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50.7話:癒しの道、信頼の便

羽鳥の町役所、その南側にある応接間に、五人の客人が静かに腰を下ろしていた。


 播磨、加賀、信濃、肥後、薩摩――いずれも一国一城の主を支える、有力商家の代表者たちである。


 彼らは羽鳥に降り立った瞬間から、“ある噂”を耳にしていた。


 日立の山中で、“黄金の光が走った”と。


 それが真実か否かを確かめる前に、商人として動くのは当然のことだった。


 応接間には茶と菓子が出されたが、誰一人手を付けようとはしなかった。


 そこへ現れたのは、羽織袴姿の青年――藤村晴人である。


「ようこそ羽鳥へ。遠路、誠にご苦労さまでした」


 晴人が頭を下げると、一瞬だけ部屋の空気がやわらいだ。


 だが、次に発した言葉には、柔らかさの奥に確かな芯があった。


「さて、皆様がお越しになった理由は理解しております。羽鳥に金が出た、との話ですね」


 五人の商人が、視線を交わす。


 晴人はゆっくりと続けた。


「結論から申し上げます。確かに日立の山中に、未確認ながら金鉱の兆しがありました。しかし、我々はそれを“羽鳥の財”として囲い込むつもりはありません」


「ほう、それはまた……奇特なお考えで」


 そう応じたのは、加賀の呉服商・高瀬屋源八だった。眼鏡越しの目が、晴人を値踏みするように動く。


「それでは、他藩にも採掘の権利を分け与えると?」


「権利ではなく、“協力関係”を結ぶのです。資金、技術、人材を持ち寄り、共同でこの山を育てていく」


 晴人の語調は穏やかだったが、言葉には一切の曖昧さがなかった。


「ただし、ひとつ条件があります」


「条件?」


「羽鳥が“交通と流通の拠点”になること――それを認めていただきたい」


 部屋の空気が一気に緊張する。


 それはつまり、他藩から羽鳥を経由しなければ物資が動かぬ仕組みを作る、という意味だった。


 播磨の商人が肩をすくめた。


「つまり、利益は分け合っても、流れの主導権は羽鳥が握る……というわけですな?」


「ええ。金は山の中に眠っていても価値はありません。価値に変えるのは人の知恵、そして“道”です。その道を整えるのが、羽鳥の役目だと考えています」


 沈黙の中、信濃の薬問屋・小西屋が口を開いた。


「……我々も、羽鳥の理念に心打たれました。金が欲しくて来たのは事実ですが、羽鳥の“共助”の姿勢に学ぶこともあるでしょう」


 肥後の味噌商が頷き、薩摩の茶商も静かに湯呑に口をつけた。


 茶が、ようやく動いた。


* * *


 数刻後、晴人は一人で応接室を出た。


 廊下を歩きながら、深く息を吐く。


 自分でも、あれだけの“交渉芝居”を打てるとは思っていなかった。


(……これでいい。金を独占せず、むしろ見せ札にすることで、羽鳥の価値を高める)


 実際、採掘はまだ始まっていない。金脈の確定には慎重な地質調査が必要で、半年や一年で結果は出ないだろう。


 だが、今は“あるかもしれない”という情報だけで、諸藩は動いた。


 そしてその動きの中に、“羽鳥が交渉の舞台になれる”という証明がある。


 廊下の突き当たり、硝子戸の向こうには、町の広場が見えた。


 見慣れた景色が、今日だけは少し違って見えた。


 黄金は、まだ地中にある。


 だが、それを引き寄せたのは、“人の信と交わり”だった。

陽が西へと傾き始めた羽鳥の山間に、冷ややかな風が走り抜けた。秋の空気はどこか透明で、澄んだ氷を思わせる。そんな日、村の一角にある小さな菓子工房の前に、三人の男が立っていた。


「ここが、羽鳥で評判の“冷菓”を作っている工房か……」


 播磨から来た豪商・栄屋五兵衛が腕を組み、目を細める。その隣には、越後の廻船問屋の若旦那と、紀州の漆職人がいる。いずれも、羽鳥に“何か”を感じ取り、わざわざ足を運んだ男たちだった。


