59話:一万石の誓い
朝霧が薄らぐ頃、羽鳥の町は既に活気に満ちていた。凍てつくような風が街道の石畳を撫でるたびに、どこかの家の煙突から立ち上る白煙がゆらりと揺れた。
五万を超える人口を抱えたこの町は、いまや“新時代の中核都市”と称されるまでになっていた。商家が並ぶ本町通りでは、開店の支度をする商人たちが威勢の良い声を張り上げ、湯気立つ甘酒や焼き芋の香りが早朝の空気に混じって漂っている。空には風花が舞い、季節の移ろいを告げていた。
「殿、工部方より報告が届いております」
小走りにやってきた若い役人が、書状を差し出す。藤村晴人は受け取ったそれに目を通すと、わずかに口元を緩めた。
「水戸城再設計、完了か……」
彼が立っていたのは、羽鳥の町を見渡す高台にある仮設庁舎の一室だった。木造二階建て、とはいえ建築は堅牢で、政庁としての機能を十分に果たしている。窓からは、整備された街路や物資倉庫群、教育機関、病院、そしていま建設が始まろうとしている巨大な施設の基礎が見える。
“常陸公会堂”――それが、彼の構想する次の一手だった。
「斉昭公に草案を提出したのが二月……十ヶ月でここまで来るとは、我ながら上出来だな」
ふと口にしたその言葉に、傍らの侍女が微笑を返す。
「晴人様が描かれた未来の設計図、まさにこの町に根を張り始めております」
確かに、その通りだった。水道や衛生制度、食糧備蓄体制、そして流通網。彼が現代の知識と技術を基に築いてきた基盤は、今や羽鳥の住民たちにとって当たり前の暮らしとして根付いている。地元の大工たちによるモルタル工法の技術習得、幼児保育と初等教育の定着、町人・農民を問わぬ医療の平等化――すべてが、着実に実を結んでいた。
「報告書によれば、今月の移住希望者は九千四百三十二名とのことです」
別の文官が手帳を開きながら言った。
「来月には累計で一万人を超える見込みです。羽鳥の人口、来春には六万に達する勢いかと」
その数字に、晴人は目を細めた。確かに嬉しい。だが同時に、彼の中には焦燥もあった。
「都市が膨らめば、求められるものも膨らむ。自治も、治安も、教育も、物流も……中途半端では済まされない」
そう呟いた彼の手にあるのは、ひとつの印章だった。
“羽鳥自治官任命状”――
それは、水戸藩主・徳川斉昭自らが発した公的文書であり、晴人を「羽鳥町の全権長官」に任命するものであった。諸藩への牽制と幕府への睨みを利かせつつ、藩内における自治改革の“実例”として、羽鳥が持つ象徴性を明確にするという意図も込められていた。
「公会堂の設計には、あの建築士・谷山も協力を申し出てきました。彼は元々、大坂の町人で……」
官吏たちの報告が続く中、晴人はふと目を閉じた。
(“未来を見据える者”とは、過去を知る者でもある)
かつての日本。技術を知り、法を学び、民の声を聴きながらも、組織の硬直化と因習に縛られ、何も変えられなかった日々。地方公務員として、ただ“乗るだけ”の人生を歩んでいた自分。
それが、いまはどうだ。彼はこの町を、未来に向けて変えようとしている。そして、町の人々もまた、その想いに応えてくれている。
「――ところで、殿。あの件、鮭の件は……?」
ふと、配下の一人が言葉を濁しながら切り出した。
「うむ、那珂川・久慈川の調査結果が出た。秋から初冬にかけての遡上数、十分に確保可能だ。あとは――」
晴人は懐から設計図のような紙を取り出した。そこには、氷室と断熱箱を利用した“氷冷保管庫”の設計案が描かれていた。
「酢締めや塩水締めだけでは江戸の舌は唸らん。ならば、冷やして寝かせて旨味を引き出し、鮭寿司として仕立てる」
「さ、鮭寿司……! まさか生で?」
「問題ない。アニサキス対策も打ってある。酢と塩に加えて、冷却保管と即日処理。最初の一貫は俺が食べる。それで納得してもらうさ」
言い切る晴人の横顔には、どこか少年のような熱が宿っていた。
“水戸の地で、生食のサーモン寿司を”――それは確かに、当時としては非常識とも言える挑戦だった。だが、だからこそ、それは羽鳥に新たな名物をもたらす可能性に満ちていた。
「常陸の鮭、羽鳥の酢飯、新時代の握り――“水戸鮭寿司”の誕生か……」
