50.6話:密書と、切り札の名
朝露に濡れた羽鳥の谷間に、ひんやりとした風が吹いていた。
山間部の一角に築かれた土蔵造りの小屋。その屋根には茅が厚く葺かれ、壁面には藁束が丹念に詰め込まれていた。人目につかぬよう木立に囲まれたその建物は、外から見る限り、ただの農家の納屋にしか見えない。
しかし扉を開ければ、そこには静謐な冷気が満ちていた。
「……まだ残っているな」
木桶を覗き込んだ藤屋清兵衛が、凛とした声を漏らす。
桶の中には、冬の終わりに山から切り出した天然氷が、幾重もの麻布と藁に包まれて鎮座していた。氷は陽の光を受けぬよう、厚い土壁と藁の断熱によって守られ、秋に入ってなお透き通った輝きを放っていた。
「晴人様。氷の保ち、ここまでとは……まるで奇跡にございます」
傍らの技術係がそう言って息を呑む。
晴人は小屋の中に足を踏み入れ、氷塊の表面に触れた。ひやりとした感触が指先から腕へと伝わり、火照った身体を冷やすように広がっていく。
「……冷たいな。だが、これが“癒し”になるのだ」
その言葉を聞き、清兵衛が眉をひそめる。
「氷など、遠征や戦場にこそ使うべきものでございましょう。療養など、贅沢では……」
「贅沢ではない。これは“支え”だ」
晴人の声音は、静かだが確かな響きを持っていた。
「高熱にうなされる子、痩せ衰えた老女……そんな者に、ひと匙の冷水が、どれだけ救いになるか。金で買えるものではない、心の贈り物だ」
その日、氷室から取り出された天然氷は、羽鳥の菓子職人たちのもとへと運ばれた。
冷たい氷水で溶かされた葛粉は、鮮やかな紅色の寒天に姿を変える。そこに砕いた蜜豆を添え、湧き水で包むように冷やす。
「“冷水羹”、完成しました!」
若き職人がそう声を上げると、晴人は試しにひと口すくった。
冷たく、柔らかく、そしてどこか懐かしい甘味――夏の終わりを封じ込めたような優しさが、舌の上でゆっくりと解けていく。
「……これを、届けよう。江戸へ。病床にある者たちに」
数日後、鳳凰庫の一室で、“羽鳥冷菓”の試食会が開かれた。
訪れたのは、江戸の旗本屋敷からの女中頭、町奉行所の使番、そして蘭学医の一団。いずれも“氷を使った冷菓”という未知の概念に惹かれ、はるばる山奥の地まで足を運んだのである。
「これは……なんと瑞々しいことか」
氷水で冷やされた蒸し羊羹を口にした老医師が、目を丸くして言う。
「体温が高い者に、この冷たさはまさしく薬となる。……うむ、“食事療法”として記録に残すべきだ」
その言葉に、女中頭たちも手を打った。
「暑さに参る主君には、これが最適。夏場の贈答としても、格別ですわ」
「これを献上すれば、大奥の奥女中たちにも喜ばれることでしょう」
やがて試食会の終わりに、晴人が一歩前に出て口を開く。
「諸君。我ら羽鳥は、兵を持たぬ地である。だが、語る口と、分かち合う心を持っている」
「氷は、傷を癒やす水でもあり、心を和らげる贈り物でもある。戦を起こすためではなく、苦しむ者を助けるためにこそ、この“冷たき恵み”を用いたいのです」
その言葉は、静かに集まった者たちの胸に沁み入った。
誰かを癒す冷たさが、ここにはある――
そして、それは国の内外を越え、人と人とを繋ぐ“想い”の始まりでもあった。
幕末の江戸――将軍家の中枢をなす大奥は、絢爛豪華な表の顔とは裏腹に、複雑な人間関係と利権が渦巻く政治の坩堝でもあった。
その大奥において、徳川斉昭の評判は――決して良いとは言えなかった。
「女癖が悪い」
「気に入らぬ女中をすぐに罷免する」
「御三家の立場にありながら、礼節を欠く言動が多い」
そんな噂が、奥女中たちの間で囁かれ続けていた。斉昭の政治手腕や教養は誰もが認めるところであったが、こと“女性受け”となると、完全に逆風であった。
「このままでは、慶喜様の将軍擁立は遠のく……」
羽鳥の書院で文を読み終えた晴人は、障子越しに広がる山並みを見つめながら、小さく嘆息した。
