5話:命を繋ぐ一椀
寺の廊下を通り抜ける風が、晴人の肌を撫でていった。六月のはずなのに、夕方の空気はまだ冷たい。地震の余波は土だけではなく、人の心にも染みこんでいるようだった。
「……お変わりはありませんか」
晴人は襖をそっと開け、奥の間へと入った。
畳の上に敷かれた布団の中で、老女――登勢が目を閉じたまま寝息を立てている。白髪を整えた頭は、汗で少し湿っていた。頬はこけ、痩せた指先が布団の上に力なく置かれている。地震の日、家が倒壊する前に避難できたとはいえ、慣れぬ寺での生活と食の乱れが続いていた。
「……体温は、少し高いな」
晴人は額に手を当て、無意識に現代の看病手順を思い浮かべていた。
医療器具も体温計も点滴もない。だが、命を支える道はあるはずだ。
障子の向こうから、小さく咳払いの声が聞こえた。振り返ると、藩医と名乗った初老の男が立っていた。だがその目には諦めが色濃く浮かんでいた。
「……これは、もう“老衰”の域ですな。あとは安らかに看取るしかありますまい」
晴人はその言葉に眉をひそめた。
「老衰で済ませるには、まだ早すぎます。発熱もしていますし、呼吸も浅い。体力が落ちているのは確かですが、原因は栄養と衛生環境です」
「若造が……」
藩医の目が鋭くなる。だが晴人は一歩も引かなかった。
「このまま寝かせていれば、確実に衰弱していきます。……せめて、私に任せてもらえませんか。責任は取ります」
その言葉に、藩医は肩をすくめ、ふうとため息をついた。
「好きにするがいい。だが、あまり期待はしないことだな」
そのまま藩医は背を向け、廊下を去っていった。
静けさが戻る。晴人は登勢の傍らに腰を下ろし、小さく呟いた。
「……無理に食わせようとはしない。まずは、体をあたためよう」
晴人は、寺の厨房に向かった。
山から届いたばかりの生姜を刻み、梅干しを潰して合わせる。すり鉢がなくても、手のひらと木の匙があればなんとかなる。湯を沸かすと、生姜と梅の香りがふわりと立ち上った。
「昔、おばあちゃんが風邪のときに作ってくれたっけな……」
そんな記憶がふと脳裏に蘇る。昭和の一軒家の台所で嗅いだ、懐かしい香りだ。
椀に注いだその薬湯を手に、晴人は再び登勢の寝所へ戻る。顔色はまだ冴えないが、口元がかすかに動いた。
「……飲めますか。少し、温かいですよ」
匙でひとさじ口元に運ぶと、登勢はかすかに唇を開いた。ゆっくりと、ひとくち。
喉がごくりと動いた。晴人は安堵の息を吐いた。
――生きる意志は、まだある。
それが、確かに伝わってきた。
その夜、晴人は布団も敷かず、登勢の枕元でずっと様子を見守っていた。火鉢の炭を絶やさず、濡れ布で額を拭き、薬湯を何度も作り直した。
夜半を過ぎ、風がやや冷たさを増したころ。
登勢の胸の上下が、少しだけ深くなった。
「……よかった……」
晴人は、思わず手を握った。その小さな手は、弱いながらも、確かにぬくもりを返してきた。
寺の静けさは、病の気配を際立たせる。
夜が更けるにつれ、登勢の呼吸は浅く、荒くなり、熱は頬を赤く染めていた。
藤村晴人は、縁側に膝をついたまま、丸めた手拭いで彼女の額の汗を拭っていた。
(間に合わなかったら、どうする――)
そんな考えが一瞬でも頭をよぎれば、手が震えそうだった。
藩医の老爺は、あぐらをかいたまま腕を組み、ただ黙っていた。先ほど「薬湯を試したが、効果は薄い」と口にしたきりだ。彼は経験で病を診てきた。しかし、現状に打つ手はなく、沈黙がその無力さを物語っていた。
だが、晴人はまだ諦めていなかった。
「熱は……体内の火です。冷やせばいいというものではない。むしろ、汗をかかせることが必要な場合もあります」
「ふん、妙な理屈だな」
老人は鼻で笑うが、手は動かさない。
晴人は膳を立てて、そっと小鍋を火にかける。刻んだ生姜と潰した梅干し、少量の味噌を溶かした湯を温める。弱火で少しずつ香りが立ち上っていくと、部屋の空気がかすかに引き締まるようだった。
(この世界には抗生物質も解熱剤もない。けれど、体の免疫を支えることなら、できる)
茶碗に注ぎ、湯気を逃がさぬようすぐさま運んでくる。
「登勢さま、少しだけ……口を開けていただけますか」
彼女のまぶたは重く閉じられたままだが、耳はわずかに動いた。晴人は湯を少しずつ、匙で口元に運ぶ。口の端からこぼれた雫を、慌てて拭う。
「うまく飲めなくとも、舌に乗れば、体は反応してくれます。せめて香りでも届けたい」
しばらくの沈黙。
だがやがて、登勢の喉がかすかに動いた。わずかではあるが、ひと口、湯を飲み込んだのだ。
