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50.8話:隣人の名と、信頼の窓

江戸で羽鳥の名を耳にする者が、日に日に増えていた。


 初めに目を見張ったのは、神田の寺子屋の師範たちだった。羽鳥発の木版冊子——それは子どもたちにとって“読める初めての本”となったからだ。


 大ぶりの文字、絵解きの挿画、そして淡い墨のにじみがやさしい雰囲気を醸す。


 「この本を書いた人たちは、“学びたいと思う者”を見てる……そんな気がする」


 と、ある若い師範が呟いた。


 配布された冊子は瞬く間に回覧され、寺子屋から長屋へ、長屋から町医者の手元へと流れていく。読みやすく、優しい。それでいて、伝えたいことが明確であり、伝わる。


 「江戸には珍しい、“学びのための道具”だ」


 そう語ったのは、湯島で医療と教育を兼ねる蘭方医・柊屋源之進だった。彼は羽鳥の冷菓もまた、患者の精神安定に役立つと着目し、配布された甘味を診療所で試験的に取り入れていた。


 寒天と干し果物、蜂蜜を少量——それらは消化器の負担にならず、身体を冷やしすぎず、甘みが心を和らげる。


 「ここにあるのは“癒しの設計”だ。味ではない、思想の話だよ」


 羽鳥印の冷菓と冊子は、江戸において単なる土産ではなく、“地域の志”を体現した品として受け入れられつつあった。


 ──一方、羽鳥では、その反響を受けて慌ただしくなっていた。


 山裾の集積所には、朝から馬の嘶きと若者たちの掛け声が響く。


 「第三便は明後日出立、荷の検品優先だ!」


 「冊子の印刷、間に合うか?」


 「七日分は刷り終えた、だが寒天用の箱が足りねぇ!」


 慣れぬ作業に追われる中、現場を指揮していたのは、村で“物流管理人”を任された男・倉田彦三郎だった。かつては水戸で町荷問屋を営んでいたが、晴人の理念に惹かれ、羽鳥に移住してきた異色の人物である。


 その倉田が、今日も晴人とともに集積所の屋根裏に立っていた。


 「ようやく体制が見えてきたな、藤村様」


 「ええ。ただ、まだこれは“始まり”です。物流は信頼の血脈。詰まれば全身が冷える。だからこそ、脈を太く、温かく保たなければ」


 晴人は、まるで体内の循環のように話す。


 「荷をただ流すだけでは、意味がない。届け先の声を聞き、道中の手を借りる。……関わったすべての人の中に、羽鳥の“心”が残るようにしたいんです」


 倉田は腕を組み、うなずいた。


 「物流を、道じゃなく“関係”として見るあたり、あんたは只者じゃねえな」


 村では新たに三つの簡易集積所が設けられた。印刷と菓子、それに茶葉加工を担う職人たちが、そこに資材を運び、各所の役割ごとに整然とまとめていく。天候、湿度、虫除け、馬の体調——すべてが記録され、晴人はそれを統計として蓄積した。


