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58話:命の帳簿と、希望の債権

――秋の終わり、羽鳥の空には、透き通るような冷気が流れていた。


 庁舎の一室。帳簿の山に囲まれながら、藤村晴人は一枚の古びた帳面を見つめていた。墨の滲んだ数字は、かつて水戸藩が背負った“絶望”の記録である。


 つい三年前には二十万両を超えていた水戸藩の債務が、いまや六千両にまで減じていた――。


 「……ここまで、来たか」


 つぶやきは、紙の上にだけ吸い込まれるように消えた。


 その手元には、月ごとの収支表。小さな数字が並ぶ中、晴人の目が止まったのは、十一月度の最終行だった。


 黒字、三百二十一両。


 前年には考えられなかった奇跡だった。教育、医療、道路、宿泊、炊き出し、衛生設備。支出の多さは変わらない。だが、それでも収入が支出を上回っている。これは、帳簿の数字だけでは説明できない“支え”があるという証拠だった。


 「これは……寄付と、無償労働が支えてくれた数字だ」


 晴人は、感情が喉元までせり上がるのを感じた。


 村の長屋で、病人を背負って医療所へ向かう若者の姿。学び舎で、筆を持つ子どもたちの後ろに、黙って机を削る職人の姿。道端で、倒れた老婆を支える農民の手。


 そうした“数字にならない支え”が、この羽鳥を根底から動かしている。


 「帳簿には残らないけれど……この町の本当の力だ」


 ふと、襖の向こうから声がした。


 「藤村様、東湖様と松陰先生がお見えです」


 声の主は若い書記。晴人は慌てて立ち上がり、袴の裾を整えた。


 「通してくれ」


 襖が開き、藤田東湖と吉田松陰が並んで入ってきた。ふたりとも落ち着いた衣を纏い、いずれも目に力を宿していた。東湖は穏やかな笑みを浮かべ、松陰は眼差しだけで多くを語っていた。


 「おう、帳簿とにらめっこか。まるで儒者ではなく算術家のようだな」


 東湖の冗談に、晴人は苦笑を浮かべて頭を下げた。


 「最近では“金は人を育てる”という言葉まで町で交わされるようになりまして……経済が生活の支柱であると、民が理解し始めています」


 「それは面白い。まるで西洋の功利思想のようだな」


 松陰が静かに頷いた。


 「我が教え子たちも、教養や武術だけでなく、商や農を“生きる知”として真剣に学んでおります。むしろ、学舎の中よりも、町そのものが学び舎だと……そう申しておりました」


 晴人は一瞬、目を細めた。


 「町そのものが学び舎……。それほどに、この羽鳥には“人を育てる風土”が根付きつつあるのですね」


 「うむ。その成長こそが、羽鳥を変えたのだ」


 東湖は、晴人の手元の帳簿を手に取り、最後の行を指でなぞった。


 「六千両……これは、複利凍結の成果か?」


 「はい。ご承知の通り、隠密裏に金主との交渉を続け、借換債の発行と利子支払いの一時停止を了承してもらいました。その間に商会からの一括返済を進め、各産業組合が利益を納めたのです」


 「苦肉の策をよくぞ実らせたな。されど、数字はただの影。実像は“人”にある」


 松陰が頷いた。


 「その通りです。私は、この町における最大の資産は“人心”であると確信しております」


 晴人は、思わず目を伏せた。


 町の女衆が織った反物を、町の子どもたちが荷車で運び、町の若者がそれを江戸に売りに行く。誰に命じられたわけでもない。その循環は、信と誇りの連鎖によって生まれていた。