「……! 飲んだ、か」
思わず口に出すと、藩医も目を細めて様子を見つめた。
「奇妙な手だが……なるほど。これは、体を温め、内から発汗を促す処方か。味噌と梅は……消化にも働きかける」
「はい。熱が上がりきった後は、適度に汗をかかせて毒を抜いた方が良いと、郷里の医師から教わりまして」
嘘ではない。現代の東洋医学でもそう教える者はいる。
やがて、登勢の眉がわずかに動いた。頬に浮かんでいた火照りが、やや和らいできたように見えた。
「……体温、少し下がってきています」
脈を確かめながら、晴人がつぶやくと、藩医が低くうなった。
「……どこの郷里か知らぬが、なかなかに妙手を使う書生だな。おぬし、本当に“料理人”か?」
「はい。料理は……命を支える仕事ですから」
藩医の目に一瞬、驚きと何かを認める色が浮かんだ。
その夜、登勢はうなされながらも、幾度か眠りの中で水を求め、微熱を維持したまま朝を迎えた。
――その翌朝。晴人が外の井戸から水を汲んで戻ると、東湖の姿があった。
「……母は?」
「はい。熱は下がりきっていませんが、意識ははっきりしています」
東湖は黙って部屋をのぞき込み、目を細めた。布団に横たわる母の頬に、ほんの少し紅が差している。
「……助かった、のか」
小さくつぶやく声は、初めて聞くような、安堵と震えが混じったものだった。
「ありがとうございます」
そう言ったのは東湖の方だった。藤村は戸惑いながら、膝をついた。
「私は何も……せめて、できることをしただけです」
「だとしても、そなたの手がなければ、今ここに母はおらぬ」
晴人は頭を垂れた。
この時、ようやく藤田東湖は彼に向けて心を開き始めたのだった。
寺の小部屋には、しんとした空気が満ちていた。蝋燭の明かりが揺らめき、紙障子に映る影が淡く揺れている。
「……ん、……ぅん……」
布団の中から微かな呻き声が漏れる。登勢――藤田東湖の母は、再び高熱を出して寝込んでいた。
藤村晴人は額の汗を優しく拭い、ぬるくなった冷却布を取り替えると、脇に控えていた寺の若い僧侶に小声で言った。
「すまない、井戸水をもう一桶。できれば新しい氷があれば助かるんだけど……」
「はい、すぐに」
僧侶が去っていくのを見届けると、晴人はゆっくりと立ち上がり、隣の部屋に向かった。そこには藩から派遣された中年の藩医が座していた。巻物をめくっていたその手が止まり、晴人に目を向ける。
「容体は……あまり芳しくないようだな」
「ええ。さっきより熱が上がっています。食事も口にしませんでした」
「薬は飲ませたのか?」
「ええ、渡された丸薬は指示どおりに。ですが……効果があるようには、見えません」
藩医は眉をひそめる。畳の上に広げた薬包を前に、疲れ切った様子でため息をついた。
「年齢も年齢だからな。もともと体が弱っていた上に、この震災。薬の効きも鈍る……」
その言葉に、晴人は小さく口を引き結んだ。
「……先生。勝手なことを言うようですが、薬だけに頼るのではなく、体を中から温めるものも必要ではありませんか?」
藩医がゆっくりと顔を上げる。
「たとえば?」
「梅干しと生姜、それに味噌。全部、寺の庫裏にありました。水を張った鍋に入れ、弱火で煮出す。粥ほど重くなく、胃にもやさしい滋養湯になります。母が昔、寝込んだときにもよく……」
言いかけて、晴人は言葉を飲み込んだ。自分の母ではない。この時代の、この人のための知識だ。
だが、藩医は意外にも口を挟まなかった。ただ、じっと晴人を見つめていた。
「……やってみるがいい。薬とは違う作用をするかもしれぬ」
「ありがとうございます」
晴人は一礼すると、すぐに立ち上がり、調理場へ向かった。
台所には火を落とした竈がひとつ、そして桶に張られた水。手早く火を起こし、薄く刻んだ生姜と、種を抜いた梅干しを湯に入れていく。味噌は少なめに。湯気が立ち上る中、土鍋からはどこか懐かしい匂いが立ちのぼった。
(頼む……効いてくれ)
ただの一人間にできることは限られている。だが、できることをしなければ、過去に来た意味がない。そう自分に言い聞かせながら、晴人は鍋の前に座り込んだ。
*
再び病室へ戻ったとき、登勢の呼吸は荒く、額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
「……湯が、できました。少し、飲ませてみます」
晴人は慎重に椀に滋養湯をすくい、ふうふうと冷ましながら、ひと匙を登勢の唇に運ぶ。
「……っ……」
こくりと喉が動いた。
「もう一口……ゆっくりでいいですから」
