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50.5話:冷菓の風、羽鳥を越えて

――秋の江戸。


 安政の大火と大地震の記憶は未だ新しく、瓦礫と灰の匂いが町の隅々に残っていた。


 「また米が値上がりしたってさ。もう白飯なんて見ねぇよ」

 「お上は“飢饉は来ぬ”なんて言ってるが、井戸は枯れて、薪もない。どうやって冬を越せってんだ……」


 市中の井戸端に、愚痴と不安が集まる。日照り続きの夏に、追い打ちをかけるような燃料難。路地裏では、空腹の子がすすり泣く声も聞こえていた。


 その江戸の空気が、風に乗って常陸の羽鳥へと届く。


 「江戸では薪の奪い合いが起きているらしい。南町奉行所の記録にも“冬が来れば暴動の恐れあり”とある」


 晴人は、瓦版の写しと共に、羽鳥役所の一室で顔を曇らせた。


 「羽鳥は今、炭もあり、薬もあり、灯りもある。だが、それがいつまで続くかは分からない」


 ――文明とは、戦や病に勝つものではなく、飢えに勝つことから始まる。


 晴人の脳裏に浮かんだのは、炊き出しの列に並ぶ老女の姿。虚ろな目をした母子。塩や乾物すら手に入らず、干からびた蕎麦殻を炊いていた避難民の姿だった。


 (食が絶えれば、人は怒り、争い、町が荒れる)


 その日のうちに、彼は食品奉行・藤屋清兵衛と薬種組頭・笠井安右衛門を呼び集めた。


 「いま我らがすべきは、“保存食”の確立だ。いつでも、誰にでも配れる食が要る。地震や飢饉、戦があろうと、腹を満たせる備えを作る」


 「保存……となると、干し飯に干物……いえ、それだけでは到底足りませぬな」


 「特に子どもや老人は、歯が悪うて固い物は喉を通さぬ。柔らかく、日持ちがして、携帯できるものが望ましい」


 「薬草を混ぜるのはどうでしょう。栄養が保たれますし、痛みや熱にも備えられるかと」


 晴人は頷き、すぐに織女館の炊事班と調薬班へ指令を出した。


 「まずは試作だ。いくつでも、形にしてくれ」


 羽鳥の町の一角、織女館にほど近い試験工房では、その夜から「保存食開発班」が編成された。


 「ほら、粥を炊いて、少しずつ煮詰めて。あんまり煮ると焦げるからな」

 「和紙で包んで、干してみよう。これなら軽くて運びやすい」


 だが翌朝――包んだ粥は、半ば腐っていた。


 「……ダメだ。内側に水分が残ってる。和紙じゃ密閉が足りん」


 次に作られたのは、「蜜蝋封じ干し飯」。


 干し飯を軽く炒って乾かし、それを溶かした蜜蝋で包み込む。冷えると蝋が固まり、匂いも閉じ込められる。手がかかったが、今度は成功した。


 「うん、これなら二日経っても腐らねぇ」

 「蝋の香りがうっすらするけど……これがまた、甘くていい」


 さらに、薬草を練り込んだ“味噌玉”も試された。


 乾燥味噌に竜胆や陳皮を刻み混ぜ、丸めて干す。湯に溶かせば、簡単な味噌汁になる。


 「お、これは温まるな……」

 「味も悪くない。風邪気味でも飲めそうだ」


 その試作品を見届けながら、晴人は小さく頷いた。


 「――火に抗うには水が要る。病に抗うには薬が要る。だが、人の心が荒れるとき、それを鎮めるのは……たった一杯の飯なんだ」


 そう呟いた彼の眼差しは、羽鳥の空を越え、混乱する江戸、そしてこの国の未来を見据えていた。

翌朝、羽鳥の織女館では、朝靄の中、蒸し器の湯気が立ちのぼり、蒸籠の中には粘度を増した餡と寒天を流し込んだ“蒸し羊羹”が並べられていた。


 「……羊羹、か?」


 藤屋清兵衛が眉をひそめた。


 「甘い物など、保存食にしては不似合いでは?」


 だが、炊事班の若き女頭が、胸を張って答えた。


 「晴人様。甘味は、気力を保ちます。子どもも老人も、甘い味には笑顔を向けるんです」


 「加えて、蜜蝋で包めば保存が利きます。元は薬湯用の蜂蜜と蝋。高価ですが、少量ずつでも配れます」


 試しに蜜蝋で包んだ蒸し羊羹を、晴人は口に運んだ。


 ほのかに香る甘露の匂い、もっちりとした舌触り。口の中に優しい甘みが広がった。


 (うまい。だが、それ以上に――これは、“記憶に残る味”だ)


