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56話:記録という名の未来

1858年、冬。羽鳥の空には、白く薄い雲がゆるやかに流れていた。空気は張り詰めるように澄んでいて、鼻を刺す冷気がかえって人々の気を引き締める。


 町の中心、かつて何もなかった広場の一角に、新たな建築が静かに完成を迎えていた。


 「常陸新館」――木造三階建ての荘厳な館。反り上がった瓦屋根は優美な曲線を描き、黒漆喰で整えられた外壁は、冬の日差しを吸い込んでなお落ち着いた光沢を放っていた。広場に面した正面の柱には、銅製の表札が誇らしげに輝き、その筆致は藤田東湖自らが揮毫したものだ。


 今日は、その落成式の日。


 晴れ着姿の子どもたちが館の前に列をなし、教師や親たちが声をかけながら整列を指示している。町の婦人たちは大鍋で煮しめを炊き、湯気の立つ団子汁をふるまい、商家の旦那衆は熱燗と温茶を手ずから配っていた。羽鳥の人々が一堂に集まり、祝うように笑い、語らい、互いの労をねぎらっていた。


 その賑わいから一歩下がった場所で、晴人は静かに全体を見渡していた。


 「……やっと、ここまで来たか」


 白く長い吐息を漏らし、彼は空を仰いだ。遠く雪を頂いた那珂の山々が、冬の陽を受けて白銀に輝いている。


 日立の山から運び出された石炭による暖房施設は、今や町のほぼすべてに行き渡っていた。羽鳥の冬は、かつてのような厳しさを知らない。冷え込みはするが、凍えるほどではない。火鉢や囲炉裏に頼らずとも、家の中に暖がある。それだけで、住民の表情は随分と柔らかくなっていた。


 この新館の設計には、彼自身が未来から持ち込んだ“記憶”が惜しみなく注がれている。大きな吹き抜けの中央ホール、光を反射する南向きの大窓、用途に応じて移動できる可動式の展示壁。そして、彼が最も時間を割き、情熱を注いだ――写真ギャラリー。


 館の西翼。薄暗い木造の回廊を抜けた先、小さな扉の向こうにある一室。そこには、“時を封じた記憶”たちが静かに並んでいた。


 額縁に収められた一枚一枚の湿板写真。柔らかな光に照らされ、まるで今にも動き出しそうなほど鮮明だった。


 斉昭が穏やかに笑みを浮かべ、慶喜が微かに口元を緩めている。薬壺を掲げて立つ村田、学塾の黒板の前で熱弁を振るう教師、建設中の町並みを見つめる職人たち。雪の広場で遊ぶ子どもたちの笑顔も、すべてこの部屋に封じ込められていた。


 「これは、ただの記録じゃない。証明だよ。未来を見て歩いたという、俺たちの“足跡”だ」


 藤田東湖の息子、英之進が写真の前に立ち、低くつぶやいた。まだ十代半ばの少年だが、父を背にしながらも、自らの目で時代を見据えようとしていた。東湖の厳しさを受け継ぎつつ、どこか理知的な冷静さを宿している少年だった。


 「まるで、時が止まってるみたいですね」


 傍らにいた若い女性が、写真に視線を注ぎながら言う。その声には優しさと、わずかな感傷が混じっていた。


 「止まったんじゃない。“残した”んだ。動いていたその瞬間を、“世界”に焼きつけたんだよ」


 晴人は答え、そしてふと外の広場に目を向けた。


 新館の完成に合わせ、全国から多くの使節や視察団が訪れていた。中でも一橋家の関心は大きく、慶喜本人が「水戸の記録写真を数点、譲ってもらえぬか」と直々に依頼を寄越してきたほどだった。


 「写真……本当に、絵よりも速くて、確かですね」


 その言葉は、島津斉彬が使者を通じて送ってきた手紙にも記されていた。


 ――『これは、文明の目である。常に変わらぬ真実を、そのまま見せる“新たな鏡”だ』


 晴人は、その文面を思い出しながら、懐から丁寧に手紙を取り出して胸元に収めた。


 時は安政五年。堀田正睦は条約調印の承認を得るため朝廷に参内したが、3月の列参では公家88人もの反対により、調印不可の回答が突き返された。幕府の威信が揺らぎ、政権の座は不安定に傾きつつある。海の向こうでは、インドでムガル帝国が滅び、英領支配が本格化していた。


