55話:赤字の彼方
羽鳥の朝は、かつてよりも少しだけ静かだった。
喧噪が消えたわけではない。だが、その騒がしさは、闇雲な生存のための叫びではなく、“日常を守る音”へと変わっていた。
炊き出しの列は姿を消し、町の広場には朝から露店が立ち並ぶ。売られているのは、織物、乾物、焼き菓子、古本、そして新たに開設された商会が発行した「商連票」――いわば簡易な出資証書だった。
「これ、買うと何があるの?」
少女が母に問う。
「そのお金が町の道になったり、暖房所になったりするのよ。あとでお米や薬草に替えられることもあるんですって」
母親が笑って答えた。
彼女の目は、かつて困窮の中で曇っていたものとは違っていた。わずかながら、“未来に触れている”眼差しだった。
羽鳥の人口はすでに五万二千人を超えていた。
商人、職人、農民、技師、教師、看護師、役人――さまざまな人種が入り交じり、町の表情は年ごとに厚みを増していた。
一方の水戸も同様だ。幕府直轄の役所がある都市として、文化や政治の中心機能を担いながら、羽鳥との連携で生活インフラが飛躍的に改善された。
常陸全体の人口は十二万を超えた。
その経済圏は、いまや周辺藩に影響を与えるほどの動きとなっていた。
その中心にある政庁の議場――そこで、定例の「常陸経済会議」が開かれていた。
「……つまり、この“民間債務分割投資制”によって、旧藩債務の約八割が実質的に圧縮されました」
壇上に立つ晴人が、掲げた図板には、一本の赤い線が描かれていた。
それは、かつての“藩の赤字”を示す線だった。
「残債は、わずか五千両です。これは、月ごとの商業税収と、地域公募型出資によって、十分返済可能な水準です」
聴衆の中にどよめきが走る。
それは驚きというより、“実感”だった。
自分たちが働き、買い物をし、暮らしているその営みの中に、確かに「借金を返している手応え」があったからだ。
壇の端には、商工会の代表たちが並んでいる。
「“藩の赤字を、町で預かる”……そんな話が、まさか通るとは思ってもいませんでした」
ある老舗の店主が呟く。
「通ったんじゃない。お前らが信じたからだ」
隣の若手職人が応じる。
「信じて、手を出して、失敗しないように必死に働いた。それが今の“数字”だろ?」
晴人は壇上から二人の声を聞き、微かに笑った。
「“赤字”というのは、本来“過去”を表す言葉です。でも今、我々はそれを“未来への投資”として使いはじめている」
「もし“赤字”の先に、人の暮らしと希望があるなら、それは“欠損”ではなく“種”です」
この日、議場の壁に新たな言葉が掲げられた。
> 「民に預け、民に託す。その赤字は、やがて緑となる」
誰が言い出した言葉かは定かではないが、町ではすでに「赤字」を「赤の種」と読ませる者まで出てきていた。
夕刻、政庁を出た晴人は、役所裏の坂を下って、羽鳥の北端にある“返済票交換所”を訪れた。
そこでは、町民たちが順番に列をなしていた。
「はい、こちらが先月分の米票。今月分は……お、雨が少なかった分、価格が少し上がってますね」
「構わんよ。子どもが学堂に通ってるから、薬草よりこっちが助かる」
交換係の若い女性が微笑みながら対応している。彼女の袖には、薄い刺繍で「藩商連」の文字が縫い込まれていた。
晴人が後ろから見ていると、やがて係の女性が気づき、頭を下げた。
「晴人さま……この制度、ほんとうに良かったです」
「“金を持つ者が力を持つ”時代から、“信を預ける者が力を持つ”時代になった気がします」
「……信を預ける、か」
晴人はその言葉を、反芻するように口にした。
振り返ると、かつて“返済”とは無縁だった者たちが、いまや堂々と町の経済を担っていた。
たとえば、木綿織りの老夫婦。
たとえば、盲目の薬草師。
たとえば、寺子屋を出て、いまや帳面を預かる青年。
彼らは、「取り戻す」のではなく「育てている」のだ――未来を。
政庁に戻ると、机の上に一通の書状が届いていた。
宛名は「藤村晴人殿」
差出人は、江戸の川路聖謨。
内容は簡潔だった。
> 「御地にて行われた債務改革、まことに興味深く拝読いたしました。
> いずれ、幕府勘定奉行所の若手を、実地研修として常陸に派遣できぬかと存じます」