 「帳簿の裏に咲く花は、人の手で咲いたものです。私の手柄ではありません」


 「だが、おぬしが“水”を引いたのだ」


 東湖の言葉に、晴人は小さくうなずいた。


 この町は、確かに変わった。そして、変わり続けている――帳簿には記せない“人の花”が、今日も羽鳥のあちこちで咲いているのだ。

町の一角にある私塾「青陽堂」は、朝から子どもたちの声に満ちていた。


 瓦屋根に霜が降りる季節。だが教室の中には、薪の炉が焚かれ、湯気の立つ湯飲みと、にこやかに筆を走らせる少年少女の姿があった。


 「“義”とはなんぞや――そう問われたなら、汝らはどう答える?」


 教壇に立つ吉田松陰の声は、厳しくも温かい。羽織の裾が揺れ、目に光を宿したその姿は、子どもたちにとってまさに“生きた書物”そのものだった。


 ある少年が、筆を置いて手を挙げた。


 「……先生。人を裏切らず、損得抜きで助けること、だと思います!」


 「よろしい。だが、“義”はそれだけにとどまらぬ」


 松陰は板書の横に、新たな一文字を書き加えた。


 「商」


 ざわつく子どもたち。義と商――相反する言葉が並んだことで、理解が追いつかぬ者もいる。


 「商とは、金を扱う道だ。だが、金を扱う者が“義”を捨てれば、やがて町も人も滅びる。金とは“心”を試す道でもあるのだ」


 沈黙。年若き生徒たちは、ただ真剣に黒板と松陰の顔を見つめていた。


 「羽鳥の町は、まさにこの“商と義”を両立しようとしている。無償の労働、寄付、信用による取引……すべては心の義から生まれた経済だ」


 窓の外で、雪混じりの風が竹垣を揺らした。


 松陰は筆を置き、ひと呼吸置いて生徒たちを見渡した。


 「私は思う。羽鳥は、いずれ“教育と経済”の融合によって、日本の希望となる町だと――だからこそ、諸君には己の志を、己の言葉で語れる人になってほしい」


 その日、松陰の言葉は“書物以上の記憶”として、子どもたちの心に刻まれた。


 ──


 一方、庁舎では藤村晴人が、職人頭の男と対面していた。


 男の名は岩崎清兵衛。製鉄所の火を守る熟練工であり、町の重鎮でもある。火を操る者としての矜持を、その煤けた肌に刻み込んでいた。


 「……三百両の黒字、まことに見事でござんす」


 清兵衛は笑いながら、重ねた手で膝を叩いた。


 「だがな、若旦那。町の奴らは皆、あんたが無理してるのを知ってる。自分の俸禄を切って、職人に手当て回してることもな」


 晴人はわずかに笑った。


 「町が生きなければ、私の俸禄など意味がありません。帳簿の数字が浮いても、人の心が沈んでいたら、何の意味もない」


 清兵衛は、くぐもった声で言った。


 「それでもよ、晴人様。あんたが笑ってないと、俺たちも笑えねえ。あんたが倒れたら、この町もろとも崩れる」


 静かな間が流れた。


 晴人はふと窓の外に目を向けた。冷たい風の中、女たちが織物を干し、子どもが風車を追って駆けていた。暮らしは厳しい。それでも、笑顔があった。


 「……私が倒れても、この町は残ります。もう、そのだけの力が、羽鳥にはある」


 「へっ……生意気なことを言うようになったじゃねえか」


 清兵衛は、愉快そうに鼻を鳴らした。


 「けど、そう言い切れるなら、あんたは立派な“藩士”だ。背広の下に、武士の心がある」


 その言葉に、晴人ははにかんだように笑った。


 ──


 夕刻、再び晴人は青陽堂を訪れた。松陰は講義を終え、囲炉裏の前で湯を沸かしていた。


 「藤村様、わざわざ……」


 「子どもたちの声が聞きたくてな」


 廊下に腰掛けたふたりは、外の夕焼けに染まる町を見下ろした。


 「松陰先生。羽鳥は……この先も変わり続けられるでしょうか」


 「ええ、変わり続けねばならぬのです。教育も、経済も、信も。とどまった時点で、“終わり”が始まる」


 「終わり、ですか……」


 晴人は思わず、帳簿の数字を思い返した。黒字、六千両以下の債務。だがそれは、通過点にすぎない。町の成長は、“見えない価値”の上に成り立っている。


 「藤村様。私は信じております」


 松陰は言った。


 「この町は、徳でも礼でもない、“義”を基にしている。だからこそ、目に見えぬ絆が育っているのです。たとえ国が乱れようとも、この町の志が途切れぬ限り、羽鳥は民の希望となる」