 災害や飢饉、戦乱の只中にあって、たった一切れの羊羹が「人間らしさ」を取り戻させる――そんな確信が胸に灯る。


 「よし、これも採用しよう。子ども用、老人用として、備蓄対象に加える」


 晴人の言葉に、女頭たちは手を取り合って喜びをあらわにした。


 こうして羽鳥では、“非常食”の名のもとに、味噌玉、干し飯、蜜蝋封じ羊羹の三種が生産ラインに乗ることとなった。


 町の一角では、鳴子付きの木造倉庫の建築が進んでいた。


 梁には「鳳凰庫ほうおうこ」と記された白木の額が掲げられ、屋根には消火用の土嚢がずらりと並ぶ。


 火災対応型・耐湿倉庫。


 町役人が新設したその倉庫には、日々、保存食の包みが積み上げられていく。


 「子ども一人で三日分。大人で五日。火事の際には、町ごと避難しても耐えられる数だ」


 藤屋清兵衛の言葉に、奉行所の若い役人が思わず息を呑んだ。


 「……これを幕府中枢に持ち込めば、暴動すら抑えられるやもしれぬな」


 やがてその噂は、早くも江戸城内に届き、幕府からの視察使が羽鳥に派遣された。


 秋風が吹くある日、裃を纏った男たちが列を成して鳳凰庫の前に並ぶ。


 「これが“蜜蝋封じ”の仕組みか……まるで西洋の保存法だな」


 「水戸とは、つくづく興味深い藩よ。鉱脈を掘り、灯りを灯し、今度は非常食とは……」


 視察団の一人が、真顔で口にした。


 「これを軍用糧秣に転用したい。遠征時の兵糧、または海路での備蓄として」


 だが、晴人はその申し出を即座に否定した。


 「申し訳ありません。それはできません。この保存食はまず、羽鳥の民に配るためのものです」


 「なに?」


 「江戸の町人も、城下の老女も、飢えに泣く子どもも。まずは“民”です。民が生きていなければ、戦も政も意味を持ちません」


 一瞬、空気が凍る。


 しかし、その言葉を聞いていた奉行所の老役人が、深く頷いた。


 「……そうだ。兵の口に入るのは、そのあとでよい。我らは民の上に立つのではない、民の支えの上に立つのだ」


 視察使たちは帰り際、蜜蝋封じの干し飯と味噌玉、そして蒸し羊羹の試供品を風呂敷に包んで持ち帰っていった。


 数日後。


 江戸市中の町屋では、不意に配られた“羽鳥発”の非常食にざわめきが起こっていた。


 「見ろよ、これ! 噂の蜜蝋干し飯だ!」


 「なんだか薬臭いけど……うん、食える! 腹の足しになる!」


 路地裏の女将が、目に涙を浮かべながら湯に溶かした味噌汁を啜った。


 「昔、母が作ってくれた味に似てる……こんなもん、ただの汁っこだろうに、ありがたくてたまらねぇや」


 そして、ある寺子屋の一室。


 避難していた子どもたちが、蝋を剥がした蒸し羊羹を見つめていた。


 「ねえ、これ……本当に食べていいの?」


 「いいんだって。羽鳥ってとこが、みんなにくれたんだって」


 ひとくち頬張った子どもが、思わず笑った。


 「……あまい」


 その声を聞いて、年老いた教師がそっと目を閉じる。


 「よかったな……この味を、忘れずにな」


 食とは、命を繋ぐ糧であると同時に、心をつなぐ灯火でもある。


 それは火災や飢饉、戦のような圧倒的な力に押し潰されそうになる“人間の尊厳”を、かろうじて守る術だった。


 羽鳥で生まれた“静かな革命”は、やがて江戸の町に温かな風を吹かせ始めていた。

晴れた秋空のもと、羽鳥の町は新たな活気に包まれていた。


 町の一角では、真新しい倉庫――「鳳凰庫ほうおうこ」の完成を祝うため、人々が集まっていた。白木の梁に掲げられた金文字の額、屋根に整然と積まれた土嚢、水除けの勾配が付けられた軒先。それは単なる倉庫ではない、“未来の備え”としての威厳を湛えていた。


