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48話:暮らしに車輪を

初夏の陽射しが、羽鳥の町に新たな季節の訪れを告げていた。田畑には青々とした稲が風にそよぎ、木々の緑は一段と濃くなってゆく。道端には小さな花が咲き誇り、遠くでウグイスの鳴き声が響いた。


 そんな朝、町の一角――旧来、畑や林が広がっていた開発区域の一隅から、耳慣れぬ音が響いた。


 「カラララッ、カララッ!」


 金属が回転する高音と、地面を蹴る軽快な足音。そして、風を切るようなスピード。


 通りがかった子どもたちが目を見張る。


 「うわっ、あれ見てみろ!」


 坂道の上を、一台の奇妙な乗り物が駆け下りてきた。木製のフレームに鉄の輪。前後に細長い車輪がつき、乗り手はハンドルをしっかりと握って体を前傾させている。


 ――それは、「常陸式自転車」。


 水戸藩の新式技術として、羽鳥に設けられた開発工房で製作された“足踏み式移動具”である。


 「晴人様! ハンドルが軽すぎると、下りでふらつきます!」


 開発担当の青年が叫ぶと、乗っていた男――藤村晴人が、笑いながら足を突き出して止まった。


 「分かった、次の試作では前輪に若干の抵抗を加えよう。バネか、あるいは――」


 彼の脳裏では、すでに改良案が走っていた。


 常陸式自転車は、ただの遊び道具ではない。郵便や連絡、警邏や医療搬送など、様々な実用用途を想定した新技術だ。完成すれば、町の暮らしを一変させる可能性がある。


 「次、看護役の佐江さん、お願いします」


 「えっ、私ですか? 着物で自転車は……」


 「裾は帯でまとめてください。乗り方は横乗りで構いません。急患搬送の想定です」


 「……わかりました!」


 少し不安そうに笑みを浮かべた佐江は、袖をたくし上げると、そっと跨った。周囲の町人たちが固唾をのんで見守るなか、車輪が静かに転がり始める。


 「おお……進んだ! おおおっ、わ、速い速い!」


 バランスを取りながら、ゆっくりと舗装された坂道を下っていく。彼女の顔には次第に驚きと歓喜が広がっていった。


 ――それは、歩くより速く、荷馬車よりも手軽な、“個人の移動手段”。


 この“軽やかさ”こそが、新しい時代の息吹だった。


 町の人々が拍手を送る中、晴人は記録帳に静かに記す。


 「看護・配送向けの運用は可能。次の試験では負荷運搬用に補助車輪を……」


 彼の手元には、iPadで整理した世界中の乗り物構造と制動理論のメモがある。それを見せることは決してないが、そこから得た知識を“現代以前の知識”として転化し、町の発展に活かしていた。


 その頃、羽鳥の町は大きな変化の中にあった。


 人口はついに一万人を突破し、仮設住宅から恒久住宅への移行が急ピッチで進んでいた。町の南西部では木造長屋が整然と並び、炊事場や井戸、簡易水路なども設けられて、衛生面でも格段の進歩を遂げている。


 「この水路、昨日まで濁ってたのに、今日は澄んでる!」


 「衛生局の佐野先生が、石灰撒いてくれたんだよ。菌を殺すってさ!」


 子どもたちが水辺で小さな魚を追いかけながら騒いでいる。


 近くの小道では、荷車やリアカーを押す人々の姿も目立った。町人たちが共同で購入し、各家庭に貸し出されているのだ。力の弱い高齢者や、農作業帰りの婦人たちが、それを使って大豆や野菜、薪などを運ぶ姿が日常になりつつあった。


 「おばあちゃん、今日は荷車で来たの?」


 「そうだよ。これがあると、腰が楽で助かるわい」


 笑顔で答える老婆の背中に、孫娘が小さな籠を乗せている。


 物流が変わると、生活も変わる。


 町の通りでは、車輪が軋む音と共に、“日常の移動”が次々に軽やかになっていた。


 市では、新たに“車両貸し出し所”が整備され、農村部から来た者も車を借りて町を巡ることができるようになった。中には、食料を入れた荷車を引いて、直接家庭に届ける“移動商人”まで現れ始めていた。


 (都市の輪郭が、確かに変わっていく)