 工房の中からは、蒸し器の音と木型を押し込む音が交互に聞こえてくる。淡い寒天をゆっくり流し込む作業に、数人の若い女職人が黙々と取り組んでいた。


 「ふむ、見たところ素人の手つきではないな。訓練されている……」


 「この型……江戸の有名な菓子屋の意匠に似ているが、どこか違う」


 「味を見る前から、丁寧な“作り”を感じる。……これは文化の香りだ」


 職人の一人が、声をかけずとも茶を用意してくれた。そこに添えられたのは、透明な箱に納められた“冷やし羊羹”。銅型で打ち出された家紋入りの意匠が美しい。


 「これが……江戸城で話題になったという、羽鳥の冷菓か」


 一口、五兵衛が口に含んだ瞬間——


 涼やかさが喉を抜け、鼻に抜ける芳香が仄かに甘い。濃厚すぎず、淡すぎず、それでいて芯がある。舌に残る余韻は、夏の終わりの風のように、後を引く。


 「……これは、文化だ。贅沢の象徴でも、ただの甘味でもない。“癒し”が、ここにある」


 彼らの表情が変わる。そのとき、工房の奥から藤村晴人が現れた。半纏姿に革靴という、どこか浮いた風貌の男。だがその背筋はまっすぐで、目に迷いがなかった。


 「遠路ありがとうございます。羽鳥を見に来てくださった皆さまに、心から感謝を」


 晴人の声は、柔らかく、それでいて確信に満ちていた。


 「……これを、売ってくれるのかね?」


 若旦那がたずねると、晴人はゆっくりと首を振った。


 「“独占”はしません。冷菓の技術も、氷の保存法も、必要であれば教えます。ただ一つ——羽鳥の名を借りるならば、“癒し”と“共助”の精神を背負ってください」


 静寂が落ちる。


 金や利益に目がくらむような連中なら、鼻で笑っただろう。だがこの三人は、皆、商いの本質を見極めてきた男たちだった。


 「……文化を売るというのは、そういうことか。金で買えるものではないが、金以上の重みがある」


 播磨の五兵衛が、そう呟いた。


 さらに晴人は、別の包みを差し出した。


 「こちらは、蘭方医と相談して作った“発熱時の栄養菓子”です。蜂蜜と干し柿、葛を混ぜて寒天で固め、のどを通りやすくしました。食欲のない者にも、口に運びやすくなっています」


 「……子どもや、病人に向けた菓子……か」


 越後の男が、低く呟いた。


 晴人のまなざしは真っ直ぐだった。


 「医者の薬も大切です。でも、“甘味”の力が人を癒すこともある。口と心を繋ぐ冷菓こそ、羽鳥の“言葉”なんです」


 風が吹いた。


 ひやりとした山風が、寒天の表面を撫で、紙包みを少し揺らした。


 播磨、越後、紀州——三つの商家の視線が交わった。彼らの眼差しの奥には、単なる商機ではないものが宿り始めていた。


 それは、金の山に登るよりもずっと難しく、ずっと誇らしい「共助」の器量だった。

羽鳥の山間に日が落ちる頃、客人たちは晴人の館の奥座敷へと招かれていた。畳の香と灯の明かりが穏やかに漂い、静謐な空間が心を和ませる。


 炉には鉄瓶が湯気を立て、炉縁には干し柿の甘みを生かした“菓養茶かようちゃ”が並んでいた。糖度の高い柿を炊き込み、漢方の甘草や生姜を加えた滋養茶——晴人が蘭方医と考案したものである。


 「この味は……体があたたまる。けれど、芯には冷えが残らぬ」


 紀州の漆職人が湯呑を傾け、満足げに頷いた。


 「冷やす菓子と、温める茶。なるほど、これはよく出来ておる。感覚が鋭いというより、“整えている”」


 「食というのは、心の温度まで計っているのかもしれんな」


 越後の若旦那が感心したように笑う。


 そんなやりとりを傍らで見守っていたのは、村の指導的立場にある老女・お芳である。かつて大奥に仕えていた経験を活かし、羽鳥の“接待”における礼法と格式を整えた人物だ。


