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50.9話:分かち合う知恵と、去りゆく背中

羽鳥の秋は、静かに深まりつつあった。


 小高い丘から見下ろすと、田畑の穂は金色に波打ち、軒先には吊るされた干し柿や紅葉した葉が秋陽に照らされて揺れている。野良着姿の農夫たちが道すがらに笑い、子どもたちの声が小川沿いにこだましていた。


 村の中心にある羽鳥役所。その一室で、藤村晴人は筆を走らせていた。


 窓から差し込む光は柔らかく、硝子越しの風が簾を揺らしている。机の上には、先日訪れた水戸藩の青山隼人から託された手紙と、諸藩視察団からの書状が積まれていた。


 だが、晴人が今記しているのは、それらとは異なる帳面だった。


 “未来帳”と名付けられたそれは、羽鳥で進められている施策や交流、子どもたちの成長記録、村人の気付きや願い――そうした“未来に繋げたいもの”を綴る、独自の記録簿だった。


 「これは……未来の誰かへの、引き継ぎだ」


 独り言のように呟いたその声には、どこか確信が宿っていた。


 紙面には、近隣藩の視察記録のほか、冷菓の改良と製法の共有、簡易印刷機による冊子発行の成果、各地から届いた感想などが記されていた。


 たとえば、越前藩の養生所からは、冷菓によって子どもたちの食欲不振が改善されたとの報告。紀州藩では“癒し茶”が役人の間で疲労回復に効果ありとされ、試験導入が始まっているという。


 “共に在る”という羽鳥の理念は、確かに各地に伝わり始めていた。


 「晴人さん」


 控えめなノックと共に、役所の若者・志朗が顔を覗かせた。


 「湊から、また菓子の注文が届きました。今度は冷やし葛餅を……どうするか、とのことです」


 「葛粉か……保冷の工夫が要るな。氷室の余力を確認して、伊吉と相談してくれ」


 「かしこまりました」


 志朗が部屋を出た後、晴人は再び“未来帳”に目を戻した。


 (この手帳が、十年後、百年後にも読まれるとは限らない。でも、今を知り、誰かが記して、誰かが引き継ぐ――その積み重ねが、未来を変えると信じたい)


 筆先がふと止まり、晴人は天井を仰いだ。


 ふと、外から子どもの歌声が聞こえた。


 「♪こおりやまの なつはさむいよ あまいようかん とけないように~」


 どうやら“冷やし羊羹”の流行が、童歌にまでなっているらしい。


 くすりと笑い、晴人は立ち上がった。


 役所の玄関を抜けて表へ出ると、陽光が眩しく村全体を包んでいた。


 通りでは、旅装の一団が集積所に向かって歩いている。見れば、彼らは播磨や肥後の名を背負う商人たちだ。先導する村の案内人が、誇らしげに冷菓保冷箱の構造や、簡易冊子の製本法を説明している。


 そこに交じっていたのは、僧衣に身を包んだ一人の老人。


 「藤村様に、お目通り願いたい」


 晴人が軽く会釈すると、老人は深く頭を下げた。


 「わしは、長州の藩校“明倫館”にて教育の端を担っております。羽鳥の試みに、甚く心打たれ、己が学びたく参りました」


 「ようこそ。羽鳥には、格式も位も不要です。ただ、志を持ち、互いに学び合えるなら、どなたでも歓迎します」


 「……それは、まことの道にございますな」


 その後、晴人は一行と共に工房を巡り、冷菓づくりの現場や印刷所を案内した。


 印刷所では、村の娘たちが整然と活字を並べ、“羽鳥便り”と題された新しい冊子を製本していた。内容は、冷菓の作り方、応急手当の心得、そして村に寄せられた感想文や短歌である。


 老人は手に取った冊子をじっと見つめた。


 「これは……“言葉の種”じゃな。風に乗って、どこまでも飛んでいく」


 「いずれ、どこかの土に根を下ろしてくれるなら、本望です」


 晴人の声は、柔らかかった。


 その夕刻。


 羽鳥の集会所では、小さな座談が開かれていた。


 全国から来訪した視察団の中には、医者、教師、神職などさまざまな立場の者が混じっていた。彼らが輪になり、茶を飲みながら語り合う姿は、まるでどこかの藩邸の“奥座敷”のようでもあった。


