6話:竹と水と、志の流れ
水戸城下の朝は、どこか張り詰めた空気に包まれていた。
地震の余波はまだ冷めやらず、壊れた土塀の影から顔をのぞかせる子どもたちの目には、不安と飢えが濁っていた。晴人は、炊き出し場から離れた川沿いの通りを歩いていた。瓦礫が崩れ落ちた路地、割れた井戸の口、そこに集まる人々。
「……やはり、水の確保が最大の問題か」
木桶を手にした老婦人たちが列を成していた。だが、その先の井戸は地震によって土砂で埋まり、使い物になっていない。
水が手に入らなければ、炊き出しどころではない。衛生状態も悪化する。
「すみません、井戸は……」
「昨日の夜には、完全に止まっちまいました。山のほうから引いてる水道筋が、崩れたって話です」
若い男が肩をすくめた。農家の者だろうか、額に土埃が張り付いている。
「応急で、水瓶を運んでくれている人もいるにはいますが、とても足りません。井戸掘り直すなんて話も出ましたが、資材も人手も……」
晴人は頷いた。現代では当たり前に感じる“水の流れ”が、ここでは一本の用水路と、それを管理する人々の手にかかっていた。
壊れたそれを復旧させるには、指揮系統と資源の再配分が不可欠だ。
(ここで、俺ができることは……)
すでに炊き出し場では、自らが考案した「水なしでも作れる非常食」が注目されつつあった。干し飯と梅干し、塩昆布と味噌。最低限の湯と容器があれば成立する食事。
だが、それも一時的な凌ぎだ。根本的な復興に向けては、城下の行政組織と連携する必要がある。
その夜、晴人は寺の一室に戻ると、急ぎ筆と紙を手に取った。畳の上に腰を下ろし、震える手で、今の状況と打開策を書き連ねる。
・水源の再確認と用水路の整備。
・使える井戸の位置の地図化。
・炊き出し拠点の分散化と安全な移送経路の提案。
・最悪の事態を想定した「非加熱食材」の備蓄リスト。
(これを、どこに持っていくかだ……)
思案していた晴人の耳に、廊下の足音が届いた。音に敏感になっていた彼は、すぐに立ち上がる。
「藤村様……? 夜分にすみません」
寺の門前で、役人風の若者が頭を下げた。
「城下の方でお会いした若い方に、書付を渡せと……あの、藤田様のお遣いとのことで……」
晴人は驚いた。
(まさか、あのときの……)
彼が水路の確認に出向いた際、遠巻きに様子を見ていた男の顔が脳裏をよぎった。名乗らずに去ったが、どこか侍らしからぬ鋭さがあった。
手渡された封筒には、東湖の直筆と思われる筆跡で、こう記されていた。
『明日、城下にて小規模な議論がある。もし意見があるなら、来て語れ』
晴人は紙を折りたたみ、深く息を吐いた。
「……動くときが来たか」
小さく呟いたその声は、決意の色を帯びていた。
晴人は、寺の裏手にある小川のほとりに腰を下ろしていた。空には雲がかかり、弱い日差しが地面にまだらな影を落としている。湧き水が集まるこの場所は、数日前に藩の若侍とともに調査した中で、最も水質の良かった一角だ。
「やっぱり、ここしかないか……」
草をかき分けると、地面に緩やかな傾斜があるのが分かる。水は自然に流れ、ある程度までなら蓄えることもできる。問題は、その水をどうやって城下まで届けるかだった。
「竹……だな」
晴人は立ち上がり、肩の布を払った。集水と導水のために竹を切り出して、水道のような仕組みをつくる案は、彼の頭の中でかなり前から構想されていた。幕末の農村部でも、雨水を導くために竹を用いた“樋”の例は多くあった。要は、正しく配置し、段差を利用すればいい。
だが、竹林までは少し距離がある。人手も限られている。
「どうしたもんか……」