晴人は、机に肘をついて短く息を吐いた。
「江戸の火が、ここまで届いたか」
町の火と、京の火と、江戸の火。
かつて“赤字”の象徴だったその火が、いまは別の意味で、この町をあたためていた。
羽鳥政庁の朝は、来客対応から始まった。
書状の束。表書きの筆跡は、江戸、佐倉、会津、津山……遠くは薩摩の家老名まであった。
いずれも内容は似ていた。
――「御地にて採用された“民間債務分割投資制”について、視察または研修の機会をいただきたく――」
役人が帳面を持って晴人に報告する。
「……既に六藩から正式な依頼。非公式な照会を含めれば、十五藩近くが関心を寄せています」
「これほどとは思わなかった。驚いております」
晴人は苦笑を浮かべ、筆を止めた。
「“金”というのは、本当に人を惹きつけるんだな」
「金というより、“信”でしょう」
隣にいた柳川がぽつりと言った。
「藩という器ではなく、民の“信”によって経済が動いている。この町は、それを見せてしまった」
「……“見せてしまった”か」
晴人は窓の外を見た。
市場通りには、いつも通りの喧噪が広がっている。帳面を抱えた商人、荷車を引く少年、絣の着物をはためかせる仕立屋の娘。何か特別な変化があるわけではない――ただ、そこに“希望の循環”が根を張っていた。
昼過ぎ、政庁にひとりの若者が訪ねてきた。
「晴人さま、お忙しいところ恐れ入ります」
頭を下げたのは、水戸藩の新任文官、津田。
「先ほど、町人から“経済連絡講”というものに参加したいという申し出がありました」
「これまでは、町人が藩の勘定に口を出すなど前代未聞とされていましたが、いまでは“当然”のように問うてくるのです」
「“今月の米票と薬草票の交替率をどう調整するのか”と――」
晴人は微かに笑った。
「彼らはもはや“施し”ではなく、“制度の一部”として動いているんだ」
「それは……喜ぶべきことでしょうか?」
津田が問いかけた。
晴人はしばし黙り、机の上に目を落とした。そこには、返済進捗の折れ線グラフが描かれている。
かつて“赤”で塗りつぶされた線が、いまや“緑”で埋め尽くされようとしていた。
「指導者というのは、“答えを示す者”だと思われがちだ。でも、たぶん……今必要なのは、“答えを共有する者”なんだろうな」
「制度も経済も、“正解”を与えるんじゃなくて、みんなで組み立てていく。その姿勢が、“信”になる」
津田は小さく頷いた。
「……では、“失敗”したら?」
「“信を失う”とき、ですか」
晴人は天井を見上げた。
「それでも、“民が諦めない町”なら、再び立ち上がれる。そういう町を、俺たちは作ってきたつもりです」
「津田君。町人を恐れる必要はない。むしろ……頼れ」
「彼らの中には、こちらが持たない“実感”がある。帳面よりも速く、噂よりも確かに、“変化”を感じ取る感性がある」
その言葉に、津田は深く頭を下げた。
夕刻、晴人はひとり町を歩いた。
羽鳥の街路は、冬に比べてずいぶん色を取り戻していた。
とある雑貨屋の棚には、「商連票で買える品」一覧が貼られている。
夕餉の仕度をするために米屋に並ぶ人の列にも、“焦り”や“遠慮”はない。
みな、ここに生きる“参加者”として、町と関わっていた。
広場の片隅では、学堂帰りの子どもたちが遊んでいた。
「なあ、ぼく将来、帳面書きになる!」「わたしは、お茶屋さん!」
「ぼくは……なんか、町をつくる人になりたい!」
晴人は、その声に足を止めた。
“町をつくる”――その言葉に、胸の奥が熱くなる。
あの日。
まだ羽鳥が廃村寸前だったころ、彼は瓦礫の間を歩きながら思った。
「せめて、ここに“希望が根を張る場所”を」
あれから数年――
そこに立つのは、かつて夢見た理想郷ではない。もっと現実的で、雑多で、未完成で、それでも人の暮らしが確かに営まれている“町”だった。
政庁に戻ると、川路聖謨からの続報が届いていた。
> 「貴藩の実地、ぜひ拝見したく、来月末、若手を三名派遣いたします。
> 視察ではなく、“弟子入り”の覚悟で臨ませます」
晴人は文を閉じ、静かに息を吐いた。
江戸の“硬直した城”から、学びを求めて“動く人間”が来ようとしている。
そして、ここには、それを受け入れる“土”がある。
“赤字”の意味は、もう“借金”ではない。
