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53話:再建の城と双輪の夢

—1857年末〜1858年初夏—


 ――それは、灰の中から立ち上がった城だった。


 水戸城の再建が完了した春の日、濃紺の法被をまとった若者たちが、最後の土嚢を積み終えた瞬間、静かに太鼓が鳴った。かつて地震と火災に焼かれ、崩れかけていたその姿は、いまや政庁、迎賓館、議場を兼ね備えた“常陸の中枢”として蘇ったのだ。


 「……これが、水戸の未来の礎になるといいがな」


 城門の前で、ひとりの初老の男がぽつりと漏らす。


 その背中を、晴人が見ていた。身に着けた濃灰の羽織には、羽鳥の町紋を織り込んだ刺繍が揺れている。


 「城は、建て直せます。ですが、“中に何を入れるか”が問われるのは、これからです」


 そう言って、晴人は門をくぐった。石畳は新しく、通路は車輪の動線を意識して広く設けられている。城の敷地には、町人と職人の姿が当たり前のようにある。髷を結った商人が荷車を引き、足袋を履いた女中が大広間の掃除をしている。格式ばった静けさはなく、代わりに“生活の息遣い”が満ちていた。


 かつての武家だけの城は、いまや“民が出入りする城”へと姿を変えていた。


 その中心に、晴人の姿がある。


 新設された「政議広間」には、すでに多くの者が集っていた。畳敷きの広間に並ぶ机には、羽鳥出身の若手役人、商工会代表、職人頭、水戸の家老、文官たちまでが顔をそろえる。