 晴人は、物陰からその風景を見つめていた。


 たった半年で、羽鳥の町は“点”から“線”、そして“面”へと拡がり始めていたのだ。


 しかし――


 変革には、必ず反動がある。


 自転車の存在に驚き、あるいは警戒する者もいた。近郷の名主の中には、「あれは人の道を逸れた道楽だ」と難色を示す者もいる。封建の常識と新しき力のせめぎ合いは、これから徐々に現れていくことになる。


 だが晴人は、迷わなかった。


 “暮らしを変える車輪”は、もう止まらない。

町の南通りにある鍛冶工房。その裏手に設けられた試作棟では、今まさに次世代の運搬具が組み上げられつつあった。


 「おい、その軸心、もっと削らないと回転が重くなるぞ」


 「はいっ、ただいま!」


 飛び交う声。金床を打つ音。木を削る鉋の音。鉄粉と木屑の匂いが入り混じる中、晴人は新たな試作車両の図面を覗き込んでいた。


 「今回は三輪式か?」


 「ええ、後輪を二輪にして安定性を上げました。荷台を取りつければ、小売業者にも便利です」


 晴人の横で、技師の清田が図面に指を走らせる。彼は元々、町の車輪職人の息子だったが、晴人の開発計画に惹かれ、自ら志願して工房に加わった一人だ。


 「荷物を載せて動かしてみるか。米俵を一俵分、積んでみよう」


 「わかりました!」


 若者たちが声を揃えて俵を積み、器用に縄でくくりつける。軽く揺らしてみたあと、慎重に押し出す。……が、意外にも軽い。


 「これ……全然重くない!」


 「うまく車軸のバランス取ったからな。重量を後輪全体に逃がしてる。坂道でも押しやすいはずだ」


 晴人が笑いながら言うと、清田は目を輝かせた。


 「こんなの、初めてです。まるで、荷物の方が動いてくれてるみたいだ」


 「それが、“てこの理”と“車輪の魔法”ってやつさ。力の方向を変えるだけで、労力は何倍も軽くなる」


 晴人の知識は、常に未来を見据えていた。


 実際、彼の禄高は百五十石に達していた。開発責任者・地方制度参事・羽鳥都市設計官・臨時医学局顧問などを兼務し、羽鳥のみならず水戸藩全域の改革を牽引する存在として、その名は広まりつつある。


 「殿様が言っておられました。“あの者が作る町は、百年先を生きているようだ”と」


 ある日、若い文官がそう漏らしたことがある。


 晴人はそれを笑って否定したが、彼の“構想”は着実に町を変えていた。


 その午後。


 羽鳥南部の共同広場には、町中の人々が集まっていた。今日は“自転車試乗会”と“荷車の利用講習”が同時開催される日だったのだ。


 「乗ってもいいの!?」「これ、どっちに漕ぐの!?」「子ども用もあるの?」


 子どもたちは目を輝かせ、若い父親たちは興味津々に車輪を覗き込む。女性たちは荷車に野菜や炭を積んで運び試し、その軽さに声を上げた。


 「こりゃあ、腰が楽だよ」


 「これで市場まで毎日行けるなら、あたいでも商売できるかも」


 笑い声が広がる。人々の目が、未来を見ていた。


 そこに、晴人が静かに現れた。


 「皆さん、本日はお集まりありがとうございます。この道具たちは、ただの機械ではありません。これは、皆さんの“暮らし”そのものです」


 晴人の声に、広場がしんと静まる。


 「農作物を軽く運べるようにするため。病人を、早く医者に届けるため。大切な手紙を、早く隣町に届けるため。……すべては、“普通の日々”を、もっと豊かに、もっと軽くするためにあります」


 その言葉に、幾人かの目が潤んだ。


 「この町を良くするのは、私ではありません。皆さんの手と足と、心です」


 晴人が深々と頭を下げると、自然と拍手が巻き起こった。誰ともなく手を叩き、声を上げる。


 「うおおーっ! 藤村様、ばんざい!」


 「車輪ばんざい!」


 「晴人様、すげえぇ!」


 嬉しそうに笑う子どもたち。目を細める老人たち。静かに頷く婦人たち。


 そのすべての視線を背に受けながら、晴人はもう一度、自転車のハンドルを握った。


 自分の知識が、この時代の人々の“日常”に変わっていく――それは、何よりも重く、何よりも幸せな手応えだった。


 そしてこの日、“暮らしに車輪を”という考えは、羽鳥の町に根を下ろした。


 やがてこの技術は、町から町へと伝わり、藩の物流、医療、情報伝達の在り方を一変させていくことになるのだが――それは、また別の話である。

羽鳥町の西端――まだ舗装もされていない仮設路の先で、一台の荷車がゆっくりと坂を上っていた。


 「お、おぉ……これはすごい……!」


 荷台に米俵を三俵積んだ男が、驚きの声を漏らす。彼は八百屋を営む村瀬という中年の男で、かつては荷を担いで背中を痛めたこともあった。しかし、いま彼が押しているのは、“自走式補助車輪付き荷車”――いわば“人力アシスト付きリアカー”である。


