5話:命を繋ぐ一椀
読者様から「藩医とのやりとりが時系列で前後している」とのご指摘をいただき、大幅に修正いたしました。
主な変更点:
・季節を6月→11月に変更(安政の大地震が11月のため)
・藩医の登場タイミングを整理(夕方に去る→夜は不在→翌朝戻る)
・夜の看病シーンを晴人単独の場面に
・全体の構成も見直し
以前お読みいただいた方には、内容がかなり変わっており申し訳ございません。
ご指摘のおかげで、より一貫性のある物語になったと思います。
今後もお気づきの点があれば、ぜひお知らせください。
寺の廊下を通り抜ける風が、晴人の肌を撫でていった。
十一月の空は薄曇りで、陽の光はどこか頼りなかった。
地震の爪痕が残る水戸の町では、まだ余震が続き、
人々の顔には、不安の影が色濃く残っていた。
晴人は、寺の奥へと続く静かな廊下を歩いた。
障子の向こうでは、僧侶たちが祈りの声を上げている。
彼は襖の前で一度立ち止まり、深呼吸してから扉を開けた。
畳の上に敷かれた布団の中で、老女――登勢が目を閉じていた。
藤田東湖の母である。
頬はこけ、呼吸は浅く、唇の色は褪せている。
布団の端からのぞく手は骨ばって細く、まるで枯れ枝のようだった。
「……お変わりはありませんか」
声をかけても、返事はない。
傍らに座る僧が首を振った。
「昨夜から昏々と眠っておられます。食も水も……」
そのとき、廊下の奥から足音が近づいた。
戸を開けて入ってきたのは、藩医と名乗る初老の男だった。
白髪交じりの髷を結い、目尻の皺は深いが、表情は冷ややかだった。
「診せてもらおう」
男は手を当て、しばらく脈をとった。
そして短く言い放つ。
「……これはもう、老衰の域ですな。
薬も効かぬ。あとは安らかに看取ることだ」
その言葉に、晴人は眉を寄せた。
「老衰で済ませるには、早すぎます。
発熱もしておられますし、呼吸が乱れています。
これは、衰弱と栄養の問題です」
「若造が……」
藩医の視線が険しくなる。
だが、晴人は怯まなかった。
「このまま寝かせていれば、衰え続けます。
せめて、私に任せてください。責任は私が取ります」
沈黙が流れた。
やがて藩医は小さく鼻を鳴らし、袂を払った。
「……好きにするがいい。
だが、あまり期待はせんことだな」
そのまま背を向け、静かに去っていった。
*
部屋には再び静寂が戻った。
晴人は登勢の傍らに膝をつき、布団の端を整える。
「……無理に食べさせるのは危険だ。
まずは、体を温めよう」
彼はゆっくり立ち上がり、厨房へと向かった。
竈の火は消えかけていたが、灰の中にまだ赤い残り火がある。
火箸で灰を掻き、そこへ細い薪を差し込む。
ぱちぱち、と音がして炎が再び灯る。
晴人は山から届いたばかりの生姜を刻み、梅干しを潰した。
すり鉢がなくても、木匙と手のひらがあればどうにかなる。
湯を沸かし、味噌を少しだけ溶き入れる。
やがて、土鍋の中から立ち上る香りが部屋いっぱいに広がった。
「……この香りなら、きっと飲めるはずだ」
昔、祖母が風邪をひいたときに作ってくれた薬湯――。
その記憶を頼りに、晴人は慎重に火を止め、椀によそった。
*
夜半。
蝋燭の明かりが小さく揺れ、障子に映る影が細かく震えている。
登勢の呼吸は荒く、頬は熱で赤く染まっていた。
晴人は布団の傍に膝をつき、額の汗をそっと拭った。
「……登勢さま、少しだけ飲んでください」
匙に湯をすくい、慎重に唇へ近づける。
こぼれた雫を布で拭いながら、彼は静かに声をかけた。
「大丈夫。焦らず、少しずつでいいんです」
その瞬間、登勢の喉がわずかに動いた。
小さな音を立てて、一口分を飲み込む。
「……そう、それでいい」
晴人の声は震えていた。
それでも、匙を止めることはなかった。
何度も、何度も、口に運び続けた。
やがて夜が更け、外の風が冷たくなる。
寺の鐘が遠くで鳴り、夜更けを告げる。
晴人は眠らず、登勢の手を包み込んだ。
その掌は、まだ微かに冷たい。
だが――確かに、生命の鼓動が残っていた。
*
その朝、藩医が様子を見に訪れた。
昨夜は「好きにしろ」と言い残して去った男が、