 議長席に立った晴人は、膨大な束の巻物と、帳面、さらに二枚の掛け軸を掲げた。ひとつは『歳入推移図』、もうひとつは『借財録・再編案』である。


 「ご覧ください。これは、昨年一年で羽鳥と水戸の歳入が、いかにして倍増したかを示す図です」


 図には、織物と石炭の定期出荷がもたらした歳入曲線が鮮やかに描かれている。折れ線は急激に上昇し、年末の段階で従来比の“倍”に達していた。


 「ここまでの実績は、羽鳥の現場で働く人々、そして皆様方の尽力の賜物です」


 淡々と、しかし芯のある声で晴人は語る。


 さらに『借財録』を開くと、そこには全藩の債務と金利、担保資産、返済スケジュールが網羅されていた。奉行たちの目が、食い入るように資料に向けられる。


 「これは……まるで、幕府の会計奉行の書状のようだ」


 「しかも、無駄の洗い出しと、資産運用の提案まであるとは……!」


 感嘆の声が漏れる中、晴人は冷静に続けた。


 「私は“経世家”などではありません。ただの“地方官”です。ですが、羽鳥で得た知見と人材、そしてこの地に生きる民の力があってこそ、この再建案は実を結びました」


 ――その言葉に、羽鳥から参加していた若者たちが顔を上げた。商工職人のひとりが、そっと拳を握りしめる。


 「俺らが作った道と建物が……こんな風に使われるなんてな」


 「なあ、あの晴人って役人、ずっと羽鳥にいた奴だろ?」


 「おうよ。最初は“変わり者の殿様役人”って言われてたのに、今や水戸の長官だってよ」


 ――そう、彼は正式に「常陸行政長官」という職に就いた。


 それは幕府が任じた役職ではない。水戸藩主・徳川斉昭、そして羽鳥・水戸の町人代表、藩士らの“合議”によって創設された、藩内初の“地域統括官”だった。


 目的はただ一つ――「羽鳥と水戸の二都体制」を円滑に運用し、未来の国家モデルとすること。


 羽鳥は、医療、教育、インフラ、そして工業の中心地。


 水戸は、政庁、文化、外交の中心地。


 ――双輪の車として、常陸を引き、そして日本を導くための軸となる。


 だが、その動きに戸惑う者もいた。


 議会終了後、城外の茶屋に集まった一部の守旧派は、眉をひそめていた。


 「羽鳥の者どもが、城内をうろつくなど……」


 「いくら歳入が増えようと、藩政の根幹を年若き異邦人に握らせるとは、藩主もどうかしておる」


 「だが、あの借財録を見てしまっては……否定のしようもないな」


 沈黙が、古き者たちの胸に広がっていく。


 一方、城の西側――建築現場跡では、工事を終えた大工衆が焚き火を囲んでいた。


 「終わったな、兄貴」


 「いや、始まったんだよ。これからだ、水戸は」


 そこへ、晴人がふらりと現れた。


 「……皆さん、ありがとうございました。おかげで、城が“民のもの”になりました」


 大工頭が笑った。


 「違ぇねえ。お偉いさんのもんじゃねえ。ここは、みんなで建てた“新しい城”だ」


 焚き火の火が、空に舞う。春の夜風に、火の粉がきらめいていた。


 ――そして、水戸は羽鳥と共に、歩み始めた。


 ただの“城”ではない。


 未来を見据えた、双輪の都として。

江戸からの文が届いたのは、春が終わりかけた頃だった。


 「水戸藩政、再建の兆しあり。財政報告、実に精緻。御手並み、見事」


 老中・堀田正睦の花押が押されたその文書を、藩主・徳川斉昭は静かに読み上げ、微笑んだ。隣に控えていた藤田東湖と武田耕雲斎は、ほっと胸を撫で下ろす。


 「よくやったな、晴人。これで、幕府も我が藩の生き残りに“現実味”を見たことだろう」


 斉昭の声には、いつになく温かみがあった。


 しかし晴人は、笑わなかった。


 「……現実を見たのはいいことです。ですが、次は“未来”を見てもらわねばなりません」


 「未来、か」


 東湖が目を細めた。障子の外では、再建された政庁の庭に、羽鳥から招かれた子どもたちが遊んでいる。学びの見学として訪れていたらしく、教師に連れられ、城の構造や“会議とは何か”を学んでいる最中だった。