 「経験は、資本になります。今は紙切れでも、数が重なれば“信用”の壁になります」


 そう語る彼の机の上には、すでに「羽鳥物流台帳」と墨字で記された冊子が十冊以上並んでいた。


 その頃、羽鳥街道——と半ば通称され始めた旧街道筋では、商人たちの往来が目立ってきていた。


 常陸、越後、紀州、遠くは播磨からも、羽鳥に倣おうとする者が現れ始めた。


 「羽鳥のように、学と食を繋げ、信用を流す“道”を作りたい」と、ある紀州の若者は語った。


 彼らの間では、もはや羽鳥は“村”ではない。“理念が育つ地”として、地図にない憧れの地となっていたのだ。


 夜。晴人は集積所の裏手に立ち、月明かりに照らされる街道を見つめていた。


 「まだ、届くのは一部だ。でも、届いた者の心には残る。……それでいい」


 それは、武力や利潤で築く支配とは違う。静かに、だが確かに信を繋ぐ血脈としての“物流”であった。

羽鳥から江戸へ向かう荷路は、今や一つの“流れ”となっていた。


 第三便が発った翌日、晴人のもとに一通の文が届いた。紀州藩より、交易に関する正式な打診状である。


 〈羽鳥の製法に倣い、当藩でも冷菓及び読み書き支援冊子の製造を検討中。羽鳥の技術者を一定期間迎え、相互に学ぶ関係を結びたく——〉


 丁重かつ謙虚な文面に、晴人は微笑んだ。


 「これが、最初の“循環”か……」


 共助とは、与えることではなく、返ってくることを前提にしない繋がりだ。羽鳥の理念が文に宿り、遠き地の誰かの心に火を灯していた。


 その夜、晴人は村役や職人頭たちを集め、小さな座談の場を設けた。囲炉裏の火が揺れる中、互いに湯呑を手にしながら、羽鳥のこれからを語り合う。


 「いよいよ“村を出た知恵”が戻ってきます」


 そう告げる晴人の声には、期待よりも“慎重な温度”が宿っていた。


 「これからは、問い返される時代になります。“羽鳥のやり方”が真似されることで、我々の中の誤魔化しや慢心があれば、すぐに見透かされる」


 「真似されて困るようなやり方なら、最初から選ぶべきじゃない、ってことか」


 と、年配の木工職人が呟いた。


 晴人は静かに頷いた。


 「模倣され、洗練されて初めて、“羽鳥流”は磨かれます。他藩に負けないようにと焦るのではなく、相手と共に上がる。そういう道を歩みましょう」


 その言葉に、職人たちは深くうなずいた。


 翌朝、集積所には、越後からの若き職人が到着していた。風呂敷包みを背負い、緊張した面持ちで門前に立つ彼を見つけ、村の子どもたちが「来たよ!」と駆けていく。


 「おら、越後からの見習いさんだって!」


 「本当? 印刷教えてくれるのかな!」


 そうして始まった交流は、まるで家族が一人増えたような暖かさだった。見習いの名は伊吉。まだ十七の若者だったが、晴人の話を聞いて越後を飛び出し、師に託された推薦文を持って一人で旅をしてきたという。


 「羽鳥の本を見て……こんなに心が動いたの、初めてでした」


 そう語る伊吉の手は、荒れていたが真っ直ぐだった。


 晴人はその手を見て、静かに応じた。


 「なら、羽鳥で学び、またどこかで花を咲かせてください。……ここは“拠点”であって、終着ではありません」


 そのやり取りは、見ていた村人たちの胸を打った。


 その後も、羽鳥にはさまざまな“来訪者”が現れた。


 常陸の下館からは菓子職人の親子。上総からは茶葉農家の娘とその兄。どの者も、晴人の語る「共助の思想」に共鳴し、力を貸したいと自ら足を運んできた。


 晴人は、彼らを拒まなかった。


 “羽鳥流”とは、閉じた技術や秘密の商法ではない。門戸を開き、互いに学び合い、相手の地域に根を下ろした時、初めて“信の流通”が完成する——そう考えていたからだ。


 ある日、そんな羽鳥の変化を見ていた古参の商人が、ぽつりと呟いた。


 「藤村様がやってるのは、商売じゃねえ。……これは、“国を繋いでる”んだ」


 晴人にとって、商売は目的ではなかった。


 冷菓も、冊子も、癒し茶も、それぞれが“思いを託す器”であり、最終的には“人と人”が結び合うことが目的だった。


 その理念は、次第に江戸の政治にも波紋を及ぼし始める。


 ある日、老中屋敷では、羽鳥印の冊子と甘味を前にした一人の幕臣が口を開いた。


 「小さな村が、思想で流通を動かし、遠国と信を結んでいる。……これは、武家や公儀のやり方では成し得ぬ動きですな」


 「いや、逆に言えば、我らが出来ていなかったことを、やっているのです」


 と、隣の蘭学医・矢島が補足する。


 「兵糧や物資を“早く、大量に”運ぶ手段ばかり考えていたが……藤村殿は“心を宿した荷”を運んでいる。そこが違う」


 その頃、大奥では、羽鳥の癒し茶を口にした女中たちが、日々の疲れをふと忘れたような顔を浮かべていた。


 「お武家様も、甘いものが好きならいいのにねぇ」


 「でも、“あまさ”にも種類があるでしょ。この茶と菓子は、どこか、やさしいのよ」


 味ではなく、感情の奥に届く何か。


 羽鳥から流れたのは、“信”だった。


 小さな村から出た荷が、やがて幕府や諸藩、町人から大名、子どもから学者にまで波紋を広げ、静かに、新しい社会の“輪郭”を描こうとしていた。

――その日、晴人のもとに、また一通の文が届いた。


 紀州に続き、越前藩からの書状である。筆は整い、用紙は上質な奉書紙。格式高い家老の名で記されたその文には、こう綴られていた。


 〈貴地羽鳥にて開発された冷菓および癒し茶、ならびに印刷冊子の効能、深く感銘を受け候。藩内の養生所ならびに小学校への導入を検討のため、御地の取り組みを実見仕度、視察役一名差し向け申す〉