 外では、夜番の拍子木が鳴り始めていた。


 「火の用心――、火の用心……」


 その声に、ふたりは黙って耳を傾けた。


 “帳簿の裏に咲いた花”は、きっとこの先も、冬を越えて咲き続ける。

医務所の奥にある調薬室は、湿った薬草と湯気の入り混じる、独特の空気に包まれていた。


 藤村晴人は、丸太机に置かれた帳簿を開き、荒い息を吐きながら筆を走らせていた。手元には、羽鳥の各診療所から上がってきた患者数の記録と、死亡率の推移が並ぶ。コレラ発症から半月、羽鳥の死者は当初の予測を大きく下回っていた。


 その静けさを破るように、障子が音を立てて開いた。


 「……やはり、君の策は当たっていたようだ」


 志水医師――元は水戸藩の典医であり、今は羽鳥の町医者として奔走する男が、やや疲れた面持ちで中に入ってきた。白髪まじりの鬢は汗で貼り付き、薬湯の匂いが染みついた衣の袖口が濡れている。


 「村の外れの一家――全員があの飲み薬で回復した。胃腸の張りも消え、脱水症状も抑えられている。……何を混ぜたんだ?」


 晴人は筆を置き、微かに笑った。


 「……塩と砂糖、そして煮沸した水だけですよ」


 「それだけで?」


 「正確には、“水一升に塩ひとつまみ、砂糖ふたさじ”。下痢で水分と電解質が奪われる。失ったものを補う。それだけで、命は繋がるんです」


 志水は驚きに目を見開いたが、やがて深く頷いた。


 「理に適っている。……なるほど、病そのものを叩くのではなく、体を支える方向か。まさに、東洋医学では辿り着けぬ発想だな」


 「僕も、ある西洋の本に書かれていた内容を覚えていただけです。正直、効果があるかは……やってみるまで分からなかった」


 iPadの知識を表に出すことなく、晴人は“うろ覚えの文献”という体裁で言葉を濁した。


 志水は少し口元を緩めると、棚の奥から蒸し布で包んだ湯飲みを取り出し、机の上に置いた。


 「……湯だ。少し休め。おかげで町全体が助かった。町医者として、礼を言う」


 晴人は黙って湯を受け取り、両手で抱えるように飲んだ。


 湯気の奥に、夜の羽鳥の静けさが広がっている。外ではまだ消毒作業が続いているはずだ。井戸には炭と石灰、住民の手には熱湯と布巾。衛生という言葉すら存在しない時代に、人々は確かに新しい“命の守り方”を学び始めていた。


 「……これで終わりじゃない。コレラはまた来る。海の向こうでも、毎年のように流行ってる」


 志水は静かに頷いた。


 「ならば、我々も備えねばな。来年も、再来年も」


 晴人はふっと目を細めた。医療の本質は、勝利ではなく“継続”にある。


 そのとき、帳簿の片隅に置かれた小さな紙片が目に留まった。羽鳥の全会計記録をまとめた紙――そこには、かつての水戸藩全体の債務額と、現在の羽鳥の黒字額が並んでいた。


 つい三年前には二十万両を超えていたはずの水戸藩の債務は、今や六千両以下にまで圧縮されていた。複利の雪だるまを凍らせた“帳簿の封印”――そのスキームが功を奏し、現在では毎月二〜三百両の黒字が出ている。


 しかし、それを支えるのは数字だけではない。


 役人たちの無償労働。商人たちの寄付。町人たちの善意。祭りで得たわずかな収益までもが、コレラ対策に回されていた。


 「……この黒字も、見えない支えがあってのものだな」


 志水の呟きに、晴人は小さく頷いた。


 「はい。羽鳥の人々が、“誰かのために”動いてくれている。その背中が、この数字を作ってるんです」


 静かに、風が障子を揺らす。


 志水は席を立つと、外へ出て行った。晴人も続く。


 夜の羽鳥の街並みは、淡い行灯の灯りに照らされ、いつもよりも穏やかに見えた。消毒を終えた子どもたちが、手を拭いながら母親の後を追っている。屋台の奥では、炊き出しの香りが立ちのぼる。


 命が繋がる――それは数字にも、言葉にも代えがたい事実だった。


 (帳簿の裏に、確かに“花”が咲いた)