 「……あの子らが、将来この城を“使いこなす”時代が来れば、常陸もきっと変わります」


 それは、晴人が口にするには大胆すぎる言葉だった。しかし、誰も否定しなかった。


 むしろ、それが「当然の未来」であるかのように、斉昭も東湖も頷いた。


 だがその一方で、別の場所では“抵抗の声”が燻っていた。


 水戸城下、旧来の武家屋敷が並ぶ一角。屋根瓦も古び、春の風に桜の花弁が舞う静かな屋敷に、数人の家老経験者や幕臣が密かに集っていた。


 「なぜ、あの者を“常陸行政長官”などと称するのだ。幕府から任命されたわけでもない」


 「城の設計に町人を交え、藩の財政を町の商人にまで開示するとは……もはや武家の威厳などどこへ消えた」


 「しかも羽鳥なる新興の町を“産業の都”などと呼び、水戸と並び立たせるとは、どういうつもりか……!」


 言葉の端々には、嫉妬と苛立ちが滲んでいた。彼らが守ってきた“格式と伝統”が、今まさに“合理と共生”の旗印のもとに崩されようとしているのだ。


 その夜――


 水戸城内の書庫で、晴人はひとり資料に目を通していた。


 帳面の束、予算案、羽鳥との連携スケジュール、そして“人材育成計画案”。


 ふと、扉が叩かれる。


 「……入ってください」


 そっと顔を覗かせたのは、元商人であり、いまや羽鳥開発局の代表として働く初老の男だった。


 「長官、よろしければこれを……」


 差し出されたのは、羽鳥で開催された“住民会議”の記録である。そこには、農民、職人、教師、女性たちの声がびっしりと書き込まれていた。


 「“水戸と羽鳥を結ぶ道をもっと整えてほしい”」


 「“子どもにも議場を見せてほしい”」


 「“晴人さまは、話せば分かってくれる人だ”」


 その言葉に、晴人は静かに目を伏せた。


 「……俺がやっていることは、正しいのでしょうか」


 つぶやくと、男は首を振った。


 「正しいかどうかなんて、歴史が決めることです。ただ――」


 「“目を合わせてくれるお役人”ってのは、ありがたいもんですよ。民にとっては」


 夜の風が吹いた。書庫の窓を揺らし、灯明の火がわずかに揺れる。


 その揺らぎの中、晴人は決意を新たにした。


 ――自分は、まだ何者でもない。


 ――けれど、歩く道を選ぶことはできる。


 数日後。


 水戸城の「中央議場」では、初の“町民参加型議会”が開催された。


 晴人の提案により、羽鳥や水戸の各町から選ばれた代表たちが、家老や文官と同じ場で発言することが認められたのだ。


 「城に町民が……!」「いや、それだけではない、“意見”を言うと申すか!」


 守旧派の中には動揺を隠せない者もいたが、すでに水戸城は“開かれた城”である。もはや武士だけのものではなかった。


 代表のひとり、羽鳥の織物工場で働く女性・お花が口を開いた。


 「織物の注文が増えました。でも、納期に間に合わないこともあります。羽鳥に新しい“織機”を入れてもらえるよう支援を願います」


 その声は、澄んでいた。誰よりも誇りをもって働く者の声だった。


 続いて、教師代表の若者が立ち上がる。


 「羽鳥では“読み書き”のできる子が増えています。この知識を、水戸の子どもたちにも――互いに教え合える場がほしいのです」


 晴人は黙って頷いた。そして、筆を走らせる。


 城内の空気が、少しずつ変わっていく。


 かつては命令と服従だけだった場所が、今では意見と協議の場に変わりつつある。


 そして、その光景を、藩主・徳川斉昭が密かに障子越しに見ていた。


 「――ならば、もう一歩だな。幕府にこの姿を見せねばなるまい」


 そう呟く声には、確かな期待が滲んでいた。


 外では、梅雨前の陽光が城の瓦に反射し、眩しく輝いていた。


 ――水戸と羽鳥。ふたつの車輪は、いま、確かに同じ方向を目指して回り始めた。


 それは、地方が“国を変える”という、前代未聞の旅路の始まりだった。

初夏の陽が射し込み、再建された水戸城の白壁がやわらかに輝いていた。


 晴人は、その光を背に、政庁内の応接間にいた。机の上には、数通の書状。いずれも藩内各地から届いたもので、羽鳥だけでなく、那珂湊や友部、小田や江戸屋敷に至るまで、常陸全域からの声が集められていた。


 その中の一通に、晴人の目が留まる。


 「“羽鳥で試みられた就学支援制度を、那珂湊の女学校にも導入したい”……か」


 呟くと、隣に控えていた柳川が頷いた。


 「水戸では、昨年末から町内に三つの私塾が設立されました。ひとつは羽鳥から移ってきた教師が指導しており、識字率が急上昇しています」


 「医療の施療院も、羽鳥の制度をもとに、水戸内町で村田医師の教え子が独自運営を始めました」


 晴人は手帳を閉じた。


 「羽鳥は“始まりの場”にすぎません。いまや水戸もまた、その流れの中核です」


 彼の視線は、障子の向こうにある中庭へと向けられていた。そこでは、水戸の町人と羽鳥の工匠たちが並んで城の補修作業を行っていた。どちらも黙々と働き、そこに“出自”による差などは見当たらない。


 「けれど――」


 柳川が、書簡の束のひとつを持ち上げる。


 「“羽鳥偏重ではないか”という声も、一部の旧家や藩士からは上がっております」


 晴人は静かに目を伏せた。


 「当然です。誰かが目立てば、誰かが影に入る。ですが、我々が進めているのは“対立”ではなく“統合”です」


 政庁ではその日、「教育・医療・福祉」の三分野における地域連携モデル案の審議が行われた。


 議場の中央には、水戸・羽鳥・那珂湊・友部の連携図が広げられていた。羽鳥の学堂で試された教育方式が水戸へ、村田の廉価施療モデルが小田の町医者へ、那珂湊の港町では労働者向け識字教室が導入されつつある。