 「ほんの少し力を入れるだけで、坂道でも滑るように動く……」


 呟く村瀬の背後には、見物人たちが興味深げに集まっていた。百姓、行商人、町人、さらには一部の侍までが、木製の大車輪と金属軸を食い入るように見ていた。


 「この軸受け、何だ? 油か?」


 「いいえ、主に蜜蝋と滑石の混合潤滑材です。熱に強く、埃にも耐えます」


 解説しているのは、町工房の整備担当・芳賀だ。彼は晴人から“玉軸受”と“摩擦軽減構造”の理屈を学び、実地での改良を重ねてきた。


 「この滑らかさ、まるで滑車だ」


 「いや、もう車の時代だろ。馬車よりも、町にはこういうのが合ってる」


 人々の声が弾む。中には「これを借りたい」「家の運搬にも欲しい」と役人に声をかける者もいた。


 そんな中、晴人は町役場の臨時窓口で、新たな“車輪貸与制度”の登録状況を見ていた。


 「今朝だけで、四十八件の申請……しかも女性が三割を占めています」


 報告したのは、羽鳥役所の若手書記・中山だった。几帳面で眼鏡の奥が光る青年だ。


 「女性層の動きは早いですね。洗濯用の水桶運搬に、すでに応用が始まっています」


 「いい流れだ。運ぶ手段を持てば、仕事が生まれる」


 晴人は小さく頷いた。


 羽鳥では、仮設住宅から恒久住宅への移行が始まっていた。町の人口は一万人を超え、家族単位の住居が整い始めたことで、物流のニーズが急増していた。


 「移住してきた者の多くが、農と商の掛け持ちです。荷車の導入が“時短”と“収入増”を両立させています」


 「それが定着すれば、町全体の経済が底上げされる。……それにしても」


 晴人はふと、広場を見やった。


 ――そこには、子ども用の小型自転車を整備している若者たちの姿があった。


 「お兄ちゃん、これちょっと大きいよ!」


 「じゃあ、こっちの方を試してみようか。補助輪つきだから安心だよ」


 工房の職人見習いが、丁寧に女の子に声をかけながら、自転車を押していた。


 (誰かの暮らしに、道具が自然と寄り添っている)


 晴人は目を細める。


 iPadでこっそり確認した古写真や欧州の自転車図面。それを基に地元の材料と技能で再設計し、現地の気候や地形に適応させた“常陸式自転車”は、いまや実用化の第一歩を踏み出したばかりだ。


 「このまま量産に入れば、各地の藩邸や町村にも広がるな」


 「すでに藩主様より、江戸留守居役への参考資料提出が命じられています。年内には水戸本邸にも一台送ることになるでしょう」


 中山が資料を掲げる。


 その中には、晴人が極秘に作った“公共利用計画書”も含まれていた。消防、自警団、医療搬送、郵便制度――それぞれに最適化された“車輪の活用案”が、細かく分類されていたのだ。


 「俺たち、ずいぶん遠くまで来ましたね」


 不意に清田が現れ、肩を並べる。


 「最初は、土をならす木製のローラーから始まったんですよ」


 「ああ。あれが“車輪”の始まりだったな」


 二人は微笑み合う。


 だが、晴人の目はすぐに遠くへと向けられる。


 (まだ、やるべきことは山ほどある)