 「我が藩でも、こうした印刷があれば……」


 「いや、保冷の技術こそ、山中で役立つはずじゃ」


 「だが藤村殿は、それらを“売る”とは仰らなかった。“教える”と……」


 その言葉に、皆が頷いた。


 晴人は壁際に座し、静かに皆の様子を見守っていた。


 (この輪の中で、誰かが火を灯す。誰かが風を送り、誰かがそれを継ぐ……そういう繋がりが、やがて時代を変えていく)


 帳面に記した“未来”の一頁が、いま生まれようとしていた。

その晩、羽鳥の夜空はひときわ澄んでいた。


 雲ひとつない空に無数の星がまたたき、遠く秋の虫の音が、風に乗って届いてくる。役所裏の広場には、灯籠を持ち寄った村の子どもたちと、視察団の一部が集まっていた。


 中央に置かれた火鉢の周囲では、焙じ茶の香ばしい匂いが漂い、竹椅子に腰かけた年寄りたちが語り部となって、“羽鳥の昔話”を披露していた。


 「……そのころはな、川の水ももっと冷たくての。雪が溶けると、谷からおたまじゃくしが一斉に出てくるんじゃ」


 「ほんとにー?」


 子どもたちが目を丸くして身を乗り出す。その様子を、晴人は離れた場所から見守っていた。


 「羽鳥の夜は……いいな」


 そうつぶやいたのは、視察団のひとり、肥後から来た薬草医の老爺だった。


 「人の声が聞こえる夜は、安心できる。わしの村は……このような声が、消えて久しい」


 「羽鳥も、かつては静かな村でした。いや、今も静かではありますが……」


 「静けさの中に灯がある。いや、灯の中に人の輪がある。どちらでもよいが、それが“温もり”というものであろう」


 晴人は、焚火の明かりに照らされた子どもたちの笑顔を見つめながら、小さく頷いた。


 そのとき、一人の少女が近づいてきた。手には手書きの冊子を抱えている。


 「これ、先生が書いたんです。『夢の地図帳』って言います」


 「……夢の、地図帳?」


 晴人が手に取ると、それは子どもたちが描いた「未来の羽鳥」の姿だった。


 ページには、木の上に作られた本屋、動物たちと遊べる広場、空飛ぶ屋根付きの風呂屋まで、想像力豊かな絵と言葉が詰まっていた。


 「こりゃ……立派な“政策書”だな」


 「せいさくしょ……?」


 「そう。未来をどうしたいか考えることは、大人も子どもも変わらない。“どうありたいか”を描く。それが始まりなんだ」


 「ふふ、じゃあ私たちも、大人になれるかも!」


 少女の声に、他の子どもたちも駆け寄ってきた。


 「ねえ、晴人さん。ほんとうに羽鳥に、空を飛ぶ風呂屋つくれるの?」


 「その前に、風呂場の天井を直さないとな」


 笑い声が広がるなか、晴人は再び視線を空に向けた。


 (この笑顔を守るために、俺たちは、ただ“便利”を作っているわけじゃない。“つながり”と“記憶”を作っているんだ)


 ふと、夜風が冊子のページをめくった。


 そこには、こう記されていた。


 《大きくなったら、羽鳥を世界いちのまちにしたいです。ふわふわのまちで、みんながやさしいです。けんかしないで、おちゃをのむです。》


 稚拙な字。だが、どの言葉よりもまっすぐだった。


 晴人は冊子をそっと閉じ、胸の奥で誓いを新たにした。


 (このまちを、未来に繋げよう。手渡しで、火を灯すように)


 その後、視察団の一部は宿へと戻り、広場には子どもと数名の若者たちだけが残った。


 「ねえ、晴人さん。“活字の話”またしてよ」


 「そうだね。じゃあ……今日は“消える言葉”の話をしようか」


 晴人は地べたに腰を下ろし、子どもたちと輪を作った。


 「人の声は、風に消える。手紙も、燃やせば灰になる。でも……」


 「でも?」


 「言葉が誰かの心に届いたら、その人が、また誰かに話してくれる。それを“記憶”って言うんだよ」


 「じゃあ、記憶は活字になるの?」


 「逆かな。活字は“記憶の芽”になるんだ。それを誰かが読むことで、水をやって、育てて、また次の誰かに渡せる。そうして、“想い”は続いていく」


 月明かりに照らされた子どもたちの瞳が、真剣な光を宿していた。


 (この子たちが、未来の羽鳥を支えていく)