 「これは、羽鳥の成功事例を“藩全体で共有”するための運用案です」


 晴人の説明に、数名の家老が頷いた。


 「ふむ……羽鳥は確かに先んじて試した。だが水戸でも、先月から商家の子弟に算盤の講座が始まっているな」


 「小田ではすでに女児向けの夜間学堂も始まったそうです」


 議論は自然と、「どこが進んでいるか」ではなく、「どう繋ぎ、広げるか」という方向に流れていった。


 その中で、ひときわ目を引いたのは――


 「医療に関しては、羽鳥での村田医師の功績を、幕府も再評価しております」


 晴人がそう述べて提示したのは、江戸・奥医師局からの公文書だった。施療の構造改革による「藩民の健康増進と経費削減」が認められ、昨秋の報告時点で債務一万五千両の相殺が正式に受理されたという内容だ。


 「このことが契機となり、羽鳥だけでなく、水戸や友部においても“分施療所”の設立が進みつつあります」


 「……つまり、羽鳥の“試み”が、常陸全体の“仕組み”になったというわけか」


 家老のひとりがそう呟くと、晴人はうなずいた。


 「藩の中心がひとつの町にあるのではありません。すべての町が“役割”を持ち、互いを支え合う。それが、我々が進める“多拠点共生型”の運営です」


 その時、議場に静かに入室してきたのは徳川斉昭であった。


 「……よいな。まさにそれが、これからの藩の形だろう」


 斉昭は、傍らの藤田東湖から一通の書状を受け取り、議場中央に掲げた。


 「これは、幕府への報告文書である。“常陸行政体制改革案”として、これを提出する」


 文書の冒頭には、こう記されていた。


 > 「羽鳥に始まり、水戸に育ち、常陸に広がる再建の息吹。

 > その根幹は、民の力を活かし、互いを結び直すことにあり――」


 議場に、一瞬の静寂が流れたのち、深い拍手が湧いた。


 その日、水戸藩政の舵は、確かに「一拠点主導」から「地域協調運営」へと切られたのだった。


 同じ頃――


 羽鳥の施療院では、村田が若手医師と共に診療記録をまとめていた。


 「水戸の新設所から質問か。“診療記録の統一方式について”……ふん、まじめにやっとるな」


 彼は苦笑しつつも、筆を取り丁寧に回答を書き始めた。


 その姿を見ていた若い女医が、こっそりと呟く。


 「先生、笑ってる……」


 「うるさい。仕事しろ」


 ぶっきらぼうな返事に、部屋の空気が和らぐ。


 かつて“藪医者”と呼ばれた男は、いまや常陸の健康を支える柱となっていた。


 そして、晴人もまた――


 中枢としての重責に身を置きながら、それぞれの町の声を聞き、繋ぎ、支える存在へと歩みを進めていた。


 水戸と羽鳥は、もはや切り離せない双輪の車。


 そこに加わる新たな輪――那珂湊、友部、小田……。


 常陸は、静かに、しかし確実に“藩”から“地域国家モデル”へと姿を変えつつあった。

――江戸・桜田門内、老中控えの間。


 襖の奥から、誰かの笑い声が微かに漏れ聞こえていた。


 「これは……実に、面白い」


 その声の主は、老中首座・堀田正睦である。手にしていたのは、水戸藩から届いたばかりの文書――『常陸行政体制改革案』。濃墨で整えられた文字、詳細な収支図、村ごとの人口推移、施療記録、教育就学率の推移まで記されている。


 「まるで……幕府の勘定奉行所が作った報告書のようだな」


 横にいた川路聖謨としあきらが呟いた。


 「いや、それ以上かもしれん。これは“現場の息遣い”がある。民の目線で作られた文だ」


 堀田は書状の末尾に記された名に目を落とした。


 ――“常陸行政長官・藤村晴人”


