58.5話:一羽から始まる、羽鳥の肉革命
冷たい風が山から吹き下ろす十一月末の朝、羽鳥の庁舎に据えられた囲炉裏には、いつもより多めの薪がくべられていた。室内はわずかに暖かく、しかしその温もりは、議題の緊張を和らげるには足りなかった。
「……越冬に向けた食料備蓄の件です」
藤村晴人は、薪のはぜる音に負けぬよう、はっきりとした口調で言った。
背後の帳簿には、羽鳥全体の保存食在庫が列挙されている。干し芋、乾燥わかめ、塩漬け大根、味噌漬け豆。どれも工夫を凝らした貯蔵品だが、ひとつだけ、決定的に欠けているものがあった。
「タンパク源が、足りません」
その言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。
「確かに……干し魚も限りがございますし、米もまだ配給制で……」
「寒くなれば、働き手の体力も落ちてくる。医務所も、栄養失調の子が出始めておりましてな」
顔を見合わせる家老や郡奉行たちの間に、不安の色が広がる。
「そこで私は、養鶏場の鶏を“食肉”としても活用すべきだと考えています」
「……はっ?」
沈黙を破ったのは、武張った声だった。
「そ、それはつまり……鶏を、潰すと申されるか?」
「卵を産むだけでなく、肉としての活用を――」
「いや、それはいささか乱暴では……」
声が重なった。だが、晴人は一歩も引かなかった。
「今、羽鳥には約五百羽の成鶏がいます。そのうち、産卵能力が落ちたものを中心に、食肉として処理します。残りの親鶏は温存し、引き続き卵を供給させる。無計画な殺処分ではありません。戦略的な食肉化です」
静かに地図を広げる。羽鳥南方に設けられた「試験鶏舎」と「処理所予定地」が赤で囲まれていた。
「すでに衛生的な処理場の準備も進めています。処理後は燻製、干し肉、味噌漬けの三段構えで保存します。干物より遥かに高タンパク、高栄養です」
「まさか、味噌漬けの肉とは……」
「水戸の御城下でも武家の一部で“味噌樽漬けの鳥”が密かに食されていた記録があります。味噌が肉を腐敗から守り、冬を越す保存食品となるのです」
「だが、表立っては……。鳥を殺して食すなど、庶民の目にはどう映るか」
その言葉に、晴人は静かに微笑んだ。
「ですから、これを“御用鶏”として扱います。正規の処理を経た特別な食品です。庶民にも伝えます。――これは“命を無駄にしないための選択”であると」
張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。
その時、最年長の藩士、飯田弾右衛門が咳払いして口を開いた。
「……実は拙者、すでに何度か、内密に鶏を……」
「えっ」
「いや、養鶏場の試験段階で、死産した雛や病鳥が出ましてな。廃棄するのも忍びなく、密かに調理して食してみたのだ。……実に、うまかった」
「それは……貴重な知見です」
晴人は苦笑しながらも深く頷いた。予想外の“現場試食”に、場内の空気もやや和らぐ。
「すでに羽鳥では、密かに食していた者もおります。だが今後は、公式に、衛生的に、持続可能な形で運用します」
晴人は立ち上がり、最後にひと言加えた。
「人は、パンのみにて生きるにあらず。――肉も、必要です」
誰からともなく、笑いが起きた。
議題は可決された。
羽鳥“肉革命”の始まりであった。
初冬の羽鳥。風は鋭く冷たく、空気は乾燥し、煙突から立ち昇る白煙が空に向かってまっすぐ伸びていた。
羽鳥御禽処理所――通称「鶏小屋」は、町の外れに設けられた仮設の長屋である。木組みの柱と藁葺きの屋根、そして東側には炭を焚く小さな燻製小屋が隣接している。
その内部では、十数名の女性たちが黙々と作業に従事していた。