それは、この町の人々が背負い、育て、やがて芽吹かせた“信”という名の芽だった。
その先に何があるのか。
まだ誰も見たことのない“経済”の向こうに、ほんとうの“暮らし”が広がると、晴人は信じていた。
羽鳥の町では、いまひとつの不思議な言葉が流行していた。
「赤字? いいじゃないか、あったほうがわかりやすいよ」
誰かが笑いながらそう言うと、周囲もつられて笑う。
「そりゃそうだ。真っ赤になってりゃ“まだ足りねぇ”ってすぐ分かる。帳簿見なくてもいい」
「でも赤いぶん、“手を貸す余地”があるってことだろ? だったら、うちはもう一俵分の米を出せるぞ」
それはかつての“借金に怯える空気”とは、まったく違うものだった。
「赤字を、町で支える」
「町の赤を、みんなで埋める」
そんな考え方が、日々の商いや暮らしの中に染み込んでいた。
――債務は“恥”ではなく、“余地”になった。
町の老舗、扇屋では、帳場の奥で父と娘が帳面を見つめていた。
「お父さま、来月分の出資、増やしていい?」
「いいとも。だけど理由を聞かせてくれ」
「だって、羽鳥の学校が広くなるんでしょ? 友達が入れるようになるから。私、そっちのほうが嬉しいの」
父は笑い、帳面に墨を加えた。
「うちの帳簿も“赤”があっていいな。こんな理由なら、大歓迎だ」
娘は嬉しそうに頷いた。
商いの帳簿から“勘定”だけでなく“気持ち”が読み取れる時代――それが、いま羽鳥に生まれていた。
その日、羽鳥の町をひとり歩く若者がいた。
藩から派遣された視察役の若手藩士・松田である。
彼は当初、晴人のやり方を冷ややかに見ていた。
「民に金を預け、政策を共有するなど――危うすぎる。混乱を招く元だ」
そう思っていた。
だが、町を歩いて数日――彼の中の“常識”が、少しずつ崩れはじめていた。
ある日、小さな店先で見かけた老婆と孫娘の会話。
「ばあちゃん、この“投資票”って、ほんとに紙なの?」
「紙だよ。でもね、これを信じるってことが大事なのさ」
「信じる?」
「そう。あたしたちが町を信じてる、って証拠さ。信じた町が、返してくれると信じる。それだけのことよ」
その言葉に、松田は足を止めた。
町の人間が“町そのもの”に信頼を寄せていた。それは、上からの命令でも、制度の強制でもない。
“暮らし”という土壌の中で、自然と芽吹いた価値観だった。
政庁に戻り、松田は晴人に言った。
「……私は、正直に申し上げれば、“債務は恥”だと思っていました。武家においては、貸借の不始末は家の滅びに直結します」
「でも……この町では、“それを支えること”に誇りすらあるように見える」
晴人は静かに頷いた。
「“所有”ではなく“共有”にする。それが、俺たちが選んだ経済です」
「藩政であれ、町政であれ、すべてを“上”が抱える時代は終わりつつあります。これからは、“分け合う責任”が文化になっていく」
「文化……ですか」
「はい。制度より、文化のほうが強い。人の“習慣”や“思い”に根差したもののほうが、百の法令よりも長く、広く、深く伝わります」
松田は、しばし黙ったのち、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました。自分はまだ、“法”しか見ていなかった」
「でも、この町は“生き方”で統治されています」
その夜、晴人は町外れの新設書庫を訪れた。
帳面や報告書が並ぶ棚の隅に、一冊の薄い本が置かれている。
表紙には、町の子どもが描いた絵が貼られていた。笑顔の人々と、金の輪。
題は――「まちをたすける あかいしるし」
それは、返済制度をわかりやすく解説した学童向けの絵本だった。
中を開くと、文字はまだ拙い。だが、どのページにも“信”と“共有”の概念がやさしく描かれていた。
晴人は本を閉じ、静かに呟いた。
「……この町が、“知っている町”になったなら、きっと、何があっても立ち直れる」
翌朝。
市場では、町民たちが新しい布地を見せ合っていた。
「この柄、ほら、返済票の端切れから染めたんだよ。“赤”が混じってて面白いだろ?」
「いいね。“町の赤”って感じがする」
“赤字”は、もはや恐れられるものではなかった。
それは、町の記憶となり、文化となり、未来を形作る“余白”になっていた。