 時代が、大きく動いていた。


 「だから、俺たちも進む。ここ羽鳥から、世界と繋がるんだ」


 そう心に誓いながら、晴人はふたたび常陸新館の中へと足を踏み入れた。

新館の東棟、二階に設けられた書庫には、全国から収集された地誌や和洋の学問書、そして羽鳥で翻刻・製本された各種の教本が並んでいた。紙の匂いと木の香りが混じる空間に、ひとりの少年が佇んでいる。


 藤田小四郎、十六歳。


 白地に紺の差し色が入った羽織の裾を揺らしながら、彼は頁をめくる手を止め、背後の気配に目を向けた。


 「――ここにいたか、小四郎」


 父・東湖の声だった。彼の背後には佐久間象山の姿もある。書庫の窓から差す柔らかな冬の陽光が、二人の輪郭を静かに照らしていた。


 「“西洋の思想”が、こんなにも整然と並ぶとは……まるで、異国に足を踏み入れたかのようだ」


 象山が感嘆の声を漏らすと、小四郎はぴくりと眉を動かした。


 「……父上も象山先生も、今や開国論に寄っておられるようですね」


 刺すような言葉ではない。だが、明らかに含みがあった。小四郎の手元には、羽鳥の工部録の最新冊子――洋式技術と地方自治の融合を記したものであり、東湖自身の筆も散見された。


 「攘夷は間違いではない。ただ、“手段”の順序を誤ってはならぬのだよ、小四郎」


 東湖の言葉は静かで、芯があった。


 「父上は、手段だと仰る。だが、私は“誠”が先に立つべきだと信じています」


 その目は燃えるようだった。小四郎にとって、異国と手を結ぶ行為は、天朝の権威を損なうものであり、神州の根幹に関わる裏切りに等しかった。だが――。


 「誠のために、人の命を削るのか? あの炭鉱で、手足を失った者を見てきたろう。薬の施しを受け、再び歩いた彼らは“攘夷”で救われたか?」


 象山の声に、小四郎のまなじりが揺れた。


 「それは、羽鳥が特別なだけだ。だが全国には、江戸には、夷狄の脅威が満ちている。砲艦の陰に晒された民は……!」


 東湖は、そっと机に並べられた一枚の写真を指差した。それは、常陸新館の竣工式で、子どもたちが笑顔で写る一枚。


 「お前が守りたい民が、ここにいる。口を開けば尊皇攘夷を唱えるが、国とは何だ? 将軍か、公家か。違う。目の前の民を守り、導くこと。それが“志”だと、私は思う」


 「……ならば、私はこの町で、私なりの“志”を証明してみせます」


 小四郎は頭を垂れ、父と象山に背を向けて歩き出した。


 彼の中で、羽鳥の姿は特異な“現実”として刻まれていた。清潔な路地、読み書きを学ぶ農童、蒸気の音が響く織機の小屋、そして写真という“もう一つの記録”。西洋がもたらした“異物”が、確かに人々の暮らしを変えている。


 (だが、それでも――)


 彼は、書庫を出て、渡り廊下を抜け、館の裏庭に出た。


 そこには、町の少年たちが木箱を使って蒸気機関の模型を組み立てている様子があった。羽鳥塾の教師が指導にあたり、実際に小さなピストンが上下するたび、歓声があがる。


 「先生、これで船も動かせますか!?」


 「理屈の上ではな。だが、力を正しく“伝える”技術がないと、ただの騒音で終わるぞ」


 (力を伝える、か……)


 彼の中で、ひとつの歯車が回る音がした。攘夷とは破壊ではない。それを成すには、まず己の手と頭で、“守る術”を知るべきなのではないか。


 その夜、小四郎は筆を取り、日記にこう記した。


 ――我、いまだ揺るがず。ただ、道の多さに迷うなり。

風が吹いていた。


 北東から流れてくる冬風は、羽鳥の町に冷たく鋭い輪郭をもたらしていた。だが、陽光は意外に温かく、瓦屋根の間をぬうように射し込んで、小さな奇跡のように町並みを照らしていた。