解体、洗浄、下処理、燻製、塩漬け、味噌詰め――すべての工程が流れるように行われ、羽鳥に初めて“肉の流通”という文化が根を下ろし始めていた。
「血は、こうやって井戸水で流してから、内臓はこっちの籠へ」
指示を出しているのは、かつて寺子屋で裁縫を教えていた若い未亡人・お豊である。彼女は数ヶ月前から衛生講習に参加し、今では処理所のまとめ役を担う存在になっていた。
「羽は炭焼きの人たちが火種にするそうですよ。無駄なく使えって、藤村様のお達しです」
彼女の背後では、味噌漬けにされた鶏肉を麻袋に詰める作業が進められていた。厚手の藁でくるまれた袋は、地下貯蔵庫に保管され、厳冬期に向けて備蓄されることになる。
そこに、数人の役人が入ってきた。
「――視察だ。通せ」
先頭に立っていたのは、若き徳川慶喜その人である。白い裃に黒い羽織、瞳には知の光が宿る。
「これは……すごいな」
彼は、解体されたばかりの鶏肉を前に、しばし言葉を失った。かつて自らの家でも鳥を食することはあったが、このような規模での処理場を見るのは初めてだった。
「殿、こちらが味噌漬けの鶏肉でございます。風味もよく、保存も効くとか」
案内に立ったのは、晴人の右腕とも言うべき役人・神崎である。慶喜は袋のひとつを手に取り、鼻を近づけた。
「……ほう、これは旨そうだ。焼けば香ばしくなりそうだな」
その目の輝きは、まさに少年のようだった。
「人は米で満たされるだけでは、力が出ぬ。ましてや、羽鳥のように働き手が多く、寒さが厳しい地では……肉が必要なのだな」
「その通りでございます、慶喜様」
背後から現れた晴人が、そっと一礼して答えた。
「労働力の維持、病人や妊婦の栄養補給、さらに軍備や災害対策まで――すべてに通じる基礎は、“食”にございます」
「うむ……“腹が減っては戦はできぬ”か。まさに真理だ」
慶喜は燻製用の干し肉をじっと見つめた。
「これ、何日もつ?」
「冬であれば二十日は持ちます。さらに、味噌漬けや油封(ラード封じ)にすれば、月単位での保存も可能です」
「……おそろしいな、君の発想は」
そう言って慶喜は、静かに笑った。
「だが面白い。もし江戸でこれを広めたら……一体どれほどの命が救われることか」
「江戸ですと?」
「いや、ただの妄想だ。……されど、私が将来どこかで“改革”を担う日が来たならば、この“羽鳥式の保存食”を導入させてもらうぞ」
晴人は目を伏せたまま、小さく頷いた。
その瞬間、屋内に湯気と香ばしい香りが満ちる。屋外で試作された“焼き鳥”が、試食として持ち込まれたのだ。
「これは……!」
慶喜は串を取り、一口食べた。
噛んだ瞬間、香ばしい味噌の風味と、噛み応えのある鶏肉のうまみが口に広がった。
「……旨い!」
その目が大きく見開かれ、周囲の女性たちも思わず笑みを浮かべた。
「羽鳥に生まれた幸運に、乾杯だな」
慶喜は冗談めかしてそう言った。
そして、くるりと背を向けながら、
「晴人――君が生きる時代が、私の生きる時代よりも、よほど“豊か”であることが、今、ようやく分かった」
その言葉は、まるで未来を垣間見た者のようだった。
「時代は変わる。だが、民の腹を満たす者だけが、本当に“政”を語れるのだな」
そう呟きながら、慶喜は冷たい風の中へと歩み出ていった。
朝もやが晴れ、太陽が低く空を照らす頃。羽鳥の市場には、いつもとは違う香ばしい匂いが立ち込めていた。
竹串に刺さった鶏肉が、炭火の上でじゅうじゅうと音を立てている。味噌を絡めた串焼き、塩を振った素焼き、そして珍しい甘醤油だれのものまで。市場の屋台が、次々と“肉”という名のごちそうを炙っては、湯気と香りを四方に放っていた。
「ほら、食べてごらん! これが“にく”だよ」
若い母親が、幼い娘の口に焼き鳥の先を向ける。娘はおそるおそる齧り、ぱあっと顔を輝かせた。