誰かがぽつりと呟いた言葉に、部屋の空気が少しだけ華やいだ。
外には、雪がちらつき始めていた。
羽鳥の町に小雪が舞いはじめた午後、藤村晴人は、町の中心にほど近い「羽鳥新市場」の仮設長屋に姿を現した。
「よぉ、お殿様じゃねぇか。今日もお見回りかい?」
声をかけてきたのは、行商人の六兵衛だった。田舎町から流れてきた元農民だが、いまや干物と塩の卸でひと財産築いている男だ。
「殿と呼ぶのはやめろって言ってるだろ。俺は役人みたいなもんだ」
苦笑しながら返す晴人の声に、六兵衛はニヤリと笑う。
「へいへい、なら“町の親方”ってとこかい? ……それより、これ見てくれよ」
六兵衛が指さしたのは、屋台に並んだ“酢締め鮭の握り”だった。白木の板に乗せられた薄紅色の切り身が、握られた酢飯の上に美しく整列している。酢の香りとわずかな塩気が、湯気の立つ露店街の空気の中に、特別な存在感を放っていた。
「……もう出したのか?」
「ええ。さっき、志水先生が来てね、ひとくち食べてこう言ったんだ。“これは羽鳥の宝になる”ってな」
「……宝、か」
晴人の視線が、板の上の握りに吸い寄せられる。脳裏に浮かぶのは、那珂川の源流に赴き、氷室の可能性を探ったあの日々。天然氷を運ぶために設置した“氷道”と呼ばれる保冷ルート。村人総出で掘った断熱貯蔵庫。そして何より、“食中毒”という概念すらない時代に、信頼を得るためのたゆまぬ説明と工夫。
「冷やして、すぐに締めて、寝かせる時間を見極める。それだけで、命に関わる問題が防げる」
そう言い続けてきた言葉が、ようやく町に届いたという証だ。
「志水先生が口を開いた時、通りの奴ら、全員見てたぜ。あの御仁が口角を上げるなんて滅多にねぇからな。あれは効いた」
その時――市場の向こうから、賑やかな声が聞こえてきた。
「来てるぞ、来てる……おい、やっぱり噂は本当だったんだな!」
「旗がある! あれ、将軍家の使いの印だ!」
町人たちの視線が集まる先、ゆっくりと羽鳥町の南門をくぐって現れたのは、徳川慶喜の一行だった。
深緑の陣羽織に身を包み、従者数名を伴って馬を下りた青年の姿に、晴人の心がわずかに揺れる。
「まさか、本当に来るとは……」
慶喜の足取りは軽やかで、寒さをものともせぬ気迫があった。晴人が庁舎で書状を受け取ったのは三日前、内容は“羽鳥の現状を見たい”という一文だけ。斉昭の命令なのか、慶喜の独断なのか、そこはわからなかったが――。
「藤村殿。ご無沙汰しておる」
晴人が一礼すると、慶喜は飄々とした笑みを浮かべて返す。
「いやはや、まるで別の国に来たようだ。町の整い様、商人の声、炊事の香り――羽鳥はもはや、ひとつの“国”だな」
「恐縮です、ですが……私はまだ道半ばです」
そう言う晴人の背後では、屋台の料理人が手際よく握りを作り続けていた。目の前に差し出されたひと貫を見た慶喜は、眉を上げた。
「これは……魚か? 生だな」
「鮭です。冷凍殺菌を用いた安全な処理を施しております。内臓除去と即日酢締め。寄生虫のリスクはありません」
「……ほう。まるで異国の品だな」
慶喜は目を閉じ、ひと呼吸置いてから、その握りを口に運んだ。
咀嚼、沈黙、そして――
「……旨い。舌に絡みつく脂、酢飯の柔らかさ、香りが抜ける。これは……江戸で出したら、大評判になるだろうな」
市場がどよめいた。
「水戸の御曹司が認めたぞ!」
「本物だってことだ!」
その歓声を背に、慶喜は晴人の方を向いた。
「藤村殿、江戸の料理人を何人か寄越すゆえ、この製法を伝えてくれまいか」
「承知いたしました。ただし、保存技術がなければ命に関わります。条件付きであれば可能です」
「それで良い。命を預かる覚悟があればこそ、食もまた“政”となる」
その言葉に、晴人は確かに、未来を見た。
(これはもう、“食”ではない。外交の一手であり、商業の起爆剤だ)
その夜、羽鳥町のあちこちで“水戸鮭の握り”が振る舞われた。あえて最初の一貫は晴人と志水医師が口にし、次に慶喜が続いたことが、町民たちの警戒心を溶かしていた。
結果――わずか半日で、町の“名物”は誕生した。
『水戸鮭寿司』