 晴人は心の中で、そう呟いた。

夜明け前の羽鳥は、深い蒼に包まれていた。


 通りに並ぶ行灯は、ひとつまたひとつと火が落ち、町は一時的な静寂に包まれていた。だが、その静けさの裏では、数えきれぬ人々の息づかいが続いている。医務所、炊き出し場、衛生班の詰所、そして診療所の裏手に設けられた仮設病棟――そこには、まだ“明けぬ夜”と闘い続ける人々の姿があった。


 「……少しは、落ち着いたか」


 藤村晴人は屋上に立ち、遠くの煙突から立ちのぼる蒸気を見つめていた。彼の手には、志水医師から渡された簡易な報告書。コレラによる死者数は、前例のある他藩に比べて桁違いに少ない。初動の封鎖と対処、そして“経口補水”の導入。あらゆる手段が、羽鳥を救った。


 だが、まだ終わりではない。


 (再発のリスクはある。水源も不安定だし、下水は整備されていない。これからが本当の勝負だ)


 そう思いながら手すりに寄りかかったその時――背後で、重たい足音がした。


 「夜に、屋上で思案とは。まるで時代劇の主人公じゃないか」


 少し鼻にかかった声。振り向けば、紋付きの羽織に身を包んだ壮年の男が、ゆっくりと階段を上がってきていた。


 佐久間象山――幕府の学者にして、改革派の異才。


 「……象山先生、こんな時間に?」


 「君に礼を言いに来たのさ。志水殿から報告は受けたよ。まさか、“煮沸水と塩砂糖”だけでこれほどの効果とはな」


 象山は屋上の縁に腰を下ろし、夜明け前の町を見渡した。町の灯がまだところどころ灯っているのが、逆に幻想的に映る。


 「これは、君でなければ思いつかなかった策だ。西洋医学すらも知らぬ者にとっては、ただの“民間療法”にすぎぬ。しかし実際に、人が救われた。……それがすべてだ」


 晴人は苦笑しながら首を振った。


 「ただの応急処置ですよ。対処療法にすぎない。清潔な水、下水、医薬体制――必要なものは山ほどあります」


 「そうやって、次を見据えるところが君の良さだ」


 象山は立ち上がり、屋上に置かれた古い木箱の上に文書の束を置いた。


 「これは、君のために持ってきた。江戸で集めた疫病記録と、長崎からの蘭学訳書だ。私の手元にあったものの複写だが、次に備えるには役立つはずだ」


 晴人は一瞬、息を呑んだ。


 (……本物だ。幕末でも最先端の知識の塊)


 手に取ったそれは、オランダ語と漢字が混ざった不可解な書き写しだったが、いくつかの用語に覚えがあった。“cholera”“hydration therapy”……コレラと、経口補水の概念。


 「これがあれば……」


 「私に言わせれば、君こそが“最先端”だ。水戸の奥地で、これほどの対処ができる者などいない」


 象山は、ぽつりと呟いた。


 「もし、君が江戸にいれば……幕府の医制改革を任せても良いとすら思える」


 「……僕は羽鳥から離れません」


 即答だった。


 象山は驚くこともなく、静かに頷いた。


 「なぜかは、聞かぬ。だが、君の行動が“国の未来”を確かに変えた。それだけは覚えていてくれ」


 夜風が吹き、ふたりの衣の裾を揺らした。


 晴人は資料を胸に抱え、視線を羽鳥の街に向けた。


 遠く、井戸の前に並ぶ子どもたち。布で顔を覆いながら石灰を撒く老人。炊き出し場で雑炊をよそう女性たち。どれもが“防疫”という言葉を知らずとも、命を守る行為そのものだった。


 (僕がすべきなのは、彼らの“未来”を積み重ねていくこと)


 象山は最後にこう言った。


 「君の考えを、私は“実験”ではなく、“意志”と捉えている。現代の手法でも、過去の理念でもない。君が目の前の命を救いたいと思ったからこそ、動いた。それが、“道”というものだ」


 その言葉に、晴人はそっと目を伏せた。


 空が、わずかに明るみ始める。新たな朝が羽鳥に訪れようとしていた。

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