恐る恐るといった様子で襖を開ける。
そして、登勢の顔を見た瞬間――目を丸くした。
「……顔色が、戻っている……?」
枕元の晴人は静かにうなずいた。
「熱は下がり、呼吸も安定しています。
夜中に少しずつ水分を取れたのが良かったようです」
藩医は言葉を失い、ただ登勢の顔を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……なるほど。薬ではなく、湯か」
「はい。
梅干しと生姜、少量の味噌を加えただけのものです。
体を温め、汗を出して毒を抜く。それだけです」
「ふむ……」
男は深くうなずいた。
「理に適う。医の外に医があるとはな」
晴人は何も言わず、静かに登勢の手を握った。
その手は、夜明けの光を受けて、かすかにぬくもりを増していた。
陽が昇りきる頃、寺の庭には白い霜が光っていた。
吐く息が白く立ちのぼり、瓦の隙間から差し込む日差しが、ようやく部屋の中に届き始めていた。
登勢の枕元では、晴人が座ったまま浅い眠りに落ちていた。
手にはまだ、冷めかけた薬湯の椀を握っている。
夜明けの鐘の音に目を覚ました彼は、すぐに登勢の顔をのぞきこんだ。
「……体温が、下がってる」
指先で額に触れる。
昨夜のような熱気はもうなく、呼吸も落ち着いていた。
頬にわずかに血の気が戻り、唇に淡い色が差している。
晴人の胸に、重くのしかかっていた緊張がようやく緩んだ。
肩を落とし、深く息をつく。
その音に気づいたのか、登勢のまぶたがかすかに動いた。
「……だれ、ですか」
かすれた声。
だが、それは確かに、意識を取り戻した証だった。
「藤村です。お加減はいかがですか」
登勢はゆっくりと目を開け、晴人の顔を見た。
その瞳に宿る光は、まだ弱々しいが確かな意志を湛えていた。
「……東湖は、無事か」
「はい。避難の際にお怪我はありませんでした。
すぐにお知らせしますから、今は休んでください」
登勢は静かに目を閉じた。
頬に、安堵の笑みがうっすらと浮かぶ。
*
昼近くになると、寺の外に人の声が聞こえた。
晴人が廊下に出ると、黒羽織に身を包んだ男が立っていた。
藤田東湖である。
地震の後、藩の復興指揮を取っていた彼が、ようやく母の容体を確かめに戻ったのだ。
頬に疲労の色はあれど、その眼光は鋭いままだった。
「……母は?」
東湖は問うや否や、靴を脱いで部屋へと入った。
晴人が後に続くと、登勢は半身を起こしていた。
僧の支えを借りて座り、薄く笑っている。
「東湖……よく、無事で」
その声に、東湖は一瞬だけ顔を歪めた。
母を失うかもしれぬ恐怖が、ようやく現実から遠のいた瞬間だった。
「……すまぬ。遅くなった」
登勢の枕元に膝をつき、手を握る。
その眼尻に、僅かな涙が滲んでいた。
晴人はその光景を静かに見守っていた。
だが、次の瞬間、東湖が振り返り、真っすぐ彼を見た。
「そなたか。母を助けたというのは」
晴人は姿勢を正した。
「はい。薬ではなく、湯を作り、少しずつ飲ませました」
「……医師ではないと聞く」
「料理人です。食の知識を応用しただけです」
東湖の眉がぴくりと動く。
「食、か。……なるほど。薬と違い、継ぐ命の業だな」
彼は立ち上がり、藩医に目をやった。
その藩医は、少し離れた位置で黙って見守っていたが、頭を下げた。
「見立て違い、痛恨にございます。
殿、藤村殿の手は理に適っておりました」
「そうか」
東湖は短く答えると、晴人の前に歩み寄った。
近くで見ると、その存在感は圧倒的だった。
声を張らずとも、言葉に重みがある。
東湖はしばし沈黙した。
その視線は、晴人の背に差す光と、登勢の顔とを交互に見つめている。
「この度の働き、見事であった。
母を救った功、礼をせねばならぬ」
「私はただ、できることをしたまでです」
「そう謙遜するな」
東湖は低く笑い、懐から小さな包みを取り出した。
包みの中には、一通の書付。
そこには「藤田家 医膳掛見習」と墨書されていた。
「……医膳掛、ですか」
「うむ。
医師ではない。
だが、命を繋ぐ“膳”を司る者として、藤田家に迎える。