それは、未来からやってきた知識と、幕末の職人技と、町の人々の情熱が生んだ、新時代の食文化だった。
――夜が、町を包み込んだ。
羽鳥の町の空には雲が流れ、小雪がしんしんと舞っている。だが、街道沿いの市場は熱気に満ちていた。赤提灯が揺れ、湯気が立ち上る。酢と米と魚の香りが立ちこめる中、男も女も、老いも若きも、みな笑っていた。
「よぉ、おっかさん! そっちの塩締めは売り切れだ、もう少し待ってくんな!」
「まったく……昼間から何十人並んだと思ってるんだか。まるで戦じゃないかい」
「志水先生が食べたって聞いたからなあ。“身体に悪くない”って」
「それに、あの徳川のお坊ちゃまも……」
町人たちが小声で語る“徳川のお坊ちゃま”とは、言うまでもなく徳川慶喜である。その名を口にするのも恐れ多いという空気は、もうこの町にはなかった。彼はひとりの“訪問客”として、堂々と握り寿司を口にし、町の活気を肌で感じ、笑っていた。羽鳥に、将軍家の血が混じることで、誰もが誇りを得たような感覚すらあった。
その一方で、庁舎の一室――かつて城主の控え間だった部屋には、緊張した空気が漂っていた。
「……これは、我が藩としても相応の支援を考えねばなるまい」
慶喜が座したのは、質素な木製の椅子だった。だがその姿には、確かな威厳があった。
「藩主である父上からは、まだ明確な命は下っておらぬが……今後の展開を踏まえれば、羽鳥は水戸藩の“第二の中枢”となる」
その言葉に、部屋にいた数名の役人や技術者たちが目を見開いた。
晴人はそれを制し、ひとつ深く息を吐いた。
「ありがとうございます。ですが――いまこの町を支えているのは、誰かの命令ではなく、人々の積み重ねた努力と、信頼の輪です」
「それゆえ、これほどの地になったのだろう」
慶喜は素直にうなずき、杯を手にした。
「この町の酒も、悪くないな。まろやかで、喉に優しい」
「地元の米と湧水だけで仕込んでます。醸造所は旧寺の跡地に建てました」
「なるほど、寺院の跡地か――。……かつての“祈りの場”が、いまは“人を生かす場”になった。実に象徴的だ」
慶喜の言葉は詩人のようで、どこか浮世離れしていたが、核心を突いていた。
そのとき、奥の障子が開いた。
入ってきたのは、佐久間象山である。
「慶喜公、少々お時間を頂戴したく」
「象山先生……まさか、こちらに?」
「ええ。羽鳥の火市を拝見しに。ついでに、あの“寿司”なるものも試してみた」
象山は口元に笑みを浮かべたが、いつもの辛辣さはなかった。
「なかなかどうして。見た目はただの酢飯と魚だが、噛むほどに意味がある。保存、清潔、技術――すべてがここに詰まっている」
「お褒めに預かり光栄です」
晴人が一礼すると、象山は軽く手を上げた。
「いえ。称えるべきは技ではなく、その“思想”です。安全と効率と、人の命の尊さを同時に成立させる……これぞ文明の成す技」
象山の声には、まるで未来を見通すような響きがあった。
「だが、当然ながら敵も多いでしょうな」
「はい。すでに“生魚など野蛮”だとか、“腹を壊すに決まっている”と騒ぐ者もいます」
「ならば、その声に勝つものを示せばよい」
象山は懐から小さな包みを取り出し、中から晒し布に包まれた巻物を出した。
「これは、医学的見地から記した“食中毒防止法”の試稿です。信州から持ち帰った漢方理論を基に、腸の構造と寄生虫の習性を記しています」
「……先生、それを公開していただけますか?」
「ああ、すべて任せます」
象山は笑った。
「我が役目は“理”を広めること。そして君の役目は、それを“実”にすることだ」
晴人は、思わず姿勢を正した。
佐久間象山、徳川慶喜――ふたりの巨星の前にあっても、今の自分はもう、ただの客人ではない。羽鳥の町を背負い、明日の“命”と“技術”を守る者として、ここに立っている。
その夜、慶喜は町の奥にある迎賓館に宿泊し、佐久間象山もそこに滞在を決めた。
羽鳥の夜は静かに、更けていった。
――夜半を過ぎても、羽鳥の迎賓館では灯が消えなかった。
山の稜線にかすかに白い月が掛かり、黒塗りの木造の館には静かな緊張感が漂っていた。障子の向こうで灯る行燈の光が、畳に柔らかく広がっている。