「……あまい! おいしい!」
「当たり前さ。羽鳥の新名物だもん」
屋台の男が得意げに胸を張る。手には一本百文の札がぶら下がった板があったが、飛ぶように売れていく。
一方、医療所では、やせ細った子どもや病後の農民たちに、特別な「鶏の味噌煮」がふるまわれていた。少量の根菜と煮込まれたスープは温かく、栄養があり、食欲のない者にも優しい。
「……これを、いつでも食べられるようになるのですか」
眼鏡をかけた医師――佐久間象山が、スープを一口含み、驚きの表情を浮かべた。
「はい。燻製や干し肉であれば、常備薬のように、一定の備蓄が可能です」
晴人が穏やかに答える。
「……タンパク質は、我が国では長く“味噌や豆”に頼っていた。しかし、このような肉の保存が広まれば、今後の医療も大きく変わる。体力の低下、回復の遅れ、出産時の消耗……すべてが改善されうる」
象山は湯気の立つ椀を見つめたまま、静かに言った。
「……これは、もはや一つの“文明”だな」
その言葉に、晴人は思わず目を細めた。
「羽鳥は今、農業、医療、教育、兵備のすべてが進みつつあります。だが、何よりも“命を支える食”を整えることが、最優先と考えました」
「うむ、見事な先見だ。……これで、コレラのような疫病が再び襲ってきても、体力を持って耐えられる者が増えるだろうな」
コレラ――その名を口にした瞬間、場にわずかな緊張が走った。
ついこの秋、関東各地を襲った流行病。高熱、激しい下痢、数日のうちに衰弱死する恐ろしい病。羽鳥では事前に水の煮沸と衛生指導を徹底したおかげで大流行は防げたが、江戸や水戸の町では多くの死者が出たと報告があった。
「……先生、私も現代でコレラを学びました。菌の存在と、経口感染、そして……」
「それを言うな」
象山が小さく手を上げて、言葉を制した。
「藤村、君の“未来”を、私は知らぬ。知りたい気持ちもあるが、それをあえて聞かぬのが礼儀だと、私は思っている」
晴人は口を閉ざした。
「だが、君の見ている“景色”の一部を、こうして食として感じることができるのは……感謝すべきことだ」
象山は箸を置き、すっと立ち上がった。
「君は、決して“理屈”だけの男ではない。人が生きるために、必要なものを見ている。その視線が、今の羽鳥をつくっているのだろう」
晴人は黙って頭を下げた。
そしてその頃、市場ではもう一つの騒ぎが起きていた。
「これ……軍鶏だと!? この脂、弾力、まさか羽鳥で育てたのか」
驚きの声を上げたのは、水戸からの視察団の一人である。彼の前には、焼かれた干し肉と、味噌漬けの軍鶏の煮込みが並んでいた。
「はい、献上用として選別された個体を数羽だけ……。肉はしまっていて、味も濃いとの評判です」
「これは江戸に持ち帰れば、殿中でも大評判になるだろう。……まさか、こんな寒村から“肉文化”が広がるとはな……!」
その言葉に、周囲の羽鳥の人々が誇らしげに顔を上げた。
小さな一羽の鶏がもたらした大きな変革――それは、人の命を支え、誇りを生み、未来を照らす希望となっていた。
昼下がりの羽鳥は、いつにも増して活気に満ちていた。
軒先で炭火を熾す音、店主たちの呼び声、子どもたちのはしゃぐ声、そして、それらすべてを包み込むような香ばしい匂いが町を覆っていた。鶏肉だ。焼かれ、煮られ、燻され、干された――新しい名物が、いま町のあらゆる隅に根を下ろし始めていた。
「あれ? おい、お前、昨日も買ってなかったか?」
「うん! でも今日は“味噌漬け串”が出たって聞いたんだ! 百文貯めたんだぞ!」
少年が得意げに串を握る姿に、屋台の男も笑った。
「ちっとは野菜も食えよな!」
「うん! 昨日は大根食べた!」