 文面に見えるのは、“視察”という名を借りた同盟の申し出である。


 晴人は、静かに筆を取った。


 〈歓迎仕り候。我らの試み、未だ不完全なれど、開き、学び、共に育む志あり。羽鳥は、己の信を示すべく、門を開いて待つのみ〉


 その返事は、三日も経たず越前に届き、藩内の重役たちに読まれた。そして、ある若き藩士が選ばれた。


 「お前にしか務まらぬ。礼と志を忘れず、羽鳥に学んでこい」


 こうして、各地の藩士や医者、教育者が羽鳥を目指し、少しずつ“実地の輪”が広がっていった。


 やがて水戸藩でも動きがあった。


 幕政の傍ら、水戸は羽鳥と陸続きの地にして、最も早く羽鳥の変化に気づいていたにも関わらず、ここまで沈黙を保っていた。その背景には、藩内の一部に「小村の施策に振り回されるべきではない」との意見が根強くあったからだ。


 だが、江戸の大名屋敷において“羽鳥印”の甘味が連日のように取り沙汰され、さらには水戸領内の宿場で“羽鳥流冊子”が独自に広まり始めたことで、ついに重臣の一人が動いた。


 「藤村殿に会いたい。……会い、直接その“意”を測りたい」


 この男の名は、青山隼人あおやま はやと


 水戸藩士の家に生まれ、若くして藩校・弘道館で頭角を現し、進取の気風と政務における胆力を買われて、異例の抜擢で用人に任ぜられた人物である。


 彼は一人、馬に跨り、羽鳥を訪れた。


 梅雨の合間、雲の切れ間から陽が差す羽鳥街道をゆき、幟がなびく集積所を目にした時、彼は思わず立ち止まった。


 「……これは、もはや村ではないな。思考と交易の拠点、か」


 そして午後、羽鳥役所にて、晴人との対面が叶う。


 晴人は普段と変わらぬ麻の上衣に羽織を重ね、居室で迎えた。


 「水戸藩より、ようこそお越しくださいました。お足元の悪い中……」


 「いや、足元は良い。羽鳥の“道”は、ぬかるんでおらぬ」


 挨拶の背後に、穏やかな刺のようなものを感じた晴人は、茶を差し出しつつ言葉を選んだ。


 「羽鳥は、今も“途中”にございます。これが終着とは考えておりません」


 「されど、始まりであることに違いはあるまい。“始まり”が正しければ、いずれ国を変える」


 青山隼人の言葉に、晴人は目を細めた。


 「お認めいただけるとは、光栄です。ただ私は“変える”のではなく、“補う”ことを目指しております。今ある流れの隙間に、小舟を浮かべるような……」


 「……補い、支え、繋ぐ、か。ならば、藤村殿。貴殿の“船”は、どこまで流すつもりだ?」


 しばしの沈黙ののち、晴人は答えた。


 「まずは、“人の心”の届くところまで。そして、“声の通じる者”のもとまで」


 言葉に力はなかったが、迷いもなかった。


 青山は湯呑を手にし、深く息をついた。


 「ならば、水戸も黙ってはおれぬな。近く、藩の者を数名、正式に送りたい。“隣人”として、共にあるべき道を探るために」


 「……ありがたき申し出。羽鳥は常に、隣人のためにあります」


 こうして、最も身近であったがゆえに警戒も強かった水戸藩が、ようやく羽鳥と正式に繋がった。


 それは、今まで以上に“強固な環”の成立を意味していた。


 その晩、晴人は役所の灯を落とし、村の小道を歩いた。


 集積所の裏では、子どもたちが竹灯籠を囲み、伊吉が“活字の話”をしていた。


 「なあ、紙に言葉を写すって、どんな気持ちだと思う?」


 「うーん……その人の気持ちを、こっちがもらう感じ?」


 「そう! それが文字の力なんだよ」


 子どもたちの笑い声と竹の光に包まれながら、晴人は胸の内に誓った。


 (いつかこの道が、どんな人の心にも届くように。言葉が、想いが、時代さえも超えるように)


 遠く、夜の空に一筋の流れ星が落ちた。


 羽鳥から始まった小さな交易と信頼の流れは、やがて一つの国を包む潮流へと変わってゆく――。

青山隼人が羽鳥を発って三日後、役所には次々と他藩からの問い合わせが舞い込むようになっていた。越前・紀州・水戸に続き、肥後や薩摩の藩士たちが“羽鳥式冷菓”や“癒し茶”の仕入れに関心を寄せているという。