 藤田小四郎は、町の中心にある「羽鳥電信館」の裏手に腰を下ろしていた。


 手には、さきほど父から受け取った一枚の“紙”――写真がある。


 炭のような黒白の陰影。その中に、笑っている子供の顔が、幾人も写っている。みな綺麗な袴や着物を着て、背景には煉瓦造りの建物。彼らの目は、正面を見据え、確かに生きていた。


 (これが、あの“写真”か……)


 羽鳥では、すでに複数の写真装置が導入され、特定の場面を「写し取り、残す」技術が発展しているという。彼はこれまでそれを“虚飾の産物”と斜に構えていたが――この一枚を前にすると、どんな言葉も失っていた。


 まるで、魂までそこに閉じ込めたような、生の記録。


 「笑っている……」


 小さく呟いたその声が、風に溶けて消えた。


 ――民が笑っている。


 それは、彼がこれまで尊皇攘夷の名の下に想定していた“庶民”の姿とは違っていた。飢え、苦しみ、武士の背中に従う存在ではない。自らの手で学び、技を磨き、未来を信じて笑っている。そんな表情が、そこにはあった。


 「藤田様」


 声がした。振り向くと、若い書生風の男が立っていた。年は二十歳そこそこ、眼鏡越しの瞳が真っ直ぐに小四郎を見ていた。


 「失礼しました。写真の現像をお渡しするようにと、電信館からの使いで……」


 男は、丁寧に頭を下げてから、一冊の厚い帳面を差し出した。


 「これも……写真ですか?」


 「はい。羽鳥の復興記録です。建設前の空地から、今の都市機能まで、月ごとに記録されております。殿が『これは後世への“物語”だ』と申されまして」


 「“物語”……」


 受け取った帳面を開くと、そこには四季折々の羽鳥の姿が、写真とともに並んでいた。農民が杭を打ち、子供が本を手にして笑い、女性が糸車を回している。ページをめくるごとに、小さな変化と積み重ねがあった。


 「君の名は?」


 「石川と申します。羽鳥塾出身でして、今は工部省で事務を――あっ、すみません!」


 小四郎は思わず笑った。


 (羽鳥塾、なるほど。あの子供たちが、成長してこうなるのか)


 何もかもが、あまりにも異質だった。


 だが、否定できなかった。


 写真の中の町には、“夢”が写っていた。しかもそれは誰かの理念ではなく、実際に瓦を積み、道を拓き、人の笑顔を集めてできた“現実”だった。


 「……写真を、教えてほしい」


 不意に口をついたその言葉に、自分でも驚いた。


 「藤田様?」


 「写すとは、何を意味するのか。“記録”とは、“思想”を超えるのか……知りたいんだ」


 石川は一瞬目を見開いたが、すぐに笑顔になって頷いた。


 「もちろんです。写真技術班の若林先生にご紹介します。きっと喜びますよ、“藤田様”のようなお方が興味をお持ちとは」


 (思想を超えるか……)


 いや、思想は越えない。だが、それと並んで“人を動かす力”があるのなら――それもまた一つの“志”なのではないかと、小四郎は思い始めていた。


 その夜、宿に戻った小四郎は、再び筆をとった。


 墨を磨る音が、静かな夜に響く。


 【写実は、剣に似たり】


 【真を捉え、形を残す】


 【その力、己が思想と拮抗す】


 【いや、支え合う柱と成りうるか】


 そこまで記して、筆を置いた。


 窓の外では、羽鳥の町が淡く灯りに照らされていた。瓦屋根の向こうに、星が滲んでいる。写真では捉えきれぬその景色も、今この目にある限り、彼の中に“刻まれて”いた。


 そして、ふと思った。


 ――この景色を、父にも、兄にも、いや、全国の志士たちにも見せられたなら。


 そのとき、はじめて攘夷も開国も越えた“志の統一”がなされるのではないか。


 少年の胸に、ひとつの火が灯る。


 その名は、記録の火。


 そして、未来の礎を築く光だった。

冬の陽が斜めに差し込む常陸新館の展示室。写真ギャラリーの一角には、今や訪れる者の誰もが足を止める一枚があった。雪化粧の羽鳥の町並み。その中央に、木製の足場が組まれ、幾人もの職人たちが鋸を振るい、槌音を響かせている――新館建設中の様子をとらえた写真だ。


