。
四人は無言のまま、晴人と沖田の前に立ち、深々と頭を下げた。
「本日より、羽鳥衛士隊に加わらせていただきます。斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁。――よろしくお願い申す」
声を揃えたその瞬間、門の外で見守っていた町人たちの中から、思わず感嘆の声が漏れた。
(これが……羽鳥の新たな守り手)
その後、本部の大広間にて、簡素ながら正式な就任式が行われた。畳敷きの広間には、羽鳥の有力商人、医師団の代表、学問所の師範らが列席し、静かにその始まりを見守っている。
壇上に立った晴人は、口調をあえて抑え、穏やかに語り始めた。
「羽鳥は、今や五万を超える町へと成長しました。だがその陰で、秩序と平穏を守る力が、ますます求められるようになっています」
「衛士隊は、そのために生まれました。剣を人のために抜く、覚悟ある者たちの集まりです」
「今日、ここに集った五名の士――沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁――この羽鳥の未来を背負う者たちとして、我々は深く敬意を表し、そして信頼を寄せます」
晴人の言葉に、列席者の中から静かな拍手が広がった。
次いで、筆頭士官として沖田総司が前に出る。まだ若い彼の姿に、一部の者は驚きの色を浮かべたが、その目の真剣さに異論を唱える者はいなかった。
「我らは、“羽鳥の盾”となるために集いました。剣を学び、心を磨き、民を守ります」
「どうか、我らを恐れず、信じてください。我らの剣は、誰かを切るためではなく、誰かを守るためにあります」
言い切った沖田の姿に、若き町の子どもたちが目を輝かせた。中には「剣士になりたい」と呟く少年もいた。
やがて式が終わり、五人の剣士は衛士隊本部の中庭に並んで構えをとった。全員が木刀を手にし、模範試合を披露する。
斎藤の突きが空気を裂き、永倉の構えはまるで教本のように正確。原田の槍は唸りをあげ、島田の受けは岩のように動かない。
そして沖田総司――華やかさと速さを兼ね備えた“燕返し”の型で締めくくり、中庭の見物人から大きな拍手が起こった。
その光景を見守りながら、晴人は心の中で小さく呟いた。
(――これで、羽鳥は守られる。いや、それだけじゃない。彼らが、この町の魂になる)
春の陽が彼らを照らしていた。未来へと続く剣の光が、静かに羽鳥を包み込んでいた。
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