そなたの知識と腕が、これから必要になる」
晴人は息を呑んだ。
東湖の言葉には、形式的な辞令以上の意味があった。
信頼。
それは、簡単に得られるものではない。
「お受けいたします。
身命を賭して、藤田家に尽くします」
東湖は頷き、書付を晴人に手渡した。
「良い覚悟だ。
母も、それを望んでいよう」
その声に反応するように、登勢が静かに微笑んだ。
「……東湖。よい人を……得たのね」
東湖の表情に、初めて柔らかな色が浮かんだ。
*
その日の夕刻、晴人は寺の軒先に立っていた。
西の空は茜色に染まり、遠くから風に乗って木の葉のざわめきが届く。
傍らでは、藩医が火鉢に炭を足していた。
「まさか、料理人が人を救うとは思わなかった」
老人は笑いながら言った。
晴人は肩をすくめた。
「薬と食は同じです。
どちらも、命を支えるための手段にすぎません」
「ふむ……“支える”か。いい言葉だ」
藩医は頷き、立ち上がる。
「いずれそなたの名は、医だけでなく“民の膳”として知られることになるだろう」
その言葉に、晴人は小さく笑った。
「名より、誰かの命が続けばそれで十分です」
空を見上げると、薄雲の隙間から夕月が顔を出していた。
その光はまだ淡く、だが確かに夜を照らしている。
――この日。
藤村晴人は、藤田家“医膳掛見習”として正式に任ぜられた。
安政二年十一月。
地震に揺らいだ水戸の地で、
一人の料理人が“命を繋ぐ者”として歩み始めたのである。
藤田家の邸は、地震の被害を受けたとはいえ、再建が急速に進んでいた。
母・登勢の容体が落ち着いた後、東湖は藩政の立て直しに戻り、屋敷の中もようやく日常の気配を取り戻しつつあった。
その朝、晴人は中門をくぐり、膳所に足を踏み入れた。
土間には炭の匂いが漂い、湯気の向こうに女中たちの声が響いている。
彼らの視線が、一斉に晴人に向けられた。
「……この人が、新しい“医膳掛”だってさ」
「料理人が? 医者の真似事をするっての?」
小声で交わされる噂話に、晴人は何も言わず、深く一礼した。
その手には、竹の籠がひとつ。
中には干した野菜、味噌、塩、そして数枚の紙――彼がこれまで記した“食養覚書”だった。
「今日の膳は、私が調えます」
「え……?」
年配の女中が驚いた顔をした。
「藤田様の昼膳を、ですか? あの方は口が厳しいと……」
晴人は頷いた。
「承知しています。食べる人の舌ではなく、心を癒やす膳を出すつもりです」
*
薪を割る音が庭に響く。
晴人は黙々と野菜を刻み、湯を沸かした。
手際は驚くほど静かで、まるで呼吸と一体化しているかのようだった。
包丁の刃がまな板を打つたび、一定のリズムが響く。
「……芋を茹でてどうするんだい?」と若い女中が問う。
「熱を通して、甘味を出します。体の弱った者には、冷たいものより温もりが効く」
晴人は鍋の蓋を少し持ち上げ、香りを確かめた。
蒸気に含まれるのは、芋と味噌と生姜のやわらかな香り――それは“薬”とは違う、人を包み込むような温もりだった。
「味噌に少しだけ、梅肉を混ぜてあります。
酸が唾液を促し、食欲を戻す。
冬の乾いた空気には、これが効く」
「まるで薬みたいな話し方だね」
女中たちの中から笑い声が上がる。
晴人は、にこりともせずに言った。
「薬とは“人の外から与える理”です。
膳は、“人の内に戻す理”です」
その言葉に、ざわめきが止まった。
しばし沈黙ののち、年配の女中が深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。
どうぞ、お手伝いさせてください」
晴人は静かに微笑んだ。
*
昼時、東湖が執務の合間に膳所へ降りてきた。
長い裃の裾を翻し、黙って膳を見下ろす。
「これは……粥か?」
「芋と大根を潰し、味噌でとじた温膳です。
油を使わず、体に熱を残すように調えました」
東湖は箸を取り、ひと口含む。
静かに噛み、飲み込み、目を閉じた。
「……不思議だ。
塩も強くないのに、旨味が深い」
「味噌に混ぜた梅が、塩を引き立てます。
香りは焼いた昆布と干し椎茸から。
体に必要なものを、すべて自然から借りました」