 車輪は回り始めたばかり。これを社会に組み込み、“日常”の一部に変えるには、もっと制度を整え、教育を広げ、誰もが使える環境をつくらねばならない。


 そのとき、町の北方から一人の騎馬が駆けてきた。旗印は水戸本藩の使者。


 「晴人様! 急報にございます!」


 「どうした?」


 「久慈川下流で氾濫の恐れ。堤防工事の応援と、救援物資の準備を依頼されております!」


 「了解した!」


 晴人は即座に命じた。


 「荷車五十台、積載仕様で準備! 薬と食料を半日以内に集積!」


 「はいっ!」


 若者たちが一斉に動き出す。自転車で伝令が飛び、荷車が順次広場に集合し、組織的に物資が積み込まれていく。


 すべてが、以前とは比べものにならぬ速さで動いた。


 暮らしに車輪を――それは、非常時の備えでもあったのだ。


 町は今、進化の真っただ中にあった。

救援要請からわずか一刻も経たぬうちに、羽鳥町はまるで“巨大な身体”のように動き始めていた。


 役場の中庭では、荷車の点検が終わった車両が列をなし、整備班が最終確認に走る。鍛冶屋の長尾が「軸、異常なし!」「滑石潤滑、再注入完了!」と次々に報告を上げ、それに続いて荷物係の少女たちが帳面を抱えて待機していた。


 「薬草包、五十束入り、三籠で確認!」


 「白米、三斗分、藁袋にて七俵!」


 「乾燥野菜と塩も積み込み済み! 井戸水の筒樽は二十本!」


 叫ぶ声が交差する中、自転車に乗った少年たちが各班へ伝令を飛ばしていく。背中に「羽鳥支援」と墨書された簡易布を纏い、泥を蹴って町を駆け抜けていた。


 晴人は、役所の階段を駆け降りながら清田に声をかけた。


 「防水布は積んだか? 工具箱と縄は?」


 「すでに二十箱分。仮設橋用の板材も、六組組んであります!」


 「よし、川幅次第で連結を指示。鉄杭と打ち込み道具も持たせろ」


 「了解!」


 目まぐるしく飛ぶ指示。だが現場の誰もが、怯える様子はなかった。


 ――あの頃なら、ただ狼狽し、手をこまねいていたであろう事態。


 だが今は違う。羽鳥には、仕組みがある。訓練された班がある。そして、助けたいという意志が、町の隅々にまで根を張っていた。


 「すごい……なんという、統率……」


 水戸本藩からの使者・望月は、唖然としながら晴人に目を向けた。


 「この人数、まさか常設ではありますまい?」


 「ええ。普段はそれぞれの仕事を持った住民です。けれど、緊急時は班ごとに再編され、誰が何をするか、全て決まっています」


 「まるで、軍……いや、もっと洗練された、何か……」


 望月は小声で呟いた。


 その時、広場の一角では、年配の女性たちが縫い包みを荷車に積んでいた。


 「布の端っこはこのように結んでおけば、運ぶ途中で崩れませんよ」


 「ありがとう、おばあちゃん!」


 手伝っていた少女が笑顔で頭を下げた。幼いながら、自ら「できること」を見つけて行動していた。


 町全体が、“誰かのため”に動いていた。


 晴人は、小さく息を整えると、工房前に停めてあった二輪の特別車両にまたがった。


 「清田、前線へ出るぞ。氾濫が始まれば、物資だけじゃ足りん。判断が必要になる」


 「了解! 補給隊は中山に任せましょう」


 二人は、別注仕様の常陸式自転車に跨がる。後部には工具と測量器具を収納した木箱が固定されていた。


 ――風が吹く。


 川辺までの仮設道を抜けると、そこには仮設監視所が設けられていた。青竹で組まれた簡素な見張り台に、望遠鏡を携えた青年が手を振る。


 「水位、今朝より二尺上昇! 流速も早まっております!」


 「堤の中央部を見せてくれ!」


 晴人が登ると、土嚢の積まれた河原が見えた。小舟を係留していた杭が、すでに傾き始めている。


 (時間がない……!)


 「仮橋の設置箇所を一つ増やす。流されてもいい、緊急用だ。代わりに対岸に退避場所を!」


 「了解!」


 現場の土工班が声を上げ、工具と資材を担いで駆け出していく。


 そのとき、風下から荷車の列がやってきた。


 「到着です! 羽鳥支援部隊、先遣三班!」


 若者の叫びと共に、次々と車輪が音を立てて止まり、荷を下ろす。


 布袋の中から薬草が、乾パンが、米俵が、一斉に並べられる。


 「この布で臨時の庇をつくれ!」


 「傷病者はこちらへ! 洗浄用の水樽、三つ!」


 「馬なしでも、ここまで物資が届くとは……」


 望月はつぶやく。


 だが晴人は、振り返らずに言った。


 「これは、始まりに過ぎません。羽鳥は――“助ける側”になるんです」


 空に太陽が昇り、川面を照らす。


 その光の下、羽鳥の人々が、堤防の上で――希望を、支えていた。

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