 だが、晴人は浮かれた様子を一切見せなかった。


 「……焦る必要はない。数ではなく、質で応えよう」


 そう言いながら彼が向かったのは、羽鳥の北端、竹林を越えた先にある“小高い丘”だった。


 そこでは、年配の木工職人たちが数人、厚い木板を組み立てていた。材は松、釘は鍛冶屋特製の銅釘、そしてその中心には“まだ白木のまま”の看板が立てかけられている。


 「“羽鳥交易所”……ですか?」


 隣で立ち尽くす若者が訊くと、晴人は頷いた。


 「この丘に、“羽鳥の窓”を作る。ここを拠点に、誰でも来られて、誰でも見て、話して、持ち帰れる場所にするんだ」


 「まるで……役所と市場の合いの子みたいですね」


 「いや、そうじゃない。もっと、“余白”のある場所にしたい」


 晴人は、草むらから摘んだばかりの野花を指差した。


 「この花の名前、知ってるかい?」


 「いえ、見たことはありますけど……」


 「“忘れな草”だよ。意味、わかるか?」


 若者は首を傾げる。


 「“忘れられない”ということ、かもしれない」


 そう言いながら、晴人は花をそっと木の板に挟んだ。


 「忘れられないものは、記録に残る。言葉にするだけじゃなく、心に残る。……そんな場所にしたいんだ、羽鳥を」


 数日後、交易所は仮開所となり、さっそく越前から視察団が訪れた。


 初めに足を踏み入れたのは、三十前後の青年医師だった。旅装に身を包み、無言で展示棚に並ぶ品々を見つめる彼の瞳は、知識への飢えと“信”の灯火に満ちていた。


 「この冷菓、干し果物の漬け方が……自然だ。糖を煮詰めるだけではない、素材の甘みを生かしている」


 「癒し茶は、七草のうち三種が当地特有ですね。山野草の扱い方、記録に残していただけますか」


 職人たちは戸惑いながらも、次第に“言葉で説明する”ことの意味を学び始めていた。


 晴人はそれを、遠くから見守っていた。


 その日の夕刻、木工の伊吉が、晴人のもとに一枚の紙を持ってきた。


 「これ……子どもたちが描いた“羽鳥の地図”です。紙芝居にしようって、町役場の広間で」


 手描きの地図には、癒し茶の畑、冊子の工房、冷菓の氷室、そして“笑顔の人々”が描かれていた。誰もが、手を振っていた。


 晴人はそれを、静かに受け取り、膝に置いた。


 「伝わっているんですね、ちゃんと」


 「はい。あいつら、真剣に羽鳥のことを考えてます。遊びじゃなく、“伝えたい”って」


 その夜、交易所では“月下茶会”と名付けられた催しが開かれた。藩外からの視察者たちと、羽鳥の職人、教師、村人たちが同じ敷地に集い、それぞれが持ち寄ったお茶と菓子を囲みながら、静かな語らいが続く。


 ある者は教育を語り、ある者は衛生を、またある者は言葉の力を語った。


 中には、旅の道中で倒れた患者を癒し茶で回復させたという話も出て、場は自然と拍手に包まれる。


 だが、晴人が最も注目していたのは、その場にいた“誰とも目を合わせようとしない少年”だった。


 十歳ほどの痩せた少年が、交易所の片隅に置かれた冊子の山を黙々と読んでいたのだ。


 「君……どこから来たの?」


 静かに声をかけると、少年はビクッと肩をすくめた。


 「し、下野の方……親は、もういないです」


 「冊子、好き?」


 「うん。読むの、好き。難しいこと、分からなくても……絵があれば、分かることがあるから」


 晴人は優しく微笑んだ。


 「君がそれを感じてくれたなら、羽鳥が届けた言葉は、無駄じゃなかった」


 そして、その場で少年に言った。


 「よければ、ここで暮らしていかないか。仕事はたくさんあるし、本も、紙も、仲間もいる」


 少年の瞳に、光が差した。


 月明かりが、交易所の屋根を柔らかく照らしていた。


 羽鳥という名の村は、今や“場所”ではなく“思想”として育ち始めていた。


 それは、ある男が積み上げた“信頼”という灯火の、静かな伝播だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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引き続き、よろしくお願いいたします。

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