 広場の中央、藤村晴人は皆を前にして、静かに口を開いた。


 「この倉庫には、“明日を生き抜く糧”が詰まっています。飢饉が来ようが、火災に見舞われようが、ここに備えがあれば、人は動じずにいられる」


 その言葉に、集まった町人や避難民の中から安堵の息が漏れた。


 彼らにとって“明日を保証する”ものは、金や刀ではなく、ほんの一椀の味噌汁であり、干した飯であり、小さな羊羹だったのだ。


 「特にこの羊羹は、災害時に笑顔を絶やさぬための品。味は甘くとも、その裏には皆の工夫と努力が詰まっています」


 晴人がそう語り、手にした小箱を高く掲げると、子どもたちが歓声をあげた。


 蜜蝋で包まれた蒸し羊羹。それはすでに羽鳥の“名物”となりつつあり、江戸へと出荷された分は、寺子屋や施療院、避難所などへと優先的に届けられていた。


 ──その江戸では、ちょうど同じころ。


 火事の焼け跡に仮設で建てられた町屋の一角で、母と子が小さな木箱を開いていた。


 「これが……羽鳥ってとこから来たの?」


 「うん。お侍さんたちが、避難してる人のために用意してくれたんだって」


 開封された蜜蝋の包みから、柔らかな羊羹が現れる。その甘い香りに、幼子が目を見開いた。


 「……あまい」


 たったそれだけの言葉に、母親は目頭を押さえた。物が燃え、家を失い、町が騒然とするなかで、ようやく“日常”を思い出せた気がしたのだ。


 一方、幕府の勘定奉行配下の視察団は、羽鳥から持ち帰った干し飯と味噌玉を用いて、保存性と味の試験を行っていた。


 「これは……驚いたな。二十日も経ったというのに、まだ湿気ていない」


 「味も悪くない。とくにこの“味噌玉”は秀逸だ。湯を注ぐだけで立派な汁になる」


 担当役人は、思わず唸る。


 「これがあれば、遠征軍の携行食として使える。兵糧奉行にも知らせておくべきだろう」


 だが、同席していた老役人が首を横に振った。


 「それは早計だ。この保存食は“兵のため”ではなく、“民のため”につくられたものだという」


 「なに?」


 「晴人様は言われた。『民が生きていなければ、政も戦も意味を持たない』と」


 その言葉が残した余韻に、座敷の空気がしんと静まった。


 やがて、ある一人の若い役人が呟く。


 「……まるで、“武器ではない戦”をしているようだな」


 そのつぶやきは、江戸だけでなく、水戸藩の中枢にも届くことになる。


 ◇ ◇ ◇


 羽鳥に戻れば、鳳凰庫の稼働は着々と進み、保存食を納めるための制度整備も急ピッチで進行していた。


 各町には配給札が配られ、年齢や家族構成に応じて“緊急時の備蓄量”が割り当てられる。


 また、保存食の製造は町の女性たちによって支えられていた。


 「味噌玉は、汁の味が命。薬草をきちんと選んで、甘味と塩味のバランスを見てね!」


 「羊羹の蜜蝋、もっと薄くていいよ。厚すぎると蝋臭くなっちゃうから」


 織女館の工房では、女頭たちが真剣な眼差しで作業を進めていた。


 そこには、かつて遊郭にいた女性たち、夫を戦で失った未亡人、親を亡くした若い娘たち――


 さまざまな境遇の者たちが、“食”という未来の希望のために手を動かしていた。


 「……不思議ね。昔は、男たちのために化粧してたのに。今は、子どもたちのために味噌を練ってる」


 ふと、誰かがそう呟き、周囲が笑った。


 その笑い声が、工房の梁にこだまする。


 食べ物とは、人を養うだけでなく、人を変える力を持つのかもしれない。


 そしてそれが、“文明”というものの根幹なのかもしれない。


 晴人はふと、縁側に立って空を見上げた。


 秋の空に、うっすらと雲が広がっていた。


 「……もし、また大きな災いが来ても。俺たちは、灯りと食と、想いで乗り越えてみせる」


 その呟きは、まだ誰にも聞かれていない。


 だが、確かにその決意は、羽鳥という町に、静かに、しかし確実に染み渡っていった。

――dパート


 その日、羽鳥の市場では、普段とは異なる光景が広がっていた。


 広場の一角に設けられた特設の見本台には、蜜蝋封じの蒸し羊羹や干し飯、味噌玉がずらりと並び、通りかかる人々が次々と足を止めていた。


 「これは……湯を注ぐだけで、味噌汁になるのか?」


 武家風の男が味噌玉を手に取り、つぶやいた。