 晴人の心に、確かな確信が芽生えていた。


 そして深夜。


 視察団が宿で休む中、晴人は一人、役所の帳場に戻っていた。


 灯明に照らされた“未来帳”のページがまた一枚、静かに増えていく。


 《羽鳥の灯は、遠くから見ればただの光。でも、近くで見れば、人の手の温もりがある。言葉が、手渡しされる。笑顔が、輪になって広がる――この繋がりこそ、羽鳥の力である》


 書き終えたとき、窓の外に朝の気配が差していた。


 新しい一日が、また始まろうとしていた。

一人の男が、再び羽鳥の地を踏んだ。


 青山隼人――水戸藩の用人であり、かつてこの村の変貌ぶりを目にして驚嘆した男である。彼はあえて事前の連絡を入れず、ふらりと馬を駆って羽鳥に現れた。


 「おお、これは……お戻りとは、珍しいですね」


 門前にいた守衛役の老人が目を細める。


 「ここが気になってな、どうしてももう一度見たくなった」


 青山はそう言って馬を降り、門の前に立つ。


 村は相変わらず静かだったが、どこか以前とは空気が違っていた。街路には落ち葉ひとつ見当たらず、子どもたちの笑い声が風に乗って遠くまで響いている。


 「……まるで、生きているようだな」


 かつて“制度”や“仕組み”に目を見張った青山だったが、今回は“心”のありようを見に来たつもりだった。果たして、村の空気は彼の予想を上回る温かさで迎えた。


     *


 ちょうどその日、羽鳥では“外来の使節をもてなす会”が開かれていた。とはいえ、公式な藩命ではなく、各地から噂を聞きつけた商人や下級武士らが、自費で村を訪れていた。


 青山はその場に、晴人の招きで加えられることとなった。


 「青山様、またお会いできて嬉しいです」


 「こちらこそ。……あの時の言葉が、ずっと胸に残っておりましてな」


 軽く一礼し合う二人。その間に通じるのは、利害でも上下でもない、“志”という共通の温度だった。


 室内には、視察に来た他藩の者たちが思い思いに問いを投げていた。


 「この診療所、何人で運営されているのですか?」


 「平常時は三名です。急患があれば、近隣の拠点から支援班が出動します」


 「この“絵札”とは?」


 「文字が読めぬ者のために作った警報札です。“赤丸”は急病、“青三本線”は道案内、“黄色い葉”は高齢者の介助要請です」


 その場にいた誰もが、羽鳥の運営が“人の理解力と感情”を考慮して設計されていることに驚きを隠せなかった。


 青山は、静かに筆を取りつつ、それらのやり取りを聞いていた。


 そしてふと、晴人に問う。


 「この拠点配置、改めて拝見しましたが……本当に、村全体が有機的に動いていますな」


 「ええ。医療と警備が“拠点集約”されております。羽鳥の設計は、生活動線が最短となるよう地図上で調整しています。急変時でも、数刻のうちに対応が可能です」


 「……私の見立てが甘かったようです。“村”の運営とは、こうまで洗練され得るものなのか」


 「洗練、ではありません。“暮らし”です。皆が気持ちよく生きていけるように、道を掃き、声をかけ合う。その積み重ねが、自然と道筋になっていったのです」


 青山はその言葉を聞き、目を伏せた。


 「そうですな。先日、私は村の変化を“制度”の力とばかり思っていた。だが、違う」


 「……」


 「今、村を歩いて感じました。確かに制度はある。しかし、制度だけでは“笑顔”は作れぬ。“心ある人”がいて初めて、この羽鳥という土地は形を成す」


 その言葉に、晴人はわずかに微笑む。


 「それが、青山様が再びここを訪れてくださった理由でしょうか?」


 青山は一瞬言葉を飲んだが、やがてゆっくりと頷いた。


 「……ええ。確認したかった。制度は人を導けるか。志は人を変えうるか。そして、それが他藩へと波及する未来があるか」


 「羽鳥は、独り占めするつもりはありません。分かち合うために、ここまで来ました」


 そう答える晴人の目は、まっすぐだった。


 その夜、青山は一冊の帳面を宿に持ち帰り、静かに筆を走らせた。内容は、制度の紹介でもなく、特産品の商機でもない。ただひとこと、


 ――“志が道をつくる”