羽鳥に構築された情報網――江戸の市井や幕閣、奥向きの動きまで含めて、報告は刻々と届いていた。
「尾張が水面下で反発しているのは想定通りとしても……問題は、大奥の印象だ。ここが変わらねば、誰も動かない」
晴人が立てたのは、“江戸に行かずして動かす”戦略だった。
まず、大奥に仕える女中たちが「斉昭様も悪くない」と感じるような、“別の姿”を印象づける。そのために、羽鳥の資源と人脈を最大限に活かした。
晴人が用意したのは、「冷菓と香薬の贈答セット」である。
氷菓子には、羽鳥の氷室で保管された天然氷を使用。寒天や蜜豆で仕上げた清涼な味わいに加え、盛夏を越えた疲れを癒す効果もあった。そして香薬は、漢方知識を元に調合した女性向けの薬包で、頭痛や冷え、気鬱に効くとされる香りの組み合わせだ。
「これを、“斉昭様のご配慮”として届ける。名義は伏せていい。“優しい記憶”だけが残ればいいんだ」
その調整役を担ったのが、かつて江戸城大奥に仕えていた老女中・お芳である。
幕政の転換に伴う人事整理で十数年前に隠居し、実家の縁を頼って常陸の羽鳥へ移り住んでいた。現在は晴人の館の近くに草庵を構え、地元の女たちに礼法や裁縫を教えるかたわら、大奥時代の人脈を今も文で繋ぎ続けていた。
「やれるか?」
「やらなきゃねぇ。あたしゃ昔、水戸様には世話になったんだよ。あの人は無骨だが、情けはある。……言葉じゃなく、行動の人さ」
お芳は手紙を書き、信頼できる女中のもとに届けた。冷菓と香薬も、厳選した使者たちがこっそりと渡していった。
最初は警戒された。
「水戸の殿様がこんな優しいことするわけない」
「きっと何か裏がある」
だが、それでも渡された香薬を枕元に置き、冷菓を口にした者たちは、ある種の驚きとともに変化を感じ始めた。
「……香りが、頭に染み込むようで……不思議と、楽になったわ」
「この氷の冷たさ……まるで、外の風を閉じ込めたみたい」
何より、斉昭の名が出ないことで、女中たちの警戒心が和らいだ。
やがて、「差し入れをしてくれたのは、昔、大奥に好意的だった方の縁者らしい」との“噂”が自然発生的に流れ始めた。
晴人は、もう一手打つ。
お芳がかつて斉昭の意向で届けた“匿名の支援”――それが「病気の親族への薬草」や「出産後の養生食」だった記録を呼び起こさせたのだ。
「そういえば……あのときの薬、名前が書かれてなかったけれど……」
「お芳様が届けてくれたのよ。誰の差し入れか、言えぬって顔してたわ」
「まさか……あれが、水戸様……?」
断定はしない。だが、“かもしれない”という想像が、心に残る。
無骨だったが、人の苦しみには目を向けていた――そんな“静かな優しさ”の記憶が、ゆっくりと根を張っていった。
そしてある日。
御年寄の一人がぽつりと漏らす。
「こういう父親の元で育った方なら……将軍の器があっても、おかしくはないわね」
それは、晴人が狙った“感情の変化”だった。
江戸藩邸にて報告を受け取った斉昭は、目を細め、苦笑を漏らした。
「ほう……あの女たちが、わしを好くはずもなかろうに」
「ですが、慶喜様のためなら……?」と晴人が添えた文に、斉昭は短く返す。
「……ならば、それもよかろう」
その日、羽鳥の書院で晴人は静かに一礼した。
剣ではなく、言葉でもなく――
“人の記憶”を動かして、歴史を変える。
そういうやり方があってもいいと、彼は信じていた。
江戸城大奥――朝の静寂が漂う中、奥深くにある広間では、女中たちの低い囁きが障子を揺らすほどに繊細に交わされていた。
「ねえ、今度届いた香薬……あれ、紫蘇と薄荷が混ざってるのよ」
「うそ……胸がすっと軽くなるやつでしょ? うちの子がずっと夜泣きしてたのに、昨日はすやすや眠ったわ」
「やっぱり、“あの方”から……?」
「名前は書いてなかったけれど、筆跡は……あのお芳様よ」