そんなやりとりに、並ぶ人々もつられて笑う。屋台の脇には、“炭焼き講習中”と書かれた木札が下げられており、隣では若者が真剣な顔で火加減を調整していた。
「……強すぎると焦げる、弱すぎると水気が残る。干し肉にするときは、この“じわ焼き”がいい」
教えているのは、晴人が派遣した職業訓練係の一人だった。若い藩士上がりの男で、元は農政係だったが、今では完全に“調理の人”となっている。
「……ったく、役所仕事だと思って来たら、まさか肉焼かされるとはな」
ぼやきながらも手は器用で、焼きあがった鶏を美しく皿に並べる。
――だが、ただ焼いているだけではない。
彼らが並べた串のひとつには、「塩だけ」「山椒入り」「味噌+唐辛子」「焼きネギ添え」など、小さな木札が添えられていた。
「……これは、薬味による嗜好調査です。十日間、昼と夜の売れ筋を集計して、来月の献立を決める」
傍らで帳面をつけていた女の子がそう説明すると、周囲の者たちが一様に目を丸くした。
「……この町、どこまで変わるんだ……」
まさに、食を通じて人が変わり、町が変わる――その中心には、育てた鶏がいた。
*
その夜、晴人は小さな集会に出席していた。場所は、かつての町役場を改修した庁舎の一室。そこには、羽鳥の食文化を担う女性たち――料理人、主婦、町娘、そして町医者の妻までもが集められていた。
「……つまり、この“干し肉”と“燻製”の技術は、ただ食べるためだけのものではありません。備蓄にも、救援にも、そして――経済にもなるのです」
晴人は、卓上に干し肉の詰まった箱を置いた。中には、小さな布袋に分けられた肉が五種類。いずれも風味が異なり、日持ちも三十日以上。
「これを“百文袋”として販売すれば、非常食としても、旅人向けの商品としても使えます。町の婦人たちが作る“保存肉”が、羽鳥の特産として売られる時代が、すぐそこまで来ています」
一同の顔に驚きと誇りが広がる。
「江戸にも売れるかしら……」
「旅籠に置いてもいいわね。あの神栖屋なんて、最近“羽鳥の焼き鳥”を出して評判よ」
「うちも仕入れたいって言ってたわよ!」
それぞれが声を上げる中、ふと、静かに手を上げる年配の女性がいた。
「……晴人さま。昔は、肉を食べるなんて“下賤の行い”とされていたでしょう? でも今では、お医者さまも進めてくれる。……私たちが、肉を扱っても、よいのでしょうか?」
その声は、不安というより“覚悟”のようだった。
晴人は、はっきりと頷いた。
「はい。命を支えるのに、身分も性別も関係ありません。羽鳥の人々が、命をつなぎ、生きる力を取り戻すために――“肉”を受け入れてください」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
誰かが、小さく拍手を始めた。それが次第に波のように広がり、やがて全員が立ち上がって拍手を送っていた。
*
夜が更け、町の灯が減っても、市場の片隅ではまだ火が残っていた。
「うん……これは売れそうだな」
焚火を前に、元武士の青年と、晴人に協力する商人の老人が話していた。
「“羽鳥の肉”という名だけで、城下でも話題になってる。とくに“献上品”と聞いたら、皆欲しがる。……だが、本当に必要なのは――」
「“日常にある、命をつなぐ一切れ”ですね」
青年が静かに返す。
「はい。晴人さまは、戦でも飢饉でもない“今”を生きる者のために、仕組みを作ってくださっている。それを、俺たちがつなぐんです」
炎の向こうには、燻製小屋が並び、町の若者たちが交代で炭の調整をしていた。
“肉”というたった一つの資源が、いまこの町に、新しい未来を刻み始めていた――。
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