すると、背後から声が飛んできた。
「おうい、晴人どの!」
振り返ると、あの少年――政次郎が息を切らして駆けてきた。顔が赤く、手には簡素な籠を提げている。
「この間の汁、婆さまがうまいって言ってたぞ! また作ってくれって!」
「はは……ありがとう。今度、山芋が手に入ったら、とろみをつけてやろう」
「ほんとか!」
政次郎の目が輝く。だが晴人は、ふと気がついた。
「政次郎、おまえ……その籠、何を?」
「竹の皮、集めてたんだ。鍋の下に敷いたり、包んだりするのに使えるだろ? 母ちゃんがそう言ってた」
晴人は思わず笑みをこぼす。
「よく気がついたな。すごいぞ、それ」
政次郎は鼻をこすりながら、胸を張る。
「俺、晴人どのの見てたら思ったんだ。できることをやんなきゃ、って!」
その言葉に、晴人の胸の奥がじんと熱くなった。たった一杯の汁、たった一つの配膳。だが、それが誰かの心を動かす。子どもにすら、灯をともせる。
「政次郎。竹を切るの、手伝えるか?」
「ほんとに? 俺、行ける!」
二人は、寺を離れ、城下の外れにある竹林へと足を運んだ。途中、幾人かの町人が声をかけてくる。
「あんた、あの“汁の旦那”かい」
「また炊き出しやってくれるんだろ?」
その言葉が、晴人の背中を押した。
竹林に入ると、湿った土の匂いが鼻をつく。まだ根本が柔らかい若竹がいくつも伸びていた。晴人は持参した木製の鋸を手に、黙々と作業を始める。政次郎も小刀で枝を払い、協力して一本、また一本と竹を集めていく。
陽が少し傾いたころ、二人の足元には、十本以上の竹が並んでいた。節を利用し、水が流れるよう加工すれば、数十メートル先の避難所にも水を届けられる。
「これで、仮設の水道がつくれる」
「すげえなぁ……こんなの、誰も思いつかないよ」
政次郎が見上げるその顔は、まるで未来を見ているようだった。晴人は、彼の頭をそっと撫でた。
「政次郎。おまえは、きっと水戸を変える人間になるよ」
「え? なんで俺が」
「今はわからなくていい。けど、誰かのために動こうと思ったその気持ち、絶対に忘れるな」
政次郎は黙って頷き、籠を背負った。
その帰り道、寺の前で若侍が待っていた。顔はどこか険しい。
「藤村晴人殿……殿のお言葉を賜りたいとのこと。今宵、東湖様の屋敷へとお越しくだされ」
空気が張り詰める。
政次郎が不安げに見上げた。
「大丈夫。ちょっと話をしに行くだけさ」
そう言って晴人は、竹の束を政次郎に預けた。
「これ、頼んだぞ」
「……うん!」
振り返らずに歩き出した背に、政次郎の声が小さく響いた。
「晴人どの……がんばって!」
藩政の中枢と、炊き出しの現場。人の命と政治の駆け引き。そのはざまに立つ男の背が、夕陽の中で静かに揺れていた――。
水戸の城下町に仮設水道を敷く作業が、静かに、しかし確かに進んでいた。
寺の裏手に湧く水を利用し、晴人は政次郎や町の若者たちと共に、手作業で竹を切り、節を抜き、簡易な導水路を形作っていた。切り出した青竹をつなぎ合わせ、地面に傾斜をつけて並べていく。見た目は素朴な作りだが、その一つ一つに工夫が込められていた。
「もうちょい、そっちを上げて……そうそう、そこ!」
晴人の指示に応え、政次郎が全身を使って竹を押さえる。泥だらけになりながらも、少年の顔はどこか誇らしげだ。
町の者たちも次々と加わり、老若男女を問わず、手の空いた者が水を運び、枝を払い、土を均して支柱を打ち込んでいく。
「……よし。試しに、水を流してみようか」
晴人の声に、周囲の作業が一斉に止まる。
彼が湧き水の溜まり場から柄杓で水を注ぐと、しばらくして――