東湖はゆっくりと箸を置いた。
「なるほど、“医膳”とはそういうことか」
「はい。医は治すもの。
膳は、治る前に“崩れぬよう支える”ものです」
その言葉に、東湖は深く頷いた。
「藤村、そなたの膳には理がある。
だが、それ以上に――心がある」
東湖は目を細め、僅かに笑みを浮かべた。
「母が目覚めた理由、今ならわかる気がする」
その言葉を聞いた瞬間、晴人の胸の奥が温かくなった。
料理ではなく、命を預ける「仕事」としての膳――それが、初めて認められた瞬間だった。
*
午後になると、東湖のもとに家臣が駆け込んできた。
「藩校弘道館より、救護の要請が参っております!」
「被災した子弟の食事が足りぬ、ということか」
「はい。膳部が足りず、病が広がるおそれも……」
東湖は即座に立ち上がった。
「藤村、行け。弘道館の炊き場を預かれ」
「私が、ですか」
「医師ではないそなただからこそ、できることがある。
民の命を預かる“膳”――その力、今こそ見せてみよ」
晴人は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
東湖の視線が、どこか誇らしげに輝いていた。
*
弘道館の炊き場は、混乱の極みだった。
土間には焦げた鍋、倒れた樽、泣く子供の声。
晴人はすぐに女中や下男たちを集め、短く指示を出した。
「水は井戸ではなく、裏の竹林の湧き水を使ってください。
薪は乾いた松を優先。湿った木は煙で喉を痛めます。
塩は半分に。味噌を少し多めにして――体を冷やさぬように」
最初こそ誰も聞こうとしなかったが、晴人の手が迷いなく動くのを見て、周囲の空気が変わった。
鍋に湯が沸き、湯気が立ちのぼる。
香りが広がり、人々の顔にわずかな安堵の色が戻る。
やがて、最初の膳が仕上がった。
椀の中には、薄くとろみをつけた粥。
芋と麦を混ぜ、梅をひと欠片落としてある。
「塩は少しだけ。
喉を通る柔らかさを優先してください」
晴人はそれを子供に手渡した。
最初は恐る恐る口にした少年が、次の瞬間、目を丸くして呟く。
「……あったかい」
その声に、周囲のざわめきが止まった。
まるで、冬の朝の曇り空が少しだけ晴れたようだった。
*
その夜、弘道館の裏庭で火が燃えていた。
救護の膳を終えた晴人は、腰を下ろし、夜空を見上げていた。
風が冷たい。
だが胸の内には、確かな熱が残っている。
――料理ではなく、医でもなく。
ただ、人を生かすための膳。
それこそが、彼に与えられた役目なのだと。
遠くで、弘道館の鐘が鳴った。
晴人はその音に耳を傾けながら、静かに目を閉じた。
その手は、まだわずかに湯の温もりを覚えていた。
夜が明けきらぬうちに、弘道館の炊き場はようやく静まり返った。
鍋の底には、粥の名残がわずかに焦げつき、灰が舞う。
晴人は濡れ手拭いで額の汗を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「……これで、ようやく一息つけますね」
傍らの若い下男が息をつく。
夜通しの作業に疲れ切った顔をしていたが、その声にはどこか達成感があった。
「皆、よく動いてくれた。
おかげで、倒れていた子供たちの熱も下がった」
晴人は微笑みながら応じた。
その掌には、薪の欠片でできた細かな傷がいくつもあった。
だが、その痛みが妙に心地よかった。
生きた証のように感じられた。
*
藤田邸に戻ったのは、午の刻を少し過ぎたころだった。
門前には東湖の使いが立っており、晴人の姿を見つけると頭を下げた。
「藤村殿、すぐに御前へとの仰せです」
晴人は頷き、衣の埃を軽く払って屋敷へと入った。
廊下の奥、書院の前で足を止める。
障子の向こうから、低くも力強い声が響いた。
「入れ」
晴人は膝をついて一礼し、静かに座を取った。
部屋の中央には藤田東湖がいる。
その姿は夜明けの光を背に受け、どこか彫像のように厳かだった。
「弘道館の炊き場、見事だったそうだな」
晴人は頭を下げた。
「僅かなことをしたまでです」
「僅かなことではない。
民を飢えと寒さから救ったのだ。