その一室では、徳川慶喜、佐久間象山、そして晴人が対面していた。
囲炉裏の上で湯がふつふつと沸いている。炭火の熱に浮かぶ白い湯気が、静寂の中にかすかな音を添えていた。
「……ここに来て、ようやくわかった」
静かに慶喜が言った。
「わたしは、“武家のしきたり”や“大義”という枠の中でしか物事を見ていなかった。だが、この町は違う。ここでは“どうすれば人が生きられるか”が、先に来ている」
「それが、現代の思考です」
晴人が答えた。声は控えめだが、確かな響きがあった。
「武士の名誉でも、幕府の威信でもなく、誰かが生き延びるために必要なものを、ひとつずつ作る。結果としてそれが“制度”や“文化”になっていく。……だから、人が集まるんです」
「なるほどな。父上がなぜ君を庇護し続けてきたか、いまなら理解できる気がする」
慶喜の目が、火を見つめたまま細められる。けっして誰かを試すような色ではない。彼の内にある、“未来への焦燥”が垣間見えた。
「私は……この先、どのような立場になろうとも、“生き延びる者”たちの理を忘れずにいたい」
「では、その覚悟をお見せください」
その言葉に、佐久間象山が口を挟んだ。焙じ茶を一口すすったあと、鋭い視線で慶喜を見つめた。
「慶喜公、貴方は将軍の座に最も近い男だ。だが、それは“動かぬ山”になることを意味する」
「……わかっているつもりだ」
「ならばなおのこと、今ここで“動く者”を支えると、言葉ではなく“形”で示せ」
象山は、脇に控えていた従者を手で下がらせた。
「晴人殿。先ほど話に出ていた“鮭の冷凍保存庫”、あれを本格的に実用化するには人手も材料もいる。さらには、専門の保冷庫職人、魚を裁ける料理人、そして衛生面を統括する医師が必要だ」
「志水医師を中心に、教育と訓練を行っています。だが、拡張のためには支援が――」
「それなら、話は早い」
慶喜がすっと立ち上がり、懐から重々しい木製の文箱を取り出した。
「これは父上――斉昭公の御意による朱印状である」
ゆっくりと箱を開け、中から紅い印を押された巻紙を取り出す。広げられたその文書には、太く力強い筆致でこう記されていた。
――羽鳥の地を以って、藤村晴人に一万石相当の知行を与える。以後、羽鳥の政はおぬしの裁量に一任する。
「……!」
晴人は思わず息を呑んだ。
「……わたしの裁量、で……?」
「そうだ」
慶喜が頷く。
「君はこの三年で、わずか数百人の寒村を、五万人を超える都市へと築き上げた。その力は、もはや一介の家禄では測れぬ。羽鳥のすべてを預けること――それが、父の意志だ」
象山もまた、深く頷いた。
「時代を動かす者には、それ相応の地位と責任が必要だ。だが、これは“ご褒美”ではない。むしろここからが本番だと心得よ」
晴人はしばし言葉を失った。炭火の音、湯の音、虫の声――すべてが遠くなる。
この町に来て、三年。
人々の病を治し、飢えを凌ぎ、井戸を掘り、学び舎を作った。子どもが笑い、年寄りが春を迎えるようになった。
だが、それでも尚、自分は“よそ者”だと、心のどこかで思っていた。
――それが、いま、終わった。
この羽鳥の地が、正式に“自分の裁量”に委ねられるというのなら――それは、この地に根を下ろした証だ。
「……受け取ります」
深く頭を垂れ、晴人は朱印状を両手で受け取った。
「この地に、命の水脈を絶やさぬよう。すべての民が、食い、笑い、生きる未来を守るために。……身命を賭します」
慶喜が微笑を浮かべた。
「その言葉、しかと聞いた」
その夜の会談をもって、羽鳥は“藩政の副都”として正式に認められ、藤村晴人はその初代総代となる。
彼の名は、翌月には江戸に届き、さらにその翌年には他藩にも知られる存在となった。
だがその影で、密かに動き出す者もいた。
夜の羽鳥神社の裏手。竹林の中に身を隠すようにして、ひとりの若者が火を見つめていた。
彼の名は――諸生党の密偵、三木庄左衛門。
「“鮭の握り寿司”など、まやかしに過ぎぬ……。だが、その裏にある“思想”は、いずれこの国の骨をも腐らせる」
彼の目が、怒りと憂いに揺れていた。
――新たな敵も、また動き出していた。