 そう記した。


     *


 翌朝、青山が村を発つ際、門の前には数人の子どもたちが集まっていた。


 「おじさん、また来る?」


 「また羽鳥に来てくれる?」


 目を輝かせて問う子どもたちに、青山は驚いたように目を丸くしたが、やがて穏やかに笑みを浮かべて頷いた。


 「……ああ。きっとまた来るとも。その時は、君たちが案内してくれ」


 「うん!」


 馬に乗るその背を見送りながら、晴人は静かに呟いた。


 「藩の役目ではなく、人の意思でここに来た。――この地が、その価値を証明したのだ」


 羽鳥の空には、朝靄が薄く漂っていた。


 だが、その先に射し込む光は、確かに青かった。

日が傾き、羽鳥の町に秋の風が深く入り込むころ。

 街道沿いの松並木が揺れ、赤子のように柔らかな葉音を響かせていた。


 役所の庭先では、越前・津・高崎の三藩からなる使節団が、羽鳥の地元住民とともに簡素な夕餉を囲んでいた。


 木製の長机に並べられたのは、季節の芋を使った団子汁、干し柿を添えた雑穀飯、そして冷やし羊羹と寒天菓子。


 氷室で冷やされたその甘味は、昼間の労をねぎらう品として、この日のために特別に用意されたものである。


 「……うまい。これは……喉ごしが、まるで水のようだ」


 年配の藩士が目を細め、寒天菓子を口に運んだ。


 「はい。氷室の氷を使って冷やしております。江戸の献上品にも負けぬと、子どもたちが手伝って作ったのです」


 料理を配膳していた羽鳥の娘が、少し誇らしげに言った。


 「氷室……あの、春先に山に雪を詰めていたという……」


 「ええ。晴人様が戻ってこられたとき、まず整備したのがあの氷室でした」


 「なぜ、冷やすことにそこまで……」


 「“人は冷たさでも癒やされる”と。熱が出た者に氷を当てれば命が助かる。火照る心も、冷やせば落ち着くと……」


 言葉を聞いた越前藩の若侍は、静かに茶碗を置いた。


 「……あの方は、戦の知ではなく、人の知でこの地を立て直しておられるのだな」


 「ええ。私たちは、暮らしのすべてを“癒し”と捉えています」


 そう語ったのは、診療所の見習いである青年だった。

 その目に宿る誇りは、かつての貧しい村の姿を忘れぬ者だけが持ち得る光だった。


     *


 宴の後、広場では灯籠がともされ、子どもたちの手による“おくり火”が始まった。


 木片に願いを書き、小さな火を灯して空へと解き放つ。

 それは羽鳥に伝わる古い祭礼をもとに、晴人が再興した“願火がんび”の儀だった。


 「ねぇ、なんて書いたの?」


 「うん。“お母さんの咳がなおりますように”って」


 「ぼくは、“おいしいごはんがたくさんできますように”!」


 無邪気に語る子どもたちの背後では、使節団の者たちがその様子を黙って見守っていた。


 「……見よ、あの灯の列を」


 「願いがある限り、人は前に進めるものなのだな」


 ある者は胸に手を当て、ある者は涙をそっと拭った。


     *


 その夜遅く、使節団の長が記録帳を閉じた。


 「見聞きしたものすべてが、目新しく、そして懐かしかった」


 誰ともなく、机の上の茶碗に手が伸びる。


 その茶碗には、今日訪れた村のすべてが凝縮されているようだった。


 冷たさと温かさが交わる場所。

 孤独と共助が共に息づく場所。

 そして、“癒し”という言葉が、形になって歩き始めた場所。


 「……我らも、帰れば問われよう。“なぜ羽鳥だけができたのか”と」


 「答えは簡単です」


 そっと声を差し挟んだのは、同席していた羽鳥の役人であった。


 「ここは、始まりの地なのです。“できるかどうか”ではなく、“始めるかどうか”。晴人様は、そう仰いました」


 しばしの沈黙ののち、一人の藩士が静かにうなずいた。


 「我らも始めよう。小さくとも、灯をともそう。すぐには追いつけずとも、“志”ならば並べるはずだ」


 その言葉に、誰からともなく頷きが重なり、羽鳥の夜は静かに更けていった。


 灯籠の残り火が風に揺れ、見上げれば星の光がまるで祝福のようにきらめいていた。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


 今回の物語が、少しでも心に残る時間となっていれば幸いです。


 もしよろしければ──

 評価・ブックマーク・感想・レビューなどをお寄せいただけますと、とても励みになります。

 皆さまのひと言ひと言が、次の物語を紡ぐ力になります。


 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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