 そこに写る一人の少年の姿が、見る者の目を惹きつけていた。綿入れの半纏を肩からはおり、雪の上に膝をつきながら、真剣なまなざしで設計図をのぞき込む少年。まだあどけなさの残る顔つきだが、その眼差しには決意と知性が宿っている。


 その写真を前に、藤田小四郎は黙って立ち尽くしていた。


 「……俺だな、これ」


 彼は小さくつぶやいた。隣に立つ晴人がうなずく。


 「君が図面を見ながら、基礎部分の構造を相談してくれた日だ。たしか、雪の中、昼飯も抜きで動いてた」


 「……覚えてません」


 小四郎はそう言いながらも、視線を写真から外そうとしなかった。その瞳には、誇らしさよりも、戸惑いの色が浮かんでいた。


 「俺は、尊皇攘夷を掲げて戦うべきだとずっと思ってきました。……でも、ここに写ってる俺は、武器じゃなくて、図面と建材を握ってる」


 「おかしいかい?」


 晴人の問いに、小四郎はゆっくり首を振る。


 「いいえ。……だけど、俺は、そんなふうに自分を見たことがなかったんです」


 少年の声は揺れていた。十六歳――本来なら志を掲げて東奔西走する時期。だが今、自分の立っている場所は戦場ではなく、羽鳥という町の再建現場であり、目の前の“武器”は図面と道具と学びだった。


 晴人は展示室の壁に目をやる。そこには、町の変遷を写した写真が月ごとに並んでいた。草しか生えていなかった空地が道になり、街区ができ、煉瓦塀と街灯が立ち並び、ついにはこの新館が建った。


 「これが、“戦い”だと思ってる」


 「……建築が?」


 「違う。“記録”さ。だって、小四郎。君がこれから何を選んでも、君の“ここにいた時間”は、この町とともに記録される。写真ってのは、時間を裏切らない。戦うことも、守ることも、手を貸すことも、すべてが“いた証拠”になる」


 小四郎は眉をひそめ、目を伏せた。だが、その胸中には確かに何かが揺らいでいた。


 「父上なら、どう言ったでしょうね……」


 そう呟いたそのときだった。


 「――言わずとも、残したはずだ」


 低く、響くような声が背後から聞こえた。振り返ると、そこには黒の羽織に身を包んだ藤田東湖がいた。いつの間にか館に来ていたらしく、ゆっくりと歩み寄ってくる。


 「記録とは、“志の地図”だ。目指したものがどこにあったか、その歩みが正しかったかを、後の世が辿れるようにするもの。我が子よ。そなたがここで何を為したか、それだけで充分価値がある」


 「……でも父上、俺は攘夷の理を曲げたかもしれません。建築のことばかり考えて、刀を取る気持ちが揺らいだこともあります」


 「ならば、問おう。攘夷とは、刀を振るうことのみか? この国を守る術は、剣と血だけにあらず。学び、築き、伝えることもまた、尊き“戦い”だ」


 東湖は、息子の肩に手を置いた。


 「その目で、この羽鳥を見よ。凍てついた地を暖める灯り。学び舎に集う童子。この国がどうあるべきかを、ここは示しておるのだ」


 小四郎の唇が、わずかに震えた。


 「……父上は、俺が間違っていないと?」


 「誰しも、己の正しさを疑う時が来る。だが、その時こそが、真に“志を抱いた証”だ。そなたは迷い、考え、そしてここにいた。その全てが、立派な道の途中だ」


 晴人はその会話を黙って見守っていた。やがて、小四郎が一歩、写真に近づき、小さく頭を下げた。


 「なら、俺も、この町の“未来”を刻む一人でありたい」


 東湖が頷き、晴人もまた笑みを浮かべる。


 その夜。新館のホールでは、記録映像の上映会が開かれた。湿板写真の数々を幻灯機で投影し、町の変遷を語り部たちが読み上げる。「文明の目が見た羽鳥」と銘打たれたこの催しは、町の人々にとって忘れがたい体験となった。


 新館の外では、子どもたちが雪の上に文字をなぞって遊んでいる。そのなかに、小四郎の姿もあった。十六歳の少年が、羽鳥という町の記憶のなかで、“新たな志”を模索し始めた瞬間だった。

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