 「口にするものは、すべてが“文”にございます。味とは、文化の言葉。羽鳥の者は、そう申しております」


 晴人がその言葉に続くように口を開いた。


 「本日は、皆さまをお招きした理由がございます。羽鳥が今後も“商い”をしていくにあたり、大切にしたい三つの方針をお伝えしたく——」


 客人たちは姿勢を正した。


 「一つ、“共助”。利は分かち、支え合いの仕組みを築くこと」


 「二つ、“誠実”。偽りなく、求められたもの以上を返すこと」


 「三つ、“継承”。技術も思想も、次代へ手渡す努力を怠らぬこと」


 言葉は静かで、決して押しつけがましくはなかった。だがその響きには、どこか深い水脈を感じさせる“厚み”があった。


 「……まるで、宗旨のようだな」


 五兵衛が皮肉にも似た調子で言ったが、顔は崩れていた。晴人は苦笑した。


 「宗教でも道徳でもありません。ただ、これから我々が“江戸”と向き合っていくうえで、必ず支えになる考えです」


 「……江戸と向き合う、とは?」


 「江戸には多くの需要があります。冷菓、医薬、そして情報……それらを、羽鳥が届ける。ですが“安く売る”のではなく、“価値を添える”——その流れを作るには、共に歩んでくださる商人の方々の力が不可欠です」


 沈黙が落ちた。


 そのとき、奥の間からひとりの若者が盆を運んできた。木版刷りの小冊子が添えられている。


 「こちらは、羽鳥の印刷所で作った“冷菓の由来と製法”、ならびに“衛生管理手順”をまとめた冊子です。取引先にお渡しする前提で整えました」


 越後の若旦那が手に取り、紙の質感を確かめながら目を走らせた。


 「……この印刷、なかなか丁寧だな。木版ながら文字が潰れておらぬ」


 「元は寺子屋向けに刷ったものを応用しました。印刷を学ぶ若者も多く、知識を残す手段として定着しつつあります」


 「ふむ……技術の伝播だけでなく、思想も伝える道具か。手強いな、羽鳥は」


 五兵衛が低く笑った。だがその眼差しにあったのは、敵意ではない。


 「いいだろう。播磨・栄屋としても、羽鳥との取り引きを本格化させたい。“癒しの甘味”の販路は、こちらで用意する。条件は後日改めて」


 「越後も同意だ。“雪深き地”での氷室の応用、こちらでも試してみたい」


 「紀州からは……漆器の供給を請け負おう。“羽鳥印”の菓子にふさわしい器を用意する」


 晴人は、深く頭を下げた。


 「皆さまのご厚意、羽鳥の民と共に受け止めます。そして、江戸の先にある“変化”にも、共に向き合ってまいりましょう」


 その言葉に、三人は静かに頷いた。


 夜が深まっていく。


 山間の村に、まだ見ぬ未来の灯がともる——それは、小さくとも確かに暖かく、そして誰の心にも届く“冷やしの光”だった。

夜明け前。

 羽鳥の中心街にある簡易集積所では、提灯の灯が連なり、橙の明かりが薄靄の中を漂っていた。若者たちは夜通し荷造りを続け、整然と並ぶ馬と荷車が静かに出発を待っている。今まさに、羽鳥から江戸へと向けた“新たな交易の一便”が出ようとしていた。


 冷菓、癒し茶、木版冊子、そして越後や紀州と取り決めた交換品——。

 それらは単なる“商品”ではなかった。羽鳥という小さな土地が「自らの意思で、他と繋がる」と表明する象徴であり、晴人の掲げた「共助と継承」の理念が、初めて物流という“かたち”となって動き出す瞬間だった。