お芳――かつて大奥でもっとも信頼されていた老女中。その名がひそやかに広がることで、女たちは誰がこれらを手配しているのかを悟るのだった。
「お芳様の後ろにいるのは……水戸様? それとも、その御子息の一橋様……?」
「あの羽鳥という田舎にいる男が動いてるって噂よ。だけど、正体は誰も知らない」
女中たちは顔を見合わせ、言葉を呑み込んだ。
将軍継嗣の話題は禁忌。篤姫が輿入れするというこの時期に、軽々に語れば命取りになりかねない。
だが、それでも彼女たちは感じていたのだ。
――香りが運ぶ、過去の記憶と、未来への予感を。
「私の母のときも……見舞いの薬湯が届いたわ。名前はなかったけど、あれもきっと……」
「見返りも求めず、静かに届けてくれた。そんなことができる方、限られてるわ」
「……水戸様も、昔とは変わったのかしら」
否、変わったのではない。元より“表には出なかった”だけ。
その思いは、じわじわと女たちの心を揺らし始めていた。
* * *
一方、羽鳥の館。
紅葉がゆっくりと落ちる中庭に面した書院で、晴人は静かに報告書を読んでいた。
文は、江戸に潜む配下から届いたもの。大奥の反応、御年寄の発言、香薬の影響、阿部正弘の動向に至るまで、詳細に記されている。
「……予想より早い。あの空気の変化」
襖の向こうから茶を運んできたお芳が、そっと言う。
「皆、何かを待っていたのです。“決定”ではなく、“納得”を」
晴人は小さく頷き、文机に向かい直した。
彼が目指すのは、一橋慶喜を将軍にすることではない。
――いかなるときも“次”があると、皆に思わせること。
そのために必要なのは、剣でもなく、名声でもない。
香薬と文。小さな配慮と、記憶の種。
晴人は筆をとる。
「篤姫様が江戸にお入りになる。それは御台所を迎えるだけでなく、薩摩の目が江戸に入るということでもある」
お芳が静かに言う。
「つまり、情報の“軸”がもう一つできる」
「その通り。……次は、田安家に香を届けておこう」
晴人は、系譜図に視線を落とした。田安家は御三卿の一つ。将軍継嗣問題においては中立を保ってきたが、今後の布石としては外せない。
「水戸・一橋の手が、一方的ではないと示すには、田安・清水にも香りを届けるべきだ」
「すでにお手配済みです」
お芳の返答に、晴人は笑みを浮かべた。
――この女こそ、最強の使者。
* * *
江戸・老中屋敷。
阿部正弘は、机上の文を前に目を細めていた。
『備えは、見えぬところにほど、深く根を張るものと心得ます』
晴人から届いたこの一文は、彼の胸に静かに沁み入っていた。
「見事だ……派手な動きは一つもない。だが確かに、空気が変わった」
女たちの話題の端に一橋家の名が出始め、篤姫輿入れの折に“穏やかな目配せ”が増えている。
誰も「将軍後継」などとは言わない。だが、「あの方なら、将来……」と、思わせる“下地”は、すでに大奥に染み込んでいた。
「火を使わずに部屋を温める男か……羽鳥の男とは面白い」
そして、正弘は懐から印を取り出し、晴人の文の余白に押した。
その印には、こう彫られていた。
――“応”の文字。
* * *
江戸の空は、冬へと変わり始めていた。
篤姫の輿入れが迫る中、大奥では新たなしきたりの用意に女たちが忙しく動き回っていた。
しかし、その香りだけは、変わらなかった。
薄荷と紫蘇、そしてほのかに混ざる陳皮の香り。
その香りが、かつての水戸様を思い出させる。
そして、一橋という名に、抵抗のない“想い”を抱かせる。
そう、備えはすでに整いつつあった。
――まだ誰も、確証は持たぬ。
だが、羽鳥からの“風”は、確かに江戸の奥深くへと届いていた。
夏の残滓がようやく秋の夜風に洗われはじめたある日、羽鳥の旧家屋に届いた一通の密書が、晴人の夜を再び目覚めさせた。
部屋の明かりはすでに落とされていたが、文を手に取った晴人はすぐさま灯を入れ、机の上で封を裂いた。白銀の月が障子越しに淡く差し込む中、蝋燭の炎がかすかに揺れる。