 「この若者、名は聞いていたが……まさか、ここまでの構想を形にするとは」


 川路が続ける。


 「報告には“羽鳥の制度を水戸が支え、水戸の中枢が他郷へ制度を展開する”とある。これまでの“藩=一城一都”の構造を超えた、“地方の連環”そのものです」


 「まさに“国”の単位が、揺らぎ始めている……そういうことか」


 堀田はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に置かれた一冊の地図を広げた。常陸国の地図だ。そこに墨で小さく「羽鳥・水戸 双拠点」「常陸多中心モデル」と記されている。


 「……徳川の世が二百年、安定してきたのは、地方が“声を上げなかった”からだ。だが、これからは違う」


 「地方が、学び、考え、そして動き出している」


 静かな言葉に、場の空気が引き締まる。


 同席していた松平忠優が口を開いた。


 「改革案の中で特に注目すべきは、民間による議場参加制度でしょうな。藩主や家老の名の下でなく、町人の言葉が政庁に届く。これは……一種の“地方自治”とも言えましょう」


 川路が苦笑した。


 「将軍家が聞いたら眉をひそめるでしょうな。“まつりごとに素人が口出しをするな”と」


 「だが、それが正しいかどうかを決めるのは、民そのものだ」


 堀田の言葉に、誰も反論しなかった。


 その瞬間――


 襖がわずかに開き、ひとりの若い奉行がそっと顔を覗かせた。


 「失礼いたします。彦根より、井伊掃部頭様よりの文が届いております」


 堀田の眉が、わずかに動く。


 井伊直弼――次代の将軍継嗣問題で、今まさに対立の相手である。


 文を受け取り、堀田は開くことなく机に置いた。


 「……読むのはあとにしよう。今日は、この晴人という若者の未来について考える」


 その夜、江戸の町の片隅。


 川路聖謨はひとり、屋敷の書庫にこもり、羽鳥の施療制度について記された書類を読み込んでいた。


 「……施療所で病人を受け入れ、生活改善の相談まで受けるとは……」


 彼は筆を取り、手元の文に記す。


 > 「この制度、江戸市中にも応用可能。特に本所・浅草にて急増する町民病、脚気・咳症・疱瘡等に有効」


 ページの片隅に小さく、“羽鳥式施療モデル(仮称)”と記された。


 川路の目は、真剣そのものだった。


 一方その頃――


 水戸城の一室では、晴人がろうそくの明かりの下でひとり手帳を整理していた。


 次なる課題――物流の拠点整備、羽鳥から那珂湊への水運連結、城下町の上下水の改良計画……どれも急務で、しかも政治の支援なくしては進まぬ。


 (幕府が、どう反応するか)


 それは、晴人にとっても未踏の領域だった。


 羽鳥の改革は、実験だった。水戸での拡張は、連携の成果だった。そして、常陸全域の調整は、未知への挑戦だ。


 彼はふと、筆を止め、机の隅に置かれた一枚の墨書に目をやった。


 > 「地に生きる者が、地を守り、地を育てる」


 それは、東湖から贈られた言葉だった。


 「……俺にできるのか、こんな大きなことが」


 呟くと、扉の外から声がした。


 「できますよ、晴人さま」


 扉の外に立っていたのは、かつて羽鳥で施療所の設営を手伝った町の青年だった。


 「俺たちは、晴人さまがいなければ、今も病にかかっていたままです。学校にも通えなかった」


 「今では、妹も読み書きを習っていて、父は新しい織機の組み立てに関わっているんです」


 「……だから、俺たちが支えます。あんたが、俺たちを支えてくれたように」


 晴人は、ゆっくりとうなずいた。


 夜風が、わずかに吹き込む。遠くでカエルの声が聞こえ始めていた。


 ――常陸の夜は、まだ静かだった。


 だが、江戸では静かに火が灯り、そしてそれは、やがて他藩にも届くだろう。


 民が立ち上がり、地方が考え、地域が未来をつくる。


 水戸と羽鳥が踏み出したその一歩は、小さな一歩に見えて、やがて国を動かす風になる。

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