 「馬の背には氷室箱。冊子類は防湿の木箱に。冷菓の保冷には、この“塩壺”を併用してくれ。凍結保冷材の代わりだが、江戸まではもつ」


 晴人は荷の最終点検をしていた。手には点検用の札と、簡易温度計代わりの酒石紙を持ち、ひとつひとつを確認していく。その背に、町の職人のひとりが声をかけた。


 「旦那、越後の旦那方、羽鳥の印刷技術を本気で取り入れたいってさ。うちの若いの、一人貸してくれって言われてるけど……いいかい?」


 「もちろん。技術は閉ざすより、広げた方がいい。いずれ、越後の技もこっちに返ってくるはずです」


 晴人の即答に、職人たちが目を見合わせる。商いの場では珍しい“先渡し”の姿勢に、ただ利益だけを追わぬ思想がにじんでいた。


 「だけどさ旦那、菓子や冊子、江戸の連中に受けるかどうかは、賭けだぜ?」


 「分かっています。だから、“押し売り”にはしたくないんです」


 晴人は荷馬車の布を結び直しながら、ゆっくりと答えた。


 「必要としている人のもとへ、必要な量を、必要なかたちで届ける。それが羽鳥の商いです。まずは“信用”を築く。金儲けは、その先の話ですよ」


 その言葉に、場にいた全員が静まりかえった。

 それは武士でも商人でもない、“公務員”としての経験に根ざした言葉だった。利益の前に信頼を、規模より継続性を——災害復旧や都市整備の現場を渡ってきた男だからこそ語れる現実だった。


 その日の昼過ぎ、荷馬車の一行が出発した。

 羽鳥街道を南下し、水戸から江戸を目指す。途中の宿場ごとに“羽鳥印”の幟が掲げられ、沿道の人々が手を振った。宿の子供たちが走り寄り、母親が声を張った。


 「旦那さま、江戸でも冷やし羊羹、売れるかね?」


 「きっと驚くぜ、羽鳥の味に!」


 若者が笑い、荷馬車の帆が風にたなびいた。


 冷やし羊羹、薬膳甘味、癒し茶。包装には薬効を示す解説書が添えられ、木版冊子には読みやすい大文字と、素朴な挿絵が刻まれていた。


 江戸——。


 矢島平蔵、蘭学医のひとりは、届いた甘味を診療所に持ち込み、早速成分を分析した。


 「干し果実に葛寒天か……冷やしすぎず、胃にやさしい甘み。しかも、防腐と保冷のバランスが良い。これはただの菓子ではないな」


 平蔵は試供を医師仲間に配ると同時に、老中屋敷へも紹介状を出した。

 それは羽鳥の“甘味”が、医学的配慮を含んだ“癒し”として機能している証左だった。


 一方、冊子は神田の寺子屋で話題となっていた。


 「絵が丁寧で文字が大きい……。読み書きに不慣れな子でも、内容が入ってくる」


 師範は子供たちに冊子を配ると、手にした子らの目が輝いた。


 「先生、これ、羽鳥って人が書いたの?」


 「そうだ。“遠くの誰かに、わかりやすく届けたい”って気持ちが、これには込められている」


 やがてその冊子は、生徒の家、町の長屋、商家の女中の手に渡っていった。内容は簡素だが、字が大きく、図も丁寧。口伝だけに頼ってきた家庭で、“文字”が静かに灯り始めた瞬間だった。


 そして、その流れは思わぬ場所へと波及していく。


 江戸城——。

 奥向きの裏方のひとりが、親戚から送られてきた甘味を御膳所へと差し入れた。


 「この甘さ、口に残らず、優しく消える……。まるで、心の隙間にしみ入るような……」


 その噂は次第に広がり、女中頭の耳にも入った。


 「遠方の寒村が、こんな味を作るとは……いずれ、御目見以上の場でも必要とされるかもしれませんね」


 まだ将軍家定の正室となる前、斉彬の縁戚として江戸入りを控える“島津のお姫様”の名が、遠く薩摩で囁かれていたが、大奥ではその到着前夜の静けさが広がっていた。


 江戸の街に届いた羽鳥の味と思想は、静かに、確かに波紋を広げていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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引き続き、よろしくお願いいたします。

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