「……やはり、来たか」
文面には、大奥での“空気の変化”に続いて、田安家内の動きが詳述されていた。田安家第4代当主・徳川慶頼。その名が墨で濃く記されている。
徳川斉匡の九男として生まれ、将軍家斉を伯父に持つ慶頼は、血筋としても継嗣候補と成りうる家格を有していた。しかも、兄・松平春嶽とは異なり、幕府内部での処世に長けた“無難”な人物として知られていた。
(井伊掃部頭……。すでに、南紀派が手を回し始めているか)
声にはならぬ独白を胸に、晴人は静かに系譜図を開いた。田安家と一橋家、さらには紀州家を結ぶ血の流れは複雑に絡まり、将軍継嗣という権力の椅子を巡って、まるで盤面の駒のように配置されていた。
だが今は、盤の上ではなく、盤の“裏”で動く者が、歴史の趨勢を決める。
そのひとりが、羽鳥の地で文を読み下ろす晴人であった。
「家定公は、すでに言葉もままならぬ状態……」
密書に記された将軍家の内情には、政務不能としか言えぬ記述が並んでいた。篤姫の輿入れも、むしろ“繋ぎ”の手段であり、その先にあるのは必ず訪れる“空位”である。
(ここからは……慎重に、しかし速やかに)
晴人は筆を取った。宛名は、田安家の家臣・竹原筑前。かつて江戸城の書院に勤め、晴人の“現代的な教養”に強く感銘を受けた人物だ。
《田安家におかれても、将軍家の安泰を思う心には変わりはあるまい——》
文にはあえて継嗣や一橋の名は出さず、「時代の転換に備えた英邁なる決断が求められている」と記した。そして、もし田安家が“沈黙”を選べば、いずれ南紀派に取り込まれる危険性が高まることも、婉曲に示唆した。
「慶頼様が“無為”を選ぶなら、南紀派がそれを利用するのは目に見えている。だが、逆に……」
筆先が止まり、晴人は窓の外に目を向けた。
遠く、羽鳥の町では祭りの余韻がまだ漂っていた。今宵は中秋。子どもたちの笑い声が、秋の夜風にのって微かに聞こえる。
その平和な日常の下で、天下の行方が、音もなく書き換えられていた。
「“静かに、しかし深く”。あの男なら、きっと動く」
晴人の呟きに応えるように、草庵の方から足音が近づく。訪れたのは、お芳であった。
「……動きましたね、田安様」
老女の口調は落ち着いていたが、その目は鋭い。
「井伊直弼の名が、江戸の裏通りでも囁かれ始めております。外様との通婚や、軍制改革を唱える者の動きを、“異端”と捉える声も」
晴人は頷いた。
「だからこそ、田安家の決断が鍵になる。慶頼公は“安全牌”だと思われがちだが、あえて“危うさ”を見せることで、一橋派を牽制する南紀派が彼を担ぐ可能性は高い」
「そのとき、彼が“乗る”か、“断る”か」
「そう。“乗らせる”のではなく、“選ばせる”」
静かな沈黙が落ちた。
やがて、お芳が火鉢の傍に腰を下ろし、湯の沸いた鉄瓶を手に取る。
「……昔の将軍家には、“裏”を整える女たちがいたのです。表では口を慎み、裏ではすべてを繋ぐ」
「今も変わりません。あなたがいて、俺がいる。そして、田安家の奥にも……まだ目を開いている人がいるはずです」
それが誰かを、あえて口にはしない。
だが、江戸で文を受け取った田安家老中・榊原主計は、その文の端にあった“羽鳥”の二文字を見て、わずかに顔を強張らせていた。
(また、あの地から……)
田安慶頼は、まだ迷っていた。
将軍の座を巡る影の綱引き。その中心に、自らが引きずり出される気配を感じながらも、かつての兄・春嶽と違い、己の信念を口にするには、まだ時が足りなかった。
だが、歴史は待たない。
——そして、この夜。羽鳥の館の灯りのもと、一通の文が、また一枚、密かに包まれていった。
その宛先は、かつて幕閣にありながら現在は“謹慎”の身となっているある男。
徳川斉昭の密命を帯びた最後の切り札——その封が、いよいよ解かれようとしていた。
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