冬の羽鳥は、いつになく穏やかだった。
町の中央広場には、見慣れぬ帳場机が設えられ、その周囲に人だかりができている。晴人は、その輪の少し外で立ち止まり、群衆の様子を静かに見つめていた。
「……あれが“民間債務分割投資制”の、いわば“公開市場”か」
そう呟いたのは、側に控える村田である。
設置された木製の掲示板には、羽鳥町の“未償却債務”の一覧と、町民ごとの“拠出済票”の累計が記されていた。誰が、どの事業に、どの程度の資金を預けたかを、あえて町中に公開している。
「これ……見せびらかしじゃないんですね?」
後ろから声をかけたのは、他藩から視察に訪れた中年の役人だった。水戸領北部に位置する笠間の役宅から派遣された、坂西という名の男だ。
晴人は軽く頷いた。
「見せびらかすのではなく、“開く”ことが肝要なんです。“負債”の所在を開示することで、町全体に“余白”が見える。それが次の行動の判断材料になる」
坂西は口をすぼめた。
「……ですが、武士には荷が重い発想だ。恥を晒していると受け取る者も多いのでは?」
「そうですね。ですが、今の羽鳥では“負”を受け容れる勇気が、町の信頼につながっています」
そう言いながら、晴人は手にした報告書を坂西に差し出した。
「先月で、民間から集まった“債務分担金”は1,300両を超えました。そのうち、返済不要と明記された寄付が約400両。さらに、物資提供や労働奉仕という“債務代替行為”も急増しています」
坂西は目を見張った。
「……つまり、通貨以外の手段で“負債”を解消しようとする流れが?」
「ええ。“返す”とは、必ずしも銭を戻すことだけではない。力でも、物でも、知識でもいい。大切なのは、“誰が誰を支えているか”を、明らかにすることです」
晴人はふと、広場の向こうで行われている“冬季技芸市”に目をやった。
市の一角には、“返済票”を模した布を使った細工がずらりと並んでいた。赤く染められた裂き織の巾着、町の象徴になりつつある“赤条紋”の羽織、さらには帳簿の切れ端を再利用した紙細工――。
“負債”は今や、町の創意と遊び心の象徴に変わっていた。
その日の夕刻、政庁の執務室に戻った晴人は、一通の文を机の上に置いた。
それは江戸から届いた、幕府目付筋の照会書だった。
《羽鳥町における独自債権制度に関し、他藩・他町に悪影響を与えるおそれあり。直ちに当局に制度詳細を提出せられたし》
文面には、一見して穏やかだが、明確な“牽制”の色が滲んでいた。
「……来たか」
晴人は文を折り、火鉢の横の灰皿に置いた。
「江戸が動いたってことは、それだけ“効いてる”って証拠ですね」
背後から声をかけたのは、千代だった。彼女は帳面を小脇に抱えたまま、珍しく真顔だった。
「“国の統制”という名のもとに、羽鳥の仕組みが潰される可能性は?」
「あるさ。今や水戸と羽鳥で12万人の経済圏だ。幕府の一部には、“独立政権の芽”と見ている者もいるだろう」
「だったら……」
「だからこそ、“繋がること”が必要なんだ」
晴人は、視線を地図の上に落とした。羽鳥、水戸、笠間、土浦、結城――常陸国内の主要な市町村を結ぶ線が、まるで血管のように地図を彩っていた。
「この町ひとつでは、“異物”にすぎない。だが、周囲を繋ぎ、広域の“常陸モデル”として育てれば、“秩序”のひとつになる」
「秩序……?」
「“異端”じゃなく、“先駆”として認めさせるんだよ、中央に」
千代はしばらく黙ってから、呟くように言った。
「……でもそれ、すごく時間がかかりますよ?」
「いいさ。時間なら、こっちにはたっぷりある。“信頼”ってやつは、一夜で築けるもんじゃない」
翌朝、晴人は水戸城下に向かう荷車の護衛に同行していた。
荷台には、町の子どもたちが作った絵本や返済票の帳面サンプル、さらに“羽鳥の赤”で染められた布地が積まれていた。
「これも、“交渉材料”だ」
晴人は小さく笑い、荷の上に手を添えた。
“この町は、見せることを恐れない”
“恥ではなく、共有へ”
そんな信念が、いま“羽鳥の文化”として形になりつつあるのを、彼は確かに感じていた。
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