あれほど混乱していた場所を立て直せた者は他におらぬ」
東湖の言葉に、晴人は思わず顔を上げた。
その目には、以前よりも柔らかな光が宿っていた。
「……ありがたきお言葉です」
東湖は手元の文書をひとつ差し出した。
「これは、藩主への上申書だ。
そなたの働きを詳らかに記した。
ただの料理人ではない――“医膳掛”として正式に任ずる旨、記してある」
晴人は言葉を失った。
書状の端には、東湖自らの花押が記されている。
それは、ただの承認ではない。信頼の証そのものだった。
「……この身には過ぎたお言葉です」
「過ぎてはおらぬ。
人の命を預かるということは、医も膳も同じ。
そなたは、その“境”を越えた」
東湖の声には、静かな熱がこもっていた。
晴人はその言葉を胸に刻むように、深く頭を垂れた。
*
「ひとつ、問いたい」
東湖は筆を置き、晴人を真っすぐ見つめた。
「なぜ、そこまで民の飢えに心を砕く。
そなたは異郷の者――藩にも家にも縁はない。
何が、そなたを動かしているのだ」
晴人はしばらく口を閉ざしていた。
部屋の外では、庭の松が風に揺れている。
その音を聞きながら、ようやく言葉を選んだ。
「……飢えや病で、人が死ぬ光景を、私は何度も見てきました。
けれど、それは“貧しさ”のせいではない。
誰かが、手を伸ばさなかったからです」
東湖の眉がわずかに動く。
晴人は続けた。
「この国は、変わらなければなりません。
薬も、学問も、食も――誰かが届けなければ、意味がない。
私は、その橋になりたいのです」
静寂。
やがて東湖は、ゆっくりと頷いた。
「……橋か。
良い言葉だ。
では、その志を持って、そなたに命じよう」
「はい」
「来月より、弘道館に“養膳寮”を設ける。
学徒や病者に食を供し、民の養生を図る新たな役所だ。
そなたがその筆頭となれ」
晴人の胸が高鳴った。
「……私が、ですか」
「そなた以外に誰がいる。
食を以て人を救う――それを実際に成したのは、そなたただ一人だ」
東湖の声は断固としていた。
そのまま書状を筆で改め、墨の香が部屋に満ちる。
「名を記せ、“養膳寮筆頭 藤村晴人”――それが、そなたの新たな役職だ」
晴人は筆を取り、深く息を整えた。
震える手で名を記すと、不思議な静けさが胸に広がった。
ここが、すべての始まりだと直感した。
*
その夜。
庭の池に月が映っていた。
冷たい風が吹き抜け、紅葉した木の葉が一枚、静かに水面に落ちる。
晴人は縁側に座り、膝の上に湯呑を置いた。
香るのは、生姜湯。
あの日、登勢を救ったものと同じ香りだ。
ふと、背後から声がした。
「……あの夜の香りだな」
振り返ると、東湖が立っていた。
すでに裃を脱ぎ、羽織姿のまま、穏やかな表情をしている。
「母が申しておった。“あの湯の香りを嗅ぐと、生きる気がした”と」
晴人は目を伏せ、静かに頷いた。
「私も同じです。あの夜の香りが、命を繋いだ」
東湖は空を仰ぎ、低く呟いた。
「この国もまた、病んでいる。
民が飢え、武士が腐り、学が形骸となった。
だが――そなたのような者がいれば、まだ救いはある」
沈黙が落ちた。
やがて東湖は懐から小さな包みを取り出した。
「これは母の願いだ。
そなたに“藤田家の膳箸”を託す」
晴人は息をのんだ。
桐の箱の中には、黒檀の箸が二膳。
東湖の父、藤田幽谷の代から伝わる家宝だった。
「……この箸は、命を支えるための道具だ。
武の者に刀があるように、そなたにはこれがある」
「……ありがたく頂戴いたします」
晴人は深く頭を下げた。
その目には、夜明けの光のような決意が宿っていた。
*
翌朝。
弘道館の南門には、新たに掲げられた札があった。
――養膳寮。
筆頭 藤村晴人。
湯気を立てる竈の音が、ゆっくりと響き始める。
その音は、やがてこの国の“再生”を告げる鐘のように広がっていく。
風が吹き抜ける。
晴人は空を仰ぎ、心の中で小さく呟いた。
「ここからだ……」
その声は、朝の光の中へと溶けていった。
気に入ってくれた方、評価ぽちっとしてくれると舞い上がります。
感想も大歓迎!読者さんの声、めちゃくちゃ励みになります!