数口、慎重に飲ませた後、晴人は布団の傍に膝をついた。すぐに変化は現れない。それでも、湯を口にしたことに意味がある。何も食べられず衰弱していく中、この一杯は確かな生命線だ。
時間が過ぎていく。晴人は布団の傍に座り続け、登勢の呼吸と表情を見守っていた。
ふと、布団の中から指先が動いた。ごそりと音がして、登勢の瞼が微かに開く。
「……あ、う……」
「登勢さま……! 聞こえますか?」
小さく瞬く目が、晴人の顔を捉える。そこに、かすかだが――確かな光があった。
「……あの、子……」
呟かれた言葉に、晴人は胸が詰まりそうになった。
「東湖さまには、きちんとお伝えします。安心して、休んでください」
登勢は小さく頷いた。彼女の手が、晴人の手を探るように動き、そっと重なる。
「……おまえは……あの子の……恩人じゃ……」
その一言に、晴人は膝を突いたまま、深く頭を垂れた。
*
翌朝。
寺に再び訪れた東湖は、母の顔色を見て、言葉を失った。
「……顔に、血の気が戻っている……」
傍らにいた藩医が説明する。
「この男の作った滋養湯が効いたようです。薬とは違う形で……体の芯から温めるように」
東湖は晴人に目を向けた。
「……感謝する」
短い言葉だったが、東湖の瞳には、昨夜とは異なるものが宿っていた。
信頼。あるいは、それに近い何か。
「今後も、母の世話を頼めるか?」
「もちろんです」
その一言に、東湖は静かに頷いた。
――それは、藤村晴人が「藤田家の一員」として、初めて正式に迎えられた瞬間だった。
寺の一室に差し込む夕陽は、柔らかくもどこか物寂しい色をしていた。
壁に映る影が、時間の流れを静かに刻んでゆく。
藤村晴人は、薄布を被せた登勢のそばで薬湯の温度を確かめていた。
香ばしい生姜の香りが漂い、ほんのわずかに室内の空気を和らげている。
「……ありがとう……」
かすかな声が布団の中から漏れた。
登勢の目は細く開かれ、頬にはほんのりと紅が差している。
熱が下がり始めていた。
「もう少しでお粥が炊きあがります。今日はさつま芋をほんの少し入れておきました。食欲が戻ってきていれば、きっと口に合うはずです」
晴人の言葉に登勢はわずかに頷いた。
その動きに、隣に座っていた東湖の表情が和らぐ。
「この数日、母が無事であるか、そればかりが頭をよぎった。……まさか、異国の料理人に命を繋がれるとはな」
「おかげさまで、というべきでしょうか」
晴人が軽く頭を下げると、東湖はふっと笑った。
「礼は、口だけで済ますつもりはない」
そう言うと、懐から懐紙を一枚取り出し、畳にそっと置いた。
「これは……?」
「登勢の療養が終わったのち、我が家の屋敷にて、正式に職を与える。その旨を記したものだ」
「……俺のような者に?」
「己の働きを低く見すぎるな。災いの中で何をなしたか、それがすべてだ」
重々しい言葉だったが、東湖の目はまっすぐだった。
晴人はその視線から目を逸らすことなく、深く頭を下げた。
「光栄に存じます。……お受けいたします」
その瞬間、部屋の空気が微かに変わった。
もはや“世話係”でも“余所者”でもない。
晴人は水戸の中で、確かな役割を担う者となったのだ。
*
夕刻。
調理場では、晴人が薬膳の下ごしらえを続けていた。
火鉢の上で土鍋が静かに煮立ち、香味野菜の香りが立ち上る。
(これから先、何が起こるかは分かっている……だが、変えられるかどうかは、俺次第だ)
彼の指は迷いなく動いていた。
山芋をすりおろし、葛粉をといて滋養強壮の粥を仕上げる。
未来の知識だけでは救えない。
心を尽くすこと、それがこの時代で生きるということだ。
そこへ、藩医が静かに現れた。
「今夜は、鶏を使わずに済ませるのか」
「ええ。登勢さまの胃腸に負担がかからぬように、今日はあっさりめにしています」
「……なるほど。生姜の量も適切だ。薬草ではないが、これも一つの医だな」
晴人は笑った。
「料理人の誇りですから」
藩医は静かに頷くと、何も言わずに去っていった。
*
その夜。
登勢はほんの少しだけ粥を口にした。
それだけで、周囲の空気は明るさを取り戻していく。
「……美味しい」
かすれた声だったが、確かな言葉だった。
東湖は母の寝顔を見つめたまま、そっと目を閉じた。
そして、月明かりの中で。
晴人は一人、境内に立ち、夜風に吹かれながらつぶやいた。
「これで、ようやく一歩だ」
この混乱の世で、命を守るために――彼はこの先も戦い続ける。
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