 「はい。薬草も入れておりますので、身体を温める効果がございます」


 そう応じたのは、織女館から派遣された若い女性だった。彼女は手際よく試飲用の味噌汁を差し出し、説明を続けた。


 「冬場の凍えを防ぎ、風邪の予防にもなります。甘味は蒸し羊羹。保存が利く上に、疲れた身体にとっては、何よりの栄養源になります」


 味噌汁をすする武士の頬が緩み、やがて隣にいた妻が「うちでも使えましょうか?」と尋ねた。


 「はい。一家に三日分を目安に、ご購入いただけます。鳳凰庫にて在庫管理しておりますが、本日は見本販売の特別日でございます」


 晴人はその様子を、鳳凰庫の奥の見晴らし台から静かに見下ろしていた。


 (物資の備蓄だけでなく、“市場での信頼”を得ることができれば、災害時の混乱も抑えられる)


 「非常時こそ、日常の延長であれ」――それが彼の信条であり、行政と民をつなぐ「新しい信」の形だった。


 その隣に立っていた藤屋清兵衛が小さくうなずく。


 「噂によれば、常陸太田や笠間の町でも、羽鳥の保存食の評判が立ち始めておるとか」


 「……情報が早いな。どこから漏れたんだか」


 「江戸からですな。どうやら、あの視察団の誰かが、内々に試供品を分けたようで」


 「なるほど」


 晴人は苦笑する。だが、内心では悪くない展開だと捉えていた。


 災害時の備蓄食としてだけではなく、地方経済の新たな柱となりうる“羽鳥式保存食”。その存在が、噂を通じて自然と広まるなら、それもまた一つの戦略だった。


 すると、背後から控えの声が届いた。


 「晴人様、江戸の問屋筋から文が届いております。試供品を食した上で、正式な取引を申し入れたいとのことです」


 「もう来たか……早いな。内容を確認する」


 差し出された文には、こうあった。


『蒸し羊羹は、諸国の茶屋で売り出せば、いずれ“羽鳥羊羹”の名で知られること請け合い。干し飯・味噌玉については、“羽鳥之備”として木箱詰めでの取り扱いを希望す――』


 “羽鳥之備”。その名に、晴人はしばし目を細めた。


 (名がつけば、信がつく。信がつけば、人が集まる。人が集まれば、経済が動く)


 ひとつの小さな町が、ただ飢えに備えるだけでなく、自らの手で商いを育て、他藩を支え、列島を巡る物資の一端となる――


 それは、武力も兵も持たぬ“羽鳥”という名の、新たな戦い方だった。


 ◇ ◇ ◇


 夕刻、織女館では、今日の売上や在庫数を記録する女頭たちの手が忙しく動いていた。


 「干し飯、味噌玉、羊羹、それぞれ百六十箱完売……! おまけに江戸からの発注書まで届いたって、本当?」


 「ほんとほんと。殿のところに届いたって。今日の売れ行きで、来月からはもっと数増やすってよ」


 「やったね!」


 小さな声が、館の柱の陰から漏れた。


 覗いていたのは、両親を失った孤児の少女だった。


 「わたし、あれ作るの手伝ってたんだよ。蜜蝋、ぬるぬるして難しかったけど……よかった」


 「うん、ありがとね。あんたの手が加わった羊羹が、江戸の子どもたちに届いたんだよ」


 そう言って背中をさすった年配の女頭の目にも、ほのかに光が滲んでいた。


 “救い”とは、与えることではなく、関わること――


 晴人が目指した支援のかたちは、こうして町の人々自身の手で実現されつつあった。


 ◇ ◇ ◇


 その夜。


 晴人は、机に向かい、江戸藩邸へ向けた返書の筆をとっていた。


『物資の取引につきましては、羽鳥に生きる民の生活を最優先とし、無理のない範囲での出荷とさせていただきたく存じます。

 また、羽鳥之備に関する名義の使用については、出所を明記のうえ、利益の一部を製造者に還元いただけるようお願い申し上げます。

 この商いは、金ではなく、“信と共助”のためにあります――』


 墨をふき、手を止めた晴人は、しばらく天井を見上げた。


 そしてぽつりと、言葉をこぼした。


 「これでいい。戦わずして、民を守る道もある」


 その言葉は、誰に聞かせるでもなく、静かに夜に溶けていった。

ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。


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