「通ったぞ!」
誰かが叫んだ。
仮設水道の終点に据えられた木桶の中に、細く澄んだ水流がぴたりと落ちた瞬間、辺りは歓声に包まれた。
「おお……本当に、水が……!」
「これで、井戸まで何度も往復しなくて済む!」
「晴人どの、ありがとう……ありがとうよ……!」
晴人は泥にまみれた頬に袖を当て、照れたように笑った。
「……これで終わりじゃありません。この水路は応急処置です。雨が降れば崩れるし、水量も安定しません。でも……今日を凌げれば、明日も動けます」
政次郎がにかっと笑う。
「やったな、晴人どの!」
「おう。けど、まだやることは山ほどあるぞ」
夕暮れが迫る中、町の空気に少しだけ、希望のにおいが混ざった。
* * *
夜、晴人は藤田東湖の屋敷に招かれた。
広くも豪奢でもないが、凛とした空気が張りつめる座敷。その中央に座するのは、今や水戸藩政の中枢に立つ男――藤田東湖。
「来たか、藤村晴人殿」
「はい。お招きいただき、光栄です」
深く頭を下げた晴人に、東湖は手元の筆を置き、彼の目を見据えた。
「町での噂は聞いている。“汁の旦那”とも、“井戸の若侍”とも。お主、なぜそこまで民に尽くす?」
「……できるから、です」
「できるから?」
「俺には未来が見えている。水道も、衛生も、食料管理も、仕組みによって守られる未来が。でも、それが崩れたとき、真っ先に苦しむのは弱い人たちです。ならば、今この時代でも、それに近いことを始めておきたい。そう思っています」
東湖はしばし沈黙した。やがて、細く目を細めた。
「その“未来”、見せてくれるか」
晴人は頷き、持参した書き付けを差し出した。仮設水道の構造、今後の井戸再掘計画、物資配分の再整理案――手書きの図と文が丁寧に並ぶ。
「これは……面白い。よくぞ、これだけ……」
「拙いものですが、現場の声を元にした提案です。机上の空論ではありません」
東湖は笑った。
「まさしく、それが欲しかった。今の藩政に足りないのは、現場を動かす発想と、現実をつなぐ技術。そして、実行力だ。お主にはその三つがある」
その言葉に、晴人は小さく息を吐いた。
「――藤村晴人。お主にひとつ、問いを立てる」
「はい」
「もし、そなたがこれより先、我が名の下で、藩のために動くとしたら……受けるか?」
静寂が落ちた。
「……しばらく考えさせてください。自分の役目がどこにあるか、まだ定まりませんので」
東湖は満足げに頷いた。
「それでよい。焦ることはない。だが、もし心が定まったら、いつでも門を叩け。私の家は、志ある者に開かれている」
「……ありがとうございます」
* * *
屋敷を出ると、外は静かな闇に包まれていた。
月が淡く雲間に浮かび、竹の影が石畳に揺れる。晴人は振り返ることなく、ゆっくりと坂を下った。
その背に――、政次郎の声が遠くから届いた。
「晴人どのーっ!」
振り返ると、彼は小脇に竹筒を抱え、全力で走ってくる。
「すげぇ! 水、ちゃんと流れてるぞ! 婆さまも、泣いてた!」
「そうか……それはよかった」
「晴人どの、オレ……もっと手伝いたい!」
その目には、曇りのない光が宿っていた。
晴人はゆっくりと手を伸ばし、政次郎の頭にぽんと手を置いた。
「ありがとう、政次郎。おまえがいなかったら、ここまで来れなかった」
「えへへっ」
二人の影が、月の下で静かに並ぶ。
明日のことは、まだ分からない。けれど、誰かが動けば、町も、国も、少しずつ変わっていく。そんな確信が、晴人の胸の奥で芽吹きはじめていた。
夜の水戸城下は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。仮設水路は竹の中を水が静かに流れ、人々はその音に耳を傾けながら、かすかな安心を手繰るように眠りについていた。
晴人は、寺の裏庭に設けた仮の机で、油紙の上に書き付けた水道計画の次段階案を眺めていた。墨の匂いとともに、竹の皮でくるんだ梅干し飯の残り香が、ほのかに鼻をつく。
「……次は、浄水だな」
山の湧き水はきれいだが、それでも濁りや落ち葉、虫の混入は避けられない。竹樋だけでは限界がある。砕いた炭や砂利、布を使った簡易濾過装置を各水源に設ければ、最低限の飲料水として機能するはずだった。
だが、それを実行するには、資材、人手、そして藩の理解が不可欠だ。
「……口だけの正論じゃ、人は動かない。だが、動いた結果なら、説得できる」
すでに町の者たちからは、炊き出しの晴人、水の旦那と呼ばれ、子どもたちが笑顔で手を振ってくれるようになった。政次郎のように、自ら動く子まで現れた。
その信頼を裏切るわけにはいかない。
と、草履の音が控えめに近づいてきた。
「……起きてたか、晴人どの」
小さな声に振り返ると、政次郎が手ぬぐいを肩にかけ、こちらを見ていた。顔にはまだ幼さが残るが、目の奥には確かな意志が宿っていた。
「眠れなかったのか?」
「……なんか、怖くなってさ」
政次郎はそっと、傍らに腰を下ろした。寺の灯明が風に揺れ、二人の影を長く引いた。
「婆ちゃん、寝てる時、たまに苦しそうに息してんだ。……助けてくれてありがたいって思ってるけど、それだけじゃ足りねぇ気がして……」
「政次郎」
晴人は、少年の頭をそっと撫でた。
「お前は、もう十分だ。水を集め、竹を運び、俺の話を信じてくれた。――それがどれだけ心強かったか、分かってるか?」
政次郎の肩が震えた。
「でも、俺、侍じゃないし……何も守れないかも……」
「侍だけが守るわけじゃない」
晴人は、静かに言った。
「心があれば、誰だって、人の役に立てる。そして――」
言いかけたそのとき、遠くから馬の蹄の音が響いた。城下では夜間の騎乗は禁じられているはず。それが破られるというのは、何か異変の兆しだった。
「……政次郎、寺に戻って。何かあったら、奥に隠れてろ」
「晴人どの……!」
「大丈夫。すぐに戻る」
晴人は立ち上がり、藁のマントを羽織った。足音の向かう先をたどるように、寺の門前に出ると、そこには見慣れた顔がいた。藤田家の中間だ。額には汗、表情には緊張。
「藤村晴人殿。急ぎ、屋敷までお越しを。東湖様より直々に、お話が――」
その言葉の途中で、背後の竹林から何かが動いた。
――気配。
晴人はとっさに振り返った。だがそこには、もう何もなかった。
「……急ぎましょう。夜の闇には、思わぬ目が潜んでおりますゆえ」
中間の言葉は、あくまで冷静だったが、どこか刺すような緊迫感があった。
(動き始めたか……)
藩政の歪み、既得権益者の反発、あるいは外様の監視者か。未来の知識を持つ自分が目をつけられることは、当然予想していた。
それでも――
(やるしかない)
竹の水路を振り返った。今も、そこには水が流れている。確かに生きる力となって、町を支えている。
「行こう」
晴人は、夜の道を歩き出した。その背に、政次郎の声が届いた。
「――晴人どの!」
振り返ると、少年は手を振っていた。手には、炊き出しで使った木椀がひとつ、握られている。
「また、あの汁……作ってくれよな!」
「もちろんだ」
晴人は、手を振り返した。
そうだ。いつか、笑顔だけの朝が来る。その日まで、自分は止まらない。
夜の水戸城下に、風が吹いた。
まるで、何か大きな時代の